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皇帝陛下の秘密兵器


 遠くには黒々とした海を望み、石造りの城かと思うような巨大な邸宅や、それをはるかに超えるロシア正教の美しい教会が立ち並び、おびただしい運河が都市の中心部を縦横に走っていた。大貴族の使う4頭馬車がいくつもすれ違い、赤ら顔で大柄な体格の人々もどこか嬉しそうに、活発に歩き、動き、働いていた。冷たい身を切るような風も少しだけ緩んでいる。

 ようやく氷に閉ざされた海が、その海面を露わにし、海路が開かれておびただしい船が慌ただしく、殺気立つばかりにいきかっていた。


 5月、ロシア帝都サンクトペテルブルクには、短く輝くばかりの春が来ていた。。


 ロシア西部、バルト海のフィンランド湾最東端にあり、ロシアという大国のもっとも深い位置に開いた港町。

 この地の重要性は、歴代ロシア皇帝が長い冬の玉座として、冬宮殿と呼ばれる白亜の大宮殿を作り愛したことでもわかるだろう。ちなみに現代では、『エルミタージュ美術館』と呼ばれている。


 ロシア人のこの都市の愛し方は度外れていて、冬は海が凍り港が氷に閉ざされるにもかかわらず、市中心部に運河が縦横に巡る美しい街並みを作りあげ、「北のヴェネツィア」と称されるほどだ。ロシア有数の世界都市、港湾都市であるとともに、鉄道・国際航路の要衝でもあり、現代でもモスクワに次ぐロシア第二の都市である。


 さて、その冬宮殿ことサンクトペテルブルクの王宮。


広大で豪奢、華麗なロココ調の大建築物は、そのサイズを想像するだけでも骨が折れる。

総面積は46,000平方メートル、部屋をつなげるとのべの長さは約25km。建物内部には、1,786のドアと1,945の窓がある。

 日本の20世紀末ごろからはやったRPGは、マッピングと言って、ゲーマーが地図を作っていくことから始まったが、もし、この宮殿を元にやろうとしたら、地図を作り終える前に間違いなく気が狂う。


実際、中に勤める女中や近衛兵といえど、自分の管理する区画以外にはまず行けない。 よほど宮殿の内部に精通する人間でない限り、一度迷ったら運よく誰かに巡り合わないと、遭難しかねない広さなのだ。


 そして、サンクトペテルブルグの宮殿の中では、『比較的』小さめな会議室。


 足首まで埋まるじゅうたんが敷き詰められ、巨大な黒塗りの磨き抜かれたテーブルは、そのまま演劇の舞台に使えそうな広さがある。回りには、勲章や階級章などをじゃらじゃらつけたキラ星のごとき大貴族や大臣たちが、20名ほど席についている。部屋の向こう側の出入り口には、2メートル近いはずの巨体の近衛兵が、人形のように小さく見えていた。

 そして一段高い所にしつらえられた、黄金と象牙の玉座。

立派なひげを生やし、難しい顔でどっしりと座るその人こそ、この宮殿のただ一人の主であり、大ロシアの運命を決める皇帝ニコライ2世である。



 小柄なモスグリーンの姿が、そっと歩み寄った。


「陛下、そろそろ休息のお時間でございます。」

「うむ、もうそんな時間か。フェンデルン、今の議題については、休息後とする。」


大貴族や大臣たちが、一斉に頭を下げた。
優雅に立ち上がり、堂々と退出する皇帝を最後まで見送り、ようやく貴族や大臣たちは席を立った。


 皇帝の仕事は数々あるが、もっとも重要であり、かつ一切の取り決めが無い仕事の一つが、宮廷の時間管理であった。

皇帝の行動に、宮廷全ての機能がついていく。
皇帝の時間こそ、宮廷の時間であると言っていい。

できればロシア全土の時間ともしたいところだが、あまりに帝政ロシアは広すぎる。
西と東の端では、時差にして実に12時間。とてもじゃないが、巨大すぎて手が回らない。



『さすがは我が皇帝陛下じゃ、決断に迷いが無いのう』
『日本との戦争で、また一段と凄みを増してこられた』
『これなら、ロシアの傷も早く癒える。他国に付け込まれる隙が減るぞ』


 ものすごい評価っぷりだが、その前の評価は忘れたのかと言いたいぐらいだ。

 以前の大貴族たちは、ニコライ二世を『そうせい陛下』と呼んでいた。
 何か言われると、『そうか、そうせい。』と言うのだが、別なものが強く意見を言うと『そうか、そうせい。』で、ものごとが決まらない。
 この陛下、比較的気の弱い常識人で、頭も悪くは無いのだが、皇帝としては駄目人間。正史の歴史の評価でも『家庭的な人間だったが、皇帝としては資質に欠ける』とはっきりダメ出しをされてしまっているぐらいである。
 結果、声の大きなものや執拗な人間の言う事が通ってしまい、みんなやる気を無くしてしまうのだった。
 ところが、日露戦争開始前後ぐらいから、見る目が変わってきていた。皇帝の決断を仰ぐことが増えてくると、対日戦の敗北後の責任のなすり合い、ドロドロの泥沼状況を、さっさと処断し、判断し、決断する。

 元々日本びいきであった皇帝だけに、戦争推進派の貴族たちは恐れおののいていたが、敗戦後はそれについて特別責めることも無く、責任分きっちり文句もつけようが無い処分と仕事を決められ、

『この(敗戦後の)処理こそ、わがロシアの未来を決めるのだ。皆の一層の努力と奮起を期待する』

思わず全員が拝跪するほどの威厳を持って、会議をまとめていた。



 本来の歴史であれば、日露戦争の長期化でロシア国内の治安や物価、内政等の混乱がひどくなり、責任のなすり合いから分裂状態になった隙に乗じて、共産主義者たちが革命運動を起こすのだが、ロシアは海軍こそ根こそぎやられたものの、陸戦での死傷者が正史よりはるかに少なく、国内の影響も比例して少なかった。

 しかも、仲が極めて悪い大貴族・中枢政治家たちが、ロシア中央銀行の金970tあまりの消滅というとんでもない事態に仰天し、必死に協力せねばならない事態に追い込まれているのも、国家の安定に一役買っていた。(もちろん金を消滅させたのは日本である)

おかげで共産革命はなかなか進まない状態になっている。


 もっとも、今の状態で共産革命を成功させたとして・・・、

中央銀行の大金塊が全部きれいに消え失せている状態では、
共産革命直後、ソビエト連邦は生まれてすぐに、

破産勧告 → ルーブル暴落 → 年間200%以上のハイパーインフレ → 国内経済崩壊 → 欧米各国あおりを喰らって第一次世界大戦

という大混乱に陥ることは間違いなさそうだが。




   静かな一室で、皇帝は服を変え、もう少しゆるやかな形のイスに座った。
 お気に入りの侍従が入れたロシアンティーが、ふくよかな香りを立てる。


 重大な案件が並び、神経の疲れる毎日が続いている。このような気を休める時間は、必要不可欠なものである。時には、馬場へ出て馬を飛ばし汗を流すことも多い。

 だが、皇帝の体調を良く見ている侍従は、皇帝が言わんとする事を先に判断し、的確に用意をしている。

 ふと、添えられていた菓子の味が、昔の記憶を呼び起こした。

「この香料は、チュメニ州で取れるものだったな・・・。そういえば、チュメニではお前もいたな。」
「はい、あれから9年目になります。5月24日、火曜日の温かな日でございました。」

 銀の鈴を振るような涼やかな声に、年月はもとより、曜日と天候まで添えて説明される。皇帝の表情がふっと優しく緩んだ。

 腰の前で手を組み、静かにご命令を待つ小柄な姿は、まるで森の妖精が現れたかのようである。

 豊かな波打つ栗色の髪に、少したれ目気味の大きな明るい灰色の目は、とても優しげだが、光の加減で神秘的な銀色に見えることがある。ハッとするほど白い肌に、知的な広い額、小づくりの可愛らしい顔にわずかにそばかすが散っているのがご愛嬌だ。かなり小柄だがスタイルは良く、腰のくびれ具合など芸術品のようである。  モスグリーンの長いスカート、同色のシンプルな長袖の上着に真っ白いカフス、すらりと細い脚は白く薄いガーターをはき、黒いワンベルトで品の良く動きやすい靴。大きな真っ白いエプロンをかけ、それが髪を止める白いフリルのついたカチューシャとぴったり合っている。ぶっちゃけて言えば、ちっちゃくて恐ろしく可愛いメイドさんだ。

 侍従と言うと、高貴な方の身の回りの世話をする人と言う意味だから、メイドさんでも構わないのかもしれないが、あまりに可愛らしすぎると、別な意味合いを感じない男はいまい。ただ彼女の場合、父が病死して農奴に落ちた家族の子供で、憐れんだ領主から利発さを認められ、『男の子の』侍従見習いとして運よく王宮に雇われたのだったりする。日に焼けて黒く、あまりに痩せてガリガリだったため、最初は誰も男の子としか思わなかったそうである。

 14歳からニコライ二世の側に仕え、すでに23歳になるはずだが、異様に若作りなせいか、いまだに15,6歳にしか見えない。

 その容姿から、皇帝の周辺にいる大半の貴族や大臣たちは、単なるメイドの一人としか見ておらず、側にいても人間としてすら認識していない、つまりいることすら気づいていない。まあ、貴族の対人感覚はそんなもので、貴族以外は人間扱いされないが、お陰で彼女がいても平気で機密でも何でもしゃべってしまうのだった。唯一ロシア宮廷一の切れ者であるプレーヴェ内務大臣だけが、彼女の事に気付いているだけだ。

 しかし、この驚くべき記憶力もあって、皇帝は侍従を常に側に侍らせていた。この記憶力一つとっても、これほど恐ろしい付き人はいない。この記憶力の前には、どのようなごまかしも通用しない。浅はかなウソや陰謀も、まず間違いなくさらけ出されてしまう。あのプレーヴェですら、彼女の事に気づいていても、いろんな意味で恐れて近づかないほどだ。

「ああっ、陛下その部屋着は外出用のシャツでございますよ。もう服係のシャンタったら、あれだけ言ったのに、まだ覚えきれていないんですね!。」

「そ、そうか?。さほど気にはならないんだが。」

「駄目でございます、赤の縞がはいったシャツなんて、部屋で着るものではございません。」

いやはや、この陛下のダメっぷりは未だに変わってはいないようである。

「あの方も、陛下の身を案じて、急ぐ旅をおして長くお側にいておられたのですよ。もう9年目なのです、しゃっきりなさってくださいませ。」

情けない顔をして、頭をかく陛下に、

「その癖も早く治して下さいませ。皆の面前でそのようなお姿を見られたら、権威が墜落します!。」

侍従のヒステリーに本気ですまんと謝る陛下、これではどっちが上だか分からない。



「もう、そんなになるか・・・・ラス・プーチン(道をさかのぼりし者)と会ったのは。」


 皇帝がラス・プーチンと呼ぶ人間の要望が、侍従の脳裏に速やかに浮かぶ。

 黒々とした髪をし、太い縁の丸眼鏡をかけ、体格の大きなロシア人から見ればちんちくりんの小男でありながら、その相貌に宿る光の強さは見る者を圧し、大きな口から出る太い言葉は、聞く物の耳を強くひきつけ、その髪の下の頭脳たるや、恐ろしいまでの深さと広がりを示して、大ロシア皇帝すら魅了した『日本人』。


 『ちょっとまて!』と言いたくなる人もいるだろう。


 もちろん正史にもこの名前は出てくる。そちらはこの時代のロシア宮廷を這いまわり、ロシア帝国崩壊の一因にまでなった、様々な伝説を残した怪僧である。
 本名はグレゴリー・ラスプーチン。祈祷でアレクセイ皇太子の症状を治め、皇后はじめ宮中の貴婦人や、宮廷貴族の子女から熱烈な信仰を集め、その原因は超人的な精力と巨根によるという噂が当時から流布しており、実際に彼の生活を内偵した秘密警察の捜査員が呆れはてて、上司への報告書に「醜態の限りをきわめた、淫乱な生活」と記載するほどであったという。もちろん最後は暗殺されている。


 ただ、この歴史では日本艦隊のタイムスリップの影響で、様々な異常が出ており、登場すべき人物が消えたり、死ぬはずの人間が元気でずっと活躍したりと、歴史の変更があちこちで並列的に起っている。この時代のロシア宮廷には『グレゴリー・ラスプーチン』と呼ばれる怪僧は現れていない。その代わりかどうかは知らないが、ニコライ二世が『ラス・プーチン』と名付けた日本人が現れている。彼の本名は吉備真吉備(きびのまきび)という、世界を歩き回る若き探究者であった。

 チェメニ州の田舎道を、南から北へのしのしと歩く姿に、思わず皇帝が興味を持ち、その目の輝きに言葉をかけた男。ロシア人は、北から南へと目指す本能に近い感情がある。だが、彼は南から臆することなく北へと向かって歩いていた。ニコライ二世は彼を気に入って側に置き、話し相手に数か月にわたってひきとめた。

「でも、ほんっとうに興味深いお方でした、吉備真吉備様は。」

いそいそ、嬉々として陛下の乱れた髪や服を整えながら、彼女はつぶやいた。

その様子、侍従と言うより母親のようなありさまだ。

ロシア皇帝のお側にいて、無数の人間を見て来た彼女からしても、あれほど強い印象を残した人間は、いろんな意味で主たる皇帝陛下以外には居なかった。



 1896年、ロシア帝国、チュメニ州。

 ろくに医者もおらず、『医療』の代わりに『まじない』が幅を利かせるロシアの東部である。
(正史のグレゴリー・ラスプーチンも、まじないで病気を治すという祈祷僧であった。)

 帝国重工の出現後、凄まじいばかりの日本の大変革を見て、胸のたぎりを抑えきれず、世界を見るべしと日本を飛び出した真吉備は、よほどの強運なのか、悪魔とでも手を組んだのか、平然とロシア国内に現れていた。

 親切に泊めてもらった村人に、ちょっとした医療を施してやったのだが、帝国重工製の医薬品が『奇跡だ!』とまで言われ、神のごとく崇められた。その評判は、帝国内を保養のため旅行していた皇帝ニコライ2世の耳に入っていた、そこでたまたま道で見かけた彼を拾いあげることになった。

 もっとも、皇帝の耳にまで入るということは、気に喰わないと見られれば、その場で斬首される可能性もあるのだから恐ろしい。

 皇帝に拾いあげられた彼は、当初、その印象的な容貌と、大柄なロシア人に比べて、ちんちくりんの小柄な姿が面白がられた。そして、意外なほど女性に人気があった。また彼は子供好きで話し上手だったため、人見知りする子供すら彼には懐いて話を聞きたがった。アナスタシヤ大公妃やアレクサンドラ皇后まで子供たちに引っ張られて接見し、彼の小柄な姿に気を許してすっかり打ち解けて話をするようになった。

 アレクセイ皇太子の症状から、血友病の症状緩和と体力回復に、朝鮮人参の服用やレバーを取り入れた食事を薦め、その体調を非常に良くし、軽い感染症は抗生物質で治したため、絶大な信頼を置かれるようになった。

 しかし何より、ニコライ2世は、全くものおじしない彼のずうずうしいほどの図太さを面白がり、凄まじいばかりの頭脳と知識、そして哲学に非常に感銘を受けた。様々な国内外の問題を論じれば、面白い意見が次々と聞ける。日本の風俗や歴史を聞けばこれまた面白く、勉強になる。下世話な話も実に自由自在で、女性談義からグルメ論争まで、話のタネが尽きない。

 ただ、その間にいろんな伝説が生まれてしまい、侍従は噂の打ち消しに躍起にならなければならず、かなり手を焼いたらしい。

『真っ赤に酔っぱらった陛下が、下手くそな歌を歌いながら小さな男と踊りまくっていた』
『侍女たちを集めて、じゃんけんをしながら大騒ぎをし、素っ裸にされてた』
『ソバを麺にしてみて、あまりに美味しかったので、食べ過ぎて寝込んだ』その他etc

・・・・・あまりにしょーもない噂なので、逆に本気にする人はいなかったが。


 ニコライ2世は彼を寵愛し、生涯手元に置きたがったらしい。

 どうしても手放してくれないことを悟った真吉備は、置手紙を置いて逃げるように王宮を後にした。

 皇帝は、出会った道端の光景を思い出し、ラス(逆から)・プーチン(道を来た者)という愛称を自ら考えてつけたほどだ。当時、温かい南へ向かう事はロシアの悲願であり、逆に南から来た彼は、それだけ印象が強かったのだろう。



「あれがおらなんだら、今日の会議もはるかに面倒で、困難なものであったろうな・・・。」


 皇帝が思い返す言葉は、ひとり言であり、侍従はあえて聞かないふりをして、静かに茶器を片づけていく。 
 事実上の敗戦とはいえ、予定されていたものであれば、ショックも苦労も少なくて済む。ましてや、ラス(真吉備)と、散々語り合った検討済みの事項であれば、なおのことである。


『日本とロシアが戦争になったとき、勝敗はつけがたいでしょう』

と食後のお茶を楽しみながら、のんびりと真吉備は忠告していた。つけがたいという言い方は、皇帝に対する遠慮で、実質は敗北と取って間違いは無い。ニコライもその程度の気遣いは、学んできている。何より、日本海という極めて大きな障壁がある。朝鮮半島すらあっさり譲り渡した日本が、わざわざ負けるためにロシア側に大きく出てくることは考えにくい。

しかし、それ以上に、


『しかし、好戦派と嫌戦派で争い続けることは、化膿した傷をほっておくようなもの、いずれロシアの致命傷になりえます。』

 この言葉をちょっと意味ありげな目線で語るラス。 皇帝からすれば、道下のピエロにからかわれたぐらいの気分だ。

 ただ、短期に勝利をおさめることがまず不可能な戦争では、身内の争いが致命傷に発展する可能性はかなり高い。ロシアが抱える膿んだ傷、それもかなり厄介なそれが、世界の列強たちにも良く知られていて、それを利用される可能性が高いことも理解している。いかに大国ロシアといえど、他国と戦争をしながら、内戦を行うなど愚かの極みと世界中に嘲笑されかねない。


『さてさて、我が尊敬するロシア皇帝は、この傷をえぐり膿を出す勇気がおありで?』

 彼の目が、ロシア皇帝に面白おかしく語りかけていた。

 ヨーロッパの皇帝や王者は、自分のそばに、役職は持たないが気分転換や客観的視点を持たせるための道下者を置き、笑いやユーモア、そして自分自身を見直すための道具として自由にさせておく風習があった。

 時には皇帝や王者の言動までもからかわれる事はあったが、それをいちいちとがめだてしては自分の品位も下がるし、何より自己反省する材料が無くなってしまう。


「おまえは気軽に言うが、下手をすれば自国が我がロシアに蹂躙される事になるのだぞ。」

 外交官あたりが言われたら、真っ青になりそうな言葉と重さだが、ラス(真吉備)はニヤニヤ笑っている。


「ロシアにすら蹂躙されるようであれば、いずれにしろ世界の列強の餌食になることは目に見えております。」
「ロシアにすら?」

 ギロリとニコライがにらみつける。即座に『不敬である、首を跳ねよ』と命じても不思議ではない。

「海を越えて日本に攻め込むには、ロシアの主力艦隊無しには不可能です。そしてロシアの主力艦隊は欧州にあります。そこから地球を半周以上、無理を押してやってくる部隊に敗北するようであるならば、その最中にインド洋や東アジアに多くの艦隊を展開する各国が、我先にと先に乗りこんで、日本を食い散らかしてしまうでしょう。」

「うむむむ・・・」

 戦争となると、『漁夫の利』つまり負けた方の国を、さっと荒らして利益をかすめ取る、こすからい国も珍しくない。清国のどうしようもない凋落で、日本の周辺には、そういう国の海軍がうようよいる。たとえロシアが戦って優勢になったとしても、そうなっては、何のために戦ったか分からなくなってしまう。ロシアは大恥をかき、皇帝は面子丸つぶれだ。


『それに、止めるに止められない状況になってしまっておりますし。』

 うって変わって、気の毒そうな口調が混じる。

 威厳ある皇帝の表情にも、ほんの少し苦いものが混じる。これについては、以前彼から聞いていた。

 ロシア国内に、アジア人を軽視する風潮が、かなり広がってしまっているのだ。これに勢いづく戦争賛成派に、反対派は旗色が悪かった。皇帝本人も日本びいきで、日本との戦争は好ましくなかったが、現在のロシアの制度では、軍部を押さえつけるのには限度がある。

 しかも、それは日本が朝鮮半島を売り渡したことから発しているのだ。


 何にでもプラスもマイナスもある。プラスだけ、マイナスだけ、の行動も作戦も計画もありえない。『神あらば悪魔あらんがことわりなり』と言う言葉もある。

 日清戦争後に朝鮮半島をみはなすという日本の大技は、歴史に残る大政策であり、名案である。だがしかし、それですらもマイナスは必ず発生する。


 正史で言うなれば、旧国鉄を潰すという、国家の存続に絶対必要不可欠な政策であっても、多大な犠牲を払い、今日にいたるまで『身分回復』つまり国鉄という『特権階級の復権』を泥沼のように執拗に訴える人間がいる。郵政省という、国債を膨張させ続ける国家の致命的ガンを潰しても、そのガンを未だに復活させようとあがく人間がいて、政策すら転換させようとする。
マイナスの起こらない事は、この世界にはありえない。


 さて、ここの事情を説明してみよう。


 『日本が朝鮮半島を見捨てる』ことで、朝鮮のごく一部の支配層は、『野蛮な日本支配から逃れられる』と有頂天になった。
 常に、大国にすり寄って、『その下に服従する代わりに、大国の権力を利用して甘い汁をすすり続ける』ことは、朝鮮支配層の究極の願いと言っていい。朝鮮の基本的な思想は、いかに汗水流すこと無く、楽して、働かず、利益だけを永遠に得られる社会構造なのである。当然彼等にとっては、ちっぽけな日本相手では、利益を得られる巨大な権力など無いので、当たり前に働かねばならず、それを下々の奴隷にまで教育しようとする日本を、本気で『野蛮』と忌み嫌っていた。ロシアは清国の代わりとなれそうな巨大な国であり、これまで通り、貢物をして足元に伏してさえいれば、地位を守られ、奴隷どもを働かせて利益を得て、楽して暮らしていけるはずであった。

 一般朝鮮人の半数は、わけも分からず浮かれ騒いだ。

 そしてごくごく一部の、頭のまともな人間たちは、絶望した。自殺した人間もかなり出た。自殺しなかった人間も、親日派と言う事でリンチされて殺された。殺された後、財産は全て略奪され、家族は奴隷に落とされた。優秀な人間から先に真っ先に死ぬ、殺される、リンチする。この国のことわざに『水に落ちた犬には石を投げろ』。こんな国に生まれたら悲惨である。


 朝鮮にとって不幸というか、無知というか。日本は朝鮮半島の利権を正当な値段で取引して、半島から一切手を引いただけなのだが、問題は買った方のロシアが、皇帝の個人財産でポンと買ったと言う事だった。こんなことは、世界情勢にまるで知識の無い大半の朝鮮の人間には、想像すらつかなかっただろう。言ってみれば、元朝鮮半島は、国家の一部に組み込まれたのではなく、皇帝の完全な個人所有財産になってしまったのである。国連など無い時代だ。買った以上、所有権は全てロシア皇帝にある。

 このような公的支配を受けない土地を、『荘園』と言った。まあ、皇帝なので多少は公人の部分もあろうが、何しろ絶対権力者。その支配力は想像できるはずもない。  要するに、皇帝の別荘の一つであり、所有者の楽園、娯楽施設、パーティ会場と言っても矛盾しない。

 ここで考えてほしい、自分のパーティ会場に、見知らぬ貧相な外国人がウロチョロしていたらどう思うか?。

 ましてや皇帝陛下の所有する場所である。射殺されても文句も出せない。


 正史をさかのぼること13世紀。
モンゴルが世界的大帝国を築いた時、朝鮮半島にはそのごくごく一部一軍が押し寄せた。

しきたりや慣例に合わない事に、反論しようとした朝鮮からの使者は、その場で首を切り落とされた。

使者はモンゴルが支配者であることを、認めないように言葉を歪めようとして、モンゴル軍の司令官に『愚か者』と笑われながら首を切られたのである。

ちなみに『首を切り落とす』と言っても、日本刀のような『鋭い刃物でスッパリ』はかなり文明が進んでからで、使者たちは分厚い出刃包丁のような刃物で、泣き叫びながらゴリゴリ押し切られることになった。


それでも朝鮮王族たちは、儀礼で形を作り、対等の立場にあるように演出しようとした。

対するモンゴルのやり方は単純だった。

殺到して丸ごと殺戮し、火をかけ、略奪し、縛り上げた。
役立たずは選別して皆殺し。
労働を嫌悪し、モラトリアムで寝て過ごすのを理想としていた朝鮮の男は、7割が殺されたと言われている。
役に立つ人間、モノを作れる人間は、生かして働かせた。
女は犯され、王族の姫君から奴隷の娘まで、等しくモンゴル兵たちの子供を産みおとした。



 だが、『元寇の方がましだった』と、20世紀の朝鮮王族たちは死ぬまで後悔した。もちろん手遅れもいいところ。

 ロシア軍を喜び勇んで迎え入れた親ロシア派(と本人たちが思っていただけだが)の王族たちは、即座に全員古い城跡へ押し込められた。

 連中が莫大なワイロを渡そうとして、皇帝直属の調査官たちは激怒したのだ。

「この半島の財産は、すべて偉大なるロシア皇帝の所有物である。それを勝手に持ち出し、ワイロにしようとはどういう魂胆だ!」

 ワイロを差し出した王族の一人は、その場で射殺された。その者は最後までその意味が理解できなかった。

せめてこの時、全力で抗議するか、全国で必死に抵抗していれば、まだ何とかなった可能性もあったのだが、自分から入口を開いて歓迎してしまっては、どうにもならない。



 童話『三匹の子ブタ』で、子ブタが狼に家を開いたら、どうなっただろうか?。



ロシアは即座に行政官僚たちを捕縛し、働かせた。
地図、人口、産業、ダムや道路などの社会基盤、朝鮮と言う半島の価値を徹底的に洗い出させた。

産業、農業中心極めて効率悪い、かんがいやダム等の水利極めて低レベル。
人口、1500万程度
社会基盤、無し。
文化教育、奴隷制度中心の極めて低レベル。

行政調査に乗り込んできたロシアの官僚たちは、調査報告にあきれ果てた。

『アジア人はレベルが低いとは思っていたが・・・』
『我らも農奴制はしいているが、もう少し産業があって当たり前じゃないか?。』
『ここの風俗や習慣は理解できん、怠け者しか生まれないぞ。』
『産業も使い物にならんな。こいつらには何かするだけ無駄だ。』

せめて有益な産業や、技術があればもう少し慈悲もあったかもしれない。
だが、基本働くことを恥とする人種に、死に物狂いで働かないと凍死する国は、怒りすら覚えて処理した。


 そして、現地人たちを駆り立て、必要な道路や水路、ダムなどの最低限の社会資本整備をやらせた。これがまず彼らの文化基盤を根こそぎ破壊することになった。

『ロシアの仕事をすれば飯が食える。』

 皇帝陛下は、現地人を働かせて整備をすると聞き、『せめて食事ぐらいは十分にとらせてやれ』と命じた。ただ、その後のことは気にも留めず、忘れてしまっている。さすが大ざっぱなロシア人。後に半島の現地人が居なくなっていることは、真吉備に言われるまで気もつかなかった。

 たらふく飯が食えるという噂が流れ、奴隷階級の人間たちは支配地主から次々と逃げ出していく。取り返そうにもロシア相手には何一つ出来ない。文句を言ったら首が飛ぶ。労働力を全て奴隷に頼っていた支配地主たちは、あっという間に没落した。

 たとえ財産があっても、守れなければ何にもならない。

 奴隷階級は同時に、支配層の武力でもあったのだ。奴隷を失ったとたん、殺され身ぐるみはがされた地主は数知れない。


 当然、朝鮮全土に反ロシア騒動が起こったが、これはロシア軍を喜ばせただけだった。反抗する者を打ち倒すのに、何の遠慮もいらないからである。彼らは皇帝陛下の荘園を作成するための部隊であって、余計な害獣は何のためらいも無く処分する。

 ロシア極東軍は喜び勇んで朝鮮全土へ向かった。このような事態の殺戮、略奪は当然のごとく皇帝陛下から認可されている。食料や給金は安くても、兵たちは発奮するからだ。

 満州鉄道で次々と津波のように押し寄せる15万のロシア軍の前に、農民と支配地主たちは虫けらのように殺され、焼かれ、奪われ、女は奴隷として数珠つなぎにされて引きずられていく。

 悲惨なのは、1か所どこかで騒乱や騒動が起これば、その周辺数十キロにわたって、舐めるようにロシア軍が蹂躙していく。理由などどうでもいいのである。ただ殺し、奪い、犯し、火を放ち、略奪する。

 まあ、地元民からすれば、支配地主の命令で、一揆か何かのつもりで鍬やカマを持って集まってみれば、地を覆うようなロシア正規軍が、地滑りか土石流のように押し寄せてくる。見ただけで腰を抜かし、逃げまどうのは当然と言えば当然だろう。

 その上、ここは地域ごとの縄張り争いや階級闘争が激しすぎて、逃げて来た人間を襲撃する。
ロシア兵にその連中を突き出し、自分たちの有利になるように交渉しようとするが、何しろ言葉が通じない上に、元々まとめて処分する気満々のロシア兵。



『集まってくれているのは、面倒がなくていい』



 見る間に、半島全土が真っ赤に染まっていく。



 吉備真吉備は、それを間近で見ていた。
 ソウルのロシア人監督官(市長にあたる)ウラガロス・ノコノビッチの屋敷で、VIP待遇でもてなされながら、朝鮮半島の状況と資料を、見させてもらっていた。
 ここでも真吉備は、自分の持つ医薬品を惜しみなく使い、熱病で倒れたロシア農夫の家族を助けてやった。それを聞いたウラガロスが、同じ熱病で苦しむ6歳の娘を助けてくれと頼みこみ、見事に全快させたのだ。
 その上、たまたま暗殺されかかったウラガロスの命まで救ったので、アジア人でありながらその扱いは下にも置かないほどの厚遇であった。

 このころソウルでは得体のしれない怪人が暴れまわっていて、前任の監督官も暗殺されている。

娘の看病で遅くまで起きていた真吉備は、守衛を殺してウラガロスの寝室に忍び込もうとする賊に気づき、近くにあった火災用の警鐘を乱打し、賊を追い払う事に成功した。 (賊は真吉備が日本人であることに驚愕したようだったが、それは別の話である)

 ウラガロスは朴訥な役人だが、礼を知る心は十分に持っている。
彼の配下のロシア人たちも、真吉備に対しては礼を失することは全く無かった。
真吉備がロシア人に反発を感じることは、ほぼ無かったと言っていい。

 ちなみに、真吉備がロシア皇帝と出会うまで、ロシア国内をのし歩けたのは、この時のウラガロスとの縁が大きかった。



 数カ月後、元朝鮮半島で生きのこり、服従を誓い、負け犬としておびえ切った者たちは、次々と工事現場や鉱山や農場へ、女は奴隷や下働きのさらに下の奴隷としてどんどん『輸出』されていく。

母国でではなく、全く見知らぬ土地へ、何の希望も無い場所へ。


ロシア人から見れば、南の土地は全て楽園に見える。

こんなすばらしい土地を、1センチたりとも無駄にできるか!。
サルどもは全部他へ行け、ここは全部おれたちのものだ。

 ロシア皇帝のために選び抜かれた優良な開拓民たちが、温かな日差しを喜びながら、無人となった半島を喜び勇んで開墾し、美しい荘園へと全体を改造していく。

 半島は寒さが厳しいと言うが、永久凍土に覆われたシベリアに比べたら極楽である。何より、冬も凍らない港は、ロシア人なら夢に見るほど憧れている。半島に植民した民がどれほど狂喜したか、想像もつくまい。そしてロシア国内には、長い冬をこらえながら、働きたいと思う人間はいくらでもいる。



 一方、インドへ、アフリカへ、シベリアへ、半島の原住民たちは、プランテーションや永久凍土の奥地へと消えていき、誰一人戻ることは無かった。言葉も通じず、文字すらかけない人間は、働く場所も決まってくる。まして働くことを嫌悪する人間となれば、他に行き場はあるわけがない。

『これは全て、朝鮮を手放した日本のせいだ、日本が悪い、我々は何も悪くないんだああっ』

 親ロシア派の急先鋒だった高宗のおいにあたる珍金は、そう絶叫しながらアフリカ行きの船に放り込まれた。日本を悪しざまにののしる事で、ロシアに少しでも同情してもらい、自分だけでもこの国に残してもらいたい一心だった。


 狼に家を開いたらどうなるか、この時代に分からない方がはっきり悪い。


 さて、ささやかな朝鮮半島の問題は、結果として日本にもあるマイナスを残す。


『アジア人など、人間以下。大したことは無い。』
と、大半のロシア軍や政府高官を、どこまでも増長させた。


朝鮮の惨状を見れば、彼らの増長も無理は無い。
軍はもっと多くのいけにえと略奪を求め、政府高官はより安定した帝政と地位保全を求めた。

 経済発展著しく、広報活動で美女の多いと思われ、しかも小国である日本は、汁気したたるうまそうな獲物としか映らなくなった。日本は朝鮮を手放した事で、日露戦争もまた避けられない事態になったともいえる。

 これは政策や作戦ミスではない、光があれば影が出来る。必ず生まれる部分である。




『避けられぬのなら、むしろ積極的に戦争を利用すべきでしょう。』

真吉備の言葉と、これまでの会話から、国内改革こそ重要であることは、ニコライ2世もよくわかっている。


『帝政の強化かね?』
『いえ、むしろ法律の整備と厳格化です。』

言われてニコライは気づいた。
ロシアは古い国であり、法の整備も実はかなり緩い部分が多い。
理由は簡単で、歴史を盾にとりたがるやから(それも大貴族)が多いからだ。

『ニコライ様ならご理解いただけると存じますが、歴史を領土や政治の理由にしようとする国家は二流です。』

ニコライは可笑しそうに笑った。
二言目にはロマノフ王朝とのつながりを強調したがるロミナリフ家あたりが聞いたら、泡を吹きそうなセリフだ。

『歴史は重要ではないのかね?』
『いいえ決して、ただ歴史を領土や統治の理由にしたら、選択肢は戦争しか残りません。
 ほぼ間違いなく、人は自分の都合のいい歴史しか認めようとしないからです。』

ラス(真吉備)のいう『ほぼ』に、ちらっと視線を向ける。
そうではない人間も少しはいる、と言いたいのだろうか。日本人というのは、それが言える民族なのか?。
どうもラス(真吉備)の会話を聞いていると、都合のいい歴史だけではだめだと、本心から考えているようだが・・・。

実を言えば、これもこの時代では驚天動地の思想と言えた。


 正史の21世紀になってすら、為政者に都合のいい歴史しか、絶対に認めない国家は実に多い。

また、『X百年前は、ここは我が国の領土だった』と、資源が見つかったとたんに、強硬に主張する愚劣な常任理事国もある。

どちらも『自分は二流国家の代表です』と旗を背負って主張するようなものである。

世界から戦争が無くならないわけである。


『では一流の国家とはどうあるべきか?』

『簡単な話です。一流の国家とは、法律によってその領土と統治を確定出来る国です。もちろん、その法律は、現在盛んに研究が進められている国際法に照らしあわせても矛盾の無い法律でなければなりませんが。』

うーむと、またニコライ2世はうなった。

 この比較は、直感的にあるイメージが浮かぶ。
歴史を主張する国家は、すなわちナワバリ意識であり、動物的な支配でしかない。
法律を根拠と出来る国家は、すなわち人類であるからこそ決められる世界であり、人間が存在する理由がそこにある。


 また歴史を主張すればするほど、逆に何の論拠も無いという明確な理由がはっきりしてしまう。 今世界はどんどん進んでいる、過去が現在の素であると主張しても、現在から過去を取り出すことは不可能だ。 オレンジを使ってオレンジジュースを作っても、ジュースからオレンジを取り出すことはできないのと同じである。 歴史だけを理由に主張するのは、オレンジジュースからオレンジを取り出したいと主張するのに等しい。


 国際法にも矛盾が少ない法律をきちんと決めていれば、現在を作っている国家こそが、その正当な支配者であるとはっきり言える。それがきちんとできてこそ、一流の国家だ。

実にシンプルイズベスト。

だが、それが正しく行えるには、道徳、教育、法律、法律論、社会体制まで厳しく高めなければできない。実は大変な努力と困難、そしてそれを乗り越える経験を積んでいかねば不可能である。


『さらに下の三流国家となると、哀れなもので、自分だけでは成立できなくなりますが。』
『さらに下があるのか?。』
『一番わかりやすい例が、ナポレオン・ボナパルトです。』

思わぬ名前が出て、ニコライ二世は目を丸くした。

『結局あの男は、敵を倒し続ける以外に、独裁国家を続ける方法がありませんでした。ですから、戦う相手がいない場所では敗北したのです。そう、ロシアにね。」

ニコライ二世が思わず爆笑した、ナポレオン最大の敗北は、ロシア遠征だった。

 当時、戦争とは略奪でもあった。

 敵から奪うことで、食料を補充するのは当たり前だったのだが、広大な領土を活用し、徹底した焦土戦術で何も残さずぶつかり合いを避けたロシア軍相手に、食料も補給もままならず、恐るべき冬が襲いかかった。毎日マイナス40度を越える冬など、普通の人間に想像できる範囲を越えている。まともに呼吸するだけで肺が壊れて肺炎を起こす。気がつくと手足が感覚がなく、崩れたように指が全て落ちている。凍傷である。お陰で発狂した人間は数知れない。

結果は、遠征軍の実に99%が全滅するという大敗北。

あとは坂道を転がり落ちるように、ナポレオンは凋落した。

『ナポレオンは戦争の天才ではあったかもしれませんが、国家を確立することはできませんでした。どんなに派手派手しい成功をひけらかしても、敵がいないと領土の確定も統治できないし保てない国家は三流です。』

『だが、それで言うならば、昔の国家はみな三流だったという事にならないか?』

常に戦争ばかりやっていた欧州の歴史は、見事にそれにピッタリである。

『最初から一流だった国などございません。』

ぴしゃりと言われた言葉に、むしろ爽快な快感すら覚える皇帝陛下。



 正史の現代21世紀でも、日本の近くには見事な好例がある。というか「またかよ」と言いたくなる。


 そこの半島の片方の某国で、20世紀末から問題になっている『竹島』という日本の無人島がある。
ほとんど何の役にも立たない、岩だけの塊だ。
某国は、ここを基地として漁をしていた漁師を、撃ち殺して奪って領土化した。


なぜか?。


『自分たちは怒っている、我々に酷いことをしたのは日本だ、だから怒っていることをはっきり形にしないと面子が立たない』


 ここが正当な領土かどうかはそもそも関係がない。
人気が下落した大統領が、わざわざ来訪するのは、竹島が国民に役に立つからではない。 『自分たちはそれだけのことをする資格と権利がある』という、『自己満足』と『被害主張』のためだ。
そのくせ、無理して奪い返す必要が少ないような場所で、下手に争っても損するため、日本が躊躇するような場所を選んでいる姑息さも臭う。
そして、それが無いと国が成り立たないという、あまりといえばあまりな理由まである。

これを国家と言っていいのかどうか、かなり疑問すら感じる。

その国は、
この無人島を軍事基地として人を常駐させるための膨大な予算を認めさせ、
それを保持するための軍備拡張を正統化して、莫大な税金を吸い上げ、
財閥から莫大な献金(つまりワイロ)を受け取れるように、仕向けるのである。

つまり、昔の現地人たちが理想としていた、『働かずに楽して生活できる』最高の社会的構造だ。ただし、ごく一部の人間だけの。

もちろん、軍事基地はこれだけではないが、『日本から奪い返した!』とこじつけ、物的証拠で国民から絞り取って、財閥からはワイロを取りまくるためには、絶対不可欠の存在だ。

逆に『竹島』を失えば、『日本から奪い返された』『腰ぬけ』『卑怯者!』と、散々重税を絞り尽くされた国民は、大統領とその一派を決して許すまい。

 実際、あの国の経済は、今の日本で言うならとっくに破綻している。個人債務だけ見ても、目を覆うばかりの惨状で、未だに悪化し続けている。


 つまり、税金を取り放題取るためにも、ワイロをたっぷりと受け取るためにも、敵対する相手と戦うためだという、勝手な理由をこじつけないと成り立たない。財閥からワイロを受け取るには、一に優遇税制、二にエネルギーや法律の優遇、三にウォン安や貸し出しの経済優遇であるが、その分の負担は全部国民にかぶさっている。国民個人の債務がどんどん膨らむのも当たり前だ。

 もちろん、日本に自衛隊はあっても軍隊は無い、憲法で戦争は放棄するとまで書いている、それを一切国民に知らせない。それも敵がいないと国が保てないからである。


ところが、こんなろくでもない国政をしていて、
穴だらけのムチャクチャな金と権力を振り回して、
任期の終了と同時に、権力が無くなる、とたんにその分の罪が当然全部おっかぶさってくる。

最初から犯罪だと分かっているような事を、任期いっぱいやりまくるという感覚が、もはや正気を疑いたくなる。そんな人間を大統領に選ぶという国は、どういう国なのだろうか?。やはり遺伝子から、労働を嫌悪するDNAが刻まれているのだろうか?。

だものだから、この国の歴代大統領は、ほとんどがろくな死に方をしていない。
少し前に、前大統領が飛び降り自殺したのは記憶に新しい。


現大統領の兄弟が、あまりのワイロのひどさにとっ捕まったが、竹島訪問も、これを誤魔化すため『ワイロも日本への対抗策のためだ』とでも言いたいらしい。

分かりやすく言えば、

『お前のじいさんは犯罪者だった、私のじいさんは被害者だったのだから、お前から殺して奪っていい』。
『殺して奪うための武力は、是非とも確保しなければならないから、ワイロや重税は当たり前だ』

上の二行、真っ当な人間なら、とても理解できないでしょう。それが当り前です。

おそらく、今の大統領も任期が終了したら、自殺するか国外逃亡するか、あるいはリンチで殺されるか。
北の某国も相当ひどい金王朝国家だが、さすが同族、やってることは北も南も変わらないときている。


いやはや21世紀になっても、二流にすらなれない三流国家になると、ここまで酷いのである。




 20世紀初頭のニコライ二世は、本気で三流国家にだけは、なりたくないと思った。


 サンクトペテルブルグの冬王宮の一室で、ニコライ二世はゆっくりと思念を巡らす。


 様々な難題にも、ラス(真吉備)の言葉を思い返し、どうしても思い出せないところは侍従に尋ねれば、日時状況から、その日の接見した人間の数や名前まで事細かに教えてくれる。それが常にさまざまな見方や考え方を示してくれる。正史では皇帝としては能力的に不適格と言われていたニコライも、この二人の協力(?)が、皇帝として格段のレベルアップにつながっていた。何より、偶然真吉備の噂を皇帝の耳に入れて、縁を作ったのは実は彼女だ。

 もしこれが無かったならば、彼女はそのうち別の部署に回され、二度と皇帝のお側に来ることは無かっただろう。真吉備とニコライの会話を最初から全て、残らず記憶している事を知って、皇帝は侍従見習いだった彼女をお側から離さなくなった。

 彼女は『駄目人間』ほどかまってあげずにはいられない性格で、さびしがり屋で優柔不断、根性無しでどもり症という四重苦にのたうちまわっているダメ皇帝となると、もう可愛くて可愛くて仕方がない。寝食を忘れて尽くしてあげたくなってしまう『理想のご主人さま』なのである。

 これがせめて普通のメイドさんだったら、歴史にもそう影響は無かっただろう。

 だがしかし、

 彼女がお側にきて、皇帝のスケジュールが乱れたことは、この数年一度も無く、皇帝のかかわる国政の渋滞は極めて少なくなっている。しかも、誰もそれに気がついていない。かかわる役職の者たちは、みな自分の手際が良いからだと、本気で思い込むほど、彼女の管理能力はケタがはずれている。

 皇帝のスケジュールの中には、秒単位の殺人的スケジュールとなり、参加者だけでも数万人、世界中から式典に高位高官を送り付けるロマノフ王家の春の大祭記念式典があるが、鼻歌交じりで皇帝陛下のご用意を調整しながら、ご命令のタイミングを先読み、要請、時間調整していく事で、おびただしい参加者と、式典全体を完全に管理していたのが、この小さな可愛らしいメイドさんであった。

 彼女からすれば、毎年大祭のたびに髪の毛を掻きむしって苦悩する皇帝陛下を見ておれず、大ざっぱで時間管理意識に乏しい役人や官僚たちを、そっと調整してあげているだけなのだ。しかも、ニコライ二世はもとより、ロシア国内その事情を誰ひとり知る事の無いという手際のよさと管理運営能力である。まさに恐るべし。


 彼女の能力、おそらくロマノフ王朝史上最強の侍従と言っていい。

 真吉備も、皇帝というより侍従を見込んで、皇帝の教育につきあった節が見られる。


 皇帝が彼女を可愛がり、お側から絶対離さないし、彼女も絶対にお側から離れないのは、世界各国にとっても幸いと言うべきだったかもしれない。ありえない事だが、彼女がプレーヴェ内務大臣や、ロシア軍司令のお手伝いなど始めた日には、侍従の広域戦略型組織管理能力の前に、欧州各国は残らずなぎ倒されて、第一次世界大戦はロシアの一人勝ちになりかねない。


『ラス(真吉備)の言う、一流の国家はまだまだ遠い。国内改革派にもう少し力を与えねばならぬ。』

 ラス(真吉備)との長い語らいの中で、国内改革への道筋はかなり高いレベルまで教育を受けている。ましてそれを、驚くべき正確さで記憶し、常に側で繰り返し真摯に教え続けてくれる侍従がいる。それらがニコライ二世の自信につながっていた。

『幸い我がロシアには、プレーヴェ内務大臣を始め優秀な行政官僚は多い。彼らの勢力を、貴族たちに脅威に思わせぬ程度に高めて、よりすぐれた法案を作らせねばならない。』

 ここで皇帝陛下が、自分のお側に仕える恐るべき侍従の事を、わずかも思いもしないのは、彼女のつつましやかで陰で務め尽くすことに至上の喜びを感じる、ある意味これ以上は無いほどの女性らしい尽くし方ゆえであろう。まあ、世界平和のためには、このままこの関係でそっといてくれるのが一番だと言える。彼女もそれが一番幸せそうだし。

『できうれば、これからは日本と手を結ぶ時代だ。あの無欲な国とならば、どれほど懇意にしても損をする事は無い。』

 日本側が提示した賠償請求は、ロシア側が想像していた額よりけた外れに少なく、支払い方法も極めて寛大であった。これには対日強硬派の貴族や軍人たちもすっかりまいってしまい、皇帝に自分の不明を詫びるものが続出している。皇帝にとっては実にやりやすい環境が生まれつつあった。といっても、つい最近まで円形脱毛症に悩まされていたことを、侍従だけは知っている。何しろ上質のウィッグ(かつら)を用意したのも彼女だ。

重大な決断に、慎重に策を練りながら、ニコライ二世は立ち上がった。

「クリスティ、また今日の菓子を用意しておいてくれ。」

 部屋の片隅で、ひっそりとたたずむ侍従に近寄ると、その大きな手で優しくクシャリと髪を撫でた。
丸い頬を染めて、侍従はスカートのすそをつまむと、心から嬉しそうに深く礼をした。その愛らしさすら感じる姿に、皇帝の頬もほころぶ。

彼女にとって、どんな地位財産も意味は無い。

優しくダメダメで可愛くて仕方がない皇帝陛下のお側でお役にたてるなら、いつこの身を投げ出しても悔いはない。 あまりに無欲で、純朴で恐ろしく一途な思いを胸に、侍従は我が主にいそいそと従っていった。

 東洋の哲人吉備真吉備と、ロマノフ王朝史上最強の侍従の奇妙な連係プレイは、帝政ロシアとニコライ二世の運命にすら、影響していくのだった。
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