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ダインコートのルージュ・その31


『代理戦争 上海哀歌』



 21世紀の中国にあたる、夜の支那(シナ)大陸を、大気圏から眺める目がもしあれば、異様に明るい場所がある事に気づく。


 それが『上海租界』。


 漆黒の闇の大陸に、その部分だけ夜の闇すら寄せつけず、煌々と輝いていた。

 上海は支那最大の大河、日本では揚子江という呼び名で知られた長江の河口にあり、多少喫水(船の入れる深さ)は浅いが、大陸の貿易港として最も適した位置にあり、中型の船舶も入港できる埠頭を備え、長江、陸上、海上各交通路の最大の要衝地である。アヘン戦争後に、英国が真っ先に外国人居留地として確保したのも、後に各国が競ってこの地に居留地を作り、共同租界なる巨大な混沌の地を作り出したのも当然と言えた。



 上海最上級ホテル「大神界」の最上階22階。そこにあるレストランバー“イルパラッツォ”の特等席に、今日も謎の美女として噂される“ミス エヴァン”こと、日本国防軍少佐で特殊作戦群の一員、百合京子が陣取って日本人街の街並みを見ていた。

 準高度AIで、特に諜報能力に優れた彼女には、夜の闇も昼間と変わらない。そして、夜の闇にまぎれて動く、様々な模様、私闘、悲喜劇も彼女の目に写し取られていく。だが、それに彼女の表情が動くことは無い。



 最も多く蠢くのは、ゴミをあさる老若男女の清国の人間たちであろう。この居留地に必死で紛れ込み、万に一つの幸運を求めて必死にさ迷う哀れな者たち。居留地は治外法権であり、査証(ビザ)を持たない人間は、正当な理由が無い限り入る事は許されない。清国人でここに入れるのは、政府高官や治安関係者、そして居留地の役人が正式に許可した者だけなのだ。もちろん彼らのほぼ全員が不法侵入者である。

 日本人のいる区画は、租界の中でもレベルが高く、偶然捨てられたゴミが、清国内では大変な高値に変わる幸運が拾えるかもしれない。ただ日本人は小食で、無駄が少ないため、残飯への期待は最も低い。

 残飯が最も多いのは、大食漢の米国人居留地で、パーティなどのゴミに運よく当たれば、かなりの食料が手に入る。

 英国人はしみったれているが、たまに銀のスプーンなどが、うっかり混ざっている事がある。

 だが、この数日は彼等にとって極めて不幸な時期であった。先日の日本人街に繰り返されたテロのために、英国や米国の軍隊が、かなりの警戒態勢をとって巡回しているのだ。フランスの軍も協力しているため、租界全体の警戒が極めて厳しくなっていた。気が立っている彼らに見つかれば、どんな目にあわされるか分からない。殴る蹴るで済めばまだいい方で、少しでも不審に思われれば容赦なく撃ち殺される。しかも誰もかばってはくれない。



「兄ちゃん、行ったかい?」

「ああ、だけどよお、今夜はついてねえ。」

 空腹を抱えた兄弟が、隠れていた植え込みからはいだしてきた。今夜は巡回が多く、何度もゴミあさりを中断して逃げなければならなかった。当然ろくな獲物が無い。


 乱れ切った清国の国政は我慢の限界を越え、民の暴動や略奪が繰り返され、それを鎮圧する政府の軍がまた、容赦なく殺し、容赦なく略奪を繰り返す。

 同国民相手にすら略奪や強姦を黙認しなければ、部隊が上官に反乱を起こしかねないのが支那の常識である。このやせ細った兄弟も、暴動と騒乱と略奪の中、いつの間にか親兄弟を無くし、偶然と必死を繰り返してようやく租界に紛れ込んだのだった。だが、どんな境遇だろうと、あさるゴミすらない租界の外に戻ろうとは思わない。




 清国は日露戦争において、正式に日本との通商条約を破棄した。ロシアや英仏などにそそのかされて、ろくな考えも無しに行った愚策である。

 もちろん、あのロシア連合艦隊の凄まじい威容をみて、日本が勝てるなどと思う人間は、この世界にはいなかっただろう。

 袁世凱が列強におもねるために、条約破棄に踏み切ったのも、公平に見れば不思議ではない。

 ただ、その後の艦隊壊滅にひっくり返り、今度は逆に日本におもねるために、いろいろ日露戦で裏工作を試み『我が国は中立でアル』と絶叫するところが、いかにも支那人らしいと笑うしかない。


 通商条約が失効したのは、破棄した清国と戦争中のロシアだけで、他のどの国も、日本に叩かれたフランスやドイツですら日本との通商条約は保っていた。日本も何も言わず、相手を追い詰めるつもりはさらさらなかった。だが、清国と再度通商を結ぶ気はそれ以上に無い。

 租界の中は、条約上清国とはみなされないため、上海租界で各国が日本と取引をするのは、何ら問題が無いのである。たとえ清国が問題視しようとしても、できるわけが無かった事情もある。


 実は日本の方が、万一を考え上海租界から退去しようとしたのだが、それを聞きつけた各国租界領事長に泣きつかれ、清国政府の横暴など許さないからと念書(契約書ではないが、ある一定の拘束力を持つ書式)まで書かれて、留まる事になったといういきさつがある。当然だが、日本の船も当たり前のように上海の岸壁に係留されている。

 今、日本との取引が失われることになれば、上海租界の減収は取り返しがつかない額となる。そうなれば各国領事長は自分の首すら危うくなってしまうのだ。

 加えて、日本の医師は世界レベルでもトップクラスで、それに頼りきっている領事長やその家族が悲鳴を上げた。また帝国重工が作り出す奇跡の医薬品は、抗生物質や抗高血圧剤、狭心症予防薬など、支那の不潔で危険な環境から身を守るためには必要不可欠、今やそれが途切れるなど考えるだけでも恐ろしい。

 例えばハエ。租界の中でもかなり多いが、租界の外に一歩出ると、窓が開いていれば、食事はハエを食べる覚悟をしなければとても食べられない。そのほかの虫も言うまでもなく、日本製の殺虫剤は今や必需品の一つで手放せない。

 租界の外では疫病は当たり前で、道端に腐乱死体があるなど珍しくも無い。

 そして、欧米から東アジアの果てまで来てくれるような奇特な医師は、宗教関係者でもない限りめったにいない。日本の医師とその技術、『医は仁術』と断言する精神性、日本の優れた医薬品を手放すことは、自分や家族の命にかかわる。

 加えて上海租界で取引が出来なければ、日本は上海からの船を受け入れないので、物資は欧州を経由するはめになってしまうのだ。


 さらにえげつない話だが、清国は通商条約を破棄したが、他の国が日本製品を仲介することは可能である。つまり、上海租界で仕入れた日本製品を、清国の足元を見て思いっきり高値で売り付けることができる。しかも、それを世界中が知っているのだから、どの国も情けも容赦も欠片も無い。抗老化化粧品、奇跡の医薬品、高性能燃料ペレット、etc・・・、それ無しには話にならない日本商品が多すぎた。

 清国宮廷後宮や、各地豪族や軍閥の長たちも、『何が何でももってこい!』と絶叫するありさまで、今や清国は涙ちょちょぎれるような取引をせざる得ない。これがまた、税の高騰や宮廷への恨みが猛烈に高まる原因となっていた。


 そしてとどめが、この数年で清国の国内での威信が、ほぼ消滅していることだ。

 数年前まで清国皇帝の顔色をうかがっていた欧米各国だが、今では清国宮廷全体で、各国の顔色をうかがわねばならない状況にまで逆転している。徴税すらもうまくいかなくなれば、王宮に存在価値は無い。各国領事長たちの鼻息は荒くなる一方であり、清国の国政など、彼らから見れば『横暴』の一言で済み、空気よりも存在感をなくしていた。



   そういう事態であるため、先日から繰り返されたテロは、各国領事長たちを本気で激怒させ、恐怖に打ち震えさせていた。

 清国からむしれるだけむしり取れる、これほど美味しい商売のタイミングは、おそらく二度と巡ってこない。だが逆に、今日本が退去したら、上海租界は破滅してしまう。

 オーバーに聞こえるかもしれないが、影響は商業の売り上げが激減するだけではないのだ。

 日本側には弱みを悟られないために必死に隠しているが、清国の物価が急騰していて、その影響がじわじわ染み込んでいた。海運の方も極めて不安定で、物資の供給が悲鳴をあげていた。これは、ロシア連合艦隊の壊滅と、大西洋での日本軍の行動が、国防のために商船の護衛船まで駆り出さねばならない状況に追い込まれているため、海賊の被害が急増していたからだった。直接被害を受けなかったイギリスも、軍艦商売繁盛の反動で船が足りず、他国の商船の護衛まで引き受ける余裕が無い。

 オーストラリアなど悲惨で、戦争投機につられて高値で小麦などを大量に輸出したのだが、海運の輸送がとぎれ始めると、食糧不足が起こってしまい、無能で傲慢な大統領が気づいた時には、物価が急騰して収集がつかない状態になっていた。母国である英国はさぞ頭の痛いことだろう。

 上海租界は、極めて運行状態の良い日本の商船が、安定して物資の供給をしてくれているから良かったが、そうでなければ物価は暴騰し、危機的状況に追い込まれている。


『何が何でも、先日のテロを起こしたバカどもを捕まえて吊るしあげろ!、どんな手を使っても構わん、でなければお前たちを吊るすぞ!!』


 領事長といえば、租界では最高責任者。権限的には、一国の宰相に匹敵する。各国軍司令官たちは、さすがに真っ青になった。

 もちろん、司令官たちはそれ以上の怒声で部下へ怒鳴りまくった。末端の兵隊たちこそ災難だ。




 すでにテロの実行犯たちは壊滅し、地の底に埋められているが、夜の闇を見ている京子は、それを各国に伝えるつもりはない。これは帝国重工の総意でもある。

 上海租界側は、日本の商船が命綱になっていることを悟られまいと必死に隠しているが、それも帝国重工は知っている。

 金網の中のネズミが、飢えて、凶暴になっているのをじっと観察するように、京子は上海の闇を見つめていた。


『袁には、もう少し生きていてもらわないと・・・ね。』

 もし袁世凱が、この平板で何の感情も感じられないセリフを耳にしたら、恐ろしさで腰を抜かしたことだろう。


 今日の彼女は、細身だが芳醇な体にぴったりした薄い漆黒のドレスを着ていた。  長い黒髪の輝きと、白い肌の対比で、彼女を非常に美しく映えさせていた。

 だが、巨大なガラスに映る彼女は、暗闇そのもの。恐怖を司る女神であるかのような闇の輝きをまとっている。

 彼女の心のつぶやきは、何かの断罪や、宣告の言葉としか聞こえなかった。



 彼女の視界のなかで繰り広げられている出来事が、何かの未来を象徴するかのように展開する。



 司令官たちに怒鳴りまくられ、夜遅くまでこき使われる末端の兵たちの怒りが、さらに誰かに向けられるのも、一つの連鎖。



「ちっ、こぎたねえシナの豚か。手間かけさせんじゃねーよ。」



 闇の中に二発の拳銃音が響き、小さな姿が二つ、ぼろきれのように転がった。
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