■ EXIT
ダインコートのルージュ・その31


≪エキゾチック・テレス 1≫


1905年の10月。


すでに冷たい風の吹き始めたイギリス帝国首都、ロンドン・ウエストミンスター地区ダウニング街11番地にある第一大蔵卿官邸。


この奥まった一室、豪奢な絹と綾、

足首まで埋まる最上級ペルシャ絨毯、

繊細の極みの彫刻を施した黒檀のテーブルには、最上級の葉巻と、見事な金と白とマリンブルーのティーカップが、中の最上級のアッサム茶をさらに美しく引き立たせていた。


だが、そんなものに囲まれた二人の当事者の顔は、ひどく重苦しい。

苦い顔つきのバルフォア第一大蔵卿が、ひそかに呼んだチェンバレン議員と、あることを話し合っていた。



「本当ですかそれは・・・?」

豪胆で、面の皮の厚さは象も逃げ出すほどの策士チェンバレンが、目を丸くしていた。

「ああ、まさかあの連中がこんなことになるとは、私も想像もしていなかった。」

テーブルの上に広げられた、芸術品に等しいヨーロッパ地図。

その一角に、二人の目が集中する。



“スカンジナビア半島”



のちに、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドという歴史上でも珍しい安定関係を作り出す地域。

もとは、海洋の民ヴァイキングの根拠地であり、19世紀の欧州からすれば、はっきり言って「田舎」「野蛮人の住まう場所」「ろくな産業もない貧しい場所」という程度の認識しかなく、一年の半分は雪と氷に覆われ、海は流氷で凍りつき、身動きもとれないという、ろくでもない場所・・・・・・・のはずだった。

ロシアの影響も受けやすい地域だが、貧しい場所であるからこそ、大陸の一部で適当に統治されていたフィンランドを除けば、はっきり見向きもされないほどである。そのくせ、ヴァイキングの血筋なのか、住む人たちの気性は荒く、扱いづらい。

欧州から田舎者扱いされる反動か、19世紀から汎スカンジナビア主義というナショナリズムまで生まれている。
とはいえ、そんなものを掲げたところで、世界を支配する欧州には痛くもかゆくもない『ごまめのはぎしり』のようなもの。


欧州はほとんど関心を持たなかった。その扱い、アフリカや中国より下といえた。


だが、さすがはバルフォア第一大蔵卿というべきなのか、彼の優秀な情報網は、こんな辺境のとんでもないニュースを拾い上げた。

ノルウェーが巨大な油田を発見し、独自に採掘を始めていた。

スウェーデンは、鉱山の開発に次々と成功し、製鉄所も作り始めたという。

そしてフィンランドは、ロシアの支配下にあったが、日露戦争の動きと同調して急激に独立運動が高まっていた。 さほど仲が良いとは言えなかったノルウェーとスウェーデンが、それを後押ししているという。


何より、その3国の経済と産業が、急速いや驚異的なまでの発展を始めていたのだ。 今や3国が密かに共同で、陸上交通網の整備と、港湾の作り直しを、驚くほど熱心に進めているという。


イギリスをはじめとする欧州からすれば、いきなり“目の上にたんこぶが生まれた”ようなものである。

『この忙しい時に・・・』と、二人は頭を抱えたくなった。

イギリスはアフリカ問題で身動きが取れず、欧州各国やアメリカは、対日戦のあまりの損害に茫然自失。

ロシアは、とてもではないがスカンジナビアの事など、気にもしていられまい。



北欧などという呼び方はあるが、本来この地域は欧州とは言いづらい部分も多く、人種、宗教、風習など関係はあまりよくない。

植民地からの収入があるとはいえ、こんなスピードで発展されては、欧州側の産業が大ダメージを受けてしまう。

それでなくても、米国の産業が急激に発展し、そちらにかなりの経済(もうけ)が食われ始めている。
これ以上競争相手は増えてほしくない。



「忙しい君には申し訳ないが、米国の経済を刺激して、ヴァイキングどもの産業をつぶすよう働きかけてくれないか?。」

さすがにあくどいバルフォア、直接手は汚さず、スカンジナビア3国を潰そうと計画していた。


「それは重大な役目ですな。よろしい、我が国の恒久の発展のためには、多少の犠牲はつきものです。その代り、私の活動費の増額を考慮くださるようお願いします。」

こちらもあくどさでは負けず劣らずのチェンバレン、さっそく計画と立案を始める。 そして、そのための活動費は、国費から膨大に使い放題なほど支給されるのだ。


米国とスカンジナビア、双方の経済戦争の後、潰れた産業を安く買いたたいて、さらに大儲けを絞り出すのも、二人は計画済みらしく、いやらしいまでに黒い笑いが両者に浮かぶ。

先の先まで読み、その利益の残らず吸い上げる貪欲さは、さすがアングロサクソンというべきか。




だが、このとき控えめなノックが聞こえた。


「何事だ、大事な会議中だぞ。」


バルフォアの不快そうな声に、ノックをした秘書は貧血を起こしそうになる。 その声ひとつで、彼の首などゴミのように飛んでしまいかねない。


「申し訳ございません、チェンバレン様に緊急の連絡があると、“GB”と名乗る方が・・・。」


今度はチェンバレンの顔色が変わる。

“GB”は彼の情報網の、いわば情報局長のような人間で、おいそれと自分が動くことはありえない。


小柄、小太り、おとなしげ、どこにでもいる気弱そうなその男が、普通の彼を知るチェンバレンに、ひどく青ざめて見えた。



「何事だ、GB。」

不安を押し隠しながら、不機嫌そうに言うチェンバレン。

ところが、バルフォア第一大蔵卿の前だというのに、彼はチェンバレンの耳に口をつけて小声で何かを話した。

これは、高い地位のバルフォアに対して、非常に失礼極まりない行為なのだが、それでもチェンバレンの驚愕は想像以上だった。 はっきりうなじの毛が逆立っている。




「バルフォア卿、彼の無礼をお許しください。彼からしても、すぐにお耳に入れて良い情報なのか、判断がつかなかったはずです。」

チェンバレンの顔色も、はっきり青ざめていた。



「ノルウェー海軍が、『薩摩級』の購入を決めたそうです。」



一瞬、一瞬だが、バルフォアの顔が呆けた。彼の加えていた葉巻が、無様にぽとりと落ちた。
彼を知るものなら、絶対に見れない表情だというだろう。



「しかも、その船の購入決定の最重要項目は、4メートルの氷を割って進めるという恐るべき砕氷能力のためだそうです。」


バルフォアは、激しいめまいを感じたが、それでも何とか正気を保っていた。

2か月後、同じことを聞いたアメリカ大統領は、しばらく呆然とした後、その場に卒倒したことを考えると、人間の差はかなりあるといえるが・・・。


北極圏に基地を置いた帝国軍が、地図上から見れば近い地域の、スカンジナビア3国に接近するのは、むしろ当然といえた。

そして、優れた砕氷能力を持つ船(それも日本製!)を、手に入れた彼らの存在は、現代に蘇った最新鋭武装のヴァイキングに等しい。

対日戦で、船が激減している欧米にとって、懐に白刃を差し込まれたような恐怖が襲うことになる。




だが実を言えば、この船の購入は突然決まったわけではない。
また、購入を決める信頼も、購入できる資金も、突然生まれたわけでもなんでもない。


経済、軍事、文化、日本がこの3国と接近したのは、ずっと以前からの、きわめて親密な付き合いがあったのである。


その交流の中心に、密かにしかし大胆に咲き誇る一人の女性がいた。
極めてわずかだが、彼女を知る者はこう呼んだという、『エキゾチック・テレス』と。
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