ダインコートのルージュ・その31
『歴史の枝道』『名刀・1』
(この物語は、帝国戦記とも、ダインコートの本筋とも、全く関係の無い歴史の片隅のささやかな一幕です。MORIGUMA)
「ごめんくださあい。」
明るく、可愛らしい声があいさつをしたが、
ここほどその声が似合わない場所はまずあるまい。
『あばら家』という言葉は、この建物のためにあるとしか思えない。
軒は傾き、瓦はズレ落ち、汚れて穴とヒビだらけ、天井はクモの巣だらけ、シミだらけ、
土間から上がり口の先は、板の間なのか畳なのか判別がつかない黄土色、即ちホコリが分厚く溜まったホコリだらけ。
家の中には、ほとんど家具らしい家具すら見当たらない。
もとはそこそこ大きな家だったのかもしれないが、それだけに奥が薄暗く不気味さ倍増。
建物そのものが歪んでいて、踏み込んだとたんに崩れ落ちそうな恐怖を感じる木造平屋の家だった。
「ん〜〜、なんだあ?。返す金ならねえぞ。」
奥の方から、これまた太いだみ声が不愛想に、不機嫌そうに言う。
「山浦 清さんですか?」
今度こそ、不審そうな気配がした。
大の男でも腰が引けてしまいそうなあばら家に、若い女性の声がするなど、これまであったためしがない。
薄汚い、元は藍染めだったらしい短めの着物姿で、ぼさぼさ頭をした男が、のっそりと出てきた。
がっしりした体つきで、特に異様なのが腕の太さだ。長い上に鉄片でも打ち付けたかのような筋肉、そしてやけどの跡だらけの手。
鼻も口も大きく、やたら顎が張っているが、目がちっこくつぶらなのがアンバランスにおかしい。
「俺が山浦だが・・・なんだあ?。」
野太い声が、急に小さくなる。
そこに立っている小柄な姿と、お日様のようなニコニコ顔に、思わず見入ってしまったのだ。
16・・・いや14,5か?。くりっとした目に、元気のよさそうなつやつやした頬、口元の微笑みが何とも無邪気そうに見える。
細身のズボン(パンツという言葉はこの時代はまだない)姿の、やたら愛らしい女の子が、ぺこりとお辞儀をした。
「『刀鍛冶』の山浦 清さんですね。はじめまして、高野はるなと申します。」
とたんに山浦のぶっといゲジゲジ眉毛が、ギュッと寄る。
「あんた、何を聞いてきたか知らんが、『刀鍛冶』なんぞという御大層なもんは、この明治のご時世にはもういねえぜ。」
冷たい突き放すような言い方で、今すぐにでも戸を閉めて奥へ戻りそうな気配だが、ちっこい目だけがすねた腹立たしさを隠しきれていない。
見た目40近く老けて見えるが、実はかなり若いのかもしれない。
だが、突き放す口調にも高野は驚きもせず、バックからさらしで包んだものを取り出す。
その包みの形が、山浦の足を止めた。
ギラッ
真っ白なさらしを解かれて現れたのは、青い地金が美しく冴える、調理用の包丁である。
「関か・・・・」
山浦は、思わず目を吸い寄せられ、その地金の色と波紋から、山口は関の鍛冶の一品であることを見定めた。
元々関の一族は、鎌倉時代から続く刀鍛冶の家柄だが、調理用の包丁などでも有名である。刀の廃止と同時に失業し、そちらに流れる者も大勢いた。
皮肉なことに、刀剣では評価がさほど高くなかったが、調理用の包丁などに不思議と良い品を作る者もいた。
そして山浦は、一目で刃物の素性を見抜くぐらいの眼力は持っている。その眼がギラッと凶暴に光る。
「だから、なんだ?。俺にも料理用の包丁でも作れってのか?。」
もはや捨てたはずの刀鍛冶のプライドが、急激に燃え上がる。
明治になり、四民平等の旗のもと、武士はその居場所も地位も失った。
しがみつこうにも、身分を保証してくれていた幕府は大政奉還で消え失せた。
絶望のあまり腹を切る者や、無謀な騒動や戦争に身を投じて死んでいった者も数知れない。
だが、居場所を失ったのは、武士だけではない。
武士という階級を支えていた者、とりわけ武士の象徴と言える『刀』を作っていた『刀鍛冶』たちも同じである。
新しく導入された西洋式の軍隊は、銃・大砲を効率よく展開し、十分な補給と運用をもって敵を殲滅する事を目的とする。
刃物を持って白兵戦を挑むのは、よほどの高等な戦略戦術による電撃的奇襲作戦か、あるいは全く無能な最低の愚行のどちらかである。
そして通常の戦いにおいては、正史の日露戦争における二〇三高地戦も含めて99%が最低の愚行であった。
ゆえに日本刀のような、よく切れるが重く扱いづらい刃物は邪魔なだけとなり、大型ナイフのような日常でも使える万能性や、西欧風のサーベルのような薄く軽い携帯性と大量生産のきく条件が必要とされた。
何より日本刀の日常の所持は禁止されたのである。
武器であり、同時に武士という身分の証でもあった日本刀は消えたのだ。それゆえ、山浦もまた居場所の無い人間の一人となった。
刀を捨てて包丁を造れというのならば、それはまっぴらごめんだ。
自分は、刀の為にすべてを賭けてきたのである。
所持する者を守り、同時にその身分を証明する誇り高き武器。
その誇りは死んだのだ。
戦いもしない、誰でも何の意味も無く使える刃物など、絶対に作る気はなかった。
だが、はるなが見たかったのは、『その眼』だった。
どれほどボロを着ていようと、どんなひどい所に住もうと、それは構わない。
だが、この男の目は死んでいない。
自分の造る物に、命も魂も捧げ抜いている目だった。
いうなれば、彼にとって刀は自分の子供以上と言っていい。
『どこの馬の骨にくれてやるものか!』その狂気が、眼に異常な輝きすら帯びさせていた。
少女はその眼を確認するや、にこりと微笑んだ。ただその笑みは迫力すらある。
さらにバックからさらしの包みを取り出して、目の前に並べ始めた。
はるなは決断した。
己の宝物を見せられる人だと理解したからだ。
にこやかだった顔を、真剣な表情で固め、丁寧に包みを解いていく。
彼女がほかの誰にも触らせたことが無い、彼女の一番大切な宝物。
「な・・・・・?!」
目の前に並べられていくのは、また刃物だった。
だが、それは最初の美しい関の包丁などでは無い。
醜く、小さく、壊れていた。そして山浦ほどの男を、衝撃で呆然とさせた。
研ぎに研がれ、彼女の手より小さくなったもの、
研がれて薄くなり、ついには割れたもの、
もとの形が分からないほど使われたもの、
それらを、丁寧に、いとおしむように、包みを解いて並べるはるな。
長年彼女の手の一部となり、使って使って使い尽くした、彼女の宝物だった。
山浦は思わずその場に手をつき、顔を寄せ、舐めるようにそれらに見入っていた。
次第にその手が、体が震え、目が涙すら浮かべている。
「うお・・・お・・・芯金まで透けて、あんたの手の形になって、・・・元の形が分からねえ・・・、すげえ・・・すげえよ・・・・」
彼らは、戦いもしない刃物などでは断じてなかった。
山浦の目には、それらは古風な歴戦の古強者として映った。
おびただしい戦いで大けがをし、あるいは身体の一部を失い、それでも平然と戦場をにらみ、欠けた身体すら鍛え直し、駆け通してきた者だけが持つ凄み。
戦って、戦って、戦い抜いて命を全うした包丁たちに、思わず彼は頭を下げて拝んでいた。
ここまで形を変えるまでに、いったいどれほどの物を切ってきたのか、
刃を失い、研ぎ直し、また失い、研ぎ直し、何十、何百、数えきれぬ修練と戦い。その重みは凄まじい。
小さく古びた刃物を、山浦はとても美しいと思った。
彼らを、幸せ者だと思った。
戦いは、無くなったのではない、
『俺たちは今でも、戦場にいるぞ!』と、その刃が語っている。
包丁を見くびっていたことを、心の底から恥じた。
今なお、戦いは行われていることを知らなかった自分の不明を恥じた。
「あなたの刀が、欲しいのです。」
涙をボロボロ流しながら、山浦はうなづいた。
己の心血注いだ作品を、また戦場へ送り出せる幸せに、心の底から感謝していた。
さて、こうして高野はるなは、一人の刀鍛冶と親交を結ぶようになった。
だが、なぜ刀鍛冶なのか?。
柔らかいスポンジを切るだけなら、薄い刃物で十分だ。
問題はこの時代そのものにあった。
21世紀ならば、お菓子用の食材は電話やメール一本で、即座に最高の状態の物が送られてくる。
彼女がいるのは20世紀初頭、つまりお菓子用の食材など、作る会社も職人も全くと言っていいほどいない。
つまり、ほとんどすべて、人の手で作り出さねばならないのだ。
分厚い栗の鬼皮を剥くことから、バニラビーンズを丁寧にそぐこと、オレンジピールを刻むこと、etc。
機械では出来ない仕事が、パティシエには山ほどある。
その過酷な仕事ぶりは、彼女の取り出した刃物を見れば一目瞭然。
もちろん、人を雇ってそういう下ごしらえをしてもらえば、効率は上がるだろうが、ことお菓子に関する限り、高野はるなに一切の妥協は『『『無い!』』』。
キラーン!
彼女が研ぎに研ぎあげた包丁を抜くとき、そこには一種神々しいまでの緊張が走る。
恐ろしいまでに整然と並べられた、巨大な調理台の莫大な材料。
白いコック帽をかぶった小柄な姿がすっと近寄るや、
ミリ単位、いやミクロン単位ともいえそうな芸術的なツルギの舞いが襲い掛かる。
シャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャ
湯むきされた桃が、滴すらこぼさずに切り分けられ、
数々のナッツが、欠片すら落とさずに分解され、
ハイスピードカメラすらとらえきれない動きで刻まれた、オレンジピールのラインが、芸術的なまでのウェーブを描いていく。
莫大な材料が、みるみる姿を変えていく包丁さばき、まさに『神技!』。
かつて何人もの優秀なパティシエが、『榛名』の扉をたたいたことがある。
あまりの熱心さに、彼女も何回か受け入れてみた。
だが、最短で5分、最長記録でも30分、彼女が下ごしらえをする包丁の舞に、全員悲鳴を上げて逃げ出している。
『魔女だ、魔女がいるうううううっ!!』
世界の王侯貴族をうならせ、陛下がこっそりと寵愛するほどの『榛名』の洋菓子は、彼女の腕無くしてありえない。
だがしかし、あまりに過酷な包丁さばきに、肝心の包丁がいつも悲鳴を上げる。
使い方が荒いのではない、手入れが悪いのでもない、ただ、ただひたすらあまりに過酷すぎる作業量に刃の方が尽きるのである。
優れた刃物は、いくらあっても足りない。また優れた刃物でなければ、彼女の戦場『パティシエ榛名』には、とてもついていけないのだ。
数か月後、山浦の作品に満足したはるなは、再び彼のもとを訪れた。
洋菓子の名店として『榛名』の名声は飛躍的に高まり、利益も十二分に出ている。
そして、その利益をお店の為に使うことは、何もためらうことはない。
彼女は一つの提案をすることにした。
「これを見ていただきたいのです。」
彼女にしては珍しく、さやに入ったまま、包まれずにバックからとり出された。
「こ・・・これは?!」
それは、刀身が20センチほどのナイフだった。
だが、異様なのはその紋。
輝く白銀の金属に、樹の年輪のような、細く緩やかに幾十重にも波打つそれは、いったいいかなる手段を経てきたのか、彼ほどの刀鍛冶でも想像もつかなかった。
古今の様々な名刀を、できうる限り学んできた山浦だったが、こんな刃物だけは見たことも聞いたことも無い。
『まるで、樹の年輪のような・・・?』
「これは模造品です。」
はるなの口調に、ギョッとする山浦。
「はるか古代、インドという国で作られていた『ウーツ』という鋼があります。
その鋼を、ダマスカスと呼ばれる街で刃物として鍛え上げ、研ぎあげた物を『ダマスカス刀』と呼ぶのだそうです。」
「ダマスカス・・・刀」
恐れるように、つぶやく山浦。
「ですが、その製法は二〇〇年以上前に途切れ、完全に失われました。
その製法を何とか蘇らせようと、多くの人が研究したのですが、どうにかその紋までは再現できても、本当の切れ味には及びません。」
「いったい、どんな切れ味だったのだ?」
目を飛び出さんばかりにして、じっと刃を見続ける山浦。
「薄い絹を刃の上に置くと、絹の重みで勝手に切れたという伝説があります。」
はっきり言って伝説である、証明も何もない。だが山浦には、その光景がありありと浮かぶ。
薄い絹の衣が、ふわりと刃の上に降りる。そっと垂れ下がっていく衣が、するりと下へ落ちた。しらじらとした刃が、そっと絹を二つにして。
そのイメージに、山浦の脳は沸騰寸前に燃え上がる。
その後、はるなの示した破格の条件も、彼は聞いてすらいない。
21世紀の技術も(はるなは『海外の技術でも』という事にしている)さじを投げた困難さも、狂気という信仰の前には意味をなさない。
模造品を作り出すまでの過程を詳しく聞き出すと、山浦は狂ったように鍛造を始めた。
『町はずれのあばら家に、魔物がすみついた』
数日後には、そういう噂が立つほど、常軌を逸した打ち込みようだったらしい。
鉄には、元来不純物として様々なものが含まれる。
中でも炭素は、鉄の材質を変える大きな要因となる。
例えば高炭素鋼と呼ばれる0.7%以上炭素を含む鉄は、代表的なものとして『ピアノ線』と言えば分り易かろう。
直径一ミリの『ピアノ線』が、300キロを支えるというとんでもない強度は、炭素の量と加工法で生み出される。
ちなみに、オーケストラで使われるグランドピアノで200キロぐらいなので、一ミリのピアノ線なら楽々と吊るせるのである。
また日本刀の上等なものは、鍛造の過程において、数種類の鉄を組み合わせ、熱して一定のリズムで打つことで鉄中の炭素を打ち出し、刃や側面、背面など、各部の炭素濃度を変えるという奇跡を起こしている。
そのため、丈夫で(頑丈)、折れず(しなやか)、良く切れる(非常に硬い)という全く相反する性能を持ち得る。
山浦の遠い親せきに山浦真雄(やまうらまお)という江戸期の刀鍛冶がいる。この弟は『四谷正宗』とよばれた山浦環(やまうらたまき、別名源 清麿(みなもとのきよまろ))。
山浦真雄の鍛えた刀は真田藩(信州松平藩ともいう)の『荒試し』という公式公開テストにおいて、鍛えた鉄すら絶ち切る切れ味を示し、30回以上マキわらや武具など様々な切りだめしをした後、同じ刀で耐久試験まで行った。武術師範クラスの剣士が1.5メートルを越える鉄の棒を持ち、3人交代で三十数回の殴打を繰り返さねば折れなかったと言う恐るべき耐久力が記録されている。安物ならほぼ一撃、並みの刀でも数回耐えられれば上等であることを考えると、見物人(全て武士)が驚きのあまり鳥肌を立てたと言うのも、無理は無い。
はるなの山浦への話に出てきたような、数々の伝説に彩られたダマスカス刀。その元となるウーツ鋼と呼ばれる鋼も、ある種の高炭素鋼であったらしい。
ただ問題は、本物のダマスカス刀には『カーボンナノチューブ構造』という、炭素の恐るべき芸術が含まれていたことが判明し、21世紀では完全に暗礁に乗り上げている。
21世紀の最先端科学と、日本の優れた研究者の執念が生みだした、炭素の奇跡ともいうべきこの構造は、炭素の最高硬度を持つダイヤモンドやそれ以上の硬さ、強度を持つこともでき、逆に自在に形を変えられる進展性もありえる。耐摩耗性や化学特性など、これから作り出せるさまざまな特性は、際限がないほどだ。
山浦は、そのような構造すら知らない。
彼を突き動かしているのは、圧倒的なほどのリアルなイメージである。
薄い絹の衣が、刃の上に落ちていくと同時にフワリと二つに切れる、その光景だけがはっきりと浮かんでいた。
ただ日本では、古来から鉄を鍛える鍛冶や、鉄を形作る鋳物を行う人間は、鉄と燃料を求めて、また鉄を大量に必要とする土地の要望に応えて、日本中を渡り歩いてきた。
周囲に燃料が無くなれば、数十年は木が育つまで近づけない。
重い鉄を運ぶのは至難の業なので、必要な場所で作らねばならない。
特殊な技術が必要なため、長い経験を積まねばならない。
また鉄といえども、地域によって成分も性質も大きく違う。
彼らは古代の最先端技術者であり、情報データベースの構築者でもあったのだ。
山浦にも、その血は脈々と受け継がれている。
彼は山に向かうと、険しい山道を丸一日歩き通し、小さな頂で火をたいた。
それは、古来からの盟約である『鉄と山の約束』だった。
数人の山人が、音も無く現れた。たくましい身体に恐ろしげな顔つき、そして毛皮を身体にまとっている。
山浦は背中に背負っていた鋼を下ろし、彼らに渡した。
彼らは、それを刃物にし、あるいは矢じりにし、自分たちの生活に役立てる。
その代り、一つ頼みを聞くのである。
「越後の国(今の新潟県)、鳥居の清光じいさんが生きているなら、知らせてくれ。山浦が会いたがっていると。」
山人は数こそ少ないが、全国に一族がいる山岳民族で、正史でも昭和の始めぐらいまでいたと言われている。
彼らは古来からの盟約には忠実だった。
わずか4日後、ある神社の鳥居のそばに、掛け小屋を作って住んでいる老鍛冶の清光ことが知らされた。
この老鍛冶は、刀の強度を飛躍的に上げるという、ある秘術を伝える最後の一人だった。
山浦は、即座に東京から新潟に旅立つ事を決意した。
すでに時期は冬にかかり、山人でもない限り、雪深い山を抜けることはほぼ不可能である。
明治初期の日本では、本州を一周する鉄道網も完成しておらず、船便の運が良くて片道2週間、下手をすれば1ヶ月など当たり前と言うのが、当時の常識だった。陸路なら来年の春までまず無理だ。
もしこの時、はるなが山浦のあばら家を通りかからなかったら、本当に大旅行になっていたことだろう。
「え〜?、新潟へ行かれるんですかぁ。でもどうしてそんな大荷物を?。」
大きな黒目がちの目がリスのような、小動物系の笑顔を少し傾けて、本気で不思議そうなはるなに、面倒くさそうに説明する山浦。
いかに小娘に見えても、莫大な報酬を払ってくれるスポンサー様である。新潟への旅でも、彼女が保証してくれた費用が無ければ、動くことすらできるはずがなかった。
「はあ、でも新潟なら二日で行けますよ。」
「へ??」
山浦の小さな目が、さらに点になった。
鉄道網の整備には、莫大な労力と資金と時間がかかる。
だが海上輸送には、港湾整備と、航路の安全確保さえしておけば、効率よく運ぶことが可能だ。
港湾からさらに鉄道や道路網を敷くことは急務だが、東京と新潟の間などをショートカットできる有利さは、やはり大きい。
帝国重工は長距離輸送船舶を整え、東京と北海道、新潟、福井、山口、大阪、名古屋を高速で輸送するルートをいくつも組んでいた。
もちろん、その他の都市との輸送も、地元の網本や輸送業者をまとめ、効率よく配送する手順をどんどん整えている。
その一つに乗るだけで、東京からわずか二日で新潟へつけるのだ。
今は常識が邪魔して、理解すら出来ない人間が多いが、そのうちこれが常識化すると、旅行が大ブームとなるだろう。
山浦も、まさに『狐につままれた』ような呆然とした顔をして、新潟港へ降り立った。
「本気で、二日でついちまったよ・・・・・。」
だが、それ以上に仰天したのが、鳥居の清光じいさんだった。
「な、なんだおめえ?、まさか幽霊かよ?!、お迎えに来るのは早すぎんぞ、おとといきやがれ!!」
いや、本気で幽霊にあったような顔つきである。
山人から連絡があって、わずか7日。時間感覚が相手をバケモノに見えさせても不思議のない時代だ。
元々は江戸で修業をして、越後まで流れてきた老鍛冶は、未だに興奮すると江戸弁が飛び出す。
「ちゃんと足はついてらあ。しっかり見やがれじじい。」
片目はすでに白く濁っているが、右目はまだ見える。はげて白ひげを生やしたじいさんは、マジマジと小汚い足元を見た。
そういうわけで、二人は東京が江戸だった頃に、顔を見知っているのである。
「なんてぇ時代だよ、江戸から二日で越後たあよ・・・。」
説明を受けて、土産の酒を飲みながら、あきれ果てた声で清光は言う。
「俺だって、初めて聞いたときは、冗談としか思えなかったよ。」
山浦も不本意そうな声で、言い返す。
21世紀と違い、この時代の旅行は常に危険がつきまとう。
何より時間がかかりすぎるため、旅先で命を落とす可能性は極めて高い。
それだけに、旅は貴重で命をかけるだけの重みもあったのだが、こうも早くついてしまうと、ありがたみもへったくれもない。
「まあ、用事を済ますにゃあはええ方がいい。これを見てくれ。」
ゴトンと、小屋の床に置かれたそれを見て、老鍛冶は目がぎょろっと大きく光る。
「なっ・・・なんだ、こりゃ?」
まるで樹の年輪のような、異様な積層紋。
山浦が、はるなに教えられた鍛造法で、るつぼから作り上げた鋼材をもとに鍛えた短刀だった。
この刀鍛冶は、短期間のうちに、はるなが21世紀から持ってきた、ダマスカスの複製品に等しい刀を作り上げていた。
元々日本刀の素材である玉鋼と呼ばれる鋼材も、熱して叩きのばした鋼を何度も折り重ね、おびただしい積層構造を作り出すことで、不純物の多いはずの鉄に均一性と強度と切れ味を作り出す。
20回折り返して叩きのばせば、単純計算をしても100万層を超える積層構造が作られることになる。
言ってみれば、日本刀とダマスカス刀は兄弟のようなものなのかもしれない。
山浦の説明を受けながら、30分。
まるで愛撫するかのように、そっと握り、狂ったように上にあげ、下にさげ、横から斜めから、物狂いの目で短刀をにらみ続ける。
その視線、刀に穴が開くかと思うほどである。
ようやく根が尽きたかのように、そっと床に刀を置き、老鍛冶はしわくれたタコだらけの手で、自分の顔を掴んだ。
「くっそ・・・・くそ、くそ、くそ、くそ、くそおおおおおおおおおおっ!!」
小さくつぶやくように、そして次第に大きく、狂ったような声が上がる。
「ちくしょおっ、ちくしょおっ、ちくしょおおおおおおおっ、おおぉ、おおおおおおおおおぉぉぉぉぉっ」
その場に転がり、わめきまわり、まるで駄々っ子のように荒れ狂う老鍛冶。
本気でボロボロ涙を流し、周り中を叩き、蹴り、狂い猛る。
「ちくしょおおおぉぉぉ・・・・あと20年、若けりゃ、くそおおおおおっ、おおおお〜〜〜〜〜ん。」
老鍛冶清光の突然の狂態も、同じ刀鍛冶として、山浦には良くわかった。
もし山浦が清光と同じ年で、初めてこの刀を見たならば、同じように恨み、呪い、嘆き悲しんだだろう。
打ちたい、これほどの刀を打ってみたい、そう思いながら体がもはや動かない。
刀を打つには、とてつもない力と根気がいる。
年を取れば、次第に打つ力は衰える。根気も続かなくなる。あるいは打ち終える前に命が尽きるかもしれない。
だが、それでも人は、思いを止めることはできない。
特に日本人は。
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