■ EXIT
角無島大乱戦・前夜祭その2
カソリックの『聖騎士』ラルト・ヴァレンタインが上海の地に現れたのと同じ頃。 東清鉄道長春駅近くの新しい教会で、多くの人の気配が動いていた。 「やはり、“笑鎖のマクドガル”も来ているか。『聖騎士』だけでも頭が痛いというのに。」 この協会つきの修道士が、連絡を聞いてぼやくように言う。 「頭が痛い?、何を言っているのかね。我らロシア正教において、誰が来ようが同じ事。教えと救いにおいて、我らに並ぶ者はおらぬよ。」 がっちりとして、ほとんど四角く見えるような男が、優しいほっとするような口調でさとす。 40代後半、かなり大柄だが、にこやかな丸顔で、がっちりした体格もむしろアンバランスさで可笑しみすら誘う。 それにこの声、聞く方が思わず心を開きたくなるような柔らかい優しい声だ 「むしろその心こそ恐れなさい。この国の荒れて狂おしく乱れた心を救うには、並大抵の努力では実を結ばぬと。」 「ありがとうございます、ララトヌス様。」 ひざまづく40半ばのこの修道士も、司教の位階を持っているのだが、大司教間近と言われるエフェメ・ララトヌスとは格が違う。 「幸いな事に、数千年前から支那に隠然たる影響を与え続けて来た日本との縁を、愚かにも支那が自分から切りました。これこそ『神のおぼしめし』です。皇帝を神以上とあがめさせることで、恐怖で民を愚昧な盲目におとしめて来た愚劣な支那の歴史に、民自身で終止符を打たせるのです。」 優しげな声の中に、強い信仰心が鉄壁のように覗く。それが、聞く者の心を打ち、また強い信仰心が生まれる。これこそが“鉄のララトヌス”と呼ばれるゆえんである。 彼の“後輩”や教え諭された信者たちも、非常に強い信仰心を抱くため、結びつきが強い事で知られている。 ララトヌスの訪れた協会の、通りをはさんだ向かい側、荷物の影で二人のうさんくさい男がいた。 「陳よ、あそこに来てるのか?」 「ああ、間違いないよ、ララトヌスとやらだ。」 背の低い小さなメガネの男と、やたらひょろっとして、顔に傷のある男。 このあたりのケチな情報屋で、ロシア正教の大物が来るという情報を、清国役人に売り込むために調べに来たのだ。 だが、あまりに相手が悪かった。 『きさまら、我らが協会に何のようだ?』 二人が振り返ると、こめかみに青筋を立てた、あごのでかい巨漢のロシア兵が、うなるような声でにらみつけた。 あわてて逃げ出した二人。だが、 『何事だ!』『どうした!』『何だ!』『何事だ!』『何事だ!』『何事だ!』『何事だ!』『何事だ!』『何事だ!』『何事だ!』『何事だ!』 通りの路地奥から、大柄なロシア兵が次々と涌くように出てきた。 どう見たって一人通るのが精一杯の路地から、一体何人出てくるのか、まるでB級ホラー映画。 「ちょーーーーっ?!」 背の低いほうが、ムンクの『叫び』のような表情で、思わず悲鳴を上げる。 元々ろくな建物は無かった田舎町長春だが、ロシアが鉄道を仕切るようになって、急速に開発が進んでいる。当然ロシア人が急増しているのだが、軍の警備隊詰め所が、わざわざ教会の近くの路地裏に建てられていた。そして、『我が協会』の一言に、一斉に警備兵たちが飛び出してきたのだった。 ロシアに限らず軍は階級差は絶対だが、宗教は身分に関係なく信仰される。ましてやララトヌスに説教を受けた兵士は、ほぼ例外なく熱心な信者となり、心の拠り所にしている。長春にララトヌスが訪れると知った軍は、大急ぎで裏通りの奥に詰め所を作って、教会の迷惑にならぬよう、警備隊を常備させておくことにしたのだ。もちろん志願者続出で、選ぶ指揮官の方が苦労しているほどである。信者たちが率先してララトヌスを守らんと必死になるのだ。そんな中に踏み込んだ情報屋こそ哀れであろう。 「ひいっ」 「ひいいいっ!」 逃げ込もうとした細い路地から、ほっそりした修道女が出てきた。 この場合チンピラたちには、二つ選択肢があった。 一つは修道女を避けて、路地に即座に飛び込むこと。冷静に考えれば、彼女が邪魔で追いかけてきた兵士は足が止まる可能性が高い。だが、チンピラの思考はどこでもさほど変わらない。二つ目の選択肢、修道女の腕を逆にひねって、盾とした。陳と呼ばれたこのチンピラ、情報屋を名乗ってはいるが、暗殺も時に請け負う程度の腕があり、下手に逃げ回って追い詰められるよりはと、短絡思考を起こしてしまったのだ。修道女は男と同じぐらい背丈があった。 「来るなっ、来るんじゃねえっ!」 細いほうのチンピラが、ナイフを修道女ののど元へ突きつけた。 「き、きさまっ!」 追いかけてきていたあごのでかいロシア兵が、さらに目を怒らせる。 「あら?、どうしましたの??」 状況が、分かっているのかいないのか。腕を逆にひねられている修道女は、大きな灰色の目をきょとんとさせ、不思議そうな顔をした。 真っ白い肌に、短い銀色の髪をして、高い鼻筋と大きな目が印象的な、20前後のひどくはかなげな美貌の女性だった。 ただ、なぜかまるで痛そうにしていない。 「る、ルキア様、そのものたちは我らの教会をこそこそとうかがっていたのです!。」 『様』づけて呼ばれた女性、ルキアは、まあと目をさらに大きくする。 「あらあら、清国のクズなの?」 まるで、世間話のような声が、最後にひどく冷たい響きを帯びた。 すっと修道女の姿が縮む。男の呼吸の継ぎ目、コンマ2秒ほどの肉体の硬直時間、その瞬間を狙ってしゃがみ、男の右側、左手のナイフの範囲を抜けて、トンと身軽く羽のように飛んだ。足元まである長い修道服が宙を舞い、めくれ上がった服から、すらりと長い足がきれいな尻近くまで現れる。真っ白な肌に黒いストッキングとガーターがひらめいた。チンピラ二人の背中側から、15センチの鍛鉄製ヒールが背骨の急所を蹴り飛ばした。 異様なのは、ひねられているはずの手首やひじ、肩の関節が、ゴムのようにその動きのままに曲がり、まるで関節など無いかのように、肩を支点として宙を舞ったのである。細身とはいえ女性一人分の運動エネルギーが加われば、片手では耐えられるはずも無い。腕を掴んでいた男の手のほうがいやな音を立ててへし折れ、前に蹴り飛ばされる。 鈍いいやな音とともに、蹴り飛ばされた二人は絶息して、地面に転がった。あのヒールで蹴り飛ばされては、長剣を突き刺されたに等しい。間違いなく背骨は逝っている。 「まったく、清国のクズにも困ったものですわね。」 「お、おめえ、な、なん、なんだ・・・」 背骨をやられ、手をへし折られ、息も出来ない男が、かすれた声で言う。まるでゴム人形のようにくにゃくにゃ曲がった関節に、驚愕していた。 極めてまれに、多重関節と呼ばれる、ありえない方向へも曲がれる関節を持つ人間がいる。彼女は明らかにそういう人間だった。 「あとは、お任せいたしますわ。よろしいでしょうか?」 「はっ!、お任せくださいませ。ルキア様。」 ロシア兵たちの敬礼ぶりや、一糸乱れぬ動作は、まるで元帥相手のようだった。 ルキア・エヴォンゲスキー、エフェメ・ララトヌスお付きの修道女であり、ある事件からロシア陸軍特別武官(少佐級)となった女性である。 「ルキア、どうしたの??」 教会の方から、これまた小柄で黒い髪をした、白人の修道女がトコトコと走ってきた。大きな黒い目が愛くるしい、10代前半と思われる少女だった。わずかに散った薄いそばかすが、さらに子供っぽく見せている。どこか子犬のような感じがある。 「ん、大したことじゃないから、大丈夫よミーシャ。」 すでにチンピラたちは、ロシア兵たちに引きずられていって、いなくなっている。 「でも、ルキアのちょっと興奮した汗の匂いがするよ。ヒールに少し血の匂いもするし、清国人の男の血だよね。違う匂いだから、二人蹴とばしたの?。ああっ、それにその男、ルキアの腕を握ってる!。」 ここまででも驚くべき事だが、さらに宙を嗅いで、滞留している匂いを嗅ぎ分ける。 「不潔な匂い。ここの裏組織黒流の連中の下っ端みたいね。おそらくララトヌス様の来た事、そろそろ伝わって探りに来てのかも知れない。」 呆れた事に、その出自から状況まで分析していく。実を言えば、彼女は元々が黒流にさらわれた子供の一人である。大陸全土に根を張る裏組織が子供をさらうとなれば、人身売買であったり、欲望の玩具として扱われたり、さらには黒流の後継者育成のためであったり、実にろくでもない目的のためだが、国境を接するロシアは被害も酷い。国境はこういう裏組織にとっては、都合のいい逃亡先なのだ。 そして異常なほど感覚能力が高かった彼女は、特別な盗賊としてのおぞましい『教育』を押し付けられた。それは非人間的な育てられ方で、ほとんど人格崩壊寸前までいったのだが、ロシアの進出で“後輩”たちが育成組織を壊滅させた際に助け出された。 どこからさらわれたのか、分からなくなっていた彼女は、ララトヌスの元で人として育てられ、今では“後輩”として活躍していた。ルキアもまた、違う出自だがララトヌスを心から敬愛し、そのために尽くす“後輩”の一人である。 「ルキアがボーっとしてたから、後ろに手をひねられたんだね。だめだよお、あんまり痛くないからって、変な男に腕を握らせたりしたら。ルキア美人なんだから、押し倒されちゃうよ。」 ルキアは、苦笑いをしながら返す。 「私を押し倒せるような男性がいたら、特別武官なんかにならなくても良かったんでしょうけどねえ。」 「危機感なさすぎ。そーいう問題じゃないでしょ。それに、そうだったらララトヌス様にお使え出来なかったよ。」 「そ、それは嫌ぁ・・・。」 思わず泣きべそをかくルキアの手を引いて、ミーシャは教会のほうへ戻り始めた。 「もう〜、泣かないの。おいしいポトフつくったげるから。孫ちゃんも待ってるよ。」 「うん・・・・。」 どちらが年上か分からない光景だが、彼女たちにはこれが日常なのだ。彼女たちは、ララトヌスにとっては家族も同然、そしてその親衛隊とも、守護天子とも言える“後輩”である。 「ララトヌス様、『神のおぼしめし』が、なにゆえ日本と清国の国交の断絶となるのでしょうか?。」 その頃、教会の司祭は、恐る恐る尋ねた。何しろ清国は皇帝が神以上という絶対権力国家で、キリスト教のような皇帝も土民も『皆一律神の子』と言うような宗教は禁止されている。若き司祭は、清国の存在自体がゆらぎ、もはや死に体の状態だからこそ乗り込んできた、ぶっちゃけ特攻隊長のような立場である。比べて大司教間近のララトヌスは司令官最高位に近い存在。正直なぜこんな大物が来たのか、驚きを通り越して呆然としている。 「貴方には教えておきましょう。」 ララトヌスは、にっこりと笑った。 ロシア皇帝は、日本から朝鮮半島を買い取った。調査官たちが朝鮮王族の宝物庫を調べたが、その中身はほとんどが欧州からの宝飾品などになっていて、調査官たちは呆れ果てた。特に先の王族たちは、バカラのクリスタルガラスに執着し、国庫はほぼ空だった。お陰でロシアの調査官達は、宝物庫を『クズかご』とまで呼び捨てていた。だが、ほこりのかぶった書庫の中に、唐の時代の書物があり、太宗の埋葬に別の墓地が密かに設けられた記述があった。発掘(というか盗掘だが)してみると、これが本物で、様々な文物が発見されたのである。その一つが膨大な太宗の自筆の日記だった。そしてそこには、多くの日本人たちが、彼の側近中の側近として勤めていた事が記されていた。 「太宗(唐の皇帝)は、日本との交流に積極的でした。歴史上にこそ出しませんでしたが、遣唐使で訪れた日本人を、何人も側に置いて、歴史上最も評価された大帝国と成したのです。彼らもまた太宗の寵愛に満足し、財も地位も権力すら求めず、一心に尽くす日本人は、皇帝最大の支えとなり力となりました。発掘された太宗の日記には、彼らがいなければ、自分の盤石の地位も、唐のここまでの発展も、ありえなかったとまで書いています。」 若いころ太宗は、偶然ある光景を目撃した。 日本の遣隋使が皇帝から下されたおびただしい宝物を、すぐに全て都の市場で金に換えていたのである。その金で買えるだけのあらゆる書籍を買いあさっていくのを見て不思議でしょうがなかった。 『君たちはそんなにたくさんの書物を読むのか?』 『私の国では、この本を待っている人たちがいるのです。宝物は私たちには意味はありませんから。』 若き日の太宗は驚愕した。支那ではどんな地方でも属国でも、宝物を下されれば、その何割かは使者たちがふところに入れるのが当然の権利であった。 『君たちはなぜ他人の書物を、そんなに一生懸命に買うのか?』 思わず尋ねた言葉に、使者の一人は不思議そうに笑って答えた。 『それが私たちには当たり前だからです。』 この衝撃が、新たに起る『唐』の太宗の治世に影響してくる。 唐の前の遣隋使達も、かなりの数が隋に引きとめられ、煬帝の時代には大運河建設に尽力している。 この運河こそ、後々まで支那に多くの貢献と発展を残し、そのおかげで生まれた王朝も数多い。だが、これを完成させるには、すぐれた計画性を持ち、利益に走らず、皇帝の意思を貫き通す人材が支那には絶対的に欠けていた。遣隋使として来ていた日本人たちの協力(というかヘッドハンティング)で、困難な大運河建設は成功したが、皇帝の寵愛で昇進する彼らを妬んだ支那人たちは、彼らをまとめて祝宴に招き、全員焼き殺してしまった。おかげでその後の経済や政治の計画が無残に崩れ、煬帝の治世は失敗に終わり、歴史上まれに見る暴君という汚名まで着せられてしまった。現代の中国以外の研究で、その評価はかなり変わっているが、支那では未来においても暴君扱いのままである。(ちなみに、21世紀の支那では、万里の長城と同じく、ごく一部のみ見本的に通し、後はほったらかしで、黄河より南は泥に埋もれてしまっている。この国は、地方に役立てるとか、歴史を大事にするとかの根本的な思想はまるで無いらしい) 「ですが、十数回の遣唐使で学ぶことの無くなった日本は、以後は使節を派遣する事を止めてしまいます。日本にとって大事なのは、支那に入ってくる世界情報であって、支那の文化や技術などは学ぶべきところはあまり無かったのです。当時支那には受け継ぐ者がいないと言われた『密教』の最高位ですら、空海という若い日本の修行僧があっさり受け継いでしまったほどですから、文化レベルの差はすでに歴然としていました。楊貴妃との問題を引き起こした玄宗皇帝は、そのような不幸な時期に差し掛かっていて、遣唐使も減って阿倍仲麻呂というたった一人の日本人しか側に置けなかった。ゆえに、国を滅ぼしかけてしまいました。」 実際、支那の歴史上、全土を支配した単一王朝として唐を越える長さを保った王朝は無い。ただし、その唐ですら玄宗皇帝以後は、おちぶれて地方国家になり下がっている。歴史年表にある王朝は、大半が支那大陸の一部支配で、10を越える国が乱立していた事も一度や二度では無い。 そういう支那の皇帝という、あやふやで不安定な存在において、常に求められるのは、『信頼できる有能な腹心』である。 支那の歴史上で最初に全土を掌握しえた秦の始皇帝は、いきなりこの問題でつまづいて、死亡直後にあっさり後宮のお世話役でしかない宦官に国をのっとられ、結果二代目で滅びている。 支那の致命的欠点は、まさに『信頼できる有能な人間』など、探す方が無理と言う点にある。正史の21世紀、ある事件を元に世界中に知れわたってしまった支那のことわざに、『一人で廟に入るな、二人で井戸をのぞくな』と言うのがある。廟すなわち寺の奥に一人で入れば、そこの人間(はっきり言えば坊主)にこっそり殺されて金品を奪われる。二人で井戸をのぞき込んだら、相手から井戸に突き落とされて家財一切を奪われるというのだ。いやもう、ここまで来ると神も仏もあるものかである。それほど人間がどす黒い。 例えば、今なお絶大な人気を誇る三国志。あのスタートたる『桃園の誓い』で、三人は生涯の友情と忠誠を誓うのだが、それはまさに支那人の真逆のあり方であり、ありえぬ夢である。ゆえに、たとえようもない憧れを抱かせるのだ。 『信頼できる有能な腹心』、日本人は妙にこういう立場に適合しやすい。 組織の中で協力し合うという形では、力を発揮しながら、慎ましやかな功名をそっと積み上げていく。 自己顕示欲の塊のような支那やロシアに比べると、日本人の場合、欲望の形が違うとしか言いようがない。 この太宗の日記、それ自体は、単なる歴史の内幕の一つに過ぎない。 見かけ上の歴史も、歴史書もほとんど何も変わるようなものではない。 だが、これがロシア皇帝の特命で大急ぎで調査されたのは、ある研究者組織による『予言』があったからだ。 いやロシアだけではない、欧州列強の国々が、その『予言』に密かに注目し、大慌てで調査隊を派遣している。 日記は、その『予言』を、ほぼ証明したような内容だった。 それでもなお信じられなかった欧州やロシアを、心の底から驚倒させたのが、日露戦争であった。 カソリックの国々は、恐怖の世界帝国であったモンゴル・元の2度の敗北を、まざまざと思い知った。 ロシアは、日本の存在と意味を、骨の髄まで知らされた。 大英帝国は、歴史の幸運に感謝し、また幸運は2度は無いことを必死に考えざる得なくなった。 欧州列強の首脳陣たちは、『予言』を疑う余地が無くなり、その対策に全力を挙げねばならなくなっていた。 『アジアで、大きく変わる国が出る。日本である。 この国とは、交渉と論議の余地がある。また、小国であり、戦争を好まない。 問題は、その影響を受ける周辺諸国である。 弱体化が著しい清国は、革命が起きる。 支那は共通の漢字を持ち、日本の作り出した言語を密かに受け入れている。 (この時点で、支那の言語の内、近代に関わる言葉の大半は日本の辞書から取られている) 国土と人口が多い支那が、革命後日本を習う事があれば、欧州は支那から駆逐される。 さらにロシアは東方が飲み込まれる。 東南アジアやインドも革命と騒乱で、欧州は駆逐されるであろう。』 『予言』は、植民地政策の崩壊を意味している。 『予言』を唱えたのは、当時世界最大の秘密結社、欧州の知と神秘の最高学府と呼ばれたフリーメイソンである。 現代では、秘密結社の代名詞とも呼ばれるフリーメイソンだが、この時代の彼らは、まさに最盛期といえる。 1871年『ローマ問題』あるいは『バチカンの囚人』とも呼ばれる事件が発生した。イタリアが、カソリック教皇領を全て取り上げてしまったのである。教皇は自らを『バチカンの囚人』と称してバチカンに引き篭もった。一国家が世界的な宗教を超えると宣言したのだ。この問題が、世界の宗教、科学、思想、文化、政治などさまざまな方面に与えた影響は大きく、各方面の代表者たちは必死に話し合いを続けた。血なまぐさいまでにいがみ合っていたカソリック、プロテスタント、ロシア正教ですら、加わらずにはいられなかった。その中心にあったのがフリーメイソンだったといわれている。一時は、フリーメイソン本部がバチカン内部あるいは、サン・ピエトロ大聖堂内にあるという噂まで立つほどであった。 その代表者が唱えた『予言』は、欧州の列強といえど、無視できない影響力があった。 日露戦争後、ロシア首脳部がどれほどの恐怖に襲われたか。 あいにく恐るべき前例がある。モンゴル・元によるロシア征服『タタールのくびき』。200年にも及ぶ支配と略奪、虐殺と屈辱の歴史は、今なお連綿と伝えられている。先の日露戦争の敗北が、その恐怖をさらに増大させていた。 『支那が日本と国交を断絶していて、良かった・・・・!』 ロシア首脳部の者たちは、支那人の愚劣な尊大さに心の底から感謝した。しかも、日本は愛想をつかしたのか、清国と国交を回復するそぶりすら見せない。むしろ清国の方が密かだが必死に交渉しようとしているが、日本は完全無視である。 どこの国が日本と結びついても恐ろしいが、同じアジアで、同じ文字を使う文化圏である支那が、日本と結びついたならば、その浸透速度はどこの国よりも早く激しいはずだ。それは火薬樽に火を放り込むようなものだろう。そうなったら、『予言』のように真っ先に喰い殺されるのはロシアである。 しかし、どう考えても、もはや清国は立ち行くまい。絶えかねた国民が、いつ大暴動から革命に変わってもおかしくは無い。そしてここまで落ちぶれた国家を、続けさせる方法はさすがにありえない。とすれば、『後は革命をどう起こさせるか、あるいはどのように誘導するか』、それに全てがかかってくる。 正史では『予言』は1894年、日清戦争直後に発せられた。そして、辛亥革命という大革命の後、中心指導者である孫文(日本と異様なほど親交が厚かった)の暗殺によって、袁世凱が皇帝につくという、支那と日本双方にとって最悪の結果に終わった。 歴史に『IFは無い』と断っておくが、もし孫文が暗殺をまぬがれ、新しい中華民国の指導者となっていたならば、すぐに日本と猛烈な交流を行い、双方が手を取り合って、大アジア時代とでも呼べるような燦然たる歴史を作り上げていただろう。だが、孫文すら暗殺されたのである。支那がどれほどの闇に染まりきっていたか、説明は不要であろう。日本はあまりにも明るすぎ、孫文は光を見すぎたとしか言い様が無い。 現在の歴史の『予言』は、少し遅れて1900年に発せられている。これは、世界初の有人動力飛行機『流星』のニュースが世界を駆け巡った後であった。そして、日露戦争と日本海海戦のナガトショック。ショックが激烈であっただけに、各国はそれだけ迅速に行動した。まず『革命をどう起こさせるか』に、必死になっていった。 そのためには是が非でも、支那と日本を接近させてはならない。日本の驚くべき教化の力は、最底辺の土民にいたるまで、ほぼ文盲がいないという信じがたいデータからも理解する他無い。そのような力で支那を教化されたのでは、支那が手に負えない怪物になってしまう。だが、愚かで尊大な支那の連中は、歴史上最高最強のパートナーとなりうる日本を、自分から切り離してしまった。これぞまさに『神のおぼしめし』である。 しかし、唯一国境を接し、直接の進攻も可能でありながら、未だロシアは日露戦争の傷が癒えておらず、しかも突如生じた莫大な金の消失を、極秘裏に国内投資で穴埋めせねばならなかった。むやみな軍事侵攻は出来る限り避けねばならない。 一つのプログラムが提案され、皇帝がそれを承認した。それはロシア正教による教化である。 ロシア正教による教化、つまり布教と教育を後押しし、ロシア語を覚えさせて漢字から遠ざけ、日本の影響を極力遠ざけつつ、教化を受けた者たちを組織化して反政府運動を指導させ、清政府を倒させるか、あるいは地方で独立させ、地域全体を大ロシアの一種族へと組みこんでいくというプログラムである。しかもロシア正教の教えは、支那の皇帝型支配を完全に否定する。そして最終的には、支那全土をロシアに組み込んでしまうのだ。 ロシアは国家をあげてロシア正教を後押し、支那をロシアとして教化する事を決定した。さらに皇帝と側近たちは、別な数枚の切り札をひそかに用意し始めた。それはロシアとしてもかなり危険なものだが、それだけに効果も高い。慎重の上にも慎重を期して、その準備が進められていく。 「ふんふふ〜ん♪」 彼らの周りで、お茶の用意をしたり、皇帝陛下のスケジュールを確認したりと、モスグリーンの可愛らしいメイドさん侍従が、忙しく動き回っている。最近は欧州の流行が流れ込んで、少しスカートが短めとなり、ほっそりと美しいおみ足を真っ白いシルクのソックスで包み、小さな緑のエナメルの靴が、きらりとひらめいて動き回る。皇帝と、まれにその光景に見とれる若い近衛やスケベな大臣以外は、当たり前すぎて誰も気も付かない。そして、彼らが準備している『切り札』が、どう考えてもありえないほどのスピードで整い、心中は反対で密かに遅らせようとしていた産業大臣や官僚たちも、止めるに止められない状況になっていた。 『うんうん、どうやら皆さん、計画通り動いてますね〜。陛下のためだけにがんばってくださいよ〜。下手に反対するならぶっ殺しちゃいますからね〜。』 もちろん、皇帝陛下の秘密兵器にして、ロシア帝国最大のジョーカーである彼女が、積極的に動き出していたからである。彼女の場合、愛しいダメダメ皇帝陛下のこと以外、何一つ目に入らないというのが恐ろしい。 結果論だが、この世界の日露戦争は、支那を孤独化させ、ロシアの恐怖をあおり、支那への侵攻を速めてしまったようである。 「この国、あの方の予言の通りでしたな・・・」 長春の教会で、ララトヌスがぼそりとつぶやいた一言は、側近たちですら気づかぬほど小さく、若い司祭も聞き逃した事にひそかに怯えた。 ララトヌス、ヴァレンタイン、この後に出てくるマクドガル、支那大陸に降り立った3人の十字教代表者の中で、最初に『あの方』に会ったのはおそらくララトヌスである。大航海時代とはあまり縁が無かったロシアだが、朝鮮半島の譲渡と、『あの方』との出会いがロシア首脳部に強い影響を与え、今日の状況を作りあげたと言える。 それだけに、『予言』の前にも、その言葉を聞いている。いずれ今日の日があろう事をほのめかされている。だのにここに降り立った日が今日になってしまった事を、密かに悔やんでいた。 もちろん、今のこの時でなければ、彼らがこの地に降りるのは極めて危険であっただろう。3つの十字教の勢力が、ほぼ同時に降り立つ事になった『予言』、それは同時に、関係する者を守るものでもあった。なぜなら、清国でも、歴史上の他の支那の国家も(正史の21世紀ですらも!)、人間平等で皇帝といえどただの人にされてしまう十字教は、禁忌とされ、関係する者は国内外問わず、容赦なく罰せられていたからである。 この地域も、協会の周辺も、分厚くロシア軍が鉄道警備の名目で守っている。清国でありながらすでに清国では無い。それゆえに彼らロシア正教の侵出が可能なのである。またララトヌス自身も、後輩と呼ばれる強力な守護天使を持つ者である。 『聖騎士』ことヴァレンタインも、『聖騎士団』と呼ばれる古(いにしえ)から伝わる宗教勢力の実戦部隊を数多く引き連れている。その力無くては、教えの子たち(改宗した地元の信徒)を救う事も出来ないからだ。そしてカソリックは、昔は皇帝の襲名などにも大きな力を持っていたように、権力との関係が極めて深い。彼らもまた大国の力を背景として、それを守りながら広げていこうとしている。 これが同時では無く、確固ばらばらであったなら、清国が暴力で排除しても、他国の勢力が清国に同調したであろう。同調した勢力や国家が、抑えに回ってくれることも期待できる。 だが、同時に出て来た事で、逆に清国は身動きが取れなくなった。この形でどれか一つでも手を出せば、他の教団と国は無視しても、手を出された教団と国が本気で敵対してくる。どの国も漁夫の利に夢中で、敵対した国の押さえに回ってくれない。かと言って、同時に全部を排除すれば、全部が国を挙げて反撃してくる。西欧列強と同時に全面戦争など愚の骨頂である。 こうなると清国に出来るのは、暗殺や、教団同士の争いと各国の紛争に乗じて、こっそり排除していく以外に方法が無い。 先ほどのチンピラたちのように、密告を奨励し、あるいは金と暴力でつぶし、支那の闇に沈めてしまう。これまで、どれほどの数の人間が、その闇に沈められてきたことか。 ララトヌスが、ふと司教のほうへ優しい目を向けた。 「君は、支那を支那たらしめているものは何だと思うかね?。」 ララトヌスの穏やかな問いに、教会の司祭は顔を赤くして必死に言葉をつむいだ。 「中華思想と呼ばれるものではないでしょうか?。」 支那は世界の中心であるという、傲慢の極みのような思想だ。 「皇帝や外交官たちは、そのように言っていますね。ですが、果たして支那の民たちはどうでしょうか?。」 司祭ははたと言葉に詰まった。ここにきて1年あまりになるが、そのような思想が民にあるとはとても思えない。 まじないを信じ、方角や名前を気にし、権威への恐れはすさまじい。それを文化などと呼んで良いものか?。 「支那を支那たらしめているものは、無知の束縛と支配です。」 無数の糸でくくられた支那大陸を覆う巨大な網。 その中心の一点にぶら下がった巨大なクモが皇帝であり、その周りに一族と言える官僚や豪族たちがいる。 全ての情報を、皇帝の下に集め、土民には一切知らせることなく、中枢の権力だけで全てを決定し、その下に裁く。土民には判断出来る情報の一切を与えないのである。出されるのは常に結果だけ。 だが、判断をしないでいいというのは、ある意味安楽でもある。実例が正史の旧ソ連にあった。社会主義で生活の一切は基準で決められ、働きに応じて与えられる形を取っていた。社会主義が崩壊し、自由経済を導入した時、与えられることに慣れていた国民は自由に悲鳴を上げた者も多い。衣類、食品、家庭用品、自分で全てを選択せねばならなくなって、何をどう選べばよいのか、分からなくなってしまったのだ。 清の民の大半は、国の内外の情勢も分からなければ、法律とは何かも知らず、自分たちがどこの何者なのかも知らない『無知』という監獄の中にある。 では、何を基準としているのか?。 このような状態にある人間は、基本的に部族や一族で集まり、過去の例を基にして全てを決め、仕事や裁判、婚姻や養子縁組、葬祭や儀式にいたるまで、前例やそのときの都合で、集団の指導者の命令によって一生の問題を決めねばならない。それが不満で、部族や一族から離れる、あるいは縁を切られると言うことは、誰も味方がいないということであり、誰からどんな目に会わされようと『仕方がない』ということになる。 つまり、『一番力の強い意見』や『一番数の多い意見』に盲目的に従わなければ、殺されようと、奪われようと、犯されようと構いませんよと、『他人が勝手に判断する』ということだ。無知盲目の恐ろしさがここにある。正史21世紀の支那ですら、これが現実となってマスコミやネットの暴走で簡単に各地で大規模な暴動が頻発している。根底にあるのは『同調しなかったら自分が襲われる』。ましてや100年前の支那では、それが絶対の法則だった。だから、一番力の強い皇帝の命令には逆らえない。 そしてもう一段、逆らえないようにする手段が組まれている。 前述のように、支那のような地域で部族や一族などの集団から離れた場合、まずほとんどが奴隷に落ちるしかない。集団に従わない人間は、他の集団にとっても、犯罪者同然に目障りだからだ。当然寄ってたかって襲撃される。 一度奴隷に落ちた人間は奴隷の名簿に登録され、庶民に戻ることはまずありえず、一生奴隷のままとなる。もちろんその子供も孫も、奴隷から抜け出ることはまず無理だ。この構造がカースト制度と呼ばれる、感情的差別階級制度の根源となる。 しかし、相反するようだが、皇帝は武力さえあれば誰でもなれる。 戦争で殺し合いをして、最後まで残った者が名乗る地位にすぎない。たとえば漢王朝の初代劉邦は、まったくの土民のならず者で、明王朝(と言っても前王朝の元もまだあった)の初代朱元璋は貧農出身の乞食坊主である。下克上?、支那ではそんなものはありません、怪しいと見たら一族残らず皆殺し。 つまり暴力がカースト制度を形づくるのだが、カーストの最下層、奴隷に落ちたが最後、戻ることは出来ない。それゆえに、下から上に上がることには強いタブーがあり、憎悪の対象となる。この強烈な差別意識と憎悪の感情が、最下層より上の上下関係の逆転にも強いブレーキをかけている。そうでなかったら、この腐った構造は、日常とめどなく殺し合いを続けなければならなくなる。 間違ってはいけないのは、根底である支那の皇帝制度という2000年以上前に作られた独裁政治が、とっくに賞味期限切れすぎて腐りに腐っているだけであって、支那人そのものを否定するわけではない。ただそれ以外を作ろうとしなかった怠慢は支那人の責任であり、皇帝制だろうと共産制だろうと独裁政治である限り、救われようはどこにも無い(しかもはた迷惑)。 その腐った制度の腐臭と汚濁の膿を隠すのが、儒教というシステムだ。見かけは、親子の情や、上下の正しいあり方をさも美しい美徳のように見せているが、為政者に逆らう者や邪魔な者は、『礼に反する』という名目で、『人間』という枠組みを簡単にはずされてしまう。そうすれば『人以外の者』と簡単に差別し、人間扱いしないで良い。 『史記』で名高い歴史家の司馬遷は、敗戦した将軍を弁護したというだけで、皇帝の怒りに触れ、陰茎を切り落とされて生かされた。普通なら陰茎を切り落とされたら死ぬが、無理やり生かした上で、切り落とされた人間専用の職に付かせて晒しものとし、一生屈辱を味わわせるのである。まさに相手を人間とは見ていない。 同様に最下層に落とした人間は、人間としての『徳』が一切認められない人非人、人にあらず奴隷にすべしと宣言できるし、上下の身分に抗おうとする人間も『人として徳がない』と烙印を押して抹殺できる。当然『殺戮も肯定される』。徳のある皇帝『天子』は、『何をしても許される』のである。つまり天子を名乗れる『皇帝』は、どんなことをしても全て『徳』ゆえに行っているとなる。そしてその配下の官僚や豪族も。 そうやって部族や一族全体の生死を決める権利を持つのが、皇帝であり、その配下の官僚や豪族たちなのである。 「なぜ私たちがこの地に向かわねばならなかったのか、分かりますね?。」 教会の司教は、今度は顔を赤黒く染めてうなづいた。怒りを必死に抑えているのだ。 「魂はデウスからの授かりもの。人が人である根源たるもの。為政者の都合で人かそうでないかを自由に取り外すなど、ありえません。」 まさに十字教の教義に関わる問題だった。 (ただまあ、魔女裁判などあっさり人の枠を取り外して、イロイロやっちゃった歴史は十字教にもあるわけなのだが、置いておくとしよう。) 帝政ロシアとしても、こんな国をまともに相手にするのは、正直こけんに関わる。支那が自分たちだけでごちゃごちゃやるだけなら、絞って絞って絞りぬくだけでも良いが、ロシアは皇室のお家騒動から、麻薬の密輸・密売、様々な犯罪や誘拐など、支那に対していい加減頭にきている。タタールのくびきも、元をただせば支那がモンゴルの部族闘争を散々操った結果チンギスハンが生まれたという因果がある。しかし、対日戦で痛めつけられていて、不必要な消耗は出来うる限り避けたい。ならば『協力者』を作り、勝手に倒れてくれるのが一番効率が良いだろう。そのためのロシアに有利な道筋を作るのに、宗教が有効なのである。 ロシアは、意外な諜報能力を発揮し、支那の革命運動を推進しそうな人物を探し出した。その人物がララトヌスの後輩に保護され、教会内部に匿われて、修道女たちと粗末なポトフを食べていた。 「孫ちゃん、おかわりいる〜?。」 「は、はい、ありがとうございます・・・。」 恥ずかしそうに皿を出す、小柄でしかし『紳士』のイメージをまとう中年の男性。 その人物の名は、孫文という。正史では、辛亥革命という支那の歴史上最大の革命運動の中心指導者である。
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