■ EXIT
ダインコートのルージュ・その31


≪エキゾチック・テレス 4≫


北欧の暗い空に、無数の尖塔を突き立て、繊細さよりも気の荒さを感じさせる城がそびえたっていた。

スカンジナビア半島から南、デンマーク王国王都、コペンハーゲン。

デンマーク王宮、内務第一大臣室。



「ノトトロ・ブルンギルダ内務第一大臣様、ご無沙汰しておりました」

「うんむ」

丁寧に頭を下げる中年の男性に、鷹揚にうなずく巨大な顔。

くすんだ金髪に、やたらと分厚い肉体、眠ったような濃い緑の細い目は何を考えているのか、読み取ることも難しいものがある。

黒を基調とし、少しだけ金糸をあしらった上質な服は、普通の大人なら二人は楽に入れそうだ。

だが、この二本足で立つ豚やカバと間違いそうな人物を、見かけで判断するとえらいことになる。内務第一大臣は、現代日本でいう、内閣総理大臣より重職だ。


「順調かの、商売の方は」

ノトトロの鈍い声は、眠たげにも、無関心にも聞こえそうな気がしてしまう。


逆に顔をあげた中年の男性は、女性なら思わずどきりとしてしまいそうな渋いハンサムで、それがまたよく似合う黒のアイパッチを左目にはめていた。

普通ならば、片目というだけでもひいてしまいそうだが、きれいな八の字ヒゲに整った顔立ちが見事すぎて、適度なしわとアイパッチが、いぶし銀のような『美しい渋さ』を作りあげている。もしこのアイパッチが無かったならば、ジゴロか夜の商売とでも思われかねないほどなのだ。

彼の名はモンフェ・レグリ、ノルウェー最大の商人であり、レグリ商会の頭首である。


「欧州向けのものは、それなりに。ですが、国内ではどうも・・・」

モンフェのすずやかな声に、何も言わぬ鈍そうな顔だが、そのまぶたがピクリと動くのを見逃さなかった。

でかい鼻が、彼の方を向いた。

「人か?」

「はい、仰せの通りです。明後日の船も、満席に近いかと。」

大臣のこれだけは細い眉が、わずかにしかめられた。

恐ろしく短い、わけのわからぬ会話だが、二人はお互いの腹の中まで探り合っているため、それだけの言葉で通じるのである。

二人の言葉を意訳すると、次のようになる。



『ですが、国内ではどうも・・・』

国内の商売、すなわち国内産業が振るわない。

大臣の『人か?』は、デンマークでも同じ現象が起こっている、それは人が減っている、つまり人口の減少が原因かと言っているのだった。 モンフェもそれに同意見だった。


そして人口の減少とはすなわち、新大陸アメリカへの人口流出を意味する。


明後日、またアメリカ行きの船が出る。
その船はほぼ満席に近く、その場合、家族ぐるみ移民する例が多いのである。


かといって、それを権力で押さえれば、食糧が足りなくなり、暴動なども起こりかねない。 特に寒冷の厳しい北欧は、農業は決して豊かとはいえない。

食えない人間を無理やりにとどめることは、非常に難しい。
だが、人口が減れば国力は確実に低下し、国内経済は沈静化していく。

まさにジレンマだった。


「王家があり、国威と人望が集まるデンマークはうらやましゅうございます。」

王家が絶えて、国民の意識が弱りつつあるノルウェーと比べ、まだまだ豊かで隆盛を誇るデンマーク王国はうらやましい限りだと、ノトトロのプライドをくすぐるような上手なほめ言葉に、ある意味も含ませてそっと呟く。

その意味が読めない内務第一大臣ではないが、分厚い顔面は、何の反応も見せなかった。

だが、沈黙も一つの返事。

モンフェはにこやかに礼をすると、座を下がった。

彼が出ていったドアを、細いまぶたの間から緑の目がチロリと見た。


『国威と人望、つまり王家が欲しいか・・・・まあ、考えてやっても良かろうが。』


昨日今日の話ではない、もう5年も前から、いろいろ運動を繰り返しているのは知っている。
行き場に困る王子もいる。デンマーク王家の血を、ノルウェーに移植してやるのも、ちょうどよいころあいかも知れんと、窓の外を見た。

『あやつめ、今日が何の日か、知っておったな。』

苦笑する大臣は、英国経由で入ってきた客船を見た。 この時間、このタイミングまで計って動く大商人に、ノトトロも苦笑するほかないではないか。

しずしずと入ってくるメリアン・クリスタ号には、たしか放蕩者の第二王子が乗っていたはずだった。




はしけから桟橋に身軽に飛び移る、190センチを超える見事な体格。
きれいな金髪に、薄い水色の目が燃えるように輝き、旅の間に身につけた何かが、その目の輝きを奥深いものにしていた。

活動的でなかなかのハンサムな王子だが、東洋での大旅行は彼に深みのようなものを加えていた。

カール第二王子は、桟橋で待っていた男に、目を向けた。

「出迎えとは、ご苦労だな。」

モンフェがにっこりと笑う。

ノルウェーを代表する大商人でありながら、この王子に対してだけは、まるで祖父が孫を見るかのような目を向ける。
そしてまた、二人とも水も滴るような美男子であるため、この光景は一服の絵のようである。

「お茶の用意がしてあります、まずは旅の話などお聞かせいただけませぬか?。」



モンフェは、デンマークにもいくつか邸宅を構えている。
もちろん、仕事や会合など大商人としての必要性からだ。


実を言えば、この時代になるとデンマークはイギリスに叩かれるわ、植民地を奪われるわとかなり落ち目で、海運などはノルウェーが追い越すほどになってきているが、そんなものを見せびらかせて、相手のプライドを傷つけたりすれば、商人失格だ。彼の邸宅も、見た目は地味だが、内装の上質さは王宮よりも上で、他国から集めた逸品(東洋のヒスイ細工、日本の島津焼、ベルギーの宝石と金の細工物他)が、そっと無造作に置かれている。


邸宅に、美貌の付き人や、たおやかな婦人など、女好きの王子を喜ばせるような人員をそろえ、長旅の疲れをいやせるよう用意をしてあった。

『女や財宝に惑わされない』というのは、王となる者の守るべき条件の一つ。
それに慣れさせるための、モンフェの思惑がここに含まれている。

慣れれば惑わされることは無い。慣れず、溺れるようなら見捨てるだけである。

だが、落ち着きを増した王子は、居並ぶ美貌の女性たちにも、屋敷を飾る財宝にも、まるで動揺を見せなかった。


『ほお、成長なさったようだな。』


「実に有意義な旅行であったぞ。」

開口一番、王子は火を吹くような気迫で、己の見てきたものを語りだした。

モンフェに言わせれば、遊びも出来ないような人間には、何もできはしない。

この放蕩者と思われている王子は、実に大胆であり、豪放磊落。
遊びをとことん楽しみ、それを自分の血や肉にするすべを天性身につけている。

そして、この旅行で見てきた事は、大商人である彼すら驚かせることになる。









カール王子がデンマークに到着する10日以上前、スウェーデン王国最大の港町であり王都でもあるストックホルムに、一人の女性が降り立った。

濡れたような濃い藍色の髪、妖しい緑の目、妖艶な美貌を透けるヴェールで隠し、肉体を彩る肌は鮮やかな深い小麦色だった。

大胆な赤と黒の花柄を散らした、薄い絹のストールを髪に巻き、髪止めには銀の飾りがきらめく。

ゆるやかな白の薄い透ける長い服は、見事な刺繍と格子柄を組み合わせ、幅広の帯で細い胴をキュッと締め、その身体を足元までかくしながら、極上の曲線美にぴったりした黒のインナーが、なまめかしいラインを浮き上がらせている。

両肩、両腕はさらに薄く、インナーすら無く、妖しい肌のきらめきが目を射るように美しい。

浮き上がるラインの美しさ、なまめかしさ、そして大胆さは、見る者が息をのみ、生唾を飲み、目を見張らせる。


ひどく白い肌ばかりの港町で、彼女の目立つ事は、白い羊の群れの一匹の黒ヤギよりはなはだしかった。


しかし、彼女がいつ、どこから、どうやってこの港町に訪れたのか、誰も知るものがいない。

ふかい朝霧のたちこめた朝、その霧が晴れると、霧そのものが集まって人と化したかのようにそこにいたのだ。


北欧の人々にとって、彼女の存在は、それ自体が衝撃であり、驚きであった。

『エキゾチック』と呼ばれる、衝撃的なファッションは、まさに彼らの脳髄を一撃したのだ。


港の中心に入る彼女に、8人の正装の男性たちが、モーニングとネクタイ、そしてシルクハットを手に彼女に近寄り、深々と頭を下げた。

「テレス・ロペス・ニキーネ様、ご来訪をお待ち申し上げておりました。私めは、イリュミン・ダイア商会スウェーデン支店長、ノグスタン・マドレッドにございます。」

彼女に引き付けられていた野次馬たちは、今度こそ本気でのけぞった。

アメリカ系企業イリュミン・ダイア商会は、スウェーデンに多額の投資をしており、いくつもの鉱山を開発成功している。
厚生福祉もそれまでの飢狼のごとき欧州企業に比べ、比較にならないほど手厚いため、スウェーデンの働きたい若者には一番人気がある。この港町で、その名を知らない者などいるはずが無かった。

その支店長が直々に迎えに出るとなると、その女性はどんな人間なのか。

支店長とあいさつを交わし、一団の中心となって優雅に歩む女性の美しい足と、白いヒールの高い靴に、野次馬たちは恍惚となって見惚れていた。

膨らんだ妄想による噂と憶測は、あっという間に、港町を駆け巡った。




その女性が数日して、スウェーデンの北の果て、キリナやアチキ鉱山を訪れた。

鉱山中の男たちはどよめき、彼女の姿を見た、見ないで大騒ぎ。

特にキリナ鉱山は、世界最大級の鉄鉱石鉱山であり、その規模は凄まじい。
だが、その美しく神秘的な女性は、隅々まで見て回り、付き添いの社員たちの方がへばって交代する者が続出した。

また、見学中に近くで倒れた工夫を助け起こし、心臓発作と見るや、心臓マッサージと人工呼吸で一命を救ったため、感動した男たちはほとんど崇拝に近い好意を持った。

写真を撮らせてくれというと、喜んで汚れた工夫たちと並び、記念写真。

厚生福祉の施設も回り、本社からの贈り物を配って回った。

地元新聞は、『珍しい訪問者』と彼女の写真をトップに飾ったところ、『もっとよこせ!!』と各地から凄まじいブーイングを受け、翌日の新聞を休んで普段の10倍の新聞を刷ったが、全部売り切れてしまった。


そして、彼女は鉱山の廃土処理施設を厳重に見回り、汚染処理水を一滴たりともスウェーデンに落とさぬよう厳命した。

彼女の言動が、噂になればなるほど、その評判は強烈鮮烈な美貌もあいまってウナギ登りに上がり、わずか10日の滞在で、一帯10万人の働く鉱山地区では、知らぬ者が無い人気者になっていた。




「はい“さゆり”、予定通り、処理水は厳重に封印の上、日本へ。みんな喜んでいますわ。」

小さめだがしっかりしたホテルの一室で、テレスは日本の“さゆり”嬢と、高高度無人偵察装置による中継で、ダイレクトに連絡を取り合っている。
北極で中継すれば、北欧と日本は意外に近いのである。

「喜んでもらえて、嬉しいわ。日本も助かるし。」

「まさか、鉱山最上層部の廃土がレアメタルやレアアースの宝庫とは、誰も思いませんでしたからね。」




まだキリナやアチキなどの、スウェーデンにある最優良鉱山の価値が誰もわかっていなかったこの頃、その採掘権を帝国重工はダミー会社を使って得た。

それでも念のためと、ソフィア・ダインコートが気まぐれを起こして、現地サンプルの調査をしたのである。

おびただしい鉄鉱石の中に、偶然入っていた廃土のサンプルを調べて、ソフィアは顔色を変えた。
貴重なレアアースやレアメタルが、驚くほど高濃度に含まれていたのだ。

たとえばキリナのサンプルは、イットリウムやスカンジニウムが桁外れに多く、アチキのは、タングステン、白金、モリブデンなどが奇怪なほど大量に含まれていた。

調べていくうちに、表層の土壌ほどそれが多く含まれていて、鉄や銅を含まないそれらは、レアメタルやレアアースを知らない者たちにとっては、役に立たない廃土として処理に苦労させられている事も分かった。

もちろん、土壌中の多量の金属が生物に毒性や悪影響を持つ事は、レアアースやレアメタルでも変わりは無く、その土から漏れ出た成分が周囲の水源や牧草地に悪影響を与えていた。放っておけば、この貴重な資源は風雨で流され、残土としてあちこちに捨てられ、数年で何の価値もなくなってしまう所だった。

 ちなみに、この廃土に含まれる成分から推測すると、鉱山表層部の土壌をはげば、中国にあったレアアースとほぼ同じ量が取れるほどである。


「よその国家では、長い歴史の中で必死に土壌改良を積み重ね、食糧を作れる土地を増やしていったけど、その反面、レアアースなどの露出部分は消えていった可能性が高いわね。21世紀の中国で、レアアースが露天掘りで取れたのは、東アジアに数百年毎に発生する国が、毒のある土地を改良しようなどという思想も気力も無く、ほったらかしにしていたから無事だったんでしょうねえ。」

ソフィアの呆れ半分の言葉には、痛烈な歴史判断も入っている。 スウェーデンの北端に位置するキリナやアチキは、北極圏に近く、人すらほとんどいない不毛寒冷な土地で、近代になるまでわずかな入植者がいるだけだった。 それゆえ、芳醇な鉱物資源が知られず、捨てられずに眠っていた。

だが東アジアのある国には、なぜか21世紀まで、巨大なレアアース露鉱が存在する。

そこは三千年ぐらい前から、比較的大きな国が、時々勃興しては滅びるが、その間につながった歴史など全くない。時には同時にいくつもの国が勃興する事も多々ある(例:三国時代)。言ってみれば、ほぼ全部雑草のごとく自然発生した新興国家で、適当に前にいた人間や役人を使って、無理やり国家の形を成しただけだった。そのため、非常にいい加減な国家しかできず、極めて放漫・無謀・暴力だけの収奪と征服行動を政治と呼んでいた。それを正当化するための教育として、無理やり広めたのが支配者を絶対視する儒教である。

そのため、欧州の本当に歴史ある国家相手だと、戦闘になるとまったく歯が立たず、弱小国家のはずの日本相手にすら、日本以上の近代装備を持っていたはずなのに、整然とした作戦行動の前に、呆れるほどのもろさで負けてしまっている。というより、武器を持っただけの単なる寄せ集めの集団に、面倒な作戦などやりたくてもできなかった。当然、面倒な土壌改良などは、為政者はだれもやろうとしなかった。足りなければ、税を重くし、たくさん奪えば済むことなのである。




表土の中のレアメタルやレアアースを、笑いが止まらないほど取り放題に取り出しながら、危険な毒物(本当にそうだが)処理をきちんと受け持ってくれるイリュミン・ダイア商会は、国中から涙を流さんばかりに感謝され、スウェーデン国王陛下からも、何度も感謝状を受けるほどだった。


そこの本社取締役の一人として、現地調査に訪れた、美しく神秘的で、見る者に強烈な衝撃を与える女性テレス・ロペス・ニキーネの名は、スウェーデン中に広まりだしていた。

だが、これからが彼女の本領発揮などとは、神ならぬスウェーデン国民の誰一人として知る者は無い。









「教育と、資源ですか・・・、そして北ゲルマン国家協力会議・・・ううむ。」

ノルウェーのモンフェ・レグリの邸宅で、その主は眉を寄せ、思わずうなった。


「そうだ、この国の未来を決するのは、まさに未来を背負う子供たちだ。日本がなぜあれほどの活躍を見せ、世界に名をはせたか、私はその目で見てきた。」

カール王子の薄い青い目が、らんと光る。


彼の語る『米百俵』の話は、凄絶な光芒となって、モンフェの頭脳に焼きついた。

「ノルウェーの困窮が、我がデンマーク以上であることは、私も知っている。それゆえ急がねばならぬ、我々北ゲルマンの国家が衰退すれば、欧州の良いように喰われていくだけだぞ。」

デンマークとて、スカンジナビアの繁栄あってこそ、その果実が享受できるのである。 共に協力し、繁栄しなければ、意味は無いと語る彼の言葉に、モンフェは納得する他無かった。



そして、隠し玉とも言うべき資源の極秘の話。



東洋のある女性が教えてくれた、地勢学という、古代日本から伝えられてきた地下資源を見極める秘術。
明治の文明開化で、西洋文明一色に染まった日本で、顧みられなくなり、ただ一人受け継いだという彼女に、日本の石油埋蔵箇所と同じ地勢を持つ場所が、ノルウェー南部にあると教えられた。


自動車の発明から、内燃機関用エネルギーとして、石油の必要性はこれから大きく増していくと予測されていた。
だが、現在石油は遠くアメリカから運ばねばならず、輸送コストが大きな問題となっている。
大商人であるモンフェは、資源の特徴と弱点を正確に把握していた。


もし、それがノルウェーにあれば、大変な財を生むことになる。
しかも、アメリカの大企業で、スウェーデンの鉱山開発に成功しているイリュミン・ダイア商会が、その女性の紹介で実際に協力をするという。
何でも、商会がスウェーデンで鉱山開発に成功したのは、全てその女性の地勢学によるものだったというのだ。

彼はその契約書を、本当にもらってきていた。モンフェがいくらどう眺めてみても、本物である。そこに王子と地域の代表者のサインさえあれば、即座に開発執行が行われる。

この時代の資源開発というのは、権利関係の法律などまだ無いに等しく、ある意味かなりいい加減で、彼女が示した海洋油田などとになれば、もはや誰も利権など主張できない。だが、イリュミン・ダイア商会が示したそれは、カール王子への仲介料と地域の代表者(ここでは、カールが認めた人間つまりモンフェ)に、莫大な金が落ちるようになっていた。その資産があれば、ノルウェーは飛躍し、最終目的である、北ゲルマン国家協力会議を開く資金源ともなる。そして、石油については、ノルウェーが正式に独立すれば、使用権が確立するという破格の条件まで付いていた(もちろん、商会も大儲けはできる)。

そして石油の開発に成功すれば、彼女も大変な財産が入り、その金で多くの子供をまた救えるのだという。
この言葉もまた、カール王子は疑う余地もなかった。

その女性の名が、テレス・ロペス・ニキーネであることは、言うまでもない。
もちろん、地勢学などというのは大嘘だが、資源情報は、21世紀から来た彼女たちには外れようがない。


「王子?!、なぜそんなことまで!!。」

目の前に出された契約書を、穴のあきそうなほど見つめ、今度は驚きのあまり、心配になった。
確かに、モンフェは彼を将来ノルウェー王に迎えたいという野望がある。
カール王子もそれとなくほのめかされ、わかっているはずだ。

だが、まだ先の話であり、これこそ王位に就いてから使えばいい極秘情報のはずだ。


「時間が無い、我が王位につくかつかぬか、そんなことより、今泣いている子供を救えもせずに、何が王だ。」


稲妻のごとき言葉が、モンフェの魂を撃った。

テレスの凄絶な生き方と、子供を愛する姿が、カールの魂を大きく動かしている。

王子の誇り高き魂に、海千山千の商人が、目に涙を浮かべた。

貧しさから抜け出せず、苦しんでいたノルウェーを、海運業で大きくした彼だが、その限界も感じていた。
いま、まさにそれを破る大きな力が現れたのだ。

王子の手を取り、ただ、ハラハラと涙を流した。

「王・・・よ、我が王よ・・・・」




彼の失われた左目すら、熱くぬれているような気がした。

『霧の中の一夜』と呼ばれたあの悲劇の夜、その目は失われた、彼のかけがえのない家族と共に。




1865年4月23日
その前からドイツとイギリスの間で、険悪な状態が発生、元々イギリスと仲の良くないフランスがドイツの肩を持ち、オランダがイギリスと同じプロテスタント国家としてフランスをけん制していた。その日、偶然海洋上でドイツとイギリス海軍が出会い、そこへフランス海軍とオランダ海軍がはちあわせし、運悪く深い霧が発生した。

公海上とはいえ、非常に狭い範囲に無数の軍艦が接するようにして、深い霧に閉じ込められるという異常事態に、緊張が極限に達し、一発の砲弾が闇を裂いた(どこが撃ったのかは最後まで分からなかった)。瞬間、無数の砲撃が飛びかったが、各艦隊の司令官が全員必死に静止したおかげで、軍艦の被害は全くと言っていいほどなかった。

だが、どの艦隊もいなかったはずの海域で、ただ一隻撃沈された船があった。ノルウェーの商船ロキフェル号である。モンフェは、その船に妻と幼い娘を乗せ、欧州への旅行に出かける所だった。

霧が南西から北東へ向かってわき出したため、一番最後に霧に包まれた不運なロキフェル号は、無数の軍艦がひしめく海域に、気づかぬうちに突っ込んでしまっていた。 そして、おそらく方向から見て、イギリス軍艦の主砲が直撃し、真っ二つになって沈没したのだった。

各国海軍は仰天して救助に向かったが、船員と乗客合わせて112名のうち、生きていたのはわずか3名。

スウェーデン・ノルウェー同君連合は必死に抗議したが、各国は協力して知らぬ存ぜぬを押しとおし、最後はイギリスのあからさまな圧力に、スウェーデンが屈する事で、事件はもみ消された。(同君連合はスウェーデン王が事実上の支配者の連合国家体制)




大国の横暴と無情、独立すら出来ぬ小国の無力にさいなまれ、苦しみ抜いた彼は、祖国ノルウェーを決して同じ目にあわせまいと誓った。

そのためには、中核となれる王が必要だった。


人の意思を結集できるのは、人だけである。
法も、財力も、地位や名誉すらも、人の意思を結集する事は出来ない。

だからこそ、近代国家であろうと王、あるいは王の代理となれる人間が必要なのである。



今また、新たな歴史の歯車が回りだした。
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