■ EXIT
ダインコートのルージュ・その31


≪エキゾチック・テレス 9≫


その日は、珍しいほどの快晴だった。

穏やかな波と、ゆったりとしたうねり。
陸上からすれば、2メートル近いうねりでも、この海に慣れた者たちからすれば、ゆりかごのように穏やかに感じる。

その穏やかな青い海面の一角に、あまりに武骨で非常識な代物がそびえたっていなければ、さぞかし心地よい光景だっただろう。


おびただしい鋼材を組み合わせた土台が、奇怪なオブジェのように海面から突きだし、巨大な平面を支えている。
さらにそれを前後に、左右に、上にすらも拡張するために、おびただしい人間がアリのように群がり動いていた。

船が近づくと、その威容は迫力を増し、縦横100メートルを越える規模があることが分かる。

そして、その中心にあるボーリング装置が、唸りをあげて海底の掘削を始めていた。




「いよいよ始まりますな。」

ノルウェー最大の商人、モンフェ・レグリの声も興奮を抑えきれない。

「ああ、これからだ。」

デンマーク第二王子カールが、うれしげに応えた。




イリュミン・ダイア商会が、海洋油田開発に乗り出す。
その権利保全のためにデンマークを巻き込み、利権の一部と引き換えにカール王子をノルウェーに国王として出させるのである。


ただ、問題が無いわけではない。


20世紀直前のこの時代、もはや絶対王政は廃れていき、立憲君主制や議会制に世界は変わりつつある。

植民地以外は、新たな領土など得る機会が無く、ましてや新規の王家の成立など、ほとんどありえなかった。

大国ならばまだしも、中小の王国では直系傍系を問わず、次男以下の男子には王族というだけでもらえる財産は極めて少ない。ましてや分け与える領土など無い。

デンマークでも、カール王子の下に2人、伯父や甥も含めると10人近い男子が王家に連なる。

ノルウェーという豊かとはいえない王国とはいえ、王家の再興のために招かれるカール王子に、嫉妬やねたみが起こるのは当然だった。
出来るなら自分が成り変わりたいという者もいる。

中でも38歳になる伯父のセアン・カン・ドニエプルは、カールが若すぎると反対していた。
そしてこっそり『私こそ年齢、経験共にふさわしい』と根回しを繰り返している。
(この伯父、先々代の国王の遊びで出来た子で、侯爵家に入り婿で入ってはいるが、まだ当の侯爵は健在なため、未だ単なる婿養子に過ぎない。)

ただ、ノルウェーの方が、がんとして『カール王子こそ!』とゆずらない。

その上、ノルウェーの独立を承認する肝心かなめの同君連合スウェーデン王国も、カール王子以外なら承認しないとまで言い出すしまつ。

ノルウェーとしては、海底油田の開発に対する大恩があり、この人無くしてはダイア商会が動いてくれない。第一、王室復活の中心人物モンフェ・レグリが心酔している。

スウェーデンとしても、アメリカ企業でありながら、スウェーデン人が構成しているダイア商会の発展は国の未来がかかっていて絶対に手放せない上に、テレスの存在がかなりの影響力を持っている。そして、北欧連合の議長に就きたいという名誉欲の塊のような王の欲望もある。その下準備を各国に存分にしてくれているのもテレスなのだから、彼女の意向無しには話にならない。

そしてセアンという男は、我欲が強く、外交や貿易にやたら身を乗り出し、自分の利権を確保しようとする。

この人物に限らず、王家に連なるというだけの人間は、地位の割には収入が無いので、自分の利権確保に必死になるのは仕方のない事かもしれないが、身の程を知らない人間ほど、分不相応な権力にしがみつこうとする。この男はそういうたちが悪いタイプで、外交上でスウェーデンとは何度ももめ事を起こしているからひどく嫌われていた。

貿易の大臣職(かなりの閑職)だった時は、臨検だと言って、デンマークに入港直前のスウェーデン船に乗り込み、積荷の洋ナシをいきなり『がぶっ』と噛み、ペッと吐き出した。

「まずい、病気が入っている可能性もある。こんなものを我が国に輸入しようなどと迷惑だ。」

と、言いがかりに等しい非難をした。異様なパフォーマンスに、その船は反論もろくにできないまま、突然輸入を禁止され、積み荷はほぼ廃棄せざる得なくなった。

大損害を被った船を見て、他のスウェーデン商人も恐れをなして輸出をためらい、農業や商業にひどい損害が出た。
逆にデンマークの商人たちは、果物などが高値のままで、大いに儲けた。そちらから前もって、セアンへの献金があったのはいうまでもない。

もちろん、こんな乱暴な手段は国家間でもめ事になるが、セアンは『私は身体を張って仕事をしているだけだ』と、王弟と侯爵家の権力を振りかざして自分の責任はまるで知らんぷりで、部下に全責任を負わせてしまった。責任を無理やり負わされ、首にされた役人の『 Tin kan! 』(直訳すると『空き缶野郎!』、脳無しを意味する)というデンマーク語のののしりは、セアンのミドルネームもあって、あっという間に広まったそうである。 周りは迷惑極まりないのだが、こういう人間はいつの時代も変わらない。


ちなみに、この騒動の火消し役の使節としてスウェーデンに行ったのが、まだ年若いカール王子だったというのも皮肉という他なかろう。
宮廷では『放蕩者』と思われているカール王子だが、こういうもめ事の使節として、別な見方をすれば人質役として、何度も他国へ『気軽に』出向いている。

各国首脳が彼を見込んでいるのも、こういう損な役割を、恐れ気も無く背負う勇気を買っているからであり、カールの言動は信頼されている。こういう勇気ある人間が人気があるのも、いつの時代も変わらない。



今回の騒動は、さらに油田の利権が絡んでいる。

もちろんデンマーク王国としては、自国の王子が王位につくという、これほど安心できる保証は無いのだから喜んでいる。

だが強烈な金の臭いは、暗い願望を持つ者たちを、強烈に引きつけるのである。

先日のカール王子を狙った暗殺者も、油田の問題が発覚してからだった。


「あの暗殺者を雇ったのも、セアンのようです。」

「ふむ・・・、しかしよくそんな金を出したものだな。」

セアンがどケチであることも良く知られている。そして職業的な暗殺者は、前払いしか受け付けない。
『あの』セアンが前払いするなど、日が西からのぼってもありえないような気がする。 失敗すれば死ぬ確率は高く、成功したとしても即座に逃げなければならない。彼らの仕事に、後払いというものは無いのである。

「どうやらイギリスのバルフォア第一大蔵卿が動いたようで・・・。」

モンフェが片目に皮肉な笑いを浮かべる。

イギリスの辣腕で知られる第一大蔵大臣、彼が北欧のこの位置にある油田の重要性に気づかない訳が無い。
出来ればその利権を全てかっさらいたいと思うのは、当然至極のことだろう。

バルフォアは最初は英国の得意技『外交』で、それに割りこもうとした。
大英帝国の圧力と、手なれた外交戦で北欧各国を翻弄し、仲たがいをさせて争わせ、その仲裁をしながら利権を根こそぎ奪うつもりで乗り出したのだが、北欧各国は頑強な抵抗と共闘を見せ、ちっとも英国の思う通りに動いてくれない。下手に手を出すと大やけどをしかねないと悟り、戦術を変更したのだった。

バルフォアを『英国の若造』とせせら笑い、国際外交の裏の裏まで知り尽くした大商人モンフェに、テレスの(そのバックの帝国重工の)サポートがあれば、英国の外交ごとき手も足も出るわけが無い。かいくぐった修羅場の数が違いすぎる。

カール王子は黙っていた。表情もまるで動かない。
だが、カールとつきあいの長いモンフェからすれば、これは王子が何か考え込んでいる時の癖だった。

「変な話ね。」

カールの後ろからテレスが、補足するようにつぶやいた。
呆れたことに、彼女は王子の背中に背中あわせにしなだれ、広い背中に猫がじゃれついているかのようにもたれている。
人目が無ければ、それこそ猫同然にひざの上にのっていたかもしれない。
ちなみに今日の彼女は、これまでのようなヒラヒラエキゾチックでは無く、軍服と黒皮のブーツ姿になっている。


「テレスもそう思うか?。」

「そうね〜」

カールの肩に、頭を持たせかけ、子どもが甘えつくような姿でのほほんとした口調は、まるでただの恋人同士、いやもうバカップル。

だが、彼女の後頭部が肩にくりっと動く。カールも軽くうなづく。それだけで、ある会話が成立したらしい。

モンフェの眩しいものを見るような視線が、二人を見ていた。




数日前に、テレスは突然王子の元を来訪した。
偶然襲撃者があったとはいえ、もともとこっそり王子の元を訪問する予定だった。

だが、この聡明な王子は、その理由をあらかた読み切っていた。

スウェーデンのダイア商会に現れたアメリカから来た女が、国中を駆け廻り、大変な話題をさらい、王家や貴族たちを骨抜きにしていると聞き、王子は『テレスのような女だな』と首をひねった。そして本当にテレスが現れた事で、納得したのだった。


テレスは、王子の元を訪れると、ゆっくりとこれまでの活動を語った。


真夜中の静かな語らい、これこそが、テレスの作戦のかなめであり、最大の山場であったといえる。


彼女の活動は、ほぼ全てが日本と帝国重工の利益になり、王子の元を訪問しなくてもその効果は大きい。
さらにカール王子の理解と協力が得られれば、その効果と効率は何倍にも高くなる。ノルウェー国王となる彼は、これから北欧最大の要石になるはずだ。
だが、カール王子がそれを警戒したり、反対すればどんなマイナス効果を引き起こすか、想像がつかない。

イリアの行動心理学分析(プロファイル)でも、さすがに『成功6割弱、失敗4割強』という所までしか出せなかった。

人間の心理というのは、過剰なほど感情部分が大きい。
しかも、深層心理の自分でも見えない部分ほど、その影響は激しくなる。
そして思想や宗教感の違い、環境や言葉の違い、他民族に理解を求めるのは実に困難を極めるといえる。

例えば日本が成功を続ける時には、恐ろしく敵対的な感情だけが強かった国が、大天災で急落したとたん、急激に同情を帯びたりもする。
日本が変わるわけではないのにである。

衝動、疑念、不安、わずかな心の揺らぎが、歴史上さまざまな国家の平和を戦争に変え、友好を敵対に変えてきた。

何より、テレスが活動する理由は日本のためであって、ノルウェーやデンマークのためだけに活動するなどという事はありえないのである。
それをカール王子は知っている。まかり間違えば、『日本に利用されるだけではないか?』という激しい警戒と疑念で、全てが無に帰すかもしれない。

ただ、高野司令だけが『きみの思う通りにやりなさい。』と後押ししてくれた。

だからこそ、テレスは隠さずにこれまでの活動を語った。
決して長いとは言えないが、カールの事をいちばん知っているのはテレスであり、彼女は彼を信じて全てをぶつけた。
(さすがに最高機密のレアメタル収集などは隠しているが)

カールは穏やかに微笑しながら、それを聞いていた。

「よく話してくれた・・・・というより、よくぞ話す気になったものだな。」

話を聞き終わり、半分嬉しげだが、残り半分は呆れた口調で、眉を下げるカール。

「テレスが自国のために働いているのはよく分かる。そして日本のあり方を見れば、他国と共存しようとしているのは、その行動で明らかではないか。」

ぽんと、彼の大きな両手がテレスの肩に置かれる。

「小国同士がいがみ合って何になろう。お互い役立ちあう事こそ肝要だ。だが・・・」

そこでちょっと姿勢を戻すカール。

「正直言って、きみで無ければ疑っただろう。今の世界は、あまりに欺瞞と虚偽が満ち溢れている。同じ意味で私に語るのは、さぞ悩み抜いた事と思う。」

「カール・・・・」

テレスの頬が染まる。

「だが、きみは勇を鼓舞して私に本音を語りに来た。きみの男は、それを疑うような腐れ男ではないぞ。」

テレスの必死さは、カールにもしっかり伝わっている。

全てを任された故にこそ、テレスはここまで本気で悩んだ。準高度AIとしてこの世に生まれて、これほど悩んだことは初めてだった。

確率論では無い。万が一失敗しても、後悔はしたくない。言わずに去れば、それこそ一生後悔するだろう。


テレスは、目を潤ませてしがみついた。


その夜以来、テレスはカールにまといつき、離れようとしない。

カールも、この豪胆な王子は平然として彼女を側に置いている。


二人とも分かっているのだろう、もうすぐ『タイムリミット』が来るということを。




薄暗い穴倉のような酒場の隅、誰もいない店の奥。


「問題無いネ、捨てられる女が、狂乱して無理心中。誰も疑わないアルヨ。」

丸い黒メガネをかけた、ドジョウひげの小男が、怪しい口調で笑った。

「お前たちこそ大丈夫なのか?。“黒爪イアサバット”も失敗したのだぞ。」

フードをかぶり、まるで顔が見えない男が、心配げにつぶやく。
ただ、上質なマントと、白い太った指にはめた指輪は、かなりの値打ちものである。
“黒爪イアサバット”は、先日カール王子を襲撃した、カギ爪をつけた暗殺者の事だ。

「あんな2流と一緒にしてほしくないアル。それとも、その身で確かめてみるアルカ?。」

とたんにぎくりと身を引くフード男。

「そ、そんな事をしたら、損な事にしかならんぞ。」

怯えを知られたくないのか、どうにもしょうがないダジャレで誤魔化そうとするが、語尾が震えているのだから、意味がない。

「そういうクダラナイジョークは、嫌いアル。」

黒メガネの下から、細い目が強い殺気を発した。
実際、言われたら誰でも殺気を抱きたくなるだろうが。

ジュッ

テーブルの真ん中にぽとりと黒い液が落ち、嫌なにおいを発した。

「ひ・・・・!」




カール王子が、ノルウェー国王として迎えられることが公式に発表されるのが、1週間後の4月23日と決まった。
この日は、キリスト教最大の祭り復活祭(春分の日の後の最初の満月の次の日曜日)でもあり、国をあげてのお祭り騒ぎになる。

ただし、それゆえに危険でもあった。

この発表後は、カールの立場は公的なものとなり、おいそれとは手を出せなくなる。
だが、発表直前に亡き者に出来れば、急いで代理を立てて、穏便に済まそうとするだろう。 特に国の大部分を占める穏健派は、なし崩しにそれに同意するに違いない。

カールの将来の地位と権力を奪いたい者たちからすれば、この一週間が最後のチャンスだった。

ただし、カールを狙う方も簡単にはいかない。何より競争相手が多すぎる。

一番良いのは、カールを暗殺した相手を即座に糾弾し、自分が無傷で後釜に座ることだ。

そのためお互いがお互いを見張り合い、まさに4すくみ5すくみの状態という、滑稽なありさまだった。


一つには、今のカールはあくまで『放蕩者の第二王子』に過ぎず、扱いも警護も何も変わっていない。いわばほったらかしに近い状態のままである。

王家や貴族の腐ってドロドロ、粘っこく糸を引きかねない世界では、暗闘や策略は呼吸するように当然であり、公的立場に上がろうというなら、それすらかいくぐれないようでは、どちらにしろやってはいけない。いわば弱肉強食、強者の論理だけが通用する。

暗闘の中でぶつかりあったのか、末の王子と伯父の一人が急死し、密かに密葬された。とても公にできる死に方では無かったらしい。


カールの最大の庇護者であるモンフェは、己の手駒や選りぬいた警護者を配置し、残りの7日間を万全に近い警護を敷いた。

もちろん、テレスについてはモンフェの方が知っているらしく、カールに同行する事に何一つ口を挟まない。
夜の襲撃者を撃退したことも、すでに詳しく知っている。


5日目の夜に、密かな襲撃があったが、これは飛んで火にいるなんとやら。

黒装束の一団5人が、闇夜に乗じてカール王子の塔へ侵入を試みたのだが、警護陣と、特殊作戦群の超遠距離射撃により、何事も無く終わった。

“SIG SG-GGX”スイスのシグ社のSG550の設計思想を受け継ぎ、高性能レーザーサイトを備え、超伝導コイルによるレールガン化された零反動精密射撃銃は、火薬を全く使わず反動ゼロ。その結果、昼間の有効射程実に3500メートル、夜間でも2500メートルを優に捕える。もちろん、薬きょうもいらず、弾体だけである。数日太陽電池で補充しておいたバッテリーは、150発の連射が可能だ。見かけはやたら太く分厚い1メートルほどの黒いパイプに、わずかな機械部品とレーザーサイトと銃把があるだけで、4本のフレシキブルアームが射撃手の思うままに銃を支えている。

超電導コイルの生産ができないため、21世紀から持ってきた分50丁だけの秘蔵の秘密兵器だが、それだけに威力は恐ろしい。

隙の無い警護陣に、黒装束の一団は何とか侵入路を探そうと大きく迂回して、その身を闇に晒した。

その一人を、緑の画面がクッキリと捕えた。
レーザーサイトのクロスが重なると同時に、狙撃者の荒木隊員が引き金を引く。


キュンッキュンッキュンッキュンッ キュンッキュンッキュンッキュンッ キュンッキュンッキュンッキュンッキュンッキュンッキュンッキュンッキュンッキュンッ キュンッキュンッキュンッキュンッ キュンッキュンッキュンッキュンッ


たった一発の射撃が、同時に数千の矢を放ったかのような奇怪な音を放つ。

わずか1メートルほどの超電導コイルは、タングステンをかぶせた弾丸を瞬時にマッハ4まで加速し大気中に放った。
この速度ゆえに、有効射程距離内では風の影響をほとんど受けないのである。 通過した場所が一瞬赤みを帯びる。熱力学第一法則により、空気が摩擦で高温を帯び、熱を光にして発したとしか思えない。

目標の頭部は、サイトの向こうで手榴弾でも入れられたかのように爆発した。 驚愕する一団から、もう一人犠牲者を撃ち抜くと、動揺した黒装束たちはあわてて引き返し、警護陣に悟られてあっという間も無く全滅した。

もっとも、この時代にこんな怪物兵器で狙撃されては、100人程度の部隊でも、夜昼関係無しに即座に全滅してしまうだろう。




そして7日目の朝が明けた。

にぎやかにさざめく街角、その辻辻に王宮からの使者が立ち、声を張り上げる。

『デンマーク王家第二王子カール様が、ノルウェーの新国王として迎えられる事が決まった』と。

これで、一応区切りがついたとモンフェはほっとした。

だが、テレスは何かが気に入らなかった。

彼女の感覚系は、他の準高度AIよりもかなり鋭く、可聴域、可視光もかなり広い。

それ故なのか、戦場でのカンとも言うべき、危機感覚がまるで人間のように鋭敏で、敵の襲撃を警報機よりも先に予感した事が何度かある。

モンフェに、カールのこの後の予定を聞いた。

公表の2時間後、バルコニーで国民へのお披露目があるという。

とたんにテレスの顔色が変わる。


公表は言葉、お披露目は視覚、どちらが印象が強いかは言うまでもない。

さらに、スウェーデン、ノルウェーの代表者たちとの調印式はお披露目の直前だという。

警備の厳重な王宮にいる事が安全なのではない。だれもが安心しきっている今が、一番危険だ。



「やあ、ここにおられましたか新国王。」

控えの間に座っていたカールのところへ、あごの大きなしもぶくれの顔がのぞいた。 身体も太り気味で、顔つきも穏やか。細目の目じりが下がっていて、気弱く善良そうに見える。太い指には見事な細工の指輪が光っていた。

王家の四男にあたるクリストフェルゼンだった。

「まだ予定が決まっただけだよ。その敬称は詐称になってしまう。」

苦笑いするカールに、彼も笑い返す。クリストフェルゼンは17歳のはずだった。

「まずは前祝いと思いまして、私の秘蔵のワインをお持ちしました。景気づけにいかがですか?。」

「うむ、いいな、いただこう。」

彼の執事が、小さな台車を押してくる。ワインと、黄金のゴブレットが二つ乗っていた。 ゴブレットとは足のついた、取っ手の無い酒杯の事をいう。

「ルイ14世が作らせたワインの一本だそうです。お口に合うと良いのですが。」

ワインよりも、黄金の酒杯で飲ませるという『成金趣味丸出しの行為』(本人は『エスタブリッシュメントな行為』と思っている)こそが目的らしい。

それを嫌がって相手の顔を潰すほどカールも子供ではなく、それに周りは警護しかいないのだから、弟を立ててやることにする。

白ひげの執事が、手際良くワインのコルクを抜き、クリストフェルゼンのゴブレットに軽く注いでティスト。

「うむ、良い味だ。」

二つのゴブレットに注ぎ分けられた濃い紫色の面から、えも言われぬ香りが立つ。なるほど逸品らしい。


「カール王子、少しお待ちを。」


いきなり耳元ではっきりと聞こえた声に、カールもクリストフェルゼンも危うくゴブレットを取り落としそうになる。

声が聞こえる直前まで、誰もいないと思っていた隣に、テレスが突然現れていた。 別に空を飛んだわけでも、姿を消していたわけでもない。ましてや空間移動などするわけも無い。

ただ大急ぎで部屋に忍びこんだだけの事だが、さすがに特殊作戦群の隠密歩法は、足音も気配も極めて少ない。テレスの事はよく知っているとはいえ、警備の二人も愕然としていた。


テレスの細く強い指が、クリストフェルゼンのこぼれそうなゴブレットをさっとさらい、同時にカールのゴブレットもすくい上げ、瞬時そのゴブレットが宙に浮いて見えた。

右へ左へ、ワインの流れに逆らわず、回る角度にグラスを合わせ、くるくると位置が回転する。
まるでテレスの周りで、黄金のゴブレットがペアダンスを舞っているかのようだ。

ぴたっと、ゴブレットのダンスが終わると、揺れ動いていたワインは完全に静止していた。


「あら〜、どちらがどちらだったかしら?。まあ、どちらでも構いませんでしょう、ささどうぞ。」


にこやかにほほ笑みながら、その目の中の光だけが猛獣のようだった。

クリストフェルゼンの顔色が、瞬時に青ざめる。

「どうしました、さ、どぅぞぉ。」

楽しげに、しかし白い歯をむき出しにして獰猛に笑うテレス。

カールも、テレスの獰猛な笑いの意味に気付いた。その笑いの下にあるのは、凄まじい怒りだ。

クリストフェルゼンは、何かもごもご言ったかと思うと、だっと見かけによらぬ素早さで逃げ出し、白ひげの執事はおろおろしてそのあとを追いかけた。
捕まえたかったが仮にも王族、それにカールのそばを一瞬でも離れることは危険だ。警護の者たちも、きょとんとしているだけだった。

テレスはパウチから細い筒を取りだし、小さな紙片を二枚だして浸した。検査試薬キットの毒物判定用紙である。

「うおっ!?」

剛毅なカールも、さすがにうめいた。
クリストフェルゼンのゴブレットはワインの色そのままだったが、カールのゴブレットは、即座に真っ黒に変わった。

「カールに渡すゴブレットの底に、毒を塗り込んであったのね。ワインを注げば、それが溶け出す仕組みなのでしょう。」

毛細管現象で、紙の上に染み上がった色が、毒々しい青とどす黒い赤の縞をつくる。
水分で発生する微弱な電気イオンで、短時間でおおまかな毒の分析までできるのである。

「この色の組み合わせは、遅効性の強力なアルカロイドです。おそらくトリカブトと呼ばれる植物の根に特殊な加工を施したもの。味はわずかに刺激があるだけですが、飲めば1〜2時間後に、心臓が止まります。」

同じワインを飲んで、片方だけ心臓が止まるならば、毒殺を疑う者はまずいまい。

カールの目が細くなる。

「となれば、これだけでは無いな。」

つぶやくと同時にすっと窓から離れた。

カシャン

まさにそのタイミングで、窓から黒い塊のようなものが飛び込んできた。

『手榴弾!』

窓から離れるカールを合気道の動きでさらい、テレスは豪奢なソファの陰に飛び込んだ。

DONN!

手榴弾は、点火ピンを抜いて、数秒後に爆発する。
よほどなれた兵士でも、目標に届いてから爆発には、わずかにタイムラグが起こる。

そしてこの時代の代物では、部屋全体を破壊するほどの力はない。
ソファの陰に飛び込めば、かなりの確率で無傷で済む。

間の悪いことに、外では祭りの花火が時折上がり、手榴弾の音を聞いた人間を錯覚させていた。
警護の二人は吹っ飛ばされ、片方は骨折、もう一人は失神している。

この控室も豪奢だがあまり人の来ない場所の部屋を用意し、襲撃の手筈まで整っていると考えて間違いない。
手榴弾のあと、とどめを刺しに来るはずだ。テレスが肉食獣の素早さで動いた。

バンッ

ドアが外に勢いよく開いた。

だっと二人の黒装束が、低い姿勢で飛び込んできた。

「ぐあっ!」
「ぎゃっ!!」

だが、飛び込んできたとたん、その場で血まみれになって転げまわる。一人は両目を失い、もう一人は手首がちぎれている。
血を帯びた極細の単分子ワイヤーがギラリと光る。

忍者のゲリラ戦法の一つに「風閂(かざかんぬき)」という技がある。 極めて強い糸を、敵が走らなければならない場所に仕掛けておき、自分で自分を切ってしまうように誘導するのである。

ドアが開いた瞬間に反撃が無かったため、敵は室内の者が無力化されていると錯覚してしまった。

金属単分子結晶の強化ワイヤーは、そっと扱う分には問題が少ないが、ピンと張るとカミソリより鋭い。
そこに低い姿勢で全力で飛び込んでしまったのだから、悲惨という他はない。

だが、倒れこむ二人を踏み台にして、小柄な丸い影が室内に飛び込んできた。

黒い丸メガネをかけた、ドジョウひげの中年の男だった。

テレスのハンドガン、グロッグ改造銃が瞬時に火をふいた。

壁に飛んだ男が、蹴って別方向へ移動することまで予測した火線だったが、男はそのまま垂直の壁を真横に走った。
毒龍のあだ名を持つ、暗黒街でも名の知れた殺し屋は、恐るべき技でテレスの火線をかわすと、魔術のような速さで口に2連の筒を当て、吹き矢を噴いた。

一本はカール、直後もう一本はテレス、どちらも心臓を狙って。

黒く光る矢は、明らかに猛毒が塗られている。カールにこれをかわす技量はなく、テレスが彼をかばえば彼女が即死し、ほぼ間違いなくカールも暗殺される。

『これぞ比翼の鳥ネ。二人仲良く死ね。』

比翼の鳥とは、雄雌が一心同体で飛ぶ伝説上の鳥のこと。どちらか片方を失えば、もう片方も生きていけない。
まさにそれを皮肉った殺人技だった。加えて二人が死ねば、テレスが無理心中を仕掛けたことにするつもりである。


だが、テレスの目は赤々と燃えていた。

神経が極度の集中から高速化し、アドレナリンが煮えたぎる。彼女の時間だけが数倍に加速する。
男が2連の筒を口に当てた瞬間、その意図まで読み切った。

瞬時にグロッグを手放す。

コンマ一秒でベルトの筒の一つを掴み、次のコンマ一秒で引き抜くと、胸の前で相手に向け、その筒の後ろを左手で叩いた。

パンッ!、ガシャッ

軽い炸裂音の後、グロッグが床に落ちた。グロッグの系統は手を放すと安全装置が自動的にかかる。落ちても暴発する事はほとんどない。
同時に特殊マイクロファイバー製の薄い膜のような網が、直径2メートルの円となって襲撃者に襲いかかった。
特殊作戦群の隠密作戦用対人捕獲ネットである。

ジャジャジャジャジャッ

この特殊マイクロファイバーは、細かなクモの巣のような形で編まれていて、空気に触れると外周部の外糸から急激に収縮する。 広がりきってコンマ数秒後にそれが起こる。

イソギンチャクが獲物を捕らえるかのように網がギュッと口をすぼめ、襲撃者を取り込んだかと思うと全体が急激に収縮し、あっという間にぎりぎりと包み込み、締め上げてしまった。舌を噛もうとすれば、開いたあごの関節まで締めつけ、閉じることすらできなくなる。
しかも、この繊維は防刃性が高く、並みの刃物では切る事すらできない。当然吹き矢は網にとりこまれてしまっている。


「王子っ、カール王子いいっ!!」

テレスの時間が通常に戻ると同時に、モンフェの悲鳴のような声が聞こえた。

モンフェは手練れを率いて、殺し屋が逃亡用にそろえていた部下を蹴散らし、どっと部屋に飛び込んできた。

「今度こそ、無事に終わったようだな。」

「そうね・・・」

極度の神経集中から、ふらりとふらつくテレスの肩を抱き、カールがくすくすと笑い始めた。

そしてテレスも、ふたりして高らかに笑い始めて、なかなかそれは止まらなかった。




騒動から2時間後、大歓声のあがるバルコニーに、カール王子の雄姿が現れる。
王宮では『放蕩者』と言われていても、活動的な王子の人気は想像以上だった。

騒動全てを押し隠し、何事も無かったように儀式は進行していく。

いかなる血生臭さも、みじんにも感じさせず、冷酷に時と行事は流れていった。


騒動への追跡は的確に行われたが、先日の寝室での襲撃と同様に、この襲撃の首謀者は伯父のセアン・カン・ドニエプルと『言う事になった』。

『言う事になった』というのは、カールがバルコニーに現れる前、デンマーク・スウェーデン・ノルウェーの調印式直前に、セアンが心臓麻痺を起して死んだのである。
もちろん、カールと同じ毒による毒殺だろうとテレスは見ている。
ケチでいじきたないセアンのことだから、慰めるふりをして薦められた名品の毒入りワインを、喜んでがぶ飲みしたことだろう。

ただ襲撃の依頼はセアンでも、襲撃者達への支払いは、クリストフェルゼンが現金で支払っていて、イングランド銀行が用立てていたことまでは分かったが、それから先は追跡できなかった。おそらくは、セアンが操り人形のように踊らされ、実質の首謀者はクリストフェルゼンとイギリスの第一大蔵卿あたりだろう。

クリストフェルゼンの足取りは、港で途切れた。
港に堂々と停泊しているイギリス軍艦(駆逐艦チャーチ号)に乗るのを見た者がいるが、調べるわけにもいかない。

騒動を広げぬためでもあるが、何よりイギリスは世界の大国であり、デンマークはそれに比べれば小国に過ぎない。
軍艦の調査などイギリスにケンカを売るようなものであり、できるわけがなかった。
いかなる正義も理屈も、力の論理の前には何の意味も無い。

たとえどんな陰謀をめぐらされようと、何人犠牲にされようと、『弱いからいけないのである』。 それが20世紀初頭の世界の正義であり、法であった。


だから、弱いままではいけないのである。


翌朝、チャーチ号は夜明けと同時に出港し、そそくさと港を出た。

「さて・・・ころあいよね。」

港を見下ろす王城の見張り台に、寒くないように毛皮のコート着こんだテレスとカール、そして朝食やシャンパンまでいそいそと用意しているモンフェ。普段は無表情に近いモンフェが、なぜか必死に笑いをかみ殺しているように見える。

「いったい何を見せてくれるんだ?。」

うきうきした口調で、カールも興味深げにテレスの見ている軍艦を見ていた。
朝早く叩き起こされてはいたが、『面白いものが見られるわよ』というテレスの一言で、ぱっちりと目が覚めた。
何よりお祭りごとが好きな王子は、『面白いもの』が見られるなら、努力と苦労は惜しまない。地球の反対側まで出向いてテレスと出会ったほどである。

二人の持つカールツァイスの新型双眼鏡が、出港する船を映し出している。
テレスの手に、小さなスイッチが握られているのが、いかにもまがまがしい。

「ポチットな。」

BOUUUUN

21世紀ではある意味お約束とも言える言葉で、港の外側へ出た船から、突如白煙が上がる。

艦内で急激に異臭のする白煙が発生し、むせたり転倒したりと大騒動になった。

「火事だああっ!、火を消せええっ。」

パニックを起こした新兵や下働きが、『なぜか船内のあちこちに偶然置いてあったバケツの液体』を、あわてて白煙めがけてぶっかけたとしても無理は無い。
ちなみに、バケツには『ペンキ用シンナー、扱いに注意』とか『ガソリン、危険』とか丁寧に書いてあって、それぞれおいてある事情まで横に張ってあった。

次の瞬間、パニックが数倍と化した。
中には、水と間違えてガソリンを頭からかぶって逃げようとして火だるまになり、そのまま息絶えるまで船中を駆け巡ったのまでいるしまつ。

前の夜に急いで出港しようと物資を積み込んでいたチャーチ号に、モンフェの手引きで特殊作戦群の4人が運送要員として堂々と入り、いろいろと悪戯を仕掛けている。
今回物資を搬入したのは純然たるデンマークの商人だが、モンフェの義兄弟であり、カール王子の大ファンでもあるため、事情を聴くと一も二も無く協力してくれた。

と言っても、非常に燃えやすく有毒ガスを発生させる透明樹脂のスプレーでラインを引いたり、あちこちにいかにもそれらしくバケツを置いて紙を張ったりして、2か所に発火装置を仕掛けただけである。
急いで出港するため、無理に燃料や資材を押し込んでいたチャーチ号は、そういう悪戯に気づく余裕も無く、しかも色々収納しきれていない物があちこちにあふれていたため、火事はまたたくまに広がっていく。



あっという間に浮かぶ松明となって燃え上がるチャーチ号に、3人はシャンパンを抜いて乾杯した。



もちろん港のそばであり、夜も明けているので、ぞくぞくと救援の船が向かい、極めて死者は少なかったらしい。

火薬庫に火が入ったのか、轟音を立てて爆発するチャーチ号を、港の野次馬たちは拍手と歓声をあげて見物していた。
なにしろ、まだ復活祭の酔いが残っている。当分の間『港を出たとたんに火災を起こして沈没した間抜けな英国戦艦』は、恰好な話題のタネだろう。
そして、英国からもデンマークからも無視され、クリストフェルゼンの行方は全く知れなくなった。




調印式とお披露目も終わり、すっかり落ち着いた5日後の夜。

まるで芝居の休憩時間のように、その日だけはぽっかりと行事が開いていた。

だが、明日からはまた忙しくなる。

二人でのんびり風呂に入り、ごく普通にカールの自室でくつろいでいる。
だが、そんなテレスの様子に、鋭いカールは気づいている。
美しい瞳にも、優美な眉にも、少しだけ曇りがあった。

それゆえに、彼もまた決断をする。時が来ているのだ。

「テレス」

ひたりと、その唇が指先に封じられた。

「だめです、それは言ってはなりませんカール。」

だが、カールの手がむしり取るように手を握り、のけた。

「私の元へ来い。一生そばにいろ。」

猛然と、悠然と、そして真摯に。
テレスが何者であるかを知り、その裏を知り、それでも彼は妻として迎え入れる決断をしていた。

彼女の大きな眼が、ほんの少しゆらぐ。潤み、ゆらぎ、そして見つめる。

「もう・・・困った人。これからノルウェーの国王になろうという人が、世界の果ての公娼婦を妻にしてどうするおつもり?。」

「ならば世界に一人ぐらい、そういう王がいても良かろう。北欧の民は開放的だ、良い女を受け入れるぐらいの度量はある。」

そんな度量も無い国の王などごめんだと言われては、モンフェもため息をつくことだろう。 ただ、あの男はあの男なりに、テレスを受け入れる準備まで進めている。 カールにもそういう計算ぐらいはできる。


「・・・・・・」


沈黙が、甘く、そして残酷に時を刻む。
だが、テレスはふっと、軽く微笑む。ふっきれた顔で。


「あなたがあの時国を捨て、私のヒモにでもなっていれば、私は一生飼ってあげたんでしょうけどね。」


時はもう戻らないのだと、テレスは大人の表情で、軽く残酷に突き離す。
軽さとは時に残酷にもつながる。ただ、色合いは軽く、そして冷たくはなりにくい。

「テレス」

「でも、もう気がついているのでしょう?、タイムリミット。」

不思議な色を浮かべ、大きな瞳がただカールを見ている。
これから先は、カールはデンマーク第二王子ではなく、ノルウェー新国王としてのカールとなっていく。
それゆえに、彼女はタイムリミットと呼んだ。今夜がターニングポイント。

ノルウェーの新国王を世に送り出すならば、その門出に傷一つあってはならない。


『予定が早まったわ、用意はいい?』
銀河の掲示板に、テレスが発したデジタル信号が表示される。
『すべて順調です。』


「テレス」

「あなたの言葉を聞けて、私は女として最高に幸せよ。」

すっと、ガウン姿のテレスが立ちあがる。

「テレスッ!」

カールの叫びに、優しい目を向ける。

「優しく素敵な私の王子、楽しかったわ。」

窓が開き、ひんやりとした夜気が流れ込む。濃い藍色の長い髪がなびき、満月の煌々とした輝きが、濃い小麦色の肌を妖しく輝かせる。
豊かな胸元に、王子の送った指輪がきらりと光った。
あまりの妖しさと美しさに、カールは身体がしびれたように動けなかった。

「王子、覚えている?。日本の世界最古のSFのこと。」

「竹から生まれた姫が、月に帰る。『竹取物語』とそなたは教えてくれた。」

二人の呼び方がいつの間にか変わっていた。カールは『王子』に、テレスは『そなた』に。

「忘れていないのね。」

「忘れるものか、あの日々の一瞬すらも。」

去来する、時が、光景が、怒涛のように。


「愛しているわ、王子。だから・・・・・・・・、さようなら。」


ゴウン、ゴウン、

かすかな風鳴りと黒い巨体が、ユラリと空を陰らせ、夢魔の夢のような丸い闇が静々と降りてくる。

それを見た者は、みな呆けたようになり、月光の幻か、酒の幻覚か、あるいは自分は寝ているのだろうと思い込んだ。

そこから降りてきた縄梯子に、テレスはそっと移った。


「テレーーーース!」


身体の痺れを振り切り、テラスに飛び出したカールは、ゆっくりと離れていくテレスが、月光に輝いて見えた。
月に帰っていくかぐや姫のように。

「その指輪は、あなたの妻に渡せと、母からいただいたもの。その指輪を持つ者は、世界にそなた一人ぞ!。」

『Til dem der elsker』(愛する者へ)

内側にデンマーク語で掘られた指輪は、今も彼女の胸元に輝いている。


きらりと闇に、とても聖なる雫のきらめきが散った。
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