■ EXIT
ダインコートのルージュ・その30


≪ガスリー公使の日本滞在記・2≫


翌日、ガスリーは軽い二日酔いで、気持ちよく目覚める。最近、寝ても覚めても心配ごとばかりだったので、酒の酔いが残っている状態というのは、むしろありがたい。昨日の居酒屋は、相変わらずうまかったが、ただ一つ残念だったのはイリナ・ダインコート嬢が居合わせなかったことだろう。

まあ、彼女もたまに行くという程度の話だし、そうそう偶然は無いものだろうが、もうすぐ本国へ戻る身としては、ロマンスの一つぐらい夢想してもばちは当たるまい。
何しろ彼がこれまで見たことも無いほどの極上の美少女。本当に人間なのかと、失礼とは思いながらもマジマジと見てしまった事を思い出す。
きらめくプラチナの髪、愛らしさと美しさが芸術作品のようにとけあった容姿、柔らかさとしなやかさが見事なバランスをなす肢体、彼女のような存在が本当に存在するものなのだろうか。背中に透明な翅が生えていたとしても、不思議とは思えないほど美しい。

日本人は基本的若く見えると言うが、欧米人のレベルから見ればどう見ても14,5歳。で、ありながらガスリーと賑やかに酒を飲み、ご飯を食べ、20過ぎの成人女性より話せるし、ふれあう腕や身体があまりに妖しく柔らかく、45才にもなる彼が甘い香りで思わず逆上しそうになった。

単身赴任の上に、本国の妻ロザリアからは『子供たちの将来のためにも離婚してちょうだい!』と、脅迫じみた手紙と離婚手続き書が送られ、正直涙がちょちょぎれそうなガスリーとしては、もう一度ぐらい一晩中大騒ぎして飲み歩き、朝は同じベッドで目覚めるぐらいの騒動があったら面白いのだが。と、酔いの残った頭で、いささか常軌を逸した想像を巡らせる。

いかんいかん、喉も乾いたし、顔も洗わねば。

ジャアアッ

水道をひねるとほとばしる冷たい水が、すばらしくうまい。もう一杯飲みほしてから、ふと気がついた。

『そういえばしばらく、ウォーターを買っていないな。』

アメリカにも水道はあるが、その水のまずさも定評がある。都市部の裕福層は、飲料水は別に買っているのだった。
二日酔いの朝に、買い置きのウォーターが無くて、ゲロまずい水道水を飲んだ時の何とも言えない気分は、表現のしようがあるまい。
もちろん、彼は故郷が大好きだが、この水だけは何とかならないものかと真剣に考えてしまった。日本の浄水施設を研究しておくのだったと後悔する。

しかし、彼にもはやそういう時間は残されていない。

シャワーを浴びて着替えると、その日は各国公使館へ向かうことにした。要するに、近々呼び戻されるので、別れのあいさつ回りである。
外交官たちは、お互いそれなりの付き合いをしておくのが、問題を少なくするための一番の手段なので、普段から公私で仲良くしているのだ。



だが、どこも似たような状況だったらしい。



片メガネをかけ、細身で知性的な風貌のイギリス公使ジェームス・マクマホンは、こめかみに血管が浮いていた。
見かけによらず短気で、すぐ頭に血がのぼるため、医者から血圧を心配しろといわれていたらしいが、どうやらかなり危ない領域まで上がってきているようだ。

「おはよう、ジェームス。」
「おはよう、Mrガスリー。」

朝の気軽な挨拶も、ガチガチのイギリス公使だと、やたらかたっくるしい。ファーストネームを呼んでくれと言っても、さっぱり聞いてくれない。そんな事だから血圧が上がるんじゃないか?。

「あまり朝の挨拶には向かない顔色だな?。」
「そういう冗談が言える君が、正直うらやましいぐらいだよ。」

いやだから、顔をひきつらせて言うなって、正直怖いぞ。そこまで警戒心むき出しで言う事か?。

「今日は、別れのあいさつだと思ってくれ。おそらくもうすぐ、私は本国へ召還されるだろうからな。」
「あ、ああ、そうか・・・」

急に緊張が崩れたのか、英国公使のギラギラした目から、ふっと力が抜けた。ガスリーの状況を思い至ったのだろう。

「その点は、私も似たようなものだ。まあ、イギリス艦隊そのものには大きなダメージは無かったが・・・」

この秘密主義で小心の英国公使は、哀れなぐらい人を信用しない、いや出来ない。他人に上げ足を取られまいと、すぐ口を閉ざす。だが、その辺を察するのは外交官の最たる仕事だ。ダメージは無かったが・・・の後には、おそらく今日まで日本の海軍の機密を探れなかった英国公使への、厳しい叱責が待っているのだろう。

この男は、貴族のような血縁も無ければ、有力なコネも無く、必死にここまで這い上がってきた官僚上がりである。それゆえ、一度蹴り落とされると二度と浮かびあがれない。米国のような人材の足りない二流国なら、一度や二度の失敗でもまた這いあがる事も可能だが、英国のような大国は、人材が余っている分競争が厳しすぎる。まあそれでも、軍事独裁国家のように、蹴り落とされたら即家族そろって粛清などはないが。

好きになれる性格ではないが、その立場は理解できるし、努力家である事は間違いない。しばらくのつきあいで、有能な外交官としては認めていた。米国へ来るならば、かなりの優遇もあり得るのだが、このプライドの高い男は、必死に英国の官僚機構にしがみつくだろう。

比較的善良な外交官であるガスリーは知らなかったが、ジェームス公使は自分の立身出世のために日本を利用しようと、せっせと裏で諜報活動やテロリストの入国などに便宜をはかったあげく、膨大な予算と人材をつぎ込んで全て失敗に終わっている。そこへ日本海海戦の大騒動が持ち上がり、完全に万策尽きた状態なのだった。
ガスリーは、元々神父志望だったせいもあってかそういう外交の裏工作を非常に嫌い、陰謀好きのマッキンリー大統領とその幕僚から嫌われていたが、日本に関しては、そういう裏工作を計った人間はことごとく失敗しているのだから、人間何が幸いするか分からない。


アメリカが凄まじいばかりの裏工作や諜報活動を行うようになるのは、正史では第二次大戦後であり、現在のマッキンリー後のルーズベルトがようやくFBI(連邦捜査局)の原型を数名の組織から始めるという非常にのんびりした時代である。ガスリーが拒否する以上、下っ端の外交官たちが彼の後釜を狙ってそういう『お手伝い』をしてみたのだが、全員失敗したのは言うまでも無い。

皮肉な話だが、この時代のアメリカは世界的には二流国家であり、ある意味素朴粗暴な国家だった。図体だけはでかいが、身体を持て余し頭が足りず、ガスリーのような先の読めすぎる人間は、のろくさい田舎者の意見の中では浮いてしまって居場所が無いのである。また、アジアのような場所では、尊大で声がでかく、はったりの効く外交官が優秀と言われる。要するに、頭より見かけと脅しである。ガスリーは才能的にはイギリス植民地大臣ジョセフ・チェンバレンにも匹敵する人材なのだが、生まれる場所と時間を間違えたとしか言いようが無かった。ただそれが不運かどうかは、時が過ぎてみないと分からないのだが。


「身体を壊すなよ。」

そういって、ガスリーは自分が先日医者に言われた事を思い出し、おかしくなった。




ドイツ公使のバッフォンは、見るからにゲルマン系という精力的な男だが、不眠で顔が青黒く、身体が急にしぼんだように見えた。
それどころか、なんとなくおどおどしているようにすら見える。

『あの尊大な男がねえ・・・』

いや、基本的に白人種で尊大で無い人間が公使になどなれるわけが無いのだが、ゲルマン人を名乗るドイツ系の偏執的なまでの厳格さと尊大さを併せ持つ征服民族は、やはり異質と言わざる得ない。
まるで岩のようながっちりした顎をもち、石を粗く刻んだような顔付きは、気難しさと手ごわさ、そして容赦なさを感じさせる。
この系統の人間が集まり、ゲルマン民族などという存在しない民族ナショナリズムを煽って、ナチス党というヨーロッパを大混乱に陥れる集団が形成されるのだが、今の時点では、ただなんとも近づきにくい、いやはっきり言ってフランクなアメリカ人としては、お付き合いしたくない顔つきの男である。

さすがに外交官に選ばれるだけはあって、会話をしてみればそつが無いし、不快な気分も起こさないが、もう少し友好的であってほしいと思う。ただ、そこまで考えて苦笑してしまった。

『やあやあ、ひさしぶりだねジョージ、元気だったかい?。ハッハッハッ。』

このドイツ公使が、そういうあいさつをしている光景など、太陽が西から登っても見られないような気がする。
そもそも『友好的なゲルマン人』などという項目は、ナポレオンの辞書にすら拒絶されそうだ。

相手をあるがままに認める、というのが外交官のマナーだろう、とガスリーは自説をひっこめることにした。

「どうかしたのかね?。」

ガスリーのわずかな苦笑を感じ取り、太い眉を寄せるバッフォン。

「いや、とうとう君とはとことん飲んで見る機会が無かったのが、残念だと思ったのだよ。」
「そうか、もう本国への召喚が決まったのか。」

もちろんガスリーのごまかしだが、バッフォンも男であるがゆえに、こういう言葉はあまり疑わない。ゲルマン系は酒にもやたら強いし、宴会は非常に好む。ただ、やたらめったら乾杯を繰り返し、ぶっ倒れるまで飲みまくるので、相手をさせられる方が辟易する。歌や踊りが好きなアメリカ人からすると、芸が無い事おびただしい。

「いやまだだが、もう間違いあるまい。」
「そうか、残念だ。どうだ、今夜だけでも一杯。」
「いや、まだまだ会っておかねばならない人たちが多いのでな、せっかくの誘いを申し訳ない。」
「そうか、貴君も大変だな・・・・。」

何か言いたげな顔つきだが、彼は唇を固く閉じた。幅の広い肩が少し落ちている。

『いやはや、君も大変だな。』

ガスリーとしては、なんとなくこの無愛想な男の肩を抱いてやりたいような気分にさせられた。
イタリアとオーストリアの艦隊が、ドイツ帝国海軍旗を掲げて、盛大に壊滅されたのはもちろん知れ渡っている。

要するにドイツは帝国海軍旗という『看板』を貸しただけだが、それだけでドイツの名誉と戦後の利益(帝国重工の技術など)が得られる割のいい計画は、ものの見事にぶっ飛んだ。そして『看板』は『責任』と裏表であり、今も昔もそれは変わらない。そして『責任』には『損害の補てん』も含まれる。

被害がここまで壮絶だと、人的被害、物的被害、軍費、各国経済担当者たちがめまいと貧血を起こすほどの額となった。
あいにく、『損害の補てん』の割合は、過去の実例を上げるしか無く、全滅の可能性がある相手に『看板』を貸す馬鹿は、歴史上一人もいなかった。
おかげで、イタリア・オーストリア・ドイツは、その責任分担をどうするかですでに泥仕合の様相を呈しているのは、外交官では知らない者がいないほどだ。
このままなすり合いがひどくなると、三国で戦争になってもおかしくないとガスリーは心配している。

こうなると、とばっちりは確実にバッフォンの元にも飛んでくる。
ましてや苛烈なゲルマン人、責任追及にも容赦などあるまい。本国へ帰れば、大臣や議会から凄まじい吊るしあげにあうことは確実だろう。
正直、その光景を想像すると、寒気がしてくる。狂乱状態になったゲルマン人の暴れっぷりは、歴史の上でも凄まじい爪痕を残していて、ヨーロッパでは未だに語り草となっている。そいつらから責め立てられる状況に比べれば、米国議会の大会議場の証言台など、春風でひなたぼっこしているようなものだ。

だが、彼はそれを同情されることは好むまい。
だからガスリーは何も言わずに、黙礼をして部屋を出た。彼もまた、何も言わずにただ礼を返した。誇り高い男には、最後に守らねばならぬプライドというものがあるのだ。









ここは来るべきでは無かったと、フランス公使館を訪れたガスリーは本気で後悔した。

外交官たちは皆いろいろ背負っているようだが、中でも、一番悲惨なありさまだったのがこの男、フランス公使のクシェ・カルル・マウスだ。

背も高く、鼻の下のひげがわざわざカールされているという、超オシャレなこの外交官。今日はあちこちに焼け焦げがあり、かなり失敗したらしい。

「や、やあ、おはよう。今日はいい天気だね。」

目が落ち着いていないし、口調もやたらカン高い。

「まったくですな。」

と、口調を会わせながら内心ため息をつくガスリー。外は、朝からどんよりと曇っているのは、言わないでおいた方が良さそうだ。

何より、細かいライン入った上等な紺色の上着と同色のネクタイは見事だが、真っ黒なズボンは葬儀用、それに靴がクロコダイル皮の夜会用ときているから、それぞれが上等で目立つだけに、全体では見るも無残な姿になっている。よほど動転しているとしか思えない。


「君も本国の様子では、いろいろ大変なようだな。」

「ええまあ、おそらくすぐにでも召還されることでしょう。」

「やはりそうか・・・残念だな。君との会話は、有意義な点が多かったのだが。」

大国フランスの威光を背負った尊大極まりない公使も、“多少は”後悔しているような口調がにじむ。
これまで、ガスリーに対して露骨にアメリカ公使ということで、1段も2段も上から目線で話していた口調が、今日はひどくしおたれている。

ジョークとして笑い飛ばしていたガスリーの意見、『大規模な陸戦にならない限り、日露戦争は決してロシア優勢には成りえない』『日本の海軍力は、どこか底の知れない部分がある』『長期戦になれば、むしろロシアやその協力国が不利になりかねない』などが、本物の恐怖となって繰り返し襲いかかってきているのだ


日本海海戦で、フランス共和国艦隊は『あっ!』という間もなく粉砕され、生きのこったのは防護巡洋艦「カティナ」のみ。これすらも『防護巡洋艦程度の船』だから残したのだとガスリーは読んでいる。生きのこった味方は、敵以上に厄介極まりない恐怖伝達装置と化す。情報が生々しければ生々しいほど、その恐ろしさは猛烈なスピードで伝播する。

そして、まだ未確認情報だが、大西洋それもフランス植民地の周辺に日本の軍艦が出没しているという。もしそれが本当なら、フランスは大混乱におちいる。いや、日本ならやるだろう。あまりにも欧州は遠く、この謎と神秘の国を甘く見過ぎている。

おそらく、これは日露戦争の停戦を反対しているフランスに対しての、強烈な恫喝だ。

日露戦争は未だ継続中である。であるにもかかわらず、これだけの事が出来るのだと、事実をもって恫喝する。
フランスの高い鼻っ柱も、見かけは尊大だがこれに耐えられるほどの強さは持っていない。

フランスはどちらかと言えば陸軍国であり、海軍もそれなりには持っているが、旧式艦が多い。尊大なフランス人同士、足の引っ張り合いが凄まじいせいだという。その戦艦では葛城クラスどころか巡洋艦サイズの雪風クラス相手でも、勝てるかどうか怪しいものだ。

ロシアに朝鮮半島を譲り、穏やかに貿易国家として過ごしていた、いわば東洋の羊の一匹と思い込んでいた日本は、東洋の神の一柱、怒れる海の神『龍神』として突如立ちはだかったように見えた。

日本は、ロシアの内陸部に攻め込む様子は無い。内陸部へ攻め込んでの数のつぶし合いを避けるのは当然だろう。それだけに防衛にのみ専念していればいい。そして、フランスを得意の海上戦で滅多打ち、いや見せしめにすれば、他国がこれ以上日本を刺激するなと押さえにかかる。万が一あの噂の超巨大戦艦“ナガト”などが大西洋に現れた日には、ヨーロッパ全体がひっくり返ってしまうからだ。

そしてフランス国民も、愚劣な負け戦に犠牲者が続出すれば、さすがに折れざる得ない。


だがしかし、そのストレスは消えようが無いのだから、どこかへねじ込まれるのは当然の帰結。 おそらくクシェは、フランス大統領から絞め殺されても仕方がないだろう・・・なあ。

実際、クシェは何とかならないかという視線で、ちらちらこちらにすがるような目を向ける。

おいおい、勘弁してくれ。これからアメリカ本国へ召還される私に、何を言えというのやら。こういう横暴尊大な連中に限って、『自分だけは特別』とか『私を救ってくれる特効薬をくれ』とか考えるんだよな。だったら最初から、停戦に反対しなければいいのに。

本国の意向を受けたクシェは、日本の停戦交渉やイギリスなどへの仲裁申し立てに、散々横やりを入れて、邪魔をしていた。
日本のある『ことわざ』を思い出し、少しため息がもれた。だが、『それ』以上の事を、クシェは言いだした。

「いま、日本の太平洋側は手薄なはずだ。アメリカは最近イギリスからかなりの数の軍艦を購入していただろう?。どうだ、今なら日本に不意を突く好機じゃないか?。いざやると言うのなら、フランスも友愛の精神で協力は惜しまんぞ。君から大統領に申請してみてはどうだ?、出世のきっかけとしては申し分ないんじゃないか。」

愚にもつかぬ意見を、恩着せがましくアメリカにさせようというのか、いやはや『バカにつける薬は無い』ということわざは正しいなあ・・・。

「あなたは、私の意見のどこを聞いていたと言うんですか?。そういう無駄な事をしても事態は変わりませんよ。」

おそらく“あの”オーストラリアですら、ここまでバカな事は言うまい。人間、尊大がすぎれば頭も腐っていくらしい。

目を血走らせて妄言を言いつのるクシェを置いて、さっさとガスリーは公使館を逃げ出した。

実際、クシェの失点も凄まじいマイナスが積もりに積もっていて、これまでの諜報活動や情報操作の失敗など、経済的や人材的な損失の凄まじさは、本国に帰れば投獄されても文句が言えないほどである。それにくわえて日本海海戦と大西洋の大騒動ときては、もはや絞首刑ぐらいしか選択肢が残らない。特に大西洋の日本軍の大作戦で、これまで楽観論と日本(というか黄色人種)を本能的に下に見る報告書ばかり提出していたクシェに対して、フランス政府首脳部は本気で激怒していた。

今や現実逃避に、毎晩酒と世界的に有名になってきた日本の娼館(営業母体は帝国重工)に入りびたりで、破滅へまっしぐらのフランス公使であった。


「案外、私はましな方なのかもしれんなあ・・・。」
■ 次の話 ■ 前の話