■ EXIT
角無島大乱戦・前夜祭その3
東清鉄道(満州鉄道の前身)長春駅近くの新しい教会。 そこで、にこやかに食事をしている小柄で中年の支那人の男性がいる。 だが、支那人にしてはどこかあかぬけていて、イギリス紳士のような品格と、その影にある重厚な意思を感じさせる。 彼の名は孫文という。今や世界に知られる革命家であった。 だが、にこやかに見える孫文の心中は、鬱屈極まりなかった。 彼は、日露戦争の結果をスエズ運河で聞いた。多くのエジプト人たちが、喜びながら『君は日本人か?』と尋ねた。『有色人種でも白人に勝てる』というこのニュースに、彼らは狂喜乱舞し、人間としての自信を取り戻そうとしていた。日露戦争での日本の勝利が、アラブ人ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにして、彼は人生最大の衝撃を受けている。 革命の大きなチャンスを感じ、急ぎ帰国した彼に、正史にはありえなかった厳しい現実が待っていた。 日露戦争の会戦直後、清国は日本と国交を一方的に断絶したのである。これはもう無礼、失礼などというレベルではない。そして、日本の協力こそが、孫文の革命成功への最大のキーポイントだったのだ。実際正史において、日本のありえないほどの協力無しには、孫文は辛亥革命どころか支那各地の集団の協力体制すら作れていない。 アメリカ国籍を持っていた孫文は、何とか日本にもぐりこんだが、親交を持っていた有力な人々も、今回ばかりは門すら開けてくれなかった。以前広大な邸宅まで提供してくれた犬養毅も、『ただ悲しみあり』という一文を使いの者に渡しただけであった。 最後の頼みの綱である、ある人物に孫文は電話をかけた。 『ご無沙汰しております、孫でございます。』 『おや、孫の坊やかい。お久しぶりだねえ。』 相手は東北の巨魁と呼ばれ、貿易業を中心とした大事業家であり人材育成にも驚くほど力を入れ、篤志家としても知られている谷口マサだ。 電話は何と北京語である。普段は東北弁のマサも、かなり口調が変わるのは仕方が無いだろう。そして世界に知られた革命家の孫文も、彼女にかかっては坊や扱いであった。彼も苦笑するしかない。 とっくに80は過ぎている老婆だが、その声の大きさ、かくしゃくとした言葉遣いは30は若く感じる。見所のある者を見つけると、世話をしてやることが好きらしく、彼女の手元から飛び立ち名を成した人物は数え切れない。実は孫文も世話になった事があった。 『急ぎお話したいことがあるのです。』 『はん、何が言いたいかは分かっている。だがね、ちい〜と、あたしを舐めてないかい?。』 孫文ほどの歴戦の闘士が、ぎょっとする。谷口マサの鋭さは、以前に会った時に骨身に染みているが、年をとるほどさらに鋭くなるなどということがあるのだろうか?。 『清国との国交回復に、口をきいて欲しいんだろうが、あれだけの事をされて、そんなことができるわきゃ無いだろ。相手を見て物を言いな。孫坊も革命家なら、戦争開始直後に国交断絶がどういう意味を持つか、知らないとは言わせないよ。』 日露の戦争開始直後に、清国は日本と国交を断絶した。これはロシアにゴマをするだけではなく、いつでも日本に襲い掛かるためでもある。 欧州の他国は『負けた日本の混乱を、平和的に収めるため』、などという屁理屈をつけて、海軍の部隊を敗戦後の日本に突入させるつもりだったが、清国の場合は、完全に日清戦争に負けた恨みを晴らすために、本気で襲って殺して焼き払うつもりであった。 国交断絶直後、突如として『日本は敵だ!』という声が清国各地に涌き、日本人との混血や日本との通商・学問などで関係のあった人間は、次々と血祭りに上げられ、日本の国旗を燃やし、侮辱的な絶叫が各地で響き渡った。もちろん、無知な支那人たちをあおり、無知ゆえに狂乱しやすい単純な脳みそに、『日本人は殺しても良いんだぁ』と刷り込むための扇動(シュプレヒコール)である。 こんな単純なことでも、案外人間の脳は影響を受けてしまう。正史21世紀の日本でも、この扇動だけであおりにあおって政権を取り、無能極まりないまま4年近く居座って、日本をがたがたにしてしまった腐れ政党がある。その政党が2012年末の衆議院選挙で怒った国民に叩き落されると、直後から、どん底だった株価は急上昇が止まらず、絶望的な円高だったのが一気に円安に触れて止まらない。前の政権の酷さたるやどんだけ?!なのだ。だが、それにだまされた国民も反省せざるえない。 日本人ですら、そういう事実がある。ましてや、この時代文盲率が9割を軽く超えている支那では、あっという間に熱病のごとく広がった。 殺人、強姦、リンチ、略奪、放火、目を覆うばかりの惨状が広がり、日本と関係したというだけで襲われた人間は数知れない。 ところが、その光景がわずかな時間差で日本の街角や新聞、映像に流される事となる。 臨場感あふれるカラー放送や写真で流されたむごさ、凄まじさは、大アジア主義を唱え、『隣国という友を得ることに勝る喜びは無い』と、孫文らに無償の援助を惜しみなく繰り返した国士・有力者たちも、完全に絶望してしまうほどの衝撃となった。 今の清国とも、これから先の支那そのものとも、日本の外交的関係は完全に絶つつもりでいた帝国重工だが、国内に支那との浅からぬ因縁や親支那の感情を持つ人間はかなり多い。そのためにわざと上海租界とは結びつきを残している。他にも色々目的はあるが、その一つが、日本の親支那派の幻想を打ち砕くための情報ルートである。 しかし上海租界を通じて様々な方法で得た情報は、覚悟していた首脳部ですら絶句してしまう。最初はダイレクトにライブ映像すら流そうとしていたのだが、数十年後残虐な映画化された『西太后』の数十倍のキチガイじみた惨状は、ライブで報道するにはあまりにも酷すぎ、社会的な悪影響を恐れて9割方カットや編集を加えて報道するしか無かった。それでも何の手を打つまでもなく、『支那との関係は日本を汚すだけだ』と、日本各地で反省の声が上がり、支那との交流は忌み嫌われ、孫文の人脈は完全に絶たれた。 それに加えて、戦争だというのに日本には、ロシアを除く各国外交官や武官たちはとにかくとして、著名人や王侯貴族にいたるまで多数滞在していた。よほど居心地と、日本の安心安全風光明美美味求心が気に入ってしまっていたらしい。しかし、その映像や写真をまともに見てしまい、失神するご婦人が続出。著名人や王侯貴族たちも、支那への嫌悪をつのらせた。各国報道陣もある意味特ダネとして、特急便で本国へ送りつけている。日本も著作権などと細かい事は言わず、ほしいままに情報を取らせ、ある思惑で思いっきり報道させた。 結果世界中で支那に対する嫌悪感が大きく膨らみ、日本海海戦の結果とその後の日露戦争の経過で、ほとんど笑い物と侮蔑の対象にまでされるようになっていた。特に華僑への打撃が極めて大きかった。この時代から急拡大していくはずだった各国の華僑勢力は、むしろ衰退へ向かうきっかけともなっていく。何より支那からの移民が、極端に制限されたり禁止される国が急増した。あんな凶暴極まりない移民など、どこの国も入れたくない。移民がいなければ成り立たない米国ですら、支那からの移民を相当渋るようになったが、他に移民先の無い支那人たちは、さらに米国に集中していった。これは後に『小支那と米国の内乱』と呼ばれる、米国の長い患いとなっていく。 21世紀では、悪魔のような執拗さで報道規制と情報操作に血道をあげる支那だが、さすがにこの時点で日本と国交まで断絶していては、どこからそれが流されてきたのか、知りようも無かった。 しかも、日本海海戦で世界に鳴り響いた『ナガトショック』が、清国までも打ちのめした。その後はまるで尻尾を股の間に巻き込んだ野良犬のように、怯え切ってしまう。未だに名前だけの『大国』というプライドにしがみついて、国交を回復しようと繰り返し、頭も高く、ずうずうしく申し込んできたが、日本は完全に無視した。弱いものを守ることを『本気で』美徳と見る日本にとって、支那のこの態度ほど汚らわしいものは無い。 欧米列強の各国も、あまりの違いに『日本人は本当に黄色人種なのか?』と、何度も論壇や学会で大論戦が起こっている。 『あたしら日本人は、日本人だけで革命も改革もやったんだ。あんたらも支那人として認めて欲しいなら、支那人だけでやるんだね。』 強烈な頬を張るようなタンカに、孫文は声も無かった。 「そ〜れにしても、孫ちゃんも大変だねえ。」 教会の食堂で、修道女姿のミーシャが、ケラケラ笑いながら声をかける。 「例の日本との国交断絶で、お仲間ほとんど殺されちゃったんだって?。」 明るい笑いが、むしろグサグサと孫文の胸を刺す。はらわたの煮えくり返るような思いを必死でこらえた。国交断絶はさらに思わぬ所で、孫文の手足をもぎ取っていた。 正史の辛亥革命で、彼の同志となって戦うはずだった多くの仲間たち。彼らは有能な革命の闘士であり、支那の数少ない知的階級の人間である。だが、彼らのほとんどが日本で教育を受けたり、日本人と深い交流を持っていた。理由は簡単、紀元前からの四書五経以外で、海外の新知識や政治、経済学その他を一般庶民にも勉強させてくれる場所は自国にすら無かった。唯一あけっぴろげに門戸を開いてくれたのは、日本だけだったのである。支那でそのような教育を受けられる人間は、最低海外留学が可能なほどの大権力者親族でなければまったく無理だ。 そして日本人の教育熱というのは、支那人から見ても異常でしかなく、『勉強がしたい』というと、他人であっても本気で親身になり、本でも伝手でも代金すら考えもせずに協力する『お人よし』が山ほどいる。それも裕福では無い一般庶民にである。支那では大富豪が名前を売るためにするぐらいが関の山で、ありえない!と言う他無かった。日本のおかげで、多くの闘士が育ったのだが、今回ばかりはそれが裏目に出た。 『日本で教育を受けた』という名誉が、一転して『支那に仇する悪党』扱いされ、標的にされてしまったのである。 すでに清国は国家の体を成しておらず、庶民の苦しみは地獄のありさま。その煮えたぎる憎悪の標的にされてしまっては、たまったものではない。彼の同志たちは、次々と襲われ、殺され、吊るされてしまった。生き延びた者も必死に逃亡する他無かった。 「それでも、革命の闘士はまだまだいますよ。」 「そりゃあ良かった。」 怒りを押さえた孫文の声に、くったくのなさそうな笑顔で応えるミーシャ。だが彼女の笑顔の底に、暗い憎悪がちらちらとほのめく。 彼女は、支那の裏組織にさらわれ、非道極まりない盗賊になるための『教育』を叩き込まれ、ほとんど人格崩壊寸前まで追い込まれた。親の顔すら思い出せず、どこからさらわれたのかすら分からない。本心では『支那人なぞ全部死んでしまえ』と思っている。命より大事なララトヌス様のお願いで無ければ、これと話をすることすら本当は嫌だった。いやみぐらいは余興のうちだ。 孫文も本当のところは、ずたずたになった革命組織をどうにも仕様が無く、日本と戦ったロシア軍と手を結ぶのが最後の手段であった。 教会にいるのも、簡易のロシア語を広め、聖書の文章を元とするやり取りで組織を再編成するためである。密告者だらけの支那で組織を守るには、庶民に分かりにくい言葉や方法を使う必要があった。 以前は日本語が有効な手段だったのだが、今ではむしろ警戒が酷くなった。日本に関係する者への襲撃こそ無くなったが、襲撃された者の親族や一族がかたき討ちに襲ったり、襲撃した方の人間もさらに襲った相手の一族を皆殺しにして被害を防ごうとしたりと、血なまぐさい事この上ない。下手に日本語を使えば、どんなトラブルに巻き込まれるか、知れたものではなかった。 ロシア正教を広める協力をすることで、そのための協会側の賛同を得ている。ララトヌスほどの大物が出てきていることでも、ロシア側の協力姿勢はかなり強いことが孫文にも分かる。 もちろん孫文も、ロシアが好意で協力してくれているなどと馬鹿げた事は思っていない。おそらく支那を乗っ取る気満々だろう。しかし、日露戦争で痛手を負ったロシアが、武力で本格的な攻勢に出るには、まだ時間がかかるはずである。そして他国の牽制にはロシアの名は有力なカードにもなる。一刻も早く清王朝を倒し、新政権を作る。それによって、ロシアとの国家対国家の交渉に持ち込み、こちらの体制が整うまで時間を稼ぐのだ。そのためなら、土下座でも何でもしよう、相手の靴でも舐めよう、そして最終的な勝利を掴むのだ。 だだ、神ならぬ身の孫文では知りようも無い事だが、日本と戦ったロシア軍こそ、最大の親日本派を抱え込んでいるのは、歴史の皮肉である。 ロシアの恐ろしい冬の猛威や、厳しい自然環境は、恨みつらみはあっても、いざとなったら助け合わねば生きてはいけない。戦いで撃滅され、荒れ狂う日本海や、冬の荒野で死を覚悟した兵士たちが、『戦いは終わった』と言う日本の兵士たちに救われ、手厚く保護された恩は忘れようとしても忘れられないのだ。 ましてやこの時代は、下級兵士への待遇は悪く、捕虜になればさらに悲惨だった。その恨みつらみがさらなる騒乱の種にもなっていた。だが、日本の待遇は破格であり、涙を流して喜ぶ兵士も多数いて、日本に帰化したがる者も山ほどいた。畏れと敬意、その両方を感じたロシア軍人たちは、日本人と親しくなりたがる者が圧倒的に多くなっていた。 もし孫文がその事実を知っていれば、ロシア軍と手を組もうなどとは、考えなかったかもしれない。ロシア全軍にとって、自分たちの戦争に、ゴマをするように日本と国交を断絶し、横からスキを見てかっさらおうなどとする清国は、最低のクズにしか見えなかった。 そしてロシアでも有名な日本の武官、広瀬武夫海軍大佐が戦争後知り合いのロシア将校に電話をかけている。『清国に孫文という革命家がいる、我が国は完全に縁を切ったが、これはロシアで活用できるんじゃないか』と。孫文とロシアを結びつけた影の立役者は、広瀬武夫だったのである。もちろん帝国重工も同意の上だ。 『ほう、それは面白い情報だ。武夫ありがとう(スパシーボ)』 電話を受けたベネッセル陸軍少将は、ほとんど疑いもせず、広瀬武夫の情報をロシア軍司令部に伝えた。司令部は、それを元に作戦を練った。広瀬はロシアを第二の故郷と呼び、彼と交流を持った多くのロシア軍人等(それも多くが司令官となっている)にとって、武夫はいまだに親友であった。 この広瀬武雄という海軍将校は、独学でロシア語を学ぶほどの努力家で、成績がかなり下だったにも関わらず、その努力が認められて官費留学生としてロシアに留学している。学問への日本のあけっぴろげの『お人よし』が、世に出した快男子の一人である。 非常に面白い人物なために交友も広く、清水の次郎長や歴史に残る大横綱常陸山谷右エ門とも親交があった。ロシアに柔道を伝えた事で、国技となったサンボの起源が広瀬の伝えた柔道ではないかという説まである。これだけの快男子なのに、女性には奥手で、周りが本気でじれったがる。要するに根っこのところで人間が素朴なのだ。同様に根が素朴なロシア人には、この上なく好ましい人物で、非常に愛されている。 逆にこすっからく意地汚い支那人は、基本的に虫が好かない。革命だろうとなんだろうと勝手に殺し合えばいい。そんな連中をどう利用しようと、ロシア人はわずかも心は痛まない。 この皮肉な絡まり合いが、史実には無い歴史へと次第次第に深く、速度を増していきつつあった。
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