■ EXIT
ダインコートのルージュ・その30


≪ガスリー公使の日本滞在記・3≫


10から1をひくといくつになるでしょう?。

もちろん、数学で考えれば答えは9です。

ですが、国と国、国政や経済で考えたりするとまったく違ってきます。
特に、国と国の関係を、単純な引き算で考えたりするとえらいことになります。

日本海海戦直後のフランスの失敗が、まさにこれでした。

下手に領土や植民地が多い国家は、自分が大国と“思いあがる”ために、他国特に小さく見える国など端数で考えたくなります。
ましてそれが、地球の反対側、東アジアの果てにあるような国だと、『そんな国がどうなろうが我が国には何の影響も無い』と、ダダをこねて『黄色人種に我々高貴なる白色人種が負けるなどありえん』『こちらが損をするのに停戦(日露の)などされてたまるか』と言いだします。
10のうち1にも入らぬ小国が、無くなろうがどうしようが、我が国には関係ない、つまり10引く1は9でしかないと。

しかし、現実では10のうち1を引いたつもりが、残りが3や2になってしまったり、下手するとマイナスなんて事も良くあるわけです。

よくよく考えてみれば、絶対負けるはずの無い海戦に、『ケチョンケチョン』に負かされた時点で、どう考えても日本が数字の1や2では無いことぐらいフランスは分かるべきでした。第一『数字は絶対殴り返してきません』。

そして“この日本”は殴られたら100倍返し。ののしられても10倍返し。
停戦反対を正面切ってぬかしたフランスは、もちろん、10倍返し!!。

カリブ海のサン・バルテルミー島、全滅。
グアドループ島のグアドループ基地、全滅。
マルティニーク島フォール・ド・フランス基地、全滅。
ギアナのカイエンヌ基地、全滅。
ケルゲレン諸島のポルトーフランセ、全滅。
マダガスカル島の北端にあるディエゴ・スアレス(アンツィラナナ)軍港、全滅。

もはや『ほあたたたたたたたたたたたたたたた』とかいう怪鳥音が聞こえてきそうな勢いです。
北○百裂拳を決められたようなフランス、決め台詞はもちろん『おまえはもう死んでいる』。




チン、トン、シャン
どこかで三味線の音がします。

もちろん部屋は純和風、京風畳に優雅な漆の違い棚、床の間には葛飾北斎肉筆の掛け軸という、超一流のしつらえです。

当然、そこにいる女性は日本の花魁の恰好をして、高く結いあげた『豪奢な金髪』に、ベッコウの高価なかんざしが何本もきらめき、見事な友禅のうちかけと着物を帯でまとめた『真っ白な肌に強烈な青い目』の女性が、優雅に横座りしています(っていや、ちょっとまて、それは日本人じゃないだろう?)。

そのヒザにはだらしなく寝そべった酔っ払いが一人。鼻の下の巻きひげはフランス公使のクシェ・カルル・マウス。

女性はたいていの男が目を剥くような美人で、フランスはブルボン王朝からの超高級化粧品メーカーのラ・アンビユール社の香水モデルとして来日した、シャロール・ビュルフェ。もちろん、最高級香水モデルともなれば、21世紀のスーパーモデル最上位クラスです。

彼女は青い目を可笑しそうに細め、だらしない男の顎をそっとなで上げ、なでおろす。

「ん〜ん、シャル〜、もっとなでてくりぃ〜〜。」

きしょくの悪い甘え声、誰もこんな声は聞きたくもありますまい。

「はいはい、何でもしてあげますぇ。」

見事な(?)京言葉で、シャロールは優しく優しく首を撫で、胸をなで、お腹から下半身へと手を伸ばし、すでに固くなっている彼の分身をさすりさすりとなでまわす。

「うほほほほ、シャル〜、酒酒〜。」

赤い唇を寄せ、甘い濃厚な味わいの酒が、女の香りと共に口うつしに流しこまれる。
ごくり、ごくりと飲みほしても、その口は放されず、抱きついて激しく貪り合う。

「んっんんっ、ふはっ。」

離れた唇が、シャロールの細く真っ白な、静脈すら透けて見える肌に吸いつき、その胸元を探り回す。
真っ白な果実は豊かで、挑戦的に強く張り出してボリュームがある。

「んあんっ、だめですぇ。そんなおいたをしたらぁ。」

だが、巻きひげの紳士は、野獣となって豊満な果実に貪りつく。

「んもう、しょうがありまへんなあ。そんなら、ここにサインしてくれやす。そしたら、何ぼでもあんたはんの物になってあげますぇ。」

「うんうん、ほら、これでいいかい。」

ぱぱっと、クシェは見もせずに支払い明細にサインをすると、再び豊満美麗な果実に貪りついた。

となりの豪華な寝具をひいた部屋に、二人は倒れ込み、もつれ合った。

「ん、あんっ、帯を、帯をといておくれやす。」
「こ、これをとくのか、おらおら良いではないか良いではないか〜〜。」
「あ〜れぇ〜〜。」




「愛紗さん、愛紗さん。」

豊かな黒髪のすらりとした女性が、女中頭のミドリに呼び止められた。
黒に紅色の縫い取りの和服を着て、その粋な事目が覚めるばかり。
目元に、紅が薄くアイシャドウのように塗られ、妖艶な雰囲気の美女が振り返る。

「なあに?」
「あのクシェさんは、あと何回ぐらい使えそうでしょうか?」
「ああ、あの男ね。」

苦笑する愛紗。

ここは品川にある春香蘭(シュンコウラン)という建物。
まあ要するに、帝国重工広報部が営業している、外交官や政府要人向けの超一流公娼館なのです。

愛紗は高級娼婦であると同時に、多くの女たちから慕われる姐さんでもあります。
度量もあればきっぷもよく、女たちの悩みや相談、苦しみに実に的確なアドバイスや対処をしてくれるので、ここの経営にもお願いされて協力していたりします。そしてその本当の姿は、妙采尼18人衆の一人木瓜(ボケ)だったりしますが、これはもう帝国重工内では、技術幕僚の真田忠道准将(さなだ ただみち)の恋人ということと同じくらい周知の事実。

「うち(妙采寺)の情報によるとね、あと1、2回が限度じゃないかな。恐らく次の支払いのあたりで、フランス軍からひっ立てられると思うわ。」
「う〜ん、そうですかあ。いいおカモさんだったんですけどねえ。」
「いや、カモネギが鍋しょってきてたようなもんでしょ。毎晩毎晩あれだけドンチャンやって、シャロールのいいなりにサインしてるし。」

ちなみに、最高級娼婦のシャロールの一晩のお値段は、大会社の部長の月給より高いのです。それがこの3週間、ほぼ毎日フランス公使館の交際費で遊びまくっています。
いかに大国フランスとはいえ、日本公使ごときが使っていい金額は遥かに超えていますが、前途に絶望してもはや破滅一直線のクシェ公使はろうそくの最後、終わる直前の輝きのような状況なのです。

『まあ、情報も金も吸えるだけ吸いつくしたし、いい夢を見れたんだから、良かったんじゃないかしらね〜。』



なんでスーパーモデル最上位クラスのシャロール・ビュルフェが、春香蘭で公娼婦なんかやってるのかというと、実は彼女フランス軍諜報機関が、対日諜報活動の切り札として、日本政府要人や帝国重工上層部(特に高野公爵)を籠絡するために送り込んできた女性なのでした。

場末の娼婦の私生児として生まれ、天性の美貌と全く無自覚な悪女性で、無数の男を破滅に追いやり、17の時にはラ・アンビユール社のモデルになって、周りのセレブや有名人を喰いまくり、フランス陸軍中将と少将を恋敵として争わせて、軍の機密や極秘文書から大金をせしめようとして捕まったという筋金入りの大悪女。

命を助ける代わりに、日本の政府要人や帝国重工の上層部を籠絡しろと命ぜられ、フランス外務省にも極秘でしぶしぶ来日したのですが、彼女も女性といいましょうか、噂を聞いて最初に訪れたのが、美貌と若さに奇跡の技をもつと言われる、帝国重工の『クイーンズルーム』。ちなみにここの館長は、あの妙采寺総帥だったりします。

この面白い女性に関心を持った総帥、彼女の話を聞きながら過ごすこと10日あまりで、シャロールは『お姉さま!!』と慕い、足でも喜んで舐めそうな完璧崇拝状態に陥ったのです。しょせん悪女といっても生まれつきの彼女、数百年の歴史と磨き上げた技能を脈々と受け継いだ、悪女の中の悪女とも言える妙采尼の魅力にかなうわけもございません。何より生まれて初めて尊敬できる同類(悪女)に出会った彼女は、これまた生まれて初めて恋、つまり初恋という、いかなる洗脳もおよばぬ強力な魔法にかかってしまったのでした。

もちろん、直後からシャロールの足取りは消え、監視担当者は真っ青になりましたが、妙采寺の庇護下に入った彼女を見つけるなど藁の山に入りこんだ針を探すようなもの。見つかる訳がありません。

総帥のそばにいることだけが望みのシャロールは、彼女に相談し、帝国重工の教育を受けて、超一流公娼婦『羽扇(はねおおぎ)』としてデビュー。もちろん顔も姿もそのままですから、クシェ公使も『モデルのシャロールではないのか?!』と仰天しますが、『ええ。本国でこんなんしましたらえらいスキャンダルになりますやろ。日本でなら、何をしようと、誰としようと、話題にもならしまへんおす。』としなだれかかり、どうどうと逆手にとって誘惑するわけです。何しろ男は有名人に弱いのです。

彼女は嬉々として勤め上げ、フランス公使を完全に虜にして、貪り尽くします。何しろ元々が同国人ですから、その好みや欲求についてはよく知っていて、一片の情け容赦も無く、料金はもちろん特別サービス料に出張料、外交機密に清国に展開している軍の動向まで、いわば『尻の毛まで抜き尽くし』ます。


豪華な布団の中で、真っ白な裸体を強くからめ、青い目を濡らし、いかにも激しく声をあげながら、彼女の思いはただただ妙采尼の事ばかり。

『ああお姉さま、貴方のためなら私は豚とでも喜んで交わります。雌豚と呼ばれて構いません、どうかどうか、この雌豚をお見捨てにならないでくださいまし。』

と、妙采尼に哀願するつもりで足をぐいと締めあげます。クシェの事など豚程度にしか考えず、ただ身についたテクニックだけで翻弄するシャロールですが、まあ何も気づかない男は幸せの極致なのですから、後がどうなろうと悔いはない事でしょうねえ。

これからフランスが送り込んでくる後任の公使たちも、次から次へシャロールの毒牙にかかることになります。

かくして、フランスは表(軍事)からも裏(外交)からも、徹底的に叩きまくられることになるのでした。

まさに『おまえはもう死んでいる』。




さて、フランス公使館のありさまを見て、少し気が楽になったガスリー在日米国公使。 ならばと残された時間で、現在の日本で一番注目している相手に、会談を申し込む事にしました。

外交官の真壁 彩(まかべ あや)嬢を通してお願いすると、すぐに返事がきました。帝国重工本部、広報部の応接室でなら会うとのこと。

「ほほう、なかなか用心深いな。」

意外な申し出に、ガスリーはむしろ感心します。
日本は貿易国家として国を確立するため、できるだけ多くの国と仲良くするよう、いろいろ苦心しています。先の日本海海戦でも、ロシア連合艦隊に参加した国へは、目くじらを立てないよう、報道もある程度押さえていたりします。それに何と言っても『圧倒的勝利』ですから、国民の態度も大らかになろうというもの。

とはいえ、義勇艦隊を送り込んだアメリカの公使に、へたにコソコソ会ったり、公使館に入って密談したりすれば、どう見られるか分かったものではありません。その点、帝国重工内なら目立ちませんし、何より疑われにくいでしょう。

「さすが偉石 真備(イイシ マキビ)、日本で『論壇のナポレオン』と呼ばれるだけはある・・・。」

現在の日本の言論界で、一番注目されている人物の一人なのです。ところが、それを聞いていた真壁 彩嬢がひどく言いづらそうに口を開きました。

「いえそれが・・・、『今ならお茶会をやっているので、かまわんよ』とのことです。」




何か、聞いてた人物よりずいぶんフランクだなと、車の中で首をひねるガスリー公使。傲岸不遜を絵に描いたような人物で、気に食わないと政府の重鎮や大臣クラスの人間でも無視すると聞いていたのです。

この時のガスリー公使は確かについていました。

偉石の最高に機嫌のいい時に、良いタイミングで連絡がついたのですから。


応接室には、紅茶と甘いバニラの香り、そして美しい音楽が漂っていました。

淡い色のドレスに身を包み、小ぶりのヴァイオリンをひくイリア・ダインコート嬢。
ルビーのような紅茶を楚々と入れるイリナ・ダインコート嬢。
そして、頬笑みながらイリアを見ている、黒髪の美しい“さゆり”嬢、年齢を感じさせない若々しさと深い知性をまとう高野公爵、小柄ながらメガネの奥から光る眼で彼を見た偉石 真備。白いドレスシャツに細い黒のパンツをはいたシーナ嬢が、さりげなく公使とその周りに目を向けます。

『ま、まさかこういうメンバーだったとは・・・!』

思わず凍りつくガスリー公使に、イリナがそっとティーセットを用意しました。

帝国重工最高指導者であり、公爵位を持つ高野氏は、極めて謎の多い人物であり、公使といえどおいそれとは会えません。個人的な面談などもってのほか。イギリス公使が三度個人的な会談を申し込み、三度とも断られたのは有名な話。ガスリーも天皇陛下には3度ご挨拶とお言葉をいただいていますが、こんな場所で直に公爵に会うのはこれが初めてです。

帝国重工の誇る最高頭脳のひとり“高野さゆり”嬢は、その美貌と恐るべき知性と研究において、今や世界の至宝とも言うべき存在。こちらもあまりに凄まじい研究と成果に、表に出ている女性は実はフェイク(偽物)で、本当は“高野さゆり”を名乗る研究集団がいるのではないか、とまで言われるほど。もちろん、個人的な面談に成功した外国人は一人もいません。

帝国重工広報部の名花として、今や世界で最も名の知れた女性たち、イリナ嬢とイリア嬢は、ガスリーも何度も会っています。役得です。この点だけは、アメリカ外務省の他の公使や大使からまで、ハッキリねたまれています。

そして、今日の面談の相手、偉石 真備。


イリアがひくのは『24の奇想曲』というバガニーニの名曲。独奏曲でかなり難しいはずですが、その音色は見事の一言です。
ガスリーは音楽の才能はさほど無いのですが、美しい曲を美しいと思う程度の心はあります。いまや世界中の有識者や政治家たちが、ぜひとも会いたいと熱望するメンバーを前に、彼は皆と静かな一時を共有する事にしました。


「腕を上げたね、イリア。」

高野の声と静かな拍手が、演奏を終えたイリアにむけられ、愛くるしい表情がさらに美しく頬を染めました。
偉石も満足げな表情でうなづいています。彼は子供が好きで、ダインコート姉妹ではイリアが一番気に入っているのです。

「ロシア宮廷付きのヴィクトル・ホン・イドスキーや、フランスのアンフ・レミナクフルを思い出したよ。ただ、さすがに少しくたびれたようだね。」

偉石は、この当時有名なバイオリニストをあげて、イリアをほめました。
この曲は複雑な上にかなり長いので、引き手のスタミナも必要です。最後の方は少し苦しげだったのをガスリーも気がつきました。

「私は音楽はさっぱりですが、見事な曲だと言う事だけは分かりました。Mr.偉石は、ロシアにも行かれたことがあるのですか?。」

ロシア宮廷付きの音楽家は、超一流ぞろいですがあまり外には出ません。その名前をすらっと上げた偉石に、思わず尋ねました。

「真備でいいよ、ガスリー殿。1ヶ月ばかりニコライ2世に世話になっていたことがある。」

「なんと・・・!、ええと私の事は、ジョージとお呼びください。それにしても驚きましたね。どうしてまたニコライ2世の元に?。」

「なに、夕食の話し相手にちょうどよかったんだろう。あの方は元々日本好きで、保養地へ行く途中の道で、日本人の私を見かけて拾われたのだよ。おかげで1ヶ月で5キロも太って困った。」

実際、偉石との話はニコライ2世もかなり楽しみだったらしく、なかなか彼を手放そうとしなかったのです。おかげで数日のつもりが一ヶ月になり、置手紙をおいて夜逃げ同然に逃げ出したのでした。
おかげで、ニコライ2世の日本好きはさらに強くなり、対日強硬論者たちは皇帝に日露戦争を同意させるのに、散々手を焼く羽目になりました。

「まあ、今やロシア領となった元朝鮮半島、いやニコライ半島に覆いかぶさるような形の日本は、たしかに目障りだっただろうがな。」

一瞬、きょとんとしたガスリー公使、次の瞬間のけぞるほど驚きました。

「ち、地図を逆に?!」

にやっと笑って偉石は紅茶をすすります。
ガスリーの頭の中でひっくり返った地図は確かに、ユーラシア大陸東部沿岸にすっぽりかぶさるような日本が現れました。当時、自国を中心に地図を作ることはあっても、北を下に考える発想はありません。ニコライ2世もこの発想には仰天し、最終的に日露戦争に同意した理由の一つだったりします。

とはいえ、彼としては本気で不本意だったらしく、開戦後周りの者に『偉石に会わせる顔が無い』と言ったとか。
そして、日本が圧倒的優勢で進む今日、対日強硬派は誰ひとり皇帝の前で頭を上げられない状態でした。

「真備、貴方としては、日露戦争には勝てると思っていたのですか?。」
「まさか!。だが、『勝つ』のではなく『負けない』ならあるかも知れんとは思った。」

勝ち負けの明確な狩猟民族をルーツに持つガスリーには、この農耕民族的な考え方は、理解しきれないようです。

「朝鮮半島という不要な荷物を捨てたのは、この私にすら思いもよらぬ一手だった。朝鮮と関わるなという意見は多かったが、実際それができるとは到底思えなかった。だが、日本は見事に捨てて見せた。あの時の驚愕と、その後に襲ってきた興奮は今でも忘れん。日本が国としてあれだけの事が出来るなら、私が命を捨ててかかるぐらい何と言う事も無いではないか。そう思ったら我慢が出来なくなってな、日本を飛び出して、世界中を回ってみたのだ。」

目を輝かせ、力ある言葉で語る偉石氏。ですが、この時代の日本人が単身世界を回ろうとするなど、無謀を通り越して自殺行為といわれても仕方が無い蛮行でした。どこで身ぐるみはがされて殺されても、奴隷として捕まえられても、誰も助けようの無い時代なのです。

「そして大陸の広さを実感した。半島を捨てたのは、まさに正解だったよ。清国はグダグダでヘロヘロだ。朝鮮はそれ以下で論外。そちらに好きほうだい勝てるからと、自分が強いと思い込んでしまえば、ロシアや欧米と大陸を戦場に闘わねばならなくなる。ロシアだけでもどれだけの兵がいると思う?、どれだけの資金があると思う?、そうなったら国が持たない。」

元々ろくな主義も理想も無い清国、それ以上に清国だよりが喜劇のように深刻だった朝鮮、この時代の猛烈な世界競争時代において、全くついていけていませんでした。そこに欧米列強が次々と食いつき貪る様子に、日本の軍部もよだれを垂らして同じく食いつくでしょう。軽薄なマスコミも、当然それをあおり、朝鮮から領土を広げます。問題はその後です。ロシアを始め、他の列強と直接ぶつかることになるのです。

思わずガスリーもうなづきました。

「日本の優位は海にこそある。国を取り巻き、直接侵攻させない海が、日本の最大の防壁であり世界への道だ。まあ、まさかここまで日本が善戦するとは思わなかったがな。」

「真備、貴方の心情としては、ロシア皇帝との日本語で言う『縁』、戦争の上でいかがお思いですか?」

ぐっふふふと、くぐもるように笑う偉石。

「愚問だな、ニコライ2世とて同じ事を言われるだろう。酒を飲む時は酒のみを思い、闘う時は闘いのみを思う。あの方とて、闘うと決めた以上、迷うことは無い。いやむしろ迷うなら闘ってはならんのだよ。『言葉と矢は、放たれれば戻ることは無い』ということだ。」

「ふーむ、サムライですな・・・。」

「ロシアの内部意見も、これで大きく変わるだろう。過去、日本には織田信長という英雄がいたが、ジョージは知っているかね?。」

「中世の、あまり評判の良くない為政者と聞いています。」

「虐殺をかなり行ったからな。だが、日本最大の改革者でもある。中世を近世へと大きく動かした最大の功労者なのだよ。彼が若い時、領地内の親族と骨肉の争いを繰り返したが、その時敵にいた将校が、何人も彼に心酔して彼の元に走り、後日強力な織田軍団を作り上げた。信長も相当な懐疑主義者だったが、彼らを受け入れて重用した。つまり戦えば分る事もある、またそうでなければ、命をかけて戦うほど空しい事は無いではないかね?。」

この時、ガスリーは驚愕を押し隠すのに苦労した。
ちらっと高野氏を見ると、『我が意を得たり』と言わんばかりに笑っている。
とどめにイリナ嬢がこっくりとうなづいた。その目が笑っていない!。

ようやく構図が見えてきた。日露戦争が停戦した後、日本はロシアと接近する気なのだ。 どう見ても、日本が優勢なまま戦争は終結する。アメリカ外務省内部では、日本がニコライ半島(元朝鮮半)を代償に奪うのではないかと推測しているが、日本はそんな玉ではない。義和団の乱など、これまでのやり方から見て、極めて寛大な態度で接することになろう。貰うとしてもせいぜい樺太程度、極地の基地などはロシアすら欲しがらない。関税の撤廃と、半島の自由通行権、そして損害賠償程度の補償金ぐらいで済ますとすれば、ロシアは全土が驚愕するだろう。おそらく反日感情は一気に逆転する。何よりロシア皇帝自身が、相手の寛大さに対する度量を示さねば立場があるまい。それでなくとも、ロシアは半島のせいで、日本に一番近い国になっている。

『まずい、まずいぞ。そうなればロシアは本気で親日国家として、全力を挙げて誠意を見せようとする。まさかと思うが、ツァーリ(皇帝)の一族(それも恐らく娘)から天皇家へ婚姻の申し出があるかもしれん。日本にロシアが結び付いたら、始末に負えなくなる。』

他の欧米諸国と違い、ロシアは残酷さと寛大さが奇妙に入り混じる性質を持っているようです。
ロシアでのユダヤ人差別は有名ですが、江戸時代に女皇エカテリーナ2世は、漂流民の大黒屋光太夫に謁見を許し、わざわざ帰国の船まで仕立ててやっています。こんな事は、他の国ではまずあり得ないでしょう。

今度こそ、ガスリーは本気で苦悩しました。今や自分は、落ちる寸前の公使でしかなく、なんの力も無いと言うのに、目の前で展開されるとてつもない事態は、アメリカに一刻を争う対応を要求しているのです。

ロシアは老大国だからこそ、その対応も対策も考えようがありました。揺さぶれば潰せるもろさが狙い目でした。
ですが、驚異の早さで伸びてきた日本と言う新興国と手を結んで、その新しい血を受け入れたりすれば、イギリスすら手に負えない存在になりえます。

皮肉なことに、戦争の経済的な痛手は、アメリカもロシアに劣りません。巨額のロシア戦時国債を購入した上に、義勇艦隊の全滅は国家予算に匹敵する大損害となってのしかかってきます。しかもこれを癒せる特効薬は、植民地をぎりぎりまで絞り上げるか、世界中で売れまくっている日本製品の優れた科学技術製品だけです。戦争でロシアの分を得て儲けていたアメリカは、これまでのようには日本製品を輸入できなくなるかもしれません。

『アメリカは今すぐ日本と遺恨を残さぬよう、親睦を深め、親善大使などを送るべきだというのに・・・!。』

責任回避に血道を上げる大統領、責任追及に狂気に走る議会、なすり合いをする行政機関、軍部は衝撃のあまり凍りついて無力感まで漂っています。まだ二流国家にすぎないアメリカは、勢いに乗れば強いのですが、逆境になるとなすすべを知りません。

「真備、ロシアは統治に問題が出てきている古い国家だ。今回の愚かしい戦争も、その見識の古さが日本を見誤ったと言えないかね?。」

ガスリーは慎重に言葉を選びながら、高野に聞こえるように話しました。
彼もアメリカの外交官なのです。いざとなれば、地獄に落ちようと、国益のためには策略を尽くします。
高野が、日本の最高権力者である天皇に近い人間である以上、そこに働きかけるこのチャンスを逃すわけにはいきません。

「日本はさらに古い国家だよ、何しろ直結2000年以上だ。それに、そのロシアに協力して全滅した国家は、あまり人の事は言えないのではないかね?。」

「真備だって、勝てるとは思わなかったと言っていただろう?。勝てそうな方に協力するのも、国策のうちだ。」

冷たい言い方にも取れますが、本音を隠さずに言う相手は、判断がしやすい分相手も聞く耳を持ちやすくなります。

「それに、アメリカとロシアは友好条約を結び、関係も悪くは無い。そしてアメリカの船を買うと言ってくれた。日本とアメリカは、まだそれほど仲良くはしていないだろう?。友人に協力するのは、人として当然のことだ。」

「ほお、アメリカは友人とは闘わないのか?。」

偉石は日本がアメリカと懇意になれば、義勇艦隊は行かなかったとでも言うのか?と、視線を投げかけます。

「まず努力をする。日本とアメリカが友好的であれば、戦争が起きる前にもっと、回避するための努力を双方のためにしただろう。」

うまく論議を、日本の努力不足という部分を上手にソフトに広げ、対等に持ち寄るガスリーに、高野がニヤッと笑いました。

「日本、アメリカの双方のためにも、これから先にまちがいを起こさないためにも、仲良くしておくべきではないかね?。太平洋をはさんでいるとはいえ、日本とアメリカは隣国なのだよ。」

その間約1万2千キロ、壮大な隣国もあったものです。

「だが、そのためにもアメリカは、誠意を見せる必要があるんじゃないかね?。」

「むろんだとも。私がアメリカに帰れば、アメリカは親善大使を送ってくるだろう。それをこころよく迎えてやってくれるかね?。」

満身の好意を込め、にこやかに笑って見せるガスリー公使。
ですが、その内心は死に物狂いの決意を固めています。今の状況で、アメリカが親善大使を送るなどまずあり得ないでしょうが、ガスリーはいかなる手段を使っても、実行するつもりでいます。彼とて、長い経験と様々な裏事情を知るベテランの外交官、暗殺覚悟の上なら非常手段を駆使してでもそれはできない事ではありません。

『自分の身がどうなろうと構わない、今日本がロシアと深く結びつけば、ロシアは手に負えぬ強国になりかねない。』

そうなった時、清国の二の舞になるのは、アメリカかもしれないのです。

アメリカの北方はいまだ固まっていません。アラスカは元ロシア領であり、1867年にクリミア戦争の財政難からアメリカに売り渡されたとはいえ、いまだロシアの影響が残っています。しかもゴールドラッシュと呼ばれたおびただしい金鉱の発見で、ロシアは安い買い物をしたアメリカに、強い不満を持っています。また後年カナダと呼ばれる地域は、未だ正式な独立をしておらず、混沌とした状況です。アラスカからそちらに日本と結んだロシアの手が伸びるような事があれば、清国の悪夢の再来です。加えて悪い事に、インディアンやエスキモーなどおびただしい地元民は、清国と同系統の黄色人種。ロシアが本気で手を伸ばしてくれば、欧州各国も黙ってはいません。自分の取り前を確保しようと、血眼になってアメリカ北方に押し掛けてきます。『アラスカと同じ大量の金鉱が見つかるかもしれない』という幻想も火がつくでしょう。そうなれば、そばにあるアメリカもよだれしたたる獲物と化します。しょせん、この時のアメリカは、出来たばかりの新興二流国家にすぎないのです。

自分が大統領に八つ裂きにされることなど、彼にはもはやどうでも良いことでした。

『アメリカの未来のためにも、日本と強い関係を築いて、アメリカの地位と国力を不動のものにしておかねば!。』



「さあ?、それは政府のお偉方がすることですし。高野殿、いかがですかな。」

ようやく偉石が、高野に話題を振りました。

「ふむ、Mrガスリー。せっかくのイリアの演奏会に出す話題としては、少々無粋ではないかな?。」

真面目な高野にしては、少々皮肉めいた口調で、ひらりとかわす高野。

「これは失礼いたしました、真備の話が、とても面白かったものですから。イリアさん、つまらない話をしてすまなかったね。」

イリアはちょっと頬を染めて、初々しい表情で首を振ります。

「とはいえ、私も興味深かった事は確かだ。ただ、落ち着いて考えるには、少々時間がかかるでしょう。」

高野の言葉に、脈ありと感じたガスリーは、次の手立てを凄まじく頭脳を回転させて考え出します。

「ふむ、そうですな。それにしてもイリアさん、私のような音楽の素養の無い者でもうっとりする曲でした。近いうちにまた聞かせていただけますかな?。私はもうすぐアメリカへ帰らねばなりません。できれば貴方の曲を耳に焼き付けておきたいのです。」

このメンバーに、こういう申し出をするという事が、どういう意味か。分らない者は一人もいません。 こう言われれば、イリアは嫌とは言えず、イリアが頑張るのに応援しないメンバーはいません。何より、この話に続きがあるように暗示をかけたのは、高野自身です。

「は、はい。私のつたない演奏でよろしければ、また聞いてくださいませ。」

イリアのこの言葉が、メンバー全員の同意と取られる。
会心の笑みを浮かべたガスリー。

そして、にたっと笑う偉石。



その時、乱暴な音を立てて、ドアが開かれた。
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