■ EXIT
角無島大乱戦・3
日本、帝国重工本社内、緑化地域。 林の間の小道を抜けると、芝生の豊かでなだらかな広場が見えてくる。 早朝の散歩の二人が、朝日の中に出て来た。 「いつも言ってるでしょう、脱いだものはあそこの籠にと。」 「わかったわかった、うるさいやつだ。」 もっさりした初老の真田に、すらりと背の高い黒髪の美女。 象牙を磨いたような肌に、紅の唇が妖しいまでに美しい。 わずかに垂れた目が、ひどくゆるやかで、とても煽情的で、口げんかすら甘く淫らな絡み合う気配が漂う。 質素な藍染太木綿の和服は、白ぬきでマンジュシャゲが咲き誇り、髪を綺麗に結うとこれまた清楚な中に妖しい色気がほの見えて、包まれた肉体の豊かで美しい曲線を、引きしめて麗しく見せている。もちろん着飾れば、黒や金でも平然と着こなせるが、普段着の彼女はその落差もまた刺激的である。 帝国重工の名物幕僚、真田忠道准将の公認の愛人で、帝国重工広報部の営業する娼館の高級娼婦であり、女たちの相談役いわばカウンセラーで、経営まで指導しているという愛紗(アイシャ)だ。 とまあ、ここまでだけでもすごい女性なのだが、その正体は日本古来の隠密組織や、全国の山人たちとも密接な関係を持ち続け、今なお隠然たる勢力をもつ妙采寺の18人衆の一人『木瓜』というとんでもねー妖怪ねーさんである。 しかも極度の科学オタクで、有名な『先進科学』を始め、帝国重工広報部の出すの各種雑誌や書籍がタダで読めると聞きつけ、帝国の公娼応募に乗り込んだというツワモノ。真田との縁も、彼女が唯一手に入らなかった『先進科学』の創刊号をプレゼントしたのが決め手。それに彼女、かなり年上が好みである。 ちなみに愛紗は24〜5にしか見えないが、実年齢を聞こうとした広報部のある女性社員は、気がつくとその日の記憶が無くなっていたそうだ。真田は真田で老化防止処置などもあって、実年齢はすごい事になっているが、見かけ50過ぎである。 今や真田の邸宅に妻同然に上がり込み、邸宅の管理から身の回りの世話まで、いそいそと楽しんでいる様子は、みんな『もう結婚してしまえば良いのに』と思っているのだが、真田が長期の出張や泊まり込みで戻らない時は、平然と娼館や妙采寺に現れるのだから、なかなか理解に苦しむ部分も多い。思っているだけで誰も何も言わないのは、ぶっちゃけ愛紗には闇が深すぎて、下手に突っ込んだら前述の女性職員のように、一生トラウマになりそうなカウンターを笑って返されそうで怖いのである。 ただ、今の二人は実に楽しそうにじゃれあっていて、お互い気がなごんでいるのがよく分かる。 そういう光景を苦笑しながら見ているのが、4匹の巨大な狼をまといつけたイリナ・ラングレー。 小柄で細身、銀に近いプラチナブロンドの短めの髪に、白いベレーとコサージュ、大胆な白と黒のチェックのジャケットとミニのスカート。細く長い脚には腿まである白のレースのストッキングで、少し大人びた感じに見える。 彼女の場合、顔立ちが愛くるしいため、服装によっては10代前半に見えてしまうのが、密かな悩みの種だったりする。 妹のイリアが、イリナに良く似ている上に、わずかに背が低いだけなので、以前靴や服の組み合わせでイリナが『妹さんですか』と聞かれ、かなりショックだったらしい。 狼たちは、親を亡くしたのを重工で保護し、育てている。アッサム、ダージリン、オレンジペコ、アールグレイと可愛らしい紅茶名がつけてあるが、すでにかなり大きくなり、イリナぐらいなら乗せて走れそうなたくましさがある。顔つきも鋭く、知らない人間が見たら恐れて逃げ出すだろう。だが、イリナやイリナの友達にはすごく甘えつき、絶対に吠えたり唸ったりしない。真田や愛紗にも、親しげに身をすりよせてくる。ただ『絶対にさせないで』と決めているのが『お手』。狼達は分からないだろうが、これが癖になると、せっかくの威厳が台無しになってしまうので(笑)。 「この子たちも大きくなったわねえ。」 「狼も順調に増えているようで、自然環境も安定してきたようだな。」 親しげにすり寄る狼達を撫でて、その野性的な臭いに目を細める二人。真田は自然管理の大事さを、国土管理のゲームを通して研究し、愛紗は元々山人達との交流の中で、狼が減ったときに起った災害や異常を良く知っていた。そういう部分でも、ぴったりした相性の二人である。 「一時は鹿や猪が増えすぎて、山が荒れて大変だったわ。」 「山人も狩人も、自分の必要な分しか取らんからなあ。植物は、鹿や猪の増加には追い付かん。」 「その頃はクマがかなり降りてきて、被害が増えたそうですね。」 クマも雑食とはいえ、植物が第一の食事をしている。鹿や猪が増えすぎれば、エサが足りなくなるのだ。山から下りて、人の作った畑を荒らすようになるのも、その影響である。 何より、鹿や猪自身が増え過ぎれば、エサが足りない。 足りなくなった分、無理やりにでも食えるものを食おうとして、エサとなる植物を根こそぎ食ったり、皮を喰い尽くして枯死させ、ついにはエサが完全に無くなる。そうなると大半が飢え死にするしかない。 一部狼に襲われるのも、大半が飢え死にするのも同じ死のように見えるが、種族の全滅はその種族だけでは無く、それに連鎖する他の種族(動植物、昆虫、微生物その他)まで道連れにしてごっそりと全滅させてしまう。このような多くの遺伝子の連鎖が途絶える飢え死は、生命の世界で最もあってはならない死に方なのだ。 「この子たちが増えれば、エサとなる植物と食べる動物のバランスが保たれます。狼の出産数や成長率は、エサとなる動物の数で自然に決まりますから、自律的な安定が望めます。」 この自律的な安定こそ、自然環境のキモであると言っていい。 「『先進科学』でも特集をやってたけれど、この辺のバランス感覚は、祖先の言い伝えや掟でしっかり伝えられているものね。」 愛紗の言葉ではないが、『マタギ』と呼ばれる専門の狩人の伝承には、獲物の数によって『山を休ませる』休猟期の定めがあったらしい。当然山人たちは、それ以上に厳しく山の管理を行っていたようである。 イリナが小首を傾げた。 「愛紗さん、人についてはどう思います?。」 人間には、捕食者がいない。それをどう思うかを尋ねた。準高度AIであるイリナにとって、体感的に忌避や抵抗が無い分、素直だがちょっと怖い質問である。 「まあ確かに、人には狼役がいないわね。これまでの歴史の中では、食べ物が足りなくなれば争いが起るのは、同じだと思うわ。」 愛紗は同時に妙采尼でもあり、歴代の彼女たちは、歴史の裏側の闇を400年以上見続けている。 「ただ、日本はお米があったからねえ。あらゆる穀物の中で、最も多くの人を養えるし、ど真面目なこの国の人たちが熱心に栽培して、気候が安定すると豊作続き。おかげで徳川の時代は値段が下がりすぎちゃったのよね。けっこう一揆はあってたけど、あれってお米が安すぎて困るから、税として徴収するお米を減らせって起こす例が多かったのよ。」 徳川の時代、つまり江戸時代は日本の人口の9割が農業で、そのほとんどがお米を作っていた。しかし、最低限塩も必要だし、味噌も無くては話にならない。味噌を作るにしても、最低限燃料と塩と大豆と麹が必要であり、一年分作るとしたら大変だ。最も生産力の大きいお米を、がんばって作れば作るほど値が下がり、生産力の小さい他の物が上がってしまう。当然自分たちの食べる分まで、お米を売るはめになる人もいて、天候不順で飢饉になると、飢え死にする人も大勢出た。だからまあ、江戸時代は一揆の小競り合いは多かったのである。 とはいえ、基本となる食べ物が安いという事は、何とか食えないことは無い。日本の江戸時代が、同時代の世界一平和な国であった理由はそこにある。 「他の国だと、どうしても足りない分は基本戦争ね。殺したり殺されたり、奪ったり奪われたり、人口調整に物資物流の安定化というとちょっときれいに聞こえるけど。」 さすがに科学オタクの愛紗、この時代にはかなりぶっ飛んだ単語が出てくるが、『先進科学』には割と見かける言葉だったりする。要するに、人間はある程度自分で自分を調節していたようなものだ。 「だけど、今一番まずいのが清国かしらね。義和団の乱からこちら、そろそろ9年ぐらい戦争できないでいるもの。」 愛紗の言葉に、イリナがため息をつき、真田が唇をへの字にする。 この辺は、イリナも真田もよく分かる。 清国はけっこう大国のように見えるが、欧州列強とは戦争のたびにボコボコにされて、アジアの小国であるはずの日本にまで正面切って戦ってボコボコにされて、もはや世界中から舐められきっている。基本的に支那の国家は、見掛け倒しで戦いに弱い。チンギス・ハーンで有名な『元』はモンゴルの騎馬民族国家で、支那は単純に全土征服されて飲み込まれただけだし。 ついには義和団の乱という民衆蜂起で、清国政府が反乱部隊に屈服して(支那ではよくある事)、各国外交官を拉致監禁したものだから、各国連合軍にボッコボコにされて北京まで陥落した。それ以来清国は列強各国が国中あちこちに居座って、身動きできない状態である。何しろこの歴史では、清国の周辺は欧米列強の植民地しかない。だから中も外も、動きようがない。 なぜ清国がこの時点で消滅しなかったのか不思議だが、これこそ支那の性質と言うしかない。 支那の歴史というのは、年表こそぴっちり隙間無く並んでいるが、実態は間が本気で数十年とか下手すると100年単位で空いている。年表で適当に『南××』とか書いてあったら、地方政府になって、他はほぼ地方領主が王様として適当にやってる無政府状態だと思っていい。いわばこの3000年あまり、全土の地方領主が適当にやってる無政府状態の中で、間にぽつぽつと王朝を名乗る大きな国が『一時的に』大国を名乗る。そして出来た大きな国家も、じきに清国のように形骸化し、再び地方で適当にやってる状態に戻るのだ。 たとえば秦の始皇帝は、死んだら息子胡亥が皇帝を継いだが、後宮のお世話役で宦官の李斯があっさり全権力を握ってしまった。普通こんなものを王朝とは言わない。いわば始皇帝が死んだ時点で秦はつぶれている。実際即座に秦の全土で反乱が起こり、無政府状態になったし。 要するに、支那の年表はツギハギと捏造と塗りつぶしが大半。あれを年表と言えるその国の学者は、よほど面の皮が厚いか、そもそも学問を舐めている。 そういう状態なので、形骸化した清国内で歴史通り適当に無政府状態で争い合っているならば、むしろ『適切に』人口や物資が調整される。過去の清国の黎明期では、あちこちの地方領主を反乱として皆殺しにし、財産を奪って分け与えて、やはり『適切に』人口や物資が調整されている。 だが、今は上海を始めあちこちに租界という治外法権地区があり、下手に暴れると徹底的に諸外国から脅され、搾り取られ、領土を剥ぎ取られてしまう。まさに身動きとれない状態だ。メタボの患者が運動しなければ、どんどん身体の状態は悪化するのに近い。内圧が溜まっている分、いつ爆発してもおかしくない。 「よくそんな事情まで分かるな?」 真田が本気で不思議そうに言う。 「昨年11月に、身寄りも何も無くてうち(妙采寺)が弔った魚町の田中伝之介じいさんは、清国の学問を教えてた学者先生だったの。一時は門弟が20人以上いて羽振りがよかったんだけど、日清戦争で『日本は負けるから戦っちゃいかん』って反対してたら、あっさり清国が負けたもんだからコケてね、門弟も弟子も見放して落ちぶれちゃったのよ。しかも、そういう人が伝之介じいさん以外にも、ずいぶんいたのよね日本国中。自然と支那の情勢なんかも新聞によくのるし、戦争する時はケンケンガクガクで街角で論争してたし、知ってる人は知ってるわよ。」 ご近所の噂話でもするように、平然と言ってのける愛紗。 確かに日清戦争直前ぐらいまでは、支那=進んだ大国という庶民の歴史認識があり、そちらの学者もけっこう羽振りが良かった。底辺であるはずの庶民が学問好きという、当時の世界にも奇妙な風習は、そういう学者先生を潤わせていたのである。少し前の江戸時代でも、幕府からの扶持(いわば給料)が少ない御家人などは、研究や教育で庶民に食わせてもらっていた者もかなりいた。 そういう関係もあって、日本は支那大陸の歴史や文化の研究は、アジア一と言っていい。逆に、接した国(どこぞの半島とか)の方が、研究するより貰えば良いという安直な考えに陥ってしまい、まるっきり進歩しなくなったという歴史の皮肉がある。 しかし、日清戦争であっさり負けたことから、庶民の大部分は自国の実力に驚くより負けた清国にがっかりした。そして何万もの日本人たちが、清国のあられもない姿を実見して、夢とロマンに満ちた支那の幻影は完全に崩壊してしまう。朝鮮半島で幻滅していた分、清国への期待は大きかっただけに、なおさら反動もひどかった。後はせいぜい古代の支那が生んだ、西遊記や三国志などの歴史的文学ぐらいで気を吐く程度となっていった。この辺妙なもので、支那では時代が新しくなるほど、オリジナリティも文学性も無くなっていく。というより、そういう人間がいなくなっていくのだろう。 このあたり、日本と支那(と半島)の性質の極端さが良くあらわれていると言うべきか。なぜここまで違うのか、近代世界の七不思議にしても良いと思う。 日本人は『現実を見てとことんまで突き詰めて高める』。支那人は『夢とロマンに満ちた幻影を本物と主張し』現実の実情には『偽』とつけて否定する。良い例が2008年の北京オリンピック。世界放送に花火のGCを張り付けたり、口パクだけの美少女歌手とか、日本人の感覚ではついていけない、死んでもやれない。 さすがにオリンピック委員会も某国の痴態は耐えられなかったらしく、2012年のロンドンは演出過剰なはずの開会式が『自虐的』とまで言われるほど、実際の歴史にこだわった演出になっていた。なぜか同情を感じてしまうのは、日本人だからだろうか・・・・・。 そういうわけで先ほどの愛紗が言う言葉は、あまりにも核心を突き過ぎていて、ハッキリ言えば『身も蓋も無い』と言うやつだ。イリナがため息をついたのも無理はない。 「とすると、ワシらはその調整に手を貸しているわけか・・・」 思いっきり嫌そうな顔をする真田である。 「あ〜、先日の土壌の記事ですね。清国での騒ぎに各新聞社は興奮状態みたいで、上海行きの船の切符が一時奪い合いになったって聞きました。」 思わず額に小さな手を当てて、痛そうな顔をするイリナ。 清国で、大規模な暴動が発生し、その数実に15万。それがさらに膨らみながら、上海へ押し寄せているというのだ。 イリナの嫌そうな顔に、その手をぺろりと舐めて慰めるようなアールグレイ。 「マスコミの馬鹿っぷりは、今に始まった事じゃないが、まるで人ごとだな。」 「真田さんも本気で人ごとに聞こえますが・・・」 苦笑いするイリナだが、愛紗はなぜかこめかみがひくつく。 『こ、こいつら・・・・』 自分の愛人と、可愛らしい妹分のような少女の会話に、愛紗は頭を抱えたくなった。 『視点が完全にズレてない??』 正直、妙采尼と言う非常識な(現代風に言えばフリーダムも極まった)存在となって、いまさら常識など言うつもりはさらさらないが、どーにもこいつらといると、自分が普通の人間のような気がしてしまうのは気のせいなのだろうか?。上海に押し寄せる15万の暴徒より、それを取材に行こうとするマスコミの方に心配するというのは、人間として何か間違っているような気がする。そういえば総帥は、自分が娼館に行くと告げた時、『一つの修業と思いなさいな』と笑って言っていたが、『未来視』の能力がこういう困惑を先に読んでいたようだったと思いだす。 「まあ、そのぐらい織り込み済みだからな。お昼から、確認事項の為の会議だったろ。」 「ええ、ちょっと予定外の情報もはいってますし。」 この辺愛紗に聞かせていい情報かどうか迷う所だが、へたにひそひそ話すより、普通に話す方が問題が少ないと真田もイリナもよく分かっている。がしかし、この女性は予想の斜め上をいく。 「あんまり私の事は気にしないでいいわよ。袁世凱の阿呆が、青島(チンタオ)半島の根元当たりに、新上海を作りたがっているってことぐらいまでは知ってるわ。」 妖しく笑う愛紗に、いきなり会議の核心を“スッパ抜かれ”二人とも青ざめた。半眼の黒く長いまつげ、赤い唇に白い歯がニイッと笑い、本気で魔女めいて見えてしまう笑顔である。 ちなみに愛紗は愛紗で、二人がようやく驚いた顔をした事に、一矢報いた気分ではあった。 「きゃんっ!」 呆然としていたイリナが、芝生の上にひっくりこけた。 「こっ、こらああ」 ワフワフペロペロと狼達が、しゃがんでいたイリナにのしかかり、ところ構わず舐めまわし出したのだ。 「やああん、ど、どこ舐めてるのおっ、だめええっ、」 イリナが話に夢中になり、まるでかまってくれなくなったので、狼達の方が不安になってしまったらしい。図体はでかくても、気分はまだ子供の狼達だ。 さすがに歯を立てるのはいなかったが、悪戯っ子のアールグレイやオレンジペコにのしかかられ、胸元や太腿まで舐めまわされ、なんだかえらいことになっている。 「あらあら、たいへんねえ。」 「ほほえましいのう、ウシシシ」 元々エロ方面でも経験値が高いお二人は、えらいことになって悶えているイリナを、ほほえましく眺めているだけである。 地図は戦略上もっとも重要なアイテムの一つ。 どこに何があるかが、そのまま勝敗の根幹に関わるからだ。 そして、上海は租界と呼ばれる各国自治領があり、清国では治外法権と言っていい。そのため様々な勢力が入り乱れ、異様な活気を作りあげている。上海は、清国の心臓部であると当時にガンであり、悩みのタネであった。 これを青島半島の近くに移してしまおうというのは、かなりな暴論だが、袁世凱にしてみれば一つの対策法ではあろう。 お昼の帝国重工の会議でも、その点はほぼ一致している。 北京は清国北方にあり、袁の勢力圏である北伐(軍閥)の中心だ。ただその近くにロシアが、半島と満州鉄道を通じて勢力を拡大しつつある。上海を北方へ移して、他国とにらみ合いをさせて、ロシアの勢力を減衰させたいという狙いがある。また、上海の富を自分のふところに入れやすくしたいというのもある。そして、今日本の企業がある上海に騒動を起こし、その代りにという面もあるのだろう。 「しかし、こういう発想があの袁から出てくるとはなあ。」 最高司令である高野が少し首をひねる。北伐を背景に強力な権力を築いている袁世凱だが、それだけにナワバリの元になる都市を動かすような大胆な発想は普通浮かばない。発想が出たとしても、それが実行できるかどうかは別の話だ。 上海には日本の企業を残し、租界の貿易のみ継続させている。元々は清国との国交断絶時に、引き上げようとして各国租界の代表者達から泣いて引きとめられたからだが、日本はこれを利用することにした。 東洋の貿易はイギリスが握っているが、現在の戦艦不足(日本海海戦の影響)では、その手も足りなくなりそうであり、毎日必要な物資の輸送料も跳ね上がる。各国租界がその影響をもろにかぶると、イギリスともめることになるが、それを起こして喜ぶのは清国だけだ。それを起こさせないため、租界へ適正な価格で、適正な貿易を行い続けている。 大英帝国も最初は苦い顔をしたが、わずかな輸送料で日本ともめるより、租界の商売を活発にして、吸い上げた利益で本国が英国の軍艦を買ってもらう方が、はるかに儲かると気がついた。それに元々大英帝国は、香港・マカオなどの有力な貿易港を持っている。上海租界はすこし目障りだが、下手に争うより軍艦を高く買ってもらう方が得だった。 またインドで大量に買いたたく綿花は、織物となって支那全土でも売らねばならない。売り手は英国だけでは足りない。上海租界はその商売の中継地としても重要であり、販売ルートの確立にも欠かせないのだ。馬鹿正直で商売の下手くそな日本は、結局上海租界の調整役であり、英国の得にはなっても損にはならないとバルフォア第一内務大臣も納得した。英国紳士は商売上手でなければならないのである。 しかし大英帝国の見方とは別に、日本の見方は長い目で見れば信頼と十分な利益を確保し、商業と工業、運輸や取引業の長期の安定をもって、国力増進になっていく。これが不安定だと、取引量が変動上下するたびに設備や人員の調整が非常に大変で無駄も多い。それが結局足かせとなって衰退する企業も珍しくない。だが短期的な儲けの視点しか無いこの時代では、それを理解しろと言っても無理な話だろう。10年以内には、戦艦バブルも弾けるが、その後の見立ては大英帝国すら全く無いのだ。 清国の北方はロシア、中位で上海租界から欧米各国、南から大英帝国が徐々に勢力を広げつつある。この色分け、勢力図も日本には大事で、それぞれの国に作られていくダミー企業が、支那の貴重なレアメタルやレアアースをうまく吸い尽くすために、内陸部まで入っていかねばならないからだ。それに、いずれは世界大戦が起るが、各国が消耗戦を繰り広げるためにも、支那に深入りしてもらう必要がある。 ついでに、どうせ日本企業が上海租界に居続ければ、それが“よせ餌”となって色々引きつけることになる。変な方向から、不意打ちを食らうより、絶対確実な方向から来られる方が、はるかに対処がしやすい。今回の土壌騒動も、むしろ予定事項に近い事態だった。 「アメリカ大使のジョージ・ガスリーさんから、昨日聞いたのですが、袁はどうやらロシアの大商人たちからすすめられて乗り気になったらしいですよ。妙采尼さんにも尋ねましたから間違いなさそうです。」 ロシアとアメリカはかなり仲が悪い。その分相手の情報を詳しく知っている。 アラスカをアメリカに売った後、アラスカにゴールドラッシュと呼ばれる金鉱の発見が相次ぎ、ロシアはアメリカに不快感を持つようになったのだ。ついでに言うと、アメリカの租界は上海でも大きく、移転などさせられてはたまったものではない。当然この問題には神経を尖らせていた。 そして妙采寺にいる妙采尼総帥は、なぜか明治初期からアメリカ財界に異様に太いパイプがあり、そちらからの世界情勢にはかなり詳しい上に、帝国の設立した世界初の最高位エステサロン館長も勤め、世界中の美と若さを求める大金持ちや大貴族とどんどん知り合いになっていっている。まさに地獄耳の持ち主と言えた。 「ロシアがねえ・・・、金(ゴールド)が無いのにか?。」 イリナの上司で恋人でもある風霧部長が首をひねった。何しろ、今ロシアは金が大量に紛失し、極秘裏に大問題になっている。それをやらかしたのは帝国の特殊作戦群なので、知っているのはロシアと日本だけなのだが、それはまあさておくとする。国内投資ならば、外貨はいらないが、国外投資となると、ポンドなどの国際的に信用の高い大量の外貨か、自国の通貨に裏打ちするだけの金が必要となる。当然ロシアにそんな余裕があるわけが無い。 「詐欺ですね。」 「詐欺だわよ。」 「詐欺ですねえ。」 「詐欺じゃな。」 「詐欺だとおもうの。」 「詐欺だよな。」 会議室、満場一致。だが先ほども言ったように、これが詐欺と分かるのは、ロシアと日本しかいない。 「ロシア商人たちが組んで、袁世凱に働きかけているという事も考えられますが・・・・」 清楚で美しい白いワンピース姿のさゆり嬢に、高野が微笑みかけて後を続ける。 「が、あの袁世凱がその程度で乗るとは思えない。皇帝陛下の名前も出ているのかもな。ただ、ここまで詐欺だと、ロシアも清国の料理を急ぐことにしたのかもしれん。」 ロシアが後ろ盾になって押すのならば、長期計画の新上海構想も不思議ではない。 だが、今のロシアは上海どころか、国外に出す金すらほとんど無い状態で、必死にやりくりごまかしで国内投資を繰り広げている。農業や漁業の第一次産業、鉱山や工業生産等の第二次産業、これらで生み出した余剰の利益を、国内に還元させて、消えた金の穴を埋めねばならないのだ。 高野たちは知らないことだが、ロシアのお家騒動に袁世凱はいらぬ後押しをしていて、それがばれているという事すら分かっていない。いや、うまくいかなかった事だけは分かっているが、ワイロは何ら罪にならないと本気で思っている。どこの国でもワイロを有力者に送るのは当然で、それに目くじら立てたりしないのが大人というイメージをもっている。有力者が権力闘争に負ければ、勝った方に負けた方のワイロは来るという理屈だ。 だがしかし、皇帝の伯父のブンドル侯爵は、袁世凱のワイロを受けて皇帝の暗殺を決断している。つまり暗殺を主導したのは清国であり袁世凱であるとロシアの方が認識している。そうでなければ、そんな大それた事は計画出来ない小者なのだ。 まあ袁の方も最初からそうさせようとしていたのだが、ワイロに慣れ過ぎていた袁は、まさか本気で自分が睨まれているとは思いもしていない。それに、ロシアも何も言ってこないのだからなおさらそう思った。何しろ支那の連中は、相手が交渉に疲れて負けるまで怒鳴り続けられるのが勝ちであるらしい。朝に交通事故の現場で怒鳴り合いを始めた運転手二人が、夕方通りかかるとまだ続いていたなどと言う話がある。弱者や頭を下げる者は、最初から負けているし、何もかも奪われて当然。何も言わないのなら、何も問題は無いのだと判断する。第一、袁世凱の周りの人間も、その足元にひれ伏して『その通りでございます』と、全員受け入れているではないか。 『すでに我は皇帝以上の権力をもっておる、ならば朕の言う事が正しいのだ。』 皇帝にしか許されない『朕』を自分につけている点で、袁の頭の中もある程度お分かりだろう。 「まあ、いまさらあそこが詐欺にかかろうが、こけにされようがどうでもいいが、ロシアとドイツがガチにケンカするんじゃないのか?。」 日清戦争で、日本が所有権を放棄させられた青島半島は、今ドイツの所有となっている。 「でも部長、詐欺なんでしょ?。」 可愛く聞いてくるイリナに、苦笑する風霧。 「おそらく、ドイツとすでに連絡し合っているかも。」 「ありそうだなあ。」 何をどう言おうと、ロシアは清国よりドイツの方がはるかに近いのである。おそらく『ドイツが了承している』という形を示して、これが本物であると思わせるのだろう。 21世紀の現代でも、M資金詐欺と言うのがある。『旧日本軍の軍資金がフィリピンで見つかったので、こっそり掘り出して山分けしたい。そのために資金を出してくれないか。』とだまして資金を持って消えるのだ。これに引っかかる人が未だにいるというのだから驚くが、事実である。 さて、あちこちから侵食される清国の現状と、直接的に自分のいる北京に近づきつつある大国ロシア、部下はたいこもちのような連中ばかりで役に立たず、軍は近代化を進めるとお金がますますかかると、頭の痛いことばかりの袁世凱。そこへ最近出入りしているロシアの大商人の連中がやってきた。もちろんワイロもふんだんに使うので、目通りを許している。 「陛下、実はちょっといい話を持ってまいりました。」 「なんだ、いい話とは?。」 ふんぞり返って、太鼓腹をますます膨らませる袁世凱。陛下と言われて、気分はすでに皇帝である。 「上海の景気の良いことは、よく耳になさると思います。」 「おう、それは知っているぞ。」 「それでは、もう一つ上海のような、貿易の盛んな港町を作られてはいかがでしょう?。さぞ儲かることと思います。もちろん私たちもでございます。」 それは当然、ワイロも増えると言う意味である。だが、袁世凱は不機嫌な顔をした。 「どれだけそれに金がかかるのだ。わしとて無限に金を持っているわけではないぞ。」 要するに、都市開発と言うのはお金がかかる。上海ほどの大都市となれば国家予算級の資金が必要だ。清国を握っている袁に、出せないわけでは無いが、強欲な人間は同時にケチでもある。自分の金である清国の金は、出来る限り使いたくない。そのくせ陰謀などにはやたら無駄遣いするのだが。 「実はでございます、我が国の皇帝陛下が、資産の新たな投資先を探しておられまして、そのような大きな開発こそ、先ではより巨大な富を生むものでございます。ましてや陛下は今や清国の最高権力者と誰もが知っているお方、そういう信用の置ける方となら、安心して皇帝陛下の資産を投資が出来ると言うものでございます。」 袁世凱が思わず顔色を変えた。ロシア皇帝の皇帝財産の巨大さは、噂で聞いている。それがこちらに向くとなれば、まるで黄金の滝が落ちてくるようなイメージがわきあがった。その上、ロシア皇帝と並ぶ権力者のように持ち上げられ、飛び上がりそうな気分だ。だが、袁は必死でそれを抑えた。あわてて飛びついては、『こけん』に関わる。 「信じられぬな、証拠を見せてみよ。その上で考えてみよう。」 しかし、袁の薄っぺらな『こけん』は、『とりあえず半金で良いのであるか?』という皇帝陛下の内命でしてと、山のようなルーブル金貨を部屋いっぱいに詰まれ、いっぺんに吹き飛んだ。興奮状態でロシアと折半で都市開発の費用を出すと言う契約書を交わした。計画の概要はすでに出来ていて、袁はうなづくだけでよかった。すでにこの金貨のうちの何割かは自分の懐に入れるつもりだし、大規模土木工事を行えば、国家予算から向けてもワイロやピンはねがし放題、それが間抜けでお人よしなロシア皇帝からの分まで出来るとあれば、笑いが止まらない。 だが、ここまで考えてふと心配になった。この計画は青島半島の根元に開発されるようになっているが、そのあたりはドイツの領域となっていて、まだ取り返せる様子が無いのだ。 「それは心配ございません、我が皇帝陛下が、ドイツには話を通しておこうとおっしゃられましたから。」 大喜びした袁は、完全にロシア皇帝をあなどった。 『ようし、こんなお人よしならば好都合。他国の租界も移させて、ロシアと争わせてやろう。そうすればロシアの進出は難しくなる。』 悪巧みをした分、出来る限り情報を隠して、ひそかに工事が進められた。 商人たちは国家の命令としてその辺の役人を駆り出し、ついでに周辺の土民を集めて土木工事を始める。ドイツ系の会社が続々と乗り込み、港湾づくり等の工事をしていく。いよいよ本物だとホクホク顔の袁世凱。情報を聞きつけた上海租界から、ようやく港湾設備が出来かけたころに、強硬な反対が飛んでくるが、これを途中で止めさせられてはたまらない、と焦った袁世凱は追加分の資金を出して、急いで工事を進めよと工事をせかしたわけだが・・・・・・、 ここで問題です。 役人は清国の役人です。土民は清国の国民です。異国の会社(主にドイツ)は役人の命令を聞き、それにあわせて工事をしています。 半年で払う手形が発行されていましたが、半年後その手形が決済できないことが判明しました。銀行口座に入れられているはずのロシアと清国の代金は、びた一文たりとも口座に残っていません。支払いと称して全額を引き出して商人たちが消えたのです。しかも、ロシアはそんな話は知らないと突っぱね、そういう名前の大商人も存在しないと反論。実際ロシアの全権大使とは何も話していないことに、ようやく袁は気づきます。そして、ロシア側から話が通してあるはずのドイツから、『うちの領域で何の工事をしているのであるか?』と目を怒らせたゲルマン系の現地指揮官が乗り込んできました。 さて、責任は誰が取るのでしょうか?。 半年後のロシア帝国、サンクトペテルブルグ冬宮殿。 「このように、孫悟空に追われた妖怪は自分の毛皮(虎)を脱いで岩にかぶせ、“金蝉脱殻(きんせんだっこく:セミの抜け殻)の計”と言って逃げ出したのです。孫悟空は間違えてこの岩を金箍棒(キンコボウ)で殴りつけ、手がしびれてしまいました。」 家庭的な性格で知られた皇帝ニコライ2世が、6男で12歳のポレルフと戯れながら、紙芝居という東洋の遊びを面白そうに眺めていた。これも吉備真吉備から教わった遊びの一つである。ニコライの家庭環境は、正史と違って怪僧の存在も無く、極めて安定していた。 「絵がじょうずだねえ、クリスティ。」 ポレルフに褒められ、クリスティは白い頬を初々しく染め、ありがとうございますと微笑む。この子も可愛らしいモスグリーンのメイド服を着た侍従は大好きだった。 もちろん、立派な絵本も数々あるが、このような動きのある動作や、人の声色も面白いものだとニコライ二世は息子の頭をなでる。そしてこの冒険小説はけっこう面白くてためになる。 「金蝉脱殻の計か、ドイツもうまく乗ってくれたし、なかなかいい儲けになったではないか。」 虎の皮を着せた岩で、孫悟空が痛い目にあったように、都市開発という虎の皮で、ロシアと工事に何一つ見ないふりをして協力したドイツが、清国をはめたのだ。皇帝専属侍従クリスティが、ニッコリと微笑みながら、ホワイトブリムを飾った頭を軽くうなづかせる。 「はい、ドイツの方も前々から欲しかった港湾施設の基礎がタダで出来た上に、袁をしめあげてさらに青島周辺の利権も拡大できたと喜んでおられました。ちなみに、清国が何をトチ狂ったのか、預金を引き上げる直前に、予定外の追加分もわざわざ入れて下さいましたので、真吉備様風に言うと“カモがネギしょって鍋屋に特攻かけて来た”ようなものですね。」 可愛らしく親指を立てて、サムズアップをかますクリスティ。 「最終的には金が800kg、銀が2トンほどになります。必要経費とドイツ系の会社に手付金で配った分を差し引いても、8割は残ります。何より『いいがかり』をつけてきた清国には、たっぷりペナルティを課すことが出来ますから、存分に料理されていくのがよろしいかと。」 元々ドイツとロシアは、少し前まで緊密な関係を保っていた。だが、鉄血宰相として知られるビスマルクが失脚すると、フランスと条約を結びロシアと決裂している。 しかし、そのフランスが日露戦争停戦に強硬に反対したあげく、日本に大西洋や欧州の目の前でボコボコにされる様子を見て、肝を冷やしたドイツの皇帝や大臣たちは、再びロシアと接近することを考えた。軍も、長期に戦ったロシア軍の持つ、日本の情報を本気で欲しがって後押しした(フランスの分は、近くで見ているので必要性が少ない)。清国で正史よりも急速に増大化するロシアの影響に、一番近い青島のドイツ領事や軍司令官たちも不安を抱えていたのもある。 ニコライ二世の指示により、プレーヴェ内務大臣やガストウェル外務大臣が誘いをかけると、ドイツは積極的に乗ってきたのだった。 クリスティがこの紙芝居を作ったのは9ヶ月ほど前。彼女の声音の面白さもあって、陛下の子供たちにも好評で、それを聞いた皇帝陛下は“金蝉脱殻(きんせんだっこく:セミの抜け殻)の計”の意味を尋ね、クリスティは真吉備の話と並べて説明している。真吉備は上手な詐欺のやり方をその時話していた。 『支那の作戦なら支那人には有効かもしれん』と、暗殺騒動で不快感をもっていた皇帝は、その案を内務大臣たちに検討させ、一芝居うたせたのだ。結果は想像以上で、大臣たちの方が驚いているし、ロシアとしては笑いが止まらない成果であった。 ただ、あまりの効果に首をひねっている者もいる。 プレーヴェ達はロシア商人役の連中に、『交渉して様子を見よ』とだけ指示を出していた。 ところが、いきなり袁世凱の屋敷に持ち込まれた大型トランク10個分のルーブル金貨は、部屋にあふれるほどであり、袁ですら仰天させた。現ナマの魔力は古今東西を問わない。強欲な袁はそれゆえに引き込まれている。真吉備の教えた詐欺のやり方の一つ『見せ金』である。 このルーブル金貨、実は日露戦争の為に作られた代物で、戦費捻出のために安く高級貨幣を作ろうとして、金の含有量が歴代で一番少ない。単なる通貨として見れば、ロシアの国力でルーブルとしての価値があるが、貴金属として見ると非常にチープ。ロシア中央銀行に置くことも出来なかったタイプであるために、王宮からの命令で地方の銀行からかき集めること出来た。 貴金属としての価値の無い金貨はどこからも嫌がられていて、地方の銀行ももてあましていた。ところが、急に国外に流すことは厳禁とされたため、本気で困っていたのである。まさか中央銀行の大金塊が丸ごと盗まれたとは、口が裂けてもいえない中枢部。たとえ質が劣るとはいえ、通貨の信用基盤となる金をこれ以上国外に出すわけにはいかなくなったのだ。だが突然の交換命令で、地方銀行は喜んでその金貨をルーブル紙幣と取り替えている。それでもロシア皇帝の半年分のお小遣い程度だから恐れ入るが。 ちなみに、皇帝財産は国家予算と厳密に分けられていて、たまに国家の事情などで行き来はあるが、皇帝財産は基本的にどれほどケタ外れだろうと私有財産である。 戦争中の中央銀行の金紛失も、ニコライ二世が心配して皇帝財産を使う事を考えたが、プレーヴェ達から『やめてくださいませ』と泣いて頼まれたので諦めている。と言うのも皇帝財産はあまりに巨大なため、それが動くと経済にまで変動が及ぶ。朝鮮半島譲渡の時のように、それなりの対価があって行うなら内外共に問題はほとんど無いが、今回のような大失態で皇帝財産が動いたら、隠そうにも隠しようが無くなってしまう。山が身動きしたら、誰だって仰天するだろう。そうなったらロシア経済は終わりだ。 先ほどの日本が朝鮮半島を手放す時だが、資産や社会基盤等の譲渡額の相談を、ロシア側に借款などの長期払い型で交渉しようとしたところ、即金で全額皇帝の個人財産から払われてしまった(その分ちと安くはさせられたのだが)。当時交渉担当を請け負った外務大臣は陸奥宗光だったが、歴史上最高の外務大臣と言われている彼が『この時ばかりは腰が抜けそうになった』と述懐している。 そのとてつもない皇帝財産のうち、皇帝の小銭入れというか年間のお小遣い管理を任されているのも、今では侍従のクリスティである(名目上は侍従長)。 そして、いつもどおり侍従の仕事をやりながら、100近い地方銀行から1ルーブルのミスも無く、取引を完璧に整えてしまい、行政官も大臣たちも、ほとんど何も気づいていないと言う状況は、ちょっと怪談じみている。 さて『見せ金』とは、見せかけの大金を積んで、相手に『これだけの金があるんだから、絶対信じていい』と錯覚させ、取引に引きずり込む詐欺の一種である。会社を設立するときに、自己資金が足りず、どこかから借りてきてその場をごまかそうとする行為も同じように言う。信用の幻想を作り出して、有利な条件を得たり、相手の財産を抜き去ってしまうのだ。これを世界最大級の金持ちであるロシア皇帝にやられたのでは、たまったものではあるまい。ましてや恐怖の秘密兵器クリスティつきと来ているから、狡猾なはずの袁世凱も、ロシア皇帝が何一つ約束もしていないのに、全面的な信用を幻想で抱いてしまっていた。 ルーブル金貨は3割ほどは強欲な袁世凱にネコババされていたが、残りを回収すると、ネコババされた分は先ほどの必要経費に完全に含まれていて、結果としてロシアの腹はまるで痛んでいない。逆に、安物の金貨に折半の約束で同額の金と銀(金を全額用意できなかった)を出した清国は、ルーブルと元の交換比率の問題もあり、正味の金銀の量で言えば、三倍以上出している。この点でも、袁は見事にひっかけられた。 もし袁世凱に全部ネコババされていたらどうしたか?。そのときは『ロシア皇帝の好意を傷つけた』と、軍事侵攻をかけて領土をごっそり切り取るだけである。これならどこの国も文句を言えないし言わせない。 加えて、新上海構想の情報を上海各所に同時にあおるように広げたのも、あわてた袁世凱が追加投資をした直後に銀行から預金を引き上げるタイミングも、いつの間にか予定だけが組まれていた。大臣たちは陛下が組まれたのだろうと思っていたし、陛下はさすが我が部下であると満足していた。誰がこのタイミングを計ったかは、もはや言うまでもあるまい。 こうして見ると、クリスティのサムズアップの意味はかなり色々含んでいたようである。 とはいえ、彼女の愛しいダメダメ陛下を暗殺しようとした清国と袁世凱への怒りは、このぐらいで収まるわけも無いので・・・まあ当分ボコボコにされまくってもらおう。自業自得、女の恨みは恐ろしいのだ。 さて、話を半年前に戻そう。
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