■ EXIT
ダインコートのルージュ・その31


≪エキゾチック・テレス 3≫


トラック公娼館の数日は、カール王子とテレスの腰から下を溶かし尽くすような快楽の日々となった。

また、カールの滞在期間は一週間と限られ、それ故に切迫する日々がなお切なく激しく、彼を燃え上がらせたと言える。


ようやく二人がベッドを濡らし尽くし、落ち付いた時、王子の見たことが無い、澄んだ水のような酒が、漆塗りの美しい朱色の杯に注がれ差し出された。
北国の人間は、酒に強い者が多い。大ぶりの盃になみなみと注がれたそれを、王子はぐいと飲み干す。
水のようななめらかな口当たりから、穏やかな甘味と酒のぬくもりが喉を滑り落ちていく。


「ああ・・・身体に染み入るような酒だな、日本の酒か?。」

「はい、2千年以上前から神殿にも捧げられる、米から作られる酒です。」

テレスの艶やかな裸の肌に、汗の粒が残っていた。
豊かで張りの良い乳房が、ゆっくりと息づき、彼女の声に震えた。

そっと唇を合わせ、甘く蕩けるような酒を流しこむと、細くなめらかな喉を伝い落ちていく。

「おいしい・・・」

「うむ、この酒を作る所も見たいものだ。」

この雄々しい男は、すでに旅立つ事を決断していた。
彼女との別れの盃のつもりなのだろう。
だが、その手がかすかに震えるのを、テレスは感じ取っていた。
これほどの女を手放すことが、どれほどつらいか、彼の心情は汲み取りきれぬ深さがある。

「それだけでは無いぞ、日本という国がどのようにして大国清と渡り合い、戦ったのかそれも知りたいのだ。それに、我がデンマークにまで轟く数々の技術も見たい。」

燃える鉄色の目に、テレスは熱く熔けそうな気分になる。
こんな良い男は、めったにいない。

「でしたら、お見せしましょうか?。」

いたずらっぽい笑いを浮かべ、テレスは不思議そうな顔をするカールを見つめた。









翌朝、カールはテレスがベッドの隣にいないことに気づき、一瞬つらそうに目をつぶった。 だが、それでいいのだと起き上がり、一人さっさと用意を始めた。

この奇妙な王子は、旅慣れていて、極めて腰も軽い。

だが、公娼館のロビーに出たとたん、目を剥いた。

見慣れた美しい笑顔と、見慣れない服装、それも『軍服』である。

そしてピシッと敬礼するその姿、美しさにほれぼれと見入ってしまう。
その動作は、明らかに訓練を極めた者だけが行える、美と無駄のなさがある。

「て、テレス・・・その服は?。」

「国防軍所属、テレス・ロペス・ニキーネ大尉であります。デンマーク第二王子カール様を、日本へ護衛する任務を授かりました。」

一瞬、天地がひっくり返ったほどカールは動転した。

「き、きみは軍属だったのか??。」

「はい、同時に帝国重工広報部の正式な公娼婦テレス・ロペス・ニキーネでもあります。」

これほどの衝撃は、彼が生まれてからおそらく初めてだろう。

正式な軍属の大尉であり、同時に正式な公娼婦などというものが、同時に成り立つなどというとんでもない存在は、彼の世界観の中ではありえない。

そして、それなりに女性経験を積んできたカールにとって、彼女がまぎれもない『おんな』、つまりある意味男性の理想像的な、女性としての価値を売って生きることが許される女性のプロフェッショナルであることは、自分の首をかけても良いぐらい理解している。

にっこりと笑うテレスの美貌は、カールの世界観を完全にひっくり返したのだった。









「テレス大尉」

「二人きりの時は、これまで通りテレスで結構ですわ。私も『おんな』ですのよ。」

テレスが大きな眼でにらんだ。美人なだけに、かなりの迫力がある。

『私を他人行儀に扱ったら許さないわよ!』

と激しい主張が目の中で燃えていて、怖いがカールは奇妙な快感も覚えていた。


「うむテレス・・・、君のような軍属は他にもいるのか?。」

「ええ、けっこういますよ。香取玲奈大尉、メリッサ中尉、梨乃悦子少佐、・・・」

「ちょっ、ちょっとまて。君もそうだが、なんでそんなに指揮官クラスが多いんだ?。」

さすがにカールが血相を変えた。

「ああ、これは普段交流している範囲ですから、上下を問わずけっこういますわ。」

「そんなに女性士官や軍人がおおいのか??。」

「我が国は男女平等がモットーですの。」

けろっと言うテレスに、カールの方が頭を抱えたくなった。
まだひっくり返された世界観に、納得できたわけではないのである。

「それに、軍属の男性たちに性的欲求を我慢しろというのは、酷でしょう。」

「うっ・・・・!。」


男として痛いところを突かれ、カールは顔をしかめた。
どうも、日本の軍隊というのは、自分の想像する軍隊とは相当違うらしい。



世界で見ても、この時代の軍隊と言えばまず、まともな職に就けないもの、徴兵された農奴、食うに困った者など下級兵はろくなものがいない。

下級兵がまともに読み書きができる国など、正史でも日本兵以外はほぼありえなかった。

当然他国では、犯罪や略奪、強姦などは日常茶飯事であり、戦勝の後、兵に略奪を許すのはむしろ当然の権利とまで言われていた。これがはっきり犯罪視されるようになったのは、第二次世界大戦の後であり、飢えさせたら最後、何をやらかしてもおかしくない。
だが日本の軍人、それも目の前にいるものすごく魅力的な士官からは、とても想像がつかない。

「もちろん、公娼婦の大半は一般公募の女性たちですけれど、私たち軍属の女性も、人一倍欲求はありましてよ。」

わざとミニスカートをはいてきた彼女は、ムチムチした足を遠慮なく組んだ。
少なくとも女性に関しては、日本の軍人は極めて恵まれた体制を作られているとしか思えなかった。




乗っている護衛艦鞍馬の中は、戦闘艦にもかかわらず、驚くほど居住性がよく、カールは自国の自慢の戦艦を思い出すと、お粗末さに顔が赤くなりそうだ。

もっとも、テレスに『こちらにどうぞ』と船を見せられた時は、彼のぶっとい肝っ玉も危うくけし飛びそうになっている。



鞍馬は葛城級巡洋艦クラス、当時の列強の戦艦サイズであり、一万五千トンを超える排水量に、イギリスの誇る戦艦フォーミダブルを越える巨体を持ち、そのフォルムと圧力は凄まじい威圧感がある。
通常の戦艦ならば、巨大な砲塔がバランス悪くデコボコと突き出しているものだが、葛城級は砲の性能の良さから主砲も小型で軽量、非常に重心が低くバランスが良く、船の安定性が別次元のレベルになっている。


“護衛艦”というので、ちんまりした船を想像していたカールは、彼の常識上『国賓クラス』が乗るべき船を見て、目を疑った。
『何かの間違いではないか?』と言おうとしたカールの横を、華やかな女性の一団がにぎやかに談笑しながら乗っていくのを見て、口を閉じざる得なかった。


巨艦とはいえ、どう見ても軽く20ノットは超えている。
海洋国家デンマークの王子として、軍艦にもさんざん乗ってきた彼は、スピードも感覚でよくわかる。

この手の船が外洋でこのスピードを出せば、転げそうなほど船首が上がったかと思うと、奈落に落ちるかと思うほど激しく下がる。
よほど船になれた者でないと、あっという間に船酔いで身動きもできなくなるものだ。軍艦とはそれほど激しく動く。

だが、波の高さに比べ、船内の動揺の少なさはどうだ?。
よほどすぐれた波切り性能があるとしか思えなかった。

『日本の技術というのはどれほど凄まじいものなのだ??。』


戦慄すら覚えながら、王子は快適極まりない船旅を3日間過ごした。


一つ付け加えておくと、護衛艦鞍馬は王子のために来たわけではなく、定期的に交代要員を移動させるために来たのである。
そして、それに乗るのは軍人だけではなく、帝国重工の公娼館のメンバーも余裕があれば乗せてもらえる。

半年ごとに交代する女性たちは、今回21名。
船内はまるで花畑のような有様であり、王子がもてまくったのは言うまでもない。

それを嫉妬するようなテレスではなく、むしろ美しく優秀な仲間たちを誇るかのように紹介し、3日間は昼も夜もかなりにぎやかであった。




「少しふやけたような気分だな、テレス、どこかに身体を動かせる場所は無いか?。」

立派な港に、船と直結する陸橋、大国にも無いような見事な東京湾の施設に驚きながら、王子はなまった体を動かしたいと思った。

「ならば帝国馬術倶楽部へまいりましょう。」




高田馬場は、江戸時代三代将軍家光が作った由緒ある馬場であり、この世界の明治政府は、文化交流と馬術の育成に日本帝国馬術倶楽部を設立していた。

帝国重工の優れた技術の導入と共に、軍の輸送や移動法の機械化も着々と進みつつあった。 計画上軍馬の必要性は無くなっていたが、西欧との文化的交流や運動の必要性、そして国内の社交場としても倶楽部は栄えていた。

この時代の特徴の一つとして、皇族のご一族なども気軽に来られるので、下手な格好をしたり、品位の無い言動をしたりしたら、銃殺されても反論できない。 何より国民が、皇室への侮辱と取られることは絶対に許さない。

それゆえ、各国の貴賓が気軽に来れる場所としても、便利だった。



カールは少年時代はかなりやんちゃだったらしく、名前を隠して地方の馬術競技会に出場し、優勝をかっさらったことも何度かあるという。

倶楽部で一番気の荒い、ドグラマという馬を駆り、戦国武者さながらに猛然と駆け巡る姿は勇壮で、倶楽部の注目を集めた。

ドグラマは血統もいいが、馬体も大きく、プライドも魔女のように高く、気に入らない人間はえらい目に会う。
だが、王子の声に身体を震わせ、素直に、それこそ夢中で駆け廻っていた。


「まあ、あの子があんなに喜んで・・・乗り手はどなたですのテレスさん。」

見惚れていたテレスは、声をかけられてびっくりした。

九条節子(さだこ)・九条公爵家のご令嬢で、一名『黒姫様』と呼ばれている。今日は黒いブーツと赤い乗馬服の、小柄で可愛らしい女性騎手姿。
おっとりした笑みは、奇妙に愛嬌と気品が溶け合って、見る者に畏敬の念を抱かせるのは天性としか言いようが無かった。

「これは節子様、ご無礼いたしました。」

ひざを折ろうとするテレスに、節子は『おまちなさい』と止める。

「倶楽部では、倶楽部員は平等のはず。ここでの杓子定規な礼儀作法は、かえって無礼とみなしますわよ。」

この気さくな姫様は、幼少時農家の里子に出されていたという経歴もあり、どちらかと言えばざっくばらんな方が好みである。
また、彼女の言う理由も、正当なものであった。

「申し訳ございません。」

軽く礼をするテレスに、人形のような可愛らしい笑みを浮かべ、再び広い馬場を駆け抜ける姿に目をやった。

特に位の高いはずの九条家の姫君だが、この女性は身体を動かすのが大好きで、乗馬にはしょっちゅうお忍びでやってくる。
実を言えば、ドグラマが気を許す数少ない人間の一人が、この黒姫様だった。
彼女は、あのような勇壮な乗り方は出来ないのだが、彼女の命令には実に素直に従うのを、倶楽部の従業員は不思議がっていた。

「あの方はクリスチャン・フレゼリク・カール・ゲオルク・ヴァルデマー・アクセル様、デンマークの第二王子で、カール王子と呼ばれています。」

つぶらな黒い瞳が、驚きで大きく見開かれる。

「まあ、そんなに遠くから?。旅路だけでも何カ月もかかるでしょうに、勇敢な方だわ。」

ほんの少しだけ、うらやましそうな響きがあるのを、テレスは聞き逃せなかった。
貴族のご令嬢である彼女には、旅に出る自由など無いも同然。
近距離の旅であっても、移動には一部隊を引き連れ、各地で己の立場と職務を果たさなければならない。

『でも黒姫様、自由にできるという事は、厄介者扱いされているということでもあるのですよ。』

テレスは表情を押さえつつ、心中でそっとつぶやいた。
『どこへでも行っていい』という事は、『どこで野垂れ死にしてもいい』という事。
自由の裏にある、冷酷な現実は、姫君にはとても分かるまい。




人馬ともに汗を振り絞り、晴々とした表情でカールが戻ってきた。

途中からは、別の二人の騎手が一緒に走り、見事な馬術を競い合う形になったため、気合いが入ったらしい。
見ていたギャラリーも拍手で迎えるほどだ。


「ひさしぶりに良い汗をかけたぞ。この馬もよいな。本国に連れていけないのが残念だ。」

「いやいや、王子の腕がよろしいからです。普通は気の荒く、気難しい馬なのですよ。」

「こいつが、こんなに楽しげに走るのは、初めて見たな。」

口髭の男が王子を褒め、若々しい方が馬の慣れ方に感心していた。


「あら、黒江さんに秋山さん。」


節子が二人に気づいて声をかけた。

王子と競っていたのは、黒江大輝大佐と秋山好古大佐だった。

ここだけの話、黒江は21世紀人であり国防軍所属、秋山は旧日本陸軍・現帝国陸軍所属で陸軍乗馬学校校長である。
乗馬が趣味の黒江が、国防軍を志願した動機の一つが秋山であり、憧れであったため、今では親友と言っていい。
(もちろん、自分が21世紀人であることは明かしていないが)

秋山の方が年上らしいが、むしろ若々しく見える。だが口調は重々しいので、軽めの黒江といると妙にちぐはぐであり、今では凸凹コンビという感じだ。

「九条様、見ておられたのですか。」

もちろん二人は、この変わりものの姫様の事も良く知っている。にこやかにあいさつを返した。

海外渡航経験の長い秋山は、各国王家についてもかなりの知識があり、馬術倶楽部の帳面のサインを見てデンマーク第二王子と気づいていた。
だが、王子の馬術を見て、乗馬学校校長としては燃えたらしく、3人で競い合う形になったのだそうだ。



「王子の馬術は、北方の大型の馬を操るための技ですから、ドグラマとの相性がなお良かったのでしょう。」

さすがは乗馬学校校長、王子の乗り方と体格から、相性の良さを分析していた。

「あの子(馬)は、もっと広い所でのびのび走りたいよ、といつも私を見るのですよ。」

この奇妙な姫君の言葉に、そばにいたドグラマがブルルルッと鳴いた。

「無理もあるまい、この国の道路は驚くほどなめらかだ。あれでは馬の蹄が滑ってしまう。」

本来、馬の大きなひずめは、土を踏んで歩くためにある。

道路事情などというものすら無いこの時代、欧米でも大半の道路は、田んぼのあぜ道か登山道を広げた程度に近い。
石ころを埋め込んでいればかなり上等、大英帝国でも道の舗装は急務となっている。

日本へ来て、驚きづくめの王子だが、馬車でガタガタゆれながら走る経験しか無かった彼にとって、揺れもしない自動車には本気で驚いていた。

馬車の車輪だろうと、新しく現れた自動車のタイヤだろうと、欧州ではしょっちゅう車輪は壊れ、タイヤはパンクする。
一番の理由は、道が非常に悪いためだ。

だが、この道ならば恐ろしいほど輸送の効率が上がるだろう。

「当然、馬たちには出る幕がないであろう。」

王子の言葉に、秋山が重々しくうなづく。
馬術学校の校長でありながら、彼も馬たちの未来を読み切っているらしい。



黒江がちらっとテレスを見た。なんと同じ目で節子も視線を送る。

『この王子、頭が切れそうですね。』
『この殿方、切れすぎるのではないか?。』

テレスがほんの少し気の毒そうな眼を投げ返す。二人とも、『やっぱり』とこれまた気の毒そうに、少しだけうなづいた。
だいたい王族が切れすぎると、ろくな目にあわない。

建国期のこれから発展する国ならばとにかく、すでに安定している国家では、へたに切れるより、凡庸で政治に口出ししない方が貴族や官僚のうけが良い。
ましてや第二王子では、ろくな未来は開けまい。

同情心に近い義侠心とでもいうのだろうか、節子は異国の王子に少しだけ気持ちが動いた。 黒江も同様に、何かしてやりたいという気持ちが沸いた。

特に黒江は、馬術で技を競いあった。こういう競技の中では、自分を隠すことはまずできない。
王子の技量もさることながら、その心根は同じ男として尊敬できると思った。



5人は、倶楽部ハウスで名物の昼食をぱくつきながら、談笑した。

名物といっても、大したものではない。

『顔ほどもある、巨大おにぎりとみそ汁』とか『食べても食べても終わらない、チキンバスケット』とか『アゴが外れそうな厚さの、ハムと野菜のサンドイッチ』などだ。

最初はまともな昼食だったらしいのだが、外国人客(特に軍人)から少ないと文句が続出し、ならばと文句の出ない物を作ったのだそうである。

ただし、米は当日精白した新米、チキンは近隣の農家で育てられた逸品の若鳥、パンは焼き立ての香ばしい香りで甘くうまい。ハムもマスタードソースもマヨネーズも倶楽部ハウスの調理人が自分で作っている極上品。野菜に関しては取れたてもぎたてを農家の若者たちが畑から担いで持ってくるのだから、これ以上は王侯貴族も望めない。おかげで、味に文句をつけたツワモノは今のところ一人もいないという。

ちなみに、昼食の決定権は最高位の節子嬢とカール王子にあったが、王子はどんなものか知らず、テレスや黒江たちは何とか阻止したいところだったのだが、『では、ここの名物の昼食をいただいていきましょう!。』と遠慮ない節子嬢の一言で決定してしまっていた。




迫力すら感じる巨大おにぎり3、ちゃんこ用にしか見えない土鍋一杯に盛り上げられたチキンバスケット1、非常識に分厚い大型サンドイッチ2、それに漬物、チーズ、果物小皿(南国フルーツてんこ盛り)、ほうじ茶、紅茶、コーヒー、ワインが並ぶと、6人用のテーブルがほぼあふれそうになった。

少々顔をひくつかせながらも、挑む勇者たちの胃袋に拍手したい。



秋山と黒江はおにぎりを一個ずつ何とか完食、王子はサンドイッチは食べ切れたが、チキンバスケットは半分で降参。
テレスにいたっては、王子の残りのチキンと紅茶で『ごめんなさい』だった。

ちなみに、巨大おにぎりとサンドイッチ、両方ぺろっと食べたのは、節子嬢のみである。一体どこに入っていったのかは、大いなる謎だ。



とまあ、けっこう旺盛な食欲でぱくつきながら、王子の旅の話などを聞いた。

そこで節子嬢は提案した。

「どうじゃカール王子、われの姪が岩崎へ嫁いでおる。婿は長崎造船所へ行ったそうじゃが、後学のために見ていかぬか?。」

岩崎とは、後の三菱の事。ちなみに長崎造船所は後の三菱重工の一部となる。彼女の紹介状があれば、造船所もいやとは言えない。

黒江も、ある予定を思い出しお誘いする。

「明日の午後、英国士官と帝国海軍の机上交流戦がありますが、ご興味がありますか?。」


カール王子は、二人の好意を喜んで受けることにした。
彼にとって、日本の技術や戦力研究などは、願ってもない見学である。

「ならば王子、私はその元となる場所へお連れしましょう。」

テレスの目がこれまでと少し違う光を放っていた。妖しい『おんな』の目では無く、優しいあたたかい輝きである。

「その元?。」

「『米百俵』という言葉の意味、ぜひお伝えしたいのです。」

21世紀人の黒江は『おおっ』という顔をし、秋山は思い当たるらしく、ゆっくりとうなづいた。

そして節子嬢も、少し考えてから思い出す。なにしろ、ほんの25年ほど前の話である。









『帝国学院 小等部』

明るい色の頬をした、愛らしい少年少女たちが、にぎやかに動き回っている。

「あ、テレスせんせー」

「こんにちはー!、テレス先生〜」

彼女の姿を見ると、子供たちは声をあげて手を振った。ちょうど休み時間らしい。
テレスも心からの優しい笑顔で、手を振り返す。

彼女は外国語の教鞭をとることがあるのだ。

チャイムが鳴ると、とたんに子供たちは姿を消し、各教室の中から元気な声が漏れ出てくる。

「なかなか立派な学校のようだね。だが、こんな小さな子供から行うのか。」

もちろん、デンマークにも学校はある。ただ、彼の想像していたより子供はかなり幼く、そして想像を超えて多かった。

『教育は金も手間もかかる。誰でも受けられるわけではない』というのが、この時代の共通認識である。

「早くから始めた方が、早く幸せをつかめます。ましてや、あの子たちはみな、親がいないのですよ。」

驚くカールに、テレスは帝国学院の制度とシステムを説明した。

身寄りのない子供を引きとり、年代別に分けて、丁寧な教育を施し、帝国重工とその系列の会社に勤めれば、教育資金を返済しないでいいというシステムである。 たとえ、帝国に務めなくても、低金利で戻せば良いという、非常に緩い返済方式があり、自由に選ぶことは可能だった。

「だ、だがそれでは、育てた意味が無いのではないか?。」

頬笑みを浮かべているテレスの気配が、ゾクリとするような凶暴なものに変わる。 カールの背中に、冷たいものが走った。

「カール、私たちの育てているのは、『人間』なのですよ。家畜や囚人ではありません。」

カールの言う『育てる』には、明らかに所有物としての意味合いが含まれていた。
凄まじい殺気すら帯びた言葉に、カールは足が震えそうになるのをこらえた。

「すまぬ、考えが足りなかった。」

素直にわびるカールに、ふっと凶暴な気配が消えた。



「テレス先生・・・」

ちょうどそこへ、画板を下げた女の子が来た。
少し痩せて、おどおどしたお下げの少女。
大きな眼が、まだ自分の位置をつかみ切れていない、そんな感じを漂わせている。

「あら、みっちゃん、今日は絵の時間なの?」

「うん・・・」

カールがいる事にとまどい、近寄りたいのに近寄れないという感じだ。

テレスがしゃがみ、手を広げる。

『いいの?』、そんな目で、近寄ってくる少女を、その胸に抱き取る。

彼女の豊かな胸に、深く抱かれ、ようやく落ち着いた顔をする少女。

何かを言おうとして、口が開いたり閉じたりする。

「いいのよ、言ってごらんなさい。」

「お、おかあ・・・さん」

「はい、よく言えました。」

そっと髪をなでられ、少女はしばらくじっとしていた。ほんの少し、しゃくりあげるような動きをしながら。

どこかで、少女を呼ぶ声がした、何人かの友達が一緒に書こうと。

「いってくるね!。」

ちょっとだけ赤い目をこすり、少女は駆けだした。



「あの娘の親代わりをしているのか?。」

「ええ、私たちは『里親』と呼んでいます。」

帝国学院の子供たちは、寮で共同生活をしているが、話を聞いたり、何かの行事に一緒に行く親代わりをする者がいる。
手紙のやりとりなども多い。

志願制だが、賛同する人間は非常に多く、中には本当に仲良くなり、養子縁組をする例も少なくない。

「私たちは未来を育てています。人にしか未来は渡せません。ですから、人間を人間らしく育てることが出来なければ、国の未来はありえません。」

車の中で聞かされた、『米百俵』の意味をカールはやっと理解できた気がした。



大政奉還後(1868年)の北越戦争(戊辰戦争の一つ)で敗れた長岡藩は、7万4000石から2万4000石に減知され、財政が窮乏し、藩士たちはその日の食にも苦慮する状態であった。このため窮状を見かねた長岡藩の支藩三根山藩から百俵の米が贈られることとなった。

藩士たちは、これで生活が少しでも楽になると喜んだが、藩の大参事小林虎三郎は、贈られた米を藩士に分け与えず、売却の上で学校設立の費用(学校設備の費用とも)とすることを決定する。藩士たちはこの通達に驚き反発して虎三郎のもとへと押しかけ抗議するが、それに対し虎三郎は、

「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」

と言って押切り、学校を設立した。この言葉が、後の時代に『米百俵』として伝わったのである。



「今の自分より、未来の子供たち・・・か。なかなかそういう割り切りは、出来ないものだが・・・・。」

国政の難しさを、よく知っているだけに、カールはうならざる得なかった。
欧州であれば、まず産業と軍事を優先し、ある程度の社会の歪みや壊れ、不幸な部分は置いていくのが勇気だと思われている。

その結果、イギリスなどは『日の沈まぬ帝国』とまで自負するが、街には浮浪者や浮浪児があふれ、凍死する人間は後を絶たない。
イギリスですらそのていたらくである、他の国も、社会不安や植民地の暴動、国家間の紛争が絶えず、内外ともに緊張は増えこそすれ減ることが無い。
国境を接しているだけに、お互い軍事増強をますます進め、互いの不安をあおっていた。

北欧各国は、欧州の産業が侵入するのをどうしていいか分からないまま、地場産業がどんどん滅んでいき、新天地を求めてアメリカへ移住する人間がおびただしく出ている。その数はすでに国を傾けるほどの脅威となり始めていた。


『こんな場所に一つの答えがあろうとはな・・・』


カールの抱いている焦燥の一つが、今のどうにもならない国の現状への怒りがあった。 日本はそれに立派に答えを出しているではないか。


ただ、一つだけ気になったのは、『米百俵』は長岡藩の支藩三根山藩が送ってくれたものだが、なぜこの国はそれだけの資力があったのか?。
まかり間違っても、他のどの国も、教育資金に使ってくれと、金銭をポンと渡すはずが無い。

「それにしても、よく日本にそれだけの資力があるものだな。」

「あら、カールにも協力していただいているのですよ。」

なにっ?!、とカールの方が驚いた。

「私は国防軍の大尉です、そちらから十分な給金はいただいております。公娼館から来る給金は、大半があの子たちの教育費などに充てられているのです。」

カールの支払ったテレスの代金は、イングランド銀行経由で莫大な額にのぼる。
さすがに豊かな国であり、支払いはかなり鷹揚だった。

「それに、専門の公娼婦でも、老後の積立などはキッチリ行われていますので、そういう子供たちにと寄付をする女性が多いのです。」

もちろん、それだけが資金なわけは無いが、帝国重工の巨大な資本力まで説明する必要は全くないので、テレスは言わなかった。


だが、カールの脳裏に、強く刻まれた『米百俵』の思想は、後に北欧を大きく変える指針となるのだった。
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