■ EXIT
角無島大乱戦・2
日露戦争後、今や崩壊寸前の清国。 悪辣な暴力と策略で最高権力を握った袁世凱は、清国を・・・というより全部が自分の権力と富のために、一発逆転を狙って、恨み重なる小国日本をどうにかしてへこまし、支那の大陸内部に引き込んで長期の消耗戦で、清国の優位を作り、戦乱に巻き込むことで諸外国を正当に追い出し、この国を世界に見直させたいと、様々な策謀・陰謀をめぐらしていた。しかし、日本本国は全く歯が立たない。そこで、急速に発展してきた日本領台湾府に目をつけた。 台湾の役人や豪族にも少しだが協力者がいた。 しかし袁世凱には苦い思い出がある。 かつて朝鮮の権利に手を出した日本に、『生意気な!』と戦争を仕掛けた。後に言う日清戦争である。 この頃すでに、現代で言うならば胡錦濤(コキントウ)中国国家主席に匹敵する権力を握っていた袁世凱。 朝鮮は清国の物、属国すなわち奴隷。人の奴隷に手を出す無礼な下等国日本に鉄槌を下すべく、袁世凱は一方的に踏みつぶし、日本の持っているものは一切合財、尻の毛まで抜き去るほど奪い尽くし、美人ぞろいと聞く芸者や吉原太夫など、日本の女と言う女を犯して己の種を植え付けてやろうと、鼻息を荒くしていた。 交渉が決裂し、戦争が始まる少し前に、朝鮮の元王族からぜひ協力したいと申し出て来た。 朝鮮王族の一人で、使者として来たノダ・タンケ・ヒコノソウリダイジは、でっぷり肥大した体にやたら豪華な着物をつけて、口先だけは見事な美辞麗句を吐く。連中は清国にこれまで通り君臨してもらい、自分の地位財産の庇護者として、ぜひとも保護してもらいたかった。そして自分たちより絶対、格下、劣等、下賤な国の日本なぞ、おぞましくてたまらなかった。 じゃあ、日本と戦えばいいじゃないかと言われそうだが、戦って勝てない、争いにすらならない。自分たちにひざまづいて仕えていた国民まで、日本に協力するのだから、話にならない。 まだその頃は、対日協力を切望する人間も多かった。清国の奴隷同然の属国支配に、本気で憂い、あるいはカースト的身分制度に我慢がならない有志がけっこういたのである。 もちろん渡りに船と袁世凱は喜び、彼らに資金を与え、内乱の起こし方や日本の補給伝達経路を切断する方法等を詳しく教えた。 「袁世凱様の、包括的かつ将来性のある素晴らしい教えに従い、清国と朝鮮の未来を築く所存であります。」 朝鮮王族使者の大仰な礼をうけながら、袁世凱は絶対勝てる確信をさらに膨らませ、これで日本はおしまいだとにんまりと笑った。 だが、袁は一つ重大な勘違いをしていた。 すでに日本の併合は始まっていて、朝鮮王族の連中も、清国トップの袁とはおおっぴらに会うわけにはいかない。当然大宴会などの目くらましを使い、目立たない(というか巨大すぎてどこでも同じだが)あずまやでこっそり、急いで会って、かなり早足で説明している。とはいえ、これだけ重大事項であるし、詳しく教えた内容が、全部完全に伝わっているものと思い込んでいた。 だがしかし、 『清国語を話せる人間が、清国語を理解しているとは限らない』。 なるほど一応朝鮮王族、それなりに教育は受けている。清国語の読み書きももちろんできる。 だが、知らないことは分かりようがない。 たとえば、携帯電話の電波が絶対届かない、山あいでテレビも映らない、村に電話が村長の所一本しかない。光通信など聞いたこともないという秘境に住んでいて、生まれて初めて東京に出て来た人間に、メールやアドレスやインターネットの話をしようとしたら、一つ説明するのにも一日かかる。朝鮮王族はそういう秘境の人間に近い。 朝鮮王族が日本と争いにすらならない本当の理由は、どうやって戦ったらいいか分からなかったからである、いやそれ以前に戦争する事そのものが全く理解できなかった。 ましてや、西欧の戦術や兵器をいち早く取り入れて、急速に近代化を進めていた19世紀の日本は、300年前と文化も城も軍隊もまるで進化していない朝鮮に、どうにも困り果てたほどだ。うっかり触るとばらばらに壊れる、マッチ棒を積み上げたようなそれが、半島のありさまであった。 国政は階級と礼節(正確にはしきたり)、と言うと聞こえは良いが、完全に決まっている行事や日程や作法を、完全にその通りなぞることだけが国政と思い込んでいるので、それ以外は頭がうけつけない。 朝起き上がる時、身体を起こす奴隷までいたという支配階級の頭は、作法を守るためにあると言っていい。 そういう人間が一番嫌うのが労働や軍事。汗を流したり、暑さ寒さに耐えるなど彼らにとっては『人間のやる事ではない』と、本気で言うのである。そういう『人間のやる事ではない』仕事をさせられている人たちは、日本の大政奉還や明治維新に本気で憧れ、併合後こぞって日本へ留学している。 当然、手足(軍・民衆)がこぞって日本に協力したのでは、頭(支配層)はどうしようもなかった。 そういう支配層の『元』王族、軍事はこれっぽっちも知識が無い。 「1個師団、いや大隊程度でいい、○○と××に配置して、その線を越えたら後ろから強襲させろ。その時周りは・・・」 汗とつばきを飛ばしながら、袁が次々と作戦を説明する。 『シダン?ダイタイ?、キョウシュウ?、郷愁を感じつつ、周りは配置するのか?』 もし、袁が頭の中をのぞけたら、その場でこの男の首を切り落としていたに違いない。 使者は、真面目に聞いている顔つきだけは全く動かさず、頭の中はかなり混乱している。『大人物は軽々しく表情は動かさない』のが連中の鉄則、それを犯すのは身分にかかわるから必死に押し隠す。 かなり分かりやすく丁寧に説明してやったつもりだが、精力的で気性の激しい人間は、どーしたって早口で、『わかってるな!』とついつい睨みつけるような目になる。 「ははあっ!」 と、土下座するノダ・タンケが、まさか一言半句たりとも理解できていないとは、欠片も思っていなかった。 へたに美辞麗句を並べ、恰好だけは一丁前につける連中に、袁世凱も本気でだまされた。 これで日清戦争がはじまればどうなるかは、子供でも分かるだろう。 もちろん、袁もさほど期待したわけではない。半分出来れば良いだろうぐらいのつもりだった。しかし、朝鮮のやらかしたことは、予想の斜め下をさらにぶっ飛んでいた。 『戦争開始までは絶対に動くな』という厳命に対して、『朝鮮の絶対権力を取り返せる』と浮かれ狂った連中は、『清国に先駆けて朝鮮を取り返さねば、清国から仕事をしていないと睨まれる』とまで思い込み、戦争開始前に盛大に騒ぎ狂った。 あちこち焚火程度の放火をし、軍と言うのも恥ずかしいほどの雇い入れたならず者を暴れさせ、呆れた日本軍に即日取り押さえられて、全部白状してしまい、日本の頭の良い士官たちは、ノダらのデタラメな記憶から清国の動きまで察知して、完璧なカウンタークロスで、規模では圧倒的なはずの清国軍に、大ダメージを与えることにまで成功してしまう。 『動くなと言ったろうが!』と袁が激怒しても後の祭り。阿呆な味方は、敵よりはるかに始末が悪いという典型である。 ただ、日本にとってこれが良いことばかりでは無かった。 連中は元々支配層だっただけに、朝鮮内部は裏まで知り尽くしている。ならず者をひきいて真っ先に、『日本に味方した裏切り者』を呆れるほどに殺しまくっていた。 日清戦争後、あまりの血なまぐささにあきれ果てていた日本が、帝国重工の提言を受け入れて朝鮮を見放したのは、何ら無理のない話だったのである。 日露戦争後の袁世凱としては、さすがに日本への恐怖は骨身にしみている。それに信用も理解もできない他国の人間は、朝鮮の二の舞になる可能性が高かった。清国軍の手だれの部隊を、上海などに何度か使ったが、結局彼らも台湾へ向かわせようと命じた直後に、全員消えた。なんで清国国内で彼らが消えたのか、どうしても分からなかったが、さすがにこれ以上手駒を減らすことは避けたかった。 色々考え、袁は黒社会の連中を使う事にした。台湾総督である児玉源太郎とかいう男は、日本の中央政府からもかなり大事にされているらしい。幸い、金さえ払うなら黒社会、すなわち中華マフィアがいくらでも暗殺者を送りこんでくれる。こいつを殺せば、日本は激怒して戦争への火種が起こせるはず。 もちろん、暗殺について何を言われようと、知らぬ存ぜぬで『日本が言いがかりをつけてきた』と内外に宣伝しまくり、日本に敵愾心を燃やす他国から援助を受け、長期戦に持ち込む腹である。さすがに袁世凱の付き合いは広く、いざとなれば裏でそういう協力をしてくれそうな国はいくつもあるのだ。 役人にしろ、豪族にしろ、大商人にしろ、ある程度地位や財産を築いてきたら、黒社会と癒着しないといつ自分が暗殺者に狙われるか分からないのが支那大陸である。ましてや袁世凱ぐらいになると、21世紀の胡錦濤国家主席より権力を握っている。その分いつどこから暗殺されても不思議ではないほど敵だらけ。そのため日本人から考えれば、黒社会との癒着度も常軌を逸しているほど深い。気に入らない相手は金さえ払えばいつでも殺せる便利さは、彼ら支那の支配者達にはありがたい事この上ない。 それに暗殺だけでは無く、暴動を起こす時に人数をそろえるのも、目障りな豪族を領地で一揆や焼き討ちで襲わせるのも、噂を広めて社会的に抹殺するのも、黒社会の連中ほど便利で手早く出来る者はいない。金がかなりかかるのが難点だが、後の世界でもデモや暴動など、大がかりな騒動を起こす時は、黒社会の人間が政権に雇われて手伝うのである。まさに歴史的伝統と言っていい。 だが、最初の襲撃は完全に失敗した。 新月の夜、月の明かりのもっとも少ない闇夜。 ぬばたまと呼ばれる深い闇の中で、かすかな星明りにいくつもの影が、音も無く動く。 その中でも、中心にいる少し小柄な黒尽くめの姿は、分厚いブーツに物騒なナイフを添え、そこから生唾を飲むようなしなやかな脚線美が伸び、優美きわまる腰のラインに無骨なポーチと弾倉を付け、きゅぅっとくびれたウェストにわずかにへそのくぼみすら浮き出ている。 薄いが超弾性防刃防弾素材の真田ラバーは、その高性能に比べ動きやすいことこの上ない。 レオタードとまでは行かないが、それでも女性らしい美しいラインが浮き上がり、胸の大きなふくらみの影に、脇下のホルダーにはグロッグ改1910型拳銃が2丁。薄いが特殊素材のショルダーは、マグナム弾でも弾くほどの強度がある。だが、そのラインに伸びる首筋は、はかなげにすら見えてしまう。 他の無骨な黒尽くめは明らかに男だが、それらがわずかに土ぼこりや小石の欠片を動かすのに比べ、彼女は枯葉の上でも足音一つせず、踏んだはずの草すら折れていない。 男たちと同じ装備を身につけながら、まるで羽が風に舞うかのように、険しいがけも、岩肌も、何一つ動かさず自在に走り抜けていく。むしろ男たちの方が、なにやら必死そうに見えてしまう。 中心の彼女が、右手をわずかに上げると、全員が映像を止めたかのように静止した。60度を超える急斜面であることを思えば、驚異的な動きとしか言いようが無い。 10メートルほど前に、タバコの火がちらつく。 右手が細い小指と薬指を折り曲げ、人差し指と中指が鋭く短く動いた。左手が上がり、カウントするように三本の指を折った。 一番近いところにいた黒尽くめの二人が、すっと音も無く斜面を進み、黒い刃が光すら反射せず、闇を切った。 タバコの火はそのまま、ほとんど動いたようにも見えない。 だが、近づくと、ほぼ同じ高さの枝にはさまれている。 その横には、首がほとんどもげた男が二人、生きているときはさぞ凶暴な顔つきだったのだろうが、自分が死んだことが信じられないという表情は、むしろ道化のように見えた。 黒尽くめの女性の細い指が、『65点』と数字をあらわす。 襲撃した方は、刃を振るったときよりよほど緊張して数字を見て、ほっとした気配が浮かぶ。 全員が音も無く移動し、また二人の見張りがいた。こちらは暗がりの中で、わずかに警戒の気配がする。さっきの二人が三下なら、こちらはかなり腕も良さそうだ。よく見れば、その側には洞窟らしいものを、木の枝で隠しているのが分かる。 黒尽くめの女性が、再び指で合図する。 黒尽くめから二人、即座に襲い掛かったが、大柄な方がわずかに石を蹴飛ばしてしまい、その音にはっと顔を向けられる。腰のホルダーから拳銃を抜こうとして、そのままの姿勢で、どさりと二人とも倒れた。すでに首は大きくずれている。 黒尽くめの女性は、少しいらだったように『42点』と数字をあらわす。 襲撃したうちの大柄な方が、かすかに天を仰いだようだ『オーマイガッ』とでも言うように。 女性の手が、のど元をぐっと押し上げるように動く。 『どうやら胃液の吐き方が足りないようね。』 全員動きはしなかったが、空気が冷えたような気がした。本気で同情的な視線が集まる。明日は再訓練の猛シゴキ、胃液を一リットルは吐かされるのだ。正直これは死ぬほどつらい。大柄な男も顔は見えないが、おそらく涙目だろう。 黒尽くめの方は、日本防衛軍所属特殊作戦群の新人訓練部隊で、実地訓練なのである。 中心にいる女性は、上海駐留部隊別働隊、特殊作戦群少佐にして訓練教官でもあり、準高度AI戦闘特化型擬体、通称“鬼アザミ”こと百合京子である。 上海で情報収集と、清国の不穏な動きに対処していた彼女は、袁世凱の命令の一端を掴み、さらに上海の裏の顔役たちの動きから、黒社会の一群が、北京から上海を経由して、台湾府へと動くのを察知した。 前に掴んでいた命令から、台湾府総統、児玉源太郎暗殺のためだと推測、帝国重工本部も同意見で、即座に対処することになった。 と言っても、彼女の対処は何の用意も必要としない。 『実戦に勝る訓練無し』は、世界共通の鉄則。 特殊作戦群の新人訓練部隊は、常時ローテーションで上海の彼女の元へ来ては、猛烈なシゴキで、胃液をしこたま吐かされていく。猛者ぞろいの特殊作戦群であっても、鬼教官の“鬼アザミ”の名は恐怖の的であり、実地訓練の方が涙が出るほどありがたい。そして訓練の翌日は休日で、きちんとメリハリもくれるのである。 ただし・・・・・彼女の点数『50点』を超えられなかったら、その次の日は地獄確定、たっぷり胃液を吐くまでしごかれる。 黒く細い指が、すばやく指示を出す。洞窟の中で、『どさり』と倒れた音に敏感に動き出した気配がした。 スモークが投げ込まれ、飛び出してきた男たちが足元のワイヤートラップで倒れ、あるいは刃に首を切られ、銃声が鳴り、さらに数人がまとめて飛び出してくる。 鬼アザミは、各員の動きを冷徹に見ながら、洞窟から8メートル近く飛んでそばに着地した男も視界の端で捕らえている。そいつが恐ろしい速さでナイフを抜いたが、動こうともせずに全員の確認をしていた。 だが、抜き終えると同時に右足が、バレリーナの足のようにすっと伸びて、つま先が下から柄を小突いた。 ナイフは強く握るのではなく、すばやく動かして相手を翻弄するように使うものだが、この形で小突かれてはたまらない。 スポッと抜けたナイフの刃が、一瞬抜いた本人の方を向いた。 美しい伸びた足が、瞬間的に縮むと今度は正面へ向けて伸び、柄をそのまま蹴り出した。 鋭い刃が、持ち主ののど笛を突き、後ろまで突き抜けた。 死のバレリーナの美しい動きに、見る余裕のあった者全員が目を見張った。逆に見れなかった者は、本気で悔しがった。 この至高の芸術のような戦闘技術を見た者は、どれほどシゴかれようと、文句を言うものは一人もいなかった。 台湾は元々酷すぎる場所で、支那大陸の大組織『黒流』には、多少つながりはあっても、ほとんど顔見知り程度。影響力が極めて小さい。その上、全土を改良改善に尽くしてくれた日本に、台湾にはびこる黒社会の連中といえど、恩義を感じているほどである。 最初は、日本の統治に反駁し、反抗し、かなり暴れた者も多かったが、誰でもうまいものは食いたいし、病気の心配などしたくない。何より、どんな外道でも子供は可愛い。 子供の死亡率が一気に減少し、社会や流通が改善し、疫病が全く無くなると、まともに働くだけでうまいものを食っていける。病気した子供が助かる。それがありがたくないはずが無い。しかも、台湾にはろくな統治も行われなかった分、カースト的な身分差別どころか、極めて平板な社会構造になってしまっていた。黒社会の連中は、縄張りさえしっかりしていれば、組織の上下関係こそ厳しいが、その他の上下なんぞは気にしない。当時の台湾は、日本的な平面社会に意外になじみやすかった。 そして、最低の場所の最低の連中というレッテルは、思いのほか外道な黒社会といえど嫌だったらしい。日本の名声が世界に広がり、自分たちも最低と言うレッテルがはがれ落ちて、世界に名だたる日本の一角とくると、それに誇らしいプライドがついてくるのだ。 おかげで大陸の大組織『黒流』といえど、台湾の組織は簡単には動かせない。ましてや台湾で大人気の児玉源太郎を殺したいなどと知れた日には、逆に台湾をあげて反抗してきかねない。意外だが、軍隊崩れで黒社会に落ちた者や、台湾総督でありながら各地の親分たちと酒を交わした関係など、児玉に心酔している人間は悪党にも多いのである。 そういう状況で、四面楚歌。黒流が送り込んだ襲撃部隊は、どこかへ溶けたように消えてしまった。 もう一度襲撃部隊を用意しようとしたら、今度は上海の顔役(ならず者たちの親分)たちが、日本を刺激するのは止めてくれと本気で凄んできた。襲撃用の人員を上海で集めようとしたのだが、今の上海は日本と清国がもめごとを起こすと、本気で致命傷となる。 おろかにも清国は、日露戦争で点数稼ぎに日本との国交を断ったが、日本海海戦で日本海軍の壮絶な一方的勝利にひっくり返った。しかもロシア連合艦隊には、戦勝後に自国の戦果と貢献を目いっぱい強調して、有利な条件を勝ち取ろうと、各国虎の子の戦艦群をつぎ込むだけつぎ込んでいただけに、世界中の軍艦数が激減、もはや航路確保の戦力すらままならない。この時代に長期航路の商船をそのまま送り出したら、海賊の餌食である。 崩壊寸前の清国は、深刻なまでの狂乱物価となっていて、護衛の戦艦不足は各国の商船も停滞させ、海上からの物資輸送も恐ろしく滞っている。上海租界(治外法権地区)の各国領事が、泣いて頼んで引き止めた日本企業と日本商船による輸送や価格が適正で、また日本の護衛艦を見ただけで、海賊は死に物狂いで逃げていくほど恐れられていて、上海だけは大儲けなのだが、それが止まったらと思うと、顔役たちは恐ろしくてたまらない。 結果、『黒流』は今回の仕事を降りてしまった。 途方に暮れた袁だが、とにかく日本本国を相手にするよりは、台湾の方がまだましと、必死に調べ上げ、まずは清国の橋頭保を作ることを考え出した。 『日本や台湾が島だからいけないのでアル。だったら、近くに基地となる島を確保し、橋頭保として襲撃をしやすくするべきだ。目には目を、島には島をだ。』 調べるうちに浮かび上がったのが角無島であった。 こうして見ていると、袁世凱はひどく愚かで無能なようだが、それがこの男の最強の武器でもある。 愚鈍な分強靭で、無能な分落ち込まず、種馬的精力は同時にしつこいことこの上ない。実際、支那系の人間はこのタイプのしつこい人間が多いが、その中でも袁世凱は並外れて悪質であった。でなければ、皇帝でもないのに日清戦争敗北の責任を問われてなお生き延び、またも最高権力につくなど、さすがに支那の長い歴史の中でも珍しい。もっとも、それほど人材が底をついていたのかもしれないが。 角無島に財宝伝説があることを知った袁は、わざとそれを清国内にあおった。金に汚い庶民をあおるのは、紙に火をつけるより簡単だ。 台湾で、清国の不法侵入者が問題になる様子を見計らい、台湾府が乗り出してくるタイミングを計る。 「おい、最近李 兼安のやつが、ずいぶん頭に乗っているようだな。俺が儲けさせてやったのに、挨拶に来ないではないか。」 突然邸宅の部下に、最近『挨拶』すなわちワイロを持ってこない大商人の名前を言う。 「はい、3ヶ月ほど来ていません。刈り取りますか?。」 たったそれだけの会話で、別の有力者の方へ近づいていた李 兼安の大邸宅は、おびただしい兵隊に襲われ、本人のみならず一族100人あまりの全員が殺され、一切合財奪いつくされた後、全ては炎に包まれた。袁にとって、大金持ちなどいくらでもいる。いくらでも生えてくる。適当に刈り取れば良いだけだ。 日本に散々な目に遭わされたフランスの在清大使を呼んで、『適当な日本の政治家に、この文章を読ませろ。新聞に載るようにな』と指示した。大金をつかまされたフランス大使は、喜んでそれに従った。その金で、日本の超高級娼館『春香蘭』に飛んでいったのは、さすがに袁も知らなかったが。 それが土壌陀芽男が経済日木新聞に発表した記事だった。 そして同時に、清国国内に同じ新聞記事を載せ、噂話を広めさせた。 『日本が清国の領土を奪おうとしている!、あれは清国の土地、歴史で清国の物であることは明白!。』 何が『明白』なのか分かるほど、まともな頭をした清国人はほぼいない。文字が読めない分、かえって妄想が沸騰する。 ましてや、国が最悪で発狂寸前である清国人たちは、次々ときれた。 半月後、袁の命令を受けた黒社会の先導者たちにあおられ、日本がいる『上海』に、すさまじい暴徒が押し寄せていった。 ガハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ・・・・・ どうせしょっちゅう暴動や一揆が起こっているのである。その一部が日本に向いたからと言って、何も問題は無い。上海が火の海になったからと言って、どうと言うこともない。下品なほど豪奢な邸宅で、袁は窓が震えるほど大笑いした。
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