■ EXIT
皇帝陛下の秘密兵器・3
家柄だけで成りあがったような、ロシア海軍大将のボトノフ・ベルトルグ。先日、この愚劣な権力ボケ老人が頓死してくれたことで、ようやく王宮に朝の平穏が取り戻せたわけだが、このように皇帝陛下といえど、絶対権力者が本当に何でも好き勝手に出来るわけではない。 クリスティのような無敵の秘密兵器や、東洋の哲人吉備真吉備に出会わなければ、怪僧グレゴリー・ラスプーチンにすがって、ロシアの崩壊を招いたのが正史のニコライ二世なのである。21世紀の世界を見ても、奇怪な占い師や、宗教団体にはまる有名人や指導者は数多い。最高指導者の孤高と孤独は、誰にも理解されるものではない。 ただし、普段から宇宙人や空き缶、ドジョウ呼ばわりされる21世紀日本のようなのは、元から指導者などやってはならない人間なので問題外だが。 このニュースで少しだけ、人事や役所に変動が起った。 もちろん、海軍大将が突然死となれば、人事も役所も影響を受けないわけは無い。 「ええと、輪番命令が変更?。今月の番号の変更はあったばかりですよね。」 「そうなのよ、近衛団に抜き打ち訓練の命令が出て、夜番の巡回組み合わせが足りなくなっちゃったの。」 細い黒ぶち眼鏡の事務官秘書の一人メーリアが、疲れた表情でぼやいた。長い薄緑のストレートと、ふっくらした体つきで、けっこうな知的美人。まだ32なのに旦那を亡くし、事務官秘書を務めている女性だ。 侍従長に連絡に来た者は、必ず待機所でお茶を飲んでいく事になっている。 何しろ、部屋を全部つなげると、総延長が25kmにもなるという巨大宮殿。宮殿内部の仕事で、片道3km(45分)などと言う、冗談のような遠距離になる者も珍しくない。休息を入れないと、とてもじゃないが体が持たない。そこでお茶を入れてあげるのがクリスティの役目の一つ。 侍従長は、当然常に皇帝のお側に控えている。皇帝直属となっているクリスティは、極めて近い所にいつもいるから、彼女にとってはやりやすい仕事だ。彼女がこちらに来るときは、侍従長が皇帝のお側にいるし、皇帝のスケジュールは秒刻みで把握している。 そして何より、侍従長への報告が終わり、気が緩んだ者と話すと、呆れるほど何でもぶちまけるように話してくれる。裏事情を探るには、直接の報告を聞くより、この方がはるかに効率が良い。 単なる侍従の一人に過ぎないクリスティだが、彼女にとって愛しいご主人様である、ダメダメ皇帝ニコライ二世のお仕事一切を影から調節し、その渋滞をほぼ皆無にする管理手腕は、このような情報収集も習慣的にやっていることが、大きなウェイトを占めていたりする。しかもそれを、『手のかかる坊やがかわいくて仕方がない』という感じで、嬉々として勤め上げているのだから、手に負えない。こんな人間を敵に回すぐらいなら、トラの尻尾を踏むほうが、まだ助かる確率というものがある。 『なぜこの時期に、近衛兵団に抜き打ち訓練を・・・・・?。』 心中首をひねるクリスティ。しかも、夜番の巡回を命ぜられた部隊が集中的に命令が来ている。 「あのブンドルじじい、ホント嫌な奴よね。」 「えー、あの厭らしいじじいが来たの?。」 「あたしの尻を平気で触っていくのよ、あれで陛下の後釜を狙ってるって言うんだから、笑ワス!」 「笑エル!」 二人はキャハハとかなり盛大に笑った。 ただ、クリスティの灰色の大きな瞳が、一瞬銀色の光を放った。 『なるほど・・・・』 彼女たちの発言を聞くと、えらくみみっちいエロじじいに聞こえるが、ブンドル侯爵という皇帝の伯父に当たる大貴族である。 しかし、身近に来られて、尻を触られたメーリアからすると、実際『みみっちいエロじじい』でしかない。 まあ、そういう人間だから、『類は友を呼ぶ』というか、権力ボケ海軍大将ボトノフとはかなり協力関係が深かった。 今回の抜き打ち訓練も、ブンドルが陸軍大臣たちに、『ボトノフ海軍大将が死んだことで海軍の勢力低下を狙え、陸軍で近衛の訓練を行い、皇帝陛下の注目を集めるべきだ』とかなりごり押ししたらしかった。協力者が死んだとたんに、その協力者のいた海軍を蹴落とすよう、陸軍に進めるというのだから、この男の嫌らしさもかなりなものだ。 以前は、近衛部隊というと、皇帝に近づくための貴族のエリートコースだったはずだが、兵器や戦法の近代化から、銃器の扱いに長け、多様な状況判断に優れた本当の成績優秀な軍選抜者しか受けられなくなり、ハードすぎて高位貴族の御曹司など逃げ出すようになり、このような抜き打ち訓練も珍しくなくなっていた。前の頼りない近衛部隊ならば、へたに訓練の強化などすれば、貴族たちからさぞ酷い目にあわされただろうが、今の部隊ならば訓練には遠慮はいらないのである。 『そういう“搦め手”から責めてくるか・・・。』 長期なら無理だろうが、こういう急な抜き打ち訓練なら、ゴリ押しすれば何とか通る。となればそこに狙いがある。 『“釣り人”が“まき餌”をするのはするのは、魚を釣るためだ。“誰”が“何を”しているかを見れば、目的は明らかだろう。』 真吉備の講義が、クリスティの耳に今でも聞こえてくる。だからクリスティは、自分が何者であるか、全く表そうとしない。彼女は陛下のお側にいられれば、それで全部オッケーなのだし。 ましてや、極めて錬度も高くなって目障りな近衛を、出来る限り減らそうとするならば狙いは・・・。 ちなみに、近衛の近代化と選抜方式が急速に変わり始めたのは、8年ほど前からで、その前年に入ったのが、現在モスグリーンにエプロン姿のメイドさん侍従クリスティである。 クリスティが皇帝専属となってすぐ、近衛兵の選抜に大きな影響力を持っていて、その見返りに莫大なワイロを貪っていた大貴族が、二人続けて頓死している。後釜を狙った貴族が、直後に酒に酔って航行中の船から落ちて死んだため、あまりに立て続けの死にざまに、縁起が悪いと誰も手も口も出さなくなったが、おそらく、偶然・・・・・だろう(汗)。 まあ、あの皇帝陛下では、近衛がもう少ししっかりしてくれないと、彼女も気が気ではなかったはずだ。『足元をしっかり固める』という点で、彼女ほど丁寧で慎重な人間もロシアでは珍しい。 さて、先ほどの『みみっちいエロじじい』こと、ブンドル侯爵。 一応、現皇帝の伯父の一人と言う事になっているが、かなりその血統は怪しく、皇帝選考の時に王室関係者は誰も指示しなかったほどだから、うけもホントに良くない。女癖や素行も悪く、年も50過ぎで、アブラぎったハゲときている。人気は下がることはあっても上がることが無い。しかも、そういう人間に限って、自覚がないというか『自分こそが本当に皇帝にふさわしい』と、冗談では無しに本気で思い込んでいるから始末が悪い。まあ、正史2012年夏の日本でも、そういう人間が与党を組んでいるのだから、あまり言えないが・・・。 先に書いたように、自滅したボトノフ海軍大将は、ブンドルと組んで色々活動していた。ボトノフに王宮に早朝から入れる特典を与え、皇帝陛下とクリステイ達に散々手を焼かせたのも、元はと言えばこの男の嫌がらせである。 元々人気のまったく無いブンドル、頼りない皇帝陛下をどうにか引きずり降ろそうとみみっちい真似を繰り返していたが、最近陛下の落ち着きと評価が格段に上がり、逆に自分の評価は下がりっぱなしで、かなり焦っていた。元々可能性が無いという事は、全く持って頭に無い。 彼と組もうと言う人間はほとんどチンピラのような連中だが、ボトノフは比較的力のある方だろう。それが死んだのは、相当な痛手のはずだ。ブンドルのようなチンケな小物ほど、追い詰められるとどんな馬鹿げた事でもやりかねない。 メーリアが帰った後、クリスティはちょっと小首をかしげる。 そのかわいらしい頭の中には、宮廷を中心としたロシア帝国勢力図の大半と人間関係、その連中と諸外国のかかわり、それにまつわる宮廷内部の噂話と、皇帝陛下の元に届く情報のほとんどすべてがぎっしりと、巨大な国立図書館より整然と収まっている。 もし彼女が、皇帝のおそばで吉備真吉備の薫陶を受けていなければ、その活用能力は十分の一も発揮できなかっただろう。どんなに記憶力が優れていても、整理の仕方や情報の引き出し方が分からなければ単なるテープレコーダーでしかない。真吉備は狙っていたのかいないのか、皇帝に教えるのと同時に、クリスティも鍛えられていたのであった。 ボトノフが死んであわてるブンドルが、チンピラ同然の連中から、ある組織に近づくだろう事まで、宮廷の噂話はひそかにささやいていた。 『だけど・・・、ブンドルは相当なケチで強欲。給金の払いが酷すぎて、メイドや執事がしょっちゅう辞めると聞いてるし。その点ボトノフとホント似てるんだけど、陸軍をゴリ押しとはいえ、動かせるほどの影響力は無かったはずよね。』 ボトノフと縁のあった海軍ならまだしも、陸軍に突然影響力が出来るようなコネは無い。 『とするとあとはワイロだけど、ケチで強欲なブンドルが?。』 ブンドルはもらう方は際限無く欲しがるが、渡す方では死ぬほど嫌がるタイプである。もちろん一番嫌われる。 もらう方ももらうが、渡す方も相手を驚かせるぐらいで無いと、人望など集まらない。 総理大臣まで成ったTという代議士は、ワイロも呆れるほどもらったが、敵陣営だった代議士が、女のことでどうにも金に困ってこっそり相談に行くと、必要な金額の2倍渡してこう言ったそうである。 『前の女のことはきっちり清算して、残りは先で困ったとき(また別れる時)に使いなさい。』 ワイロもここまで行くと芸といえる。もちろんその代議士は、隠れT派となり、絶対にオヤジ(当時のTのあだ名)に味方すると誓っている。 『金に汚い』のと『金を知っている』のは、全く違うのだ。 汚れや悪名を恐れない人間は、大事の時も度胸があるので、まず道を誤らないし安心できる。 だが、恐れて逃げ回る人間だと、大事になるほど理性が吹っ飛び、責任者である事を忘れて役に立たないばかりか破滅へ飛び出す。 ブンドルのような己を知らない人間が皇帝になったら、ロシアは破滅へ一直線だろう。 クリスティが侍従長に、陸軍関係者のパーティ等の情報を尋ねてみると、ブンドルが接近した大臣と中将二人が、盛大なパーティの案内状を出していた。よほどの金に余裕が出来たとしか思えない。 「どこからこんなお金が入ったのかしらね?。」 「私の甥が、西ロシア銀行の頭取をやっておりますが、妙な形の金塊を“あちこちから”換金するように頼まれて、純度を調べたり、相場の金額と換算したりでかなり大変だったそうです。」 あくまで話は、『妙な形の金塊』の話で、誰がいくらと言っているわけではない。だから甥にも自分にも、そして話を聞いているクリスティにも何の関係も発生しない。もちろんこのタイミングで話すなら、ブンドルと陸軍大臣と中将ということはバレバレだが。 「妙な形?」 「カエルや鳥の形をした金塊で、清国で作った物らしいです。」 ちなみに、この換金で侍従長の甥は散々な目に合っている。金塊として換金したのに、芸術性を加味しろだの、純度の調査が不十分ではないかだの、頭取になるほど出来た甥が、『どケチでしみったれのがりがり亡者』と伯父の前で侯爵を思いっきりののしるほど、いじめられたのだった。こういう所が、正史で銀行家たちが政府を嫌い、革命に手を貸した要因の一つだったかもしれない。 「なるほどぉ♪。」 納得がいった、という顔つきで、微笑むクリスティ。 ロシア陸軍にコネを作りたがっている人間は数多いが、今のボロボロの清国で、それだけの金塊を用意できる人間となると限られてくる。 「袁世凱だわね。」 「袁世凱・・・・ああ『ストロング・マン』ですか。」 欧州でも名が売れている清国人となると、『ストロング・マン』とあだ名され、いまや清国をほぼ完全に仕切っている袁世凱ぐらいである。新聞が読める人間なら、たまに見かける名前だからだ。 ほかの清国の人間なら、それだけの金塊を手に入れたら、さっさと国外へ逃げ出すだろう。だが、清国をほぼ完全に仕切っている、つまり一国を手にした人間が、そうそうそれを放り出せるわけが無い。 権力とはそういうものであり、自分が首を切られるまで、いかにしてもその座を降りたくなくなるのである。 ただ、そこまで言って、クリスティを見た侍従長は顔をひきつらせた。 クリスティの笑顔は美しく、声も朗らかだが、そのこめかみには隠しようがないぶっとい青筋。長い付き合いで分かるが、これはかなりの激怒である。 そして、彼女が激怒するときは、必ず皇帝陛下にご迷惑がかかるような難事が起っている。凡人とはいえ侍従長をこなせる彼は、それなりの観察眼はあるつもりだ。 ハラハラした顔つきに気づいたのか、クリスティの青筋が引っ込んだ。 「侍従長、ちょっとご迷惑をかけますが、お願いできますか?。」 もちろん、侍従長は縦に首を振った。腰が頼りない。青筋をひっこめ、猫なで声で微笑む彼女の方が、はるかに恐ろしい。 『バーバ・ヤーガ・・・・』 彼が心中で思わずつぶやいたのは、スラブ系に古くから伝わる、恐ろしい力を持った妖婆の名前だった。日本で一番近いのは『鬼婆』であろうか。恐るべき冬の象徴であり、ほぼ絶対に死なず、細長い臼に乗り、空を飛んで人を喰らうという魔女である。 「用心は、しておくに越したことは、無いわよね。」 さて、二日後の夜。 これだけ広大な宮殿となると、皇帝の寝室だけでも10以上。もちろん暗殺予防のために、毎日変わるようになっている。 部屋が変わっても、近衛の警護は絶対に側にいる。もちろん警護も複数配されている。夜番の巡回路も、皇帝陛下を守るために複雑に組まれている。その配備やコースは、気をつけないと、逆に守るべき人物がどこにいるかばらしてしまいかねないからだ。 部隊はお互いのスケジュールを知らないため、一部が急な訓練で欠けたとしても、その様子は分からないし、知らない方が警護の動揺は知られないですむはずだ。ただし、それが大きく続けて欠けていたら?。 急で大きな変更に、警護も夜番の巡回も、本気で手が足りなくなっていた。 しかもこの広大すぎる宮殿は、へたに巡回路を増やすと、本気で遭難しかねない広さがある。近衛は、出来るだけ警備の穴が少なくなるように、小まめな巡回を心がけた。ただし、その情報がどこかから漏れていたら、そんな配慮も吹っ飛んでしまう。 夜の闇にまぎれて、黒いボロ布を身体じゅうに巻きつけた10名ほどの集団が、コソコソと開いていた窓から入り込んだ。その窓は、内側からあらかじめカギを切断されていて、見回りが見ても閉まっているようにしか見えない。 かなり手だれの傭兵らしく、ほとんど何も言わず、手の合図だけで全員が意思疎通をしている。 本来暗殺ならば少人数が鉄則だが、全員が小型だが強力な弩弓(ドキュウ)を背負っている。弩弓はハンドルを巻き上げて引くため、連射が効かないのが欠点だが、威力はレンガぐらいなら軽々と撃ち抜くし、通常の鎧なら貫通してしまう。警護兵を射殺すためであることは確実だ。 巨大な回廊を、音も無く走りながら、指揮官らしい男が、ちらっと窓の方を見た。頭の中に叩き込んである案内図からすれば、次の次の窓で、警護兵のいる場所が見えるはずである。 だが、二つ手前の窓から、警護兵の姿が見えていた。 『どういうことだ??』 今日は警護兵が立つ部屋が3つあり、彼らの走る回廊の向かい側、ここから3番目の部屋に警備兵と標的の寝室であるはずだった。だが、目の前の部屋にも警備兵が立っている。 情報が間違っていたのか、急な変更があったのか、それとも何らかの情報漏れか。 一瞬の迷いの後、この部屋に襲撃をかける決断をした。 当たりであれば問題は無く、万一標的がいなくても、残りの部屋は二つ。 襲撃と同時に王宮に火をかけ、混乱したすきに逃げだす予定を、ここにいなければ、火災で逃げ出す標的を襲撃するよう変更すればいい。連射こそ効かないが、遠距離を撃ち抜ける弩弓があれば、警護兵や標的は単なる的でしかない。 だが、暗い渡り廊下を曲がり、角から警護兵のいる部屋の方をそっと覗いて愕然とする。 そこには誰もいなかった。全員が驚愕して足を止める。 『先ほどの窓からは、確かに警護兵の姿が見えていたのに、なぜ消えた?!。』 一瞬の驚愕が、彼らを地獄へ突き落とした。 ヒュンッ、ヒュンッ、ヒュンッ、ヒュンッ、・・・・ 背後から無情な飛来音が、彼らの背中や肩、頭に次々と突き刺さった。頭はスイカのように弾け、肩肉はえぐり取られる。強力な弩弓の矢だ。皮肉にも、近衛の警護兵や巡回兵たちも、強力な弩弓を常備している。そして今の近衛兵たちの能力は、厳しい訓練に耐え抜き、極めて高い。 「なっ、なぜだああああっ?!」 10人の襲撃者たちは、見る間に針山のように矢で撃ち抜かれていった。 フランスのベルサイユ宮殿に、『鏡の間』と呼ばれる、名高い鏡張りの部屋がある。 この冬宮殿にも、『鏡の間』と密かに呼ばれる部屋がある。しかしこの部屋には鏡はほとんど無い。 この小さな部屋は、天井裏の隠し部屋で、正式に知る者は近衛やごく一部に限られている。そして不釣り合いに広く、よく磨かれた窓があり、夜になると、遠くに小さな明かりが並んで見える。 この明かりは、宮殿内部に灯される辻の明かりで、それをあちこちに仕掛けてある鏡で反射させ、この部屋の特定の位置にくると、それがずらりと並んで見えるのである。 何しろこの宮殿は窓だらけ、その数実に1945か所。ガラスがしっかり磨いてさえあれば、鏡で反射した光が星の光程度には見える。 宮殿内部の、皇帝の寝所近くを動き回る人間がいると、この光がさえぎられるように鏡を組まれている。並んだ光の一つが消えれば、分からないはずがない。まして真夜中、夜番の巡回兵以外で、この光をさえぎるものがいれば、その位置はバレバレである。全身黒尽くめにしようが、内部の手引きで侵入しようが、回廊に出た時点でキャッチされてしまうのだ。 また、皇帝の寝所の近隣の窓に、何枚か斜めの鏡を組み合わせ、離れた窓からは警護兵が正面に見えたり、正面から見たら誰もいないように見えたりと、奇怪なトリックが仕込まれていた。小手先のトリックのようだが、暗殺は秒単位の時間の戦いである。迷いは最大の敵で、このような仕掛けが組まれていては、成功率はどこまでも下がらざる得ないだろう。 『鏡の間』にしろ、窓のトリックにしろ、ロシア人には時々こういう凝り性の人間が生まれてくる。ファベルジュのインペリアルイースターエッグなど、その凝り性ぶりは驚くばかりだ。 「ふとどき者は捕えたか?。」 「息のあるのが二人います。これから尋問いたします。」 白い皮鎧を着けた、近衛隊長のリラック・マドル・ポチョムキンが、寝ていたとは思えないほどのピシリとした姿で悠々と現れた。燃えるような赤毛で、その衣類も装備もわずかな歪みやシワも無い。何より連絡を受けて10分しかたっていない。位の低い貴族の出身だが、それだけに並々ならぬ向上心の持ち主で、近衛隊長に隊員全員から推されたほどの人気がある。 「皆様、遅くまでごくろうさまです。」 侍従のクリスティが、侍女たちを指揮して、部隊の者たちに軽食と茶やウォッカを配った。襲撃者を撃退したことへの皇帝からのささやかな慰労である。 美人ぞろいの侍女たちだが、中でもかなり小柄で可憐、ひらりひらりとモスグリーンのスカートをひるがえし、細く白い足首や、小さな手の動きは、まるで舞を見ているかのような、優雅さで無駄が無く、ベテラン侍女たちでもその手際の良さにはかなわない。優しげな微笑は強烈で、彼女から直接カップを受け取った近衛の中には、しばらく気を奪われて、受け取ったまま身動き出来ない者までいた。そのクリスティが、リラックにふわりと近寄った。 「襲撃者はおそらく、昨今不穏な動きを見せている社会主義者たちの手の者と思われます。」 「なぜでございますか?。」 ひそやかな声のクリスティの指摘に、リラックは近衛隊長とは思えないほど、丁寧かつ慎重に質問する。クラリときそうないい香りがしたが、それは必死に耐えておく。尋問から出て来た情報は、場合によっては人の目に触れさせられないものもある。このように最初から予測を告げられている時は、なおさらそういう例が多い。そして、最近になってリラックは、この小さなメイドさんのような女性が、侍従長より上にいることを知らされた。 何より、めったに使われない『鏡の間』に数日見張り番を配置するように要請したのは、彼女なのである。一緒に来た侍従長が、よろしく頼みますと頭を下げ、彼の方が仰天している。この要請が、常ならぬものであり、なおかつ、いざ問題が起れば、彼女が全責任を負う用意までしている。それが分からないリラックでは無い。 「ボトノフ海軍大将が亡くなられた影響、と言えばお分かりになるかと。」 位が低いとはいえ、貴族の一員であるリラックは、それだけでボトノフと組んでいた皇帝の伯父の事を思い出し、顔をしかめた。 『まだあの阿呆は、帝位があきらめきれないのか。』 宮廷内のゴシップでは、常に笑い話にされている話題の一つだが、そのために、ロシアをひっくり返そうとする社会主義者たちと手を組もうなどと、やることが粗雑すぎてあきれ果てる。 ただ、どこの世界でもそうだが『おぼれるものはワラをも掴む』である。 無能、無責任な人間ほど、追い詰められると何も考えずに行動する。判断力が無くなってから行動するのだから、そこには『暴挙』という破滅しか残らない。本人だけが破滅してくれるならいいが、あいにくすべてを巻き込んで破滅を引き起こすのが『暴挙』なのだ。 確かに、日露戦争の敗戦後の処理で問題山積みのロシアでは、決して国内情勢が良いとは言い難い。『あの阿呆』は、国内が落ち着く前に、混乱した情勢を、新皇帝のもとで立てなおす、という言いわけぐらいは考えていたのかもしれない。前任者に敗戦の責任を負わせれば、全部自分でうまくいくと思い込んでいる。 しかし、しょせん阿呆は阿呆である。 もし万が一にも、襲撃が成功して、ロシア皇帝が暗殺されるようなことになっていたら、帝国全土でどれほどの血が流れるか想像もつかない。 皇帝そのものは次代が継げば良いだろうが、王宮で暗殺されたなどと広まれば、帝国の権威は失墜し、各地で無数の暴動が頻発する。場合によっては有力貴族が独立運動や帝国打倒を掲げ、あるいは社会主義者たちがこれを機に暴徒を扇動して大きな騒乱を広げるだろう。そして、それを見た周辺諸国は、王宮の大失態をあざわらい、国内情勢の揺らぎに乗じて、一気に帝国の領土切り取りに乗り出してくる。複数の国を交えた大戦が、ロシアの大地で起こることにもなりかねない。 無能な人間の暴挙の恐ろしさに、豪胆なリラックですら背筋が泡立つ。 そしてリラックには伝えていないが、今回の背景には清国の袁世凱がいる。 ロシアの混乱を願っている外国勢力は多い。皇帝のお側に常に控えているクリスティは、その辺の状況や報告を、つぶさに聞いて記憶している。中でも清国の袁世凱は、必死にならざる得ない状況にある。 満州鉄道の伸展状況は、常に報告議題の一つで、地図を使って説明される状況を見ていると、ワイロの代償に差し出された鉄道は、まさに家のカギを開いて、自由に出入りしていい道まで作ったようなものだ。 『清国人って・・・・馬鹿?』 初めて聞いた時は、正直耳を疑った。 『あけておくれ』というバーバ・ヤーガに、扉を開いたら全員喰い殺される。 極寒のロシアで、入口の扉というのは、命を守る最大の砦。ここが壊れたら一家全員凍死する。 そして袁世凱の権力は、中枢である北京近郊に、北伐と呼ばれる軍閥を抱えていること。 それが、今では満州鉄道でどんどんやってくるロシア軍の最前線にいることになる。 まあ、満州鉄道を差し出したのはその袁世凱らしいのだが、そこまで考えると、それにひっかきまわされているこちらが馬鹿に見えるので、クリスティ考えないでおくことにした。 ロシアとぶつかり合いは何としても避けたい袁は、あちこちにワイロを使い、陸軍の動きを鈍らせながら、ついでにロシア王宮のお家騒動と内乱を引き起こさせて、清国に目を向けられないようにしようとしている。出来れば社会主義者たちに革命でも起こしてもらえば万々歳だ。 小物で前後の見境のないブンドル侯爵に目をつけた着眼点は、歯がゆいがねらいどころを心得ているとしか言いようがない。この時代、ワイロを送ることも受け取ることもほとんど罪には成らない。ましてや皇帝を殺してくれと頼んだわけではあるまい。 ただ、日露戦争敗戦直後に、一番騒動を起こしそうな人間を狙って、多額の資金を与えれば、何が起るかは火を見るより明らかだ。 だが熱血漢のリラックなどに伝えれば、下手をすると清国大使館に殴り込みをかけかねないので言わない方が良いだろうと、クリスティは判断する。 そして近衛であっても、皇帝の一族が絡むとなると、慎重に行動せざる得ない。 「くれぐれもご注意くださいませ。」 ダメを押すように警告するクリスティ、『その通りよ』と彼のしかめた顔に同意しているのだ。 いかにクリスティが優れた管理能力を持とうと、表向き実戦能力は全く無いのだから、近衛兵団の力は愛する皇帝陛下の為に必要不可欠である。ほとんど前面に出なかった彼女が、わざわざリラックに警告して、自分の正体を少しでも明かすような事をするのも、その現れだった。しかも、いざとなったら自分一人で全責任を負う気だ。リラックほどの男が、心を打たれないはずがない。 とは言ったものの、 慎重に対応策を練るリラックには気の毒だが、おそらくこの件で彼の出番は無いであろう。 「−−−−−ミノホドシラズガ−−−−−−」 かすかな呟きが聞こえたような気がしたが、それは目の前の少女の声とは思えなかった。リラックは聞き違いだろうと思い込んだ。 可憐な微笑みに誰も気づかないが、クリスティの目の奥には、銀色の劫火が宿っている。彼女の愛するご主人様に、刃を向けた『身の程知らず』を、彼女が許すわけが無い。そして王宮に出入りする人間である限り、彼女から逃れるすべは絶対に無いのだ。 数日後、皇帝主催の晩さん会が行われた。 当然ブンドル侯爵も、何食わぬ顔で出席している。この愚物は、自分は手引きしただけで、何の責任も問題も無い、何より皇帝の伯父に文句など言える者などいないと本気で思っている。まだ皇帝が生きている事にはがっかりしたが、袁世凱からもらった財宝はまだまだあるのでまたさせればいいと、まるで人ごとのようだった。 作られた料理は、次々と皇帝の毒味役がランダムに毒見をし、大貴族の分は、今度はそれぞれが抱える毒味役が調べて、貴族の従者たちが間違いのないよう主のテーブルへ運んでいく。 冷製肉の料理が、香りつけの香料をかけられて出された。ブンドルの毒味役が調べて、別料理の方へ行き、ブンドルの従者が取りに来た。従者は、渡された金属の蓋のついた料理を、そのままテーブルに乗せた。 出て来たのは、鶏肉と野菜をだしの効いたゼリーで寄せた料理だったが、美人で有名なララリア夫人と、色ごとの噂の多いこれまた美人で妖艶なヤガリアク子爵令嬢に挟まれた席で、ブンドルは何を食べたかなど覚えていない。何よりこの時代のテーブルもシャンデリアも、ローソクの明かり。暗いので美人はますます美人に見えるが、隣の席の料理など見えはしない。 侍従長の所には、晩さん会の前に、その日の料理の試作品が並べられる。その一つを使ってすりかえられたのだった。 1時間ほどして、別の料理が毒味役に調べられた。鶏肉と野菜をだしの効いたゼリーで寄せた料理である。だが、従者に渡されてテーブルにのせられた料理は、冷製肉の料理。これはブンドルの大好物の一つだった。 4時間後、ブンドルは自分の館で、激しい腹痛と下痢に襲われた。 おかかえの毒味役はピンピンしていて、毒の様子は見られない。食中毒であっても、毒味役が真っ先になるはずだ。原因不明のまま、医師は急いで下痢止めを処方した。 だがブンドルは高熱を発し、しばらくすると再び下痢が始まった。激しい腹痛と熱に苦しみ悶えながら、次第に下痢は血を大量に含んだ真っ黒なものになっていった。 菌による食中毒は、時間が決め手となる。 作られた直後に、毒味役に厳密に毒味されたその料理(冷製の肉料理)は、ブンドルの分だけなぜか別の部屋に運ばれ、1時間以上暖かい部屋の中でふたをされて置かれていた。 しかし、だれもが、作られてすぐ毒味をし、すぐに従者が運んだと思い込んでいた。 料理人が最後にふりかける香りつけの香料、それに混ぜられていたわずかなある干物は、危険な食中毒菌を含んでいた。だが料理の直後はまったく無害な数しかいない。この時点で食べた人間は、全員ピンピンしているし、食べなければ30分もすると別の料理に取り変えられてしまう。が、汗をかくほど温められた部屋で、料理に混ぜられて一時間もたつと、致命的な数にまで大増殖する。衛生管理の厳しい日本のおにぎりですら、30度で2時間放置すれば、集団食中毒を引き起こすのである。そしておかかえ医師ですら食中毒と気づかないのでは、当然助かりようが無い。 後日、近衛が部隊をひきいて、亡くなったブンドル侯爵の館を調査したところ、かなりの数の金の彫刻や塊が発見された。どう見ても清国製で、社会主義者たちとの関係を証拠立てる手紙や書類も見つかり、王宮としては『清国と社会主義者たちが手を組んで、ブンドル侯爵にワイロを送っていた』という事にした。清国が聞いたら『濡れ衣だ!』と絶叫するだろうが、結果は同じなのだから、聞く耳などロシアは持たない。それに皇帝の伯父が、社会主義者と手を組んでいたなどとは、口が腐っても言えないのである。 そして清国からのワイロだけなら問題にはならないが、反政府主義者と清国が手を組んだとなると、これはもうロシアに対する敵対行為とみなされる。ワイロを受け取っていたブンドルも、この“不注意”には責任を問われる事になり、死者から爵位をはぎ取ることが決定した。 同時に、ロシア陸軍でブンドルと関係した大臣や将校も厳しく叱責され、中将など3段階降格という恥辱の極みを味わう事になる。ワイロでこれだけ厳しい処分は初めてであり、お陰で軍の規律はかなり正されることになった。 「お疲れ様でございます、陛下。」 「ああ、今日はカモミールにしてくれ。少し神経が高ぶっているようだ。」 ハーブのカモミールは鎮静や安眠の効果があり、寝る前に使うと眠りが深くなると言われている。 ハーブティの香りが、部屋を満たし、気持ち良い心地がする。 先ほどの皇帝の御前会議の前に、内務大臣プレーヴェを始め、国家中枢の連中と皇帝は顔を突き合わせ、必死に対応策を話し合っている。正式な御前会議で決まることは、国家の大方針でそれ以上は変えようが無いからだ。 さすがに暗殺未遂のことは、表ざたに出来ない。国家の威信にかかわるし、お家騒動はどこの国でも恥である。 そして清国についても、ここで怒って戦争にするのはあまりに稚拙すぎる。 まだ日露戦争の傷が癒えていない上に、あの金塊紛失事件の問題があり、経済に不安がある以上、うかつに動けない。 今は、戦争につぎ込むより、国内投資で国力を充実させることが最優先だ。 それに、うかつに踏み込めば、『狩り場を荒らされた』と大英帝国などが怒りだして戦争にもつれこまないとも限らない。 各人にお茶と菓子が配され、ニコライの分のお菓子の下の紙にクリスティの丸っこい字で、こう書かれていた。 『気にするから、気が奪われて思考が固まる。時には“離れる”という事が大事ですぞ。思考を高く持ち、大局を見れば、何と言う事は無い場合が多くございます。我が国の英雄の一人、豊臣秀吉が、強敵徳川家康の軍とこう着状態になったとき、大軍の秀吉は、押さえの軍を残して家康を放り出したのです。そして家康の協力者をことごとく撃破し、孤立させて諦めさせました。』 在りし日の真吉備の講義をまざまざと思い出し、ニコライはくすりと笑った。 会議が長引き、煮詰まってくると、時々クリスティはこうして真吉備の講義を書いたメモを置いて行ってくれる。これが、ちょくちょくいいヒントとなり、会議が進み出すことが多かった。 皇帝の笑顔を不審に思ったプレーヴェに向き直ると、 「無礼で無知な清のやからなど無視せよ。我らは満州鉄道を中心に、これまで通り拡張と統制を続けていけばよい。清から無礼の代償を、一枚一枚皮を剥ぐように剥ぎ取れ、情け容赦なく剥ぎ取れ。きゃつらはそれこそが一番してほしくないことである。もし我らの前に、立ちふさがろうとするならば、今度こそ我がロシアの恐ろしさを、愚劣な清国人達に骨の髄まで教育してやるがよい。」 すがすがしいまでに、大局を見すえた皇帝の意見に、感服したプレーヴェは、その場で深々と頭を下げた。 それは、そのまま先ほどの御前会議の決定事項となった。 以後、清国大使や、清国からの国書は全く顧みられなくなり、表面的な儀礼だけの物に成り果てる。 清国に対するロシアの浸食は、止まらなくなった。 とはいえ、元々さほど線の太くないニコライ二世。 御前会議が終わると、ぐったりと疲れていた。 ハーブティを置くと、イスからいびきが聞こえて来た。 カモミールの香りが、気分を和らげ、眠りに引き込んだようである。 優しげに微笑みながら、そっと軟らかい上掛けをかけて、公務を少しキャンセルするように侍従長に連絡する。 よだれを垂らして、ぐっすり寝ているニコライの側に寄り添いながら、クリスティは幸せな静けさにひたっていた。
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