■ EXIT
ダインコートのルージュ・その29


≪清国の処理≫


その日、イリア・ダインコート嬢は仕事が一段落したので、イリナとお茶でも出来ないかと、周りを見回した。

「葉子さん、イリナ姉さんはいます?。」

事務員の正木葉子は、化粧気の少ない丸顔を微笑ませ、

「たしか応接室で懇談中よ。」

「そっかあ、残念。」

「あなたも行ってらっしゃい。お客様も喜ぶと思うわ、あの方子供好きだし。」

「?、お客様はどなたですか。」

「行ってみたら分かるわよ。いってらっしゃい。」

イリアは見た目幼い雰囲気があるが、13〜4歳前後の設定にしてある。子供と言われると抵抗があるが、極めて素直な性格なので、なおさら大事にされるようである。 ちなみに、イリアの服装も少々変わっていて、彼女の妖精じみた美しいスタイルを、さらに生かすようスカートがフワリと広がる短めのドレスタイプ。大きめの髪飾りや、美しい縫いとりの刺繍など、少し派手になるとどこぞのテレビタレントのような服になってしまうが、華美にならないようにだけは気をつかってある。ちなみにこの服は業務命令で、彼女の担当する上流階級の女性たちに、超うけまくっている。

『あんまり子供扱いしてほしくないんだけどなあ・・・』

心中でちょっとぼやきながら、応接室をノックした。

「イリアです。イリナ姉さまいますか?。」

「おお、イリアちゃんか。どうぞどうぞ、お入んなさい。」

イリナの返事よりも先に、聞き覚えのある、親しげな太い胴間声か聞こえた。

「失礼します。こんにちは偉石 真備(イイシ マキビ)先生。」

ぺこりと頭を下げたイリアの視線の先には、きっちり茶系の上下を着こんだ、がっちりした丸顔の男性が、これまた太い黒枠の丸眼鏡をかけて、にこやかに笑っていた。 身長は140センチ前後と、小男だがその存在感と目の光は尋常ではない。今はその目の光も緩め、微笑んでいるが。

「ひさしぶりだねえ。ちょうどイリナさんが紅茶を入れてくれたところだ、一緒に飲んで行きなさい。しかも茶菓子は榛名のマドレーヌだし。」

「わ、ラッキー。」

洋菓子の名店、『榛名』のマドレーヌはイリアも大好きだ。

この男性、奈良時代の大学者にして政治家“吉備真備(きびのまきび)”の子孫という伝承を家に持つ。社会学者であり、一流の文筆家であり、経済学でも知られ、『論壇のナポレオン』というあだ名まである。日露が秘密で条約を結び、朝鮮半島の権利をロシア皇帝ニコライ2世に売った直後(これは冗談抜きで、皇帝個人の財産)、ニコライ半島と名を変えたそこから大陸をめぐり、5年をかけて世界中を回るという体験をしている。帰国後、彼が発表した『植民地異界』は、日本の言論界を真っ二つに割るほどの話題となった。

こわもての顔だが子供好きで、ダインコート姉妹ではイリアが一番気に入っている。

イリナが入れてくれたお茶で、美味しく楽しみながら、イリアが尋ねた。

「今日はどういう御用件でいらしたの?。」

「うむ・・・、ちょっと大陸についてな。」
「清国の現状と、この後の対処をお尋ねしていたの。」

言葉を濁す真備と、てきぱきと話すイリナ。イリアは、真備がなんとなく聞かせたくないと思っている事に気づく。

「真備先生、私も帝国重工の一員ですよ。」

言下に『子供扱いしないでほしい』というニュアンスを漂わせ、真備がすこしばつの悪そうな顔をする。
傲岸不遜で知られたこの男が、こんな顔をするのはごくわずかな相手しかいない。

「要するに、大陸で日本が損をしないようにするのと、あちらで仕事をしている人たちに、危害が加わらないようにするには、どの程度お金を用意して、誰に渡せばいいかという事をお尋ねしていたのよ。」

「あまりイリアちゃんには聞かせたくないが、大陸とはそういう所でな。」

「ああ、なるほど。『わいろ』ですね。」

あっけらかんと言われ、苦笑しながらも真備はほっとした表情になる。

「あそこは何事も『潤滑油』が必要なのだ。」

「それに、『恩を受けたらそれ以上のお返しをしないと、大人(タイジン)としての度量を疑われる』でしょう?。」

「わいろを受ける側には、実に都合のいい理屈だがね。」

清国もそうだが、ユーラシア南東部のこのあたりは、漢や唐などの古来から“わいろ病”と言えるほどの根絶不能な風土病になっている。
日本のように末端の警察官までわいろを嫌う国は、例外中の例外、いや彼らから見れば国家そのものがキ○ガイとしか見えない。『わいろがつうじない?。いったいぜんたいどうやってそういう相手と付き合えばいいんだ?!』清国からして日本とはそりが合わず、ついには日清戦争まで起こしている。彼らの日本恐怖症の一つは、間違いなくこのわいろ文化の違いと言える。

「おそらく、あの風潮は千年たっても変わるまい。」

偉石の経験上、清国の人間は決して悪くはない。一対一なら情熱もあるし、面白いし、彼に本気で味方してくれた相手を何人も知っている。ただ、組織化すると付き合い方に癖がありすぎて、気をつけないといけないのだ。ロシアなどもそうだが、大陸系の人間はそういう傾向が強いように思われる。

それに、真備は口にせず、イリアはそれを気遣って言わないが、構造的問題も修正不可能な形である。
清国で役人になりたい人間は、財産をはたいてわいろを贈り、贈られた相手は、それに見合った役職につけてやる。後は税金を絞りとって、その何倍もの財産を手に入れ、同時に礼金を役につけてくれた相手へ定期に送らねばならない。 あるいは、貧しい家は美しい娘が生まれるととても喜ぶ。将来その娘を、社会的地位や財産のある相手に妾として送るのである。娘は裕福な生活ができ、家族はそれで引き立てられ、金持ちや高い地位になれる。それをあの国では『幸せ』と言うらしい。

「三国志も、そういう問題がありましたねえ。」
イリナがお茶を飲みながら、つぶやく。
三国志で、市井の肉屋の妹(異母妹)が非常に美しかったため宮廷に上がり、皇帝に見染められた。その家族が大貴族になり、兄が大将軍何進(カシン)となる。宮廷に勢力を持っていた宦官たち(十常侍)と争ったあげく、皇帝が死んだ時、後継者問題で争い殺し合いに発展、漢の中枢機能がマヒして三国志の大乱となった。だが、1800年前の話と思ってはならない。この国は4000年の歴史とか二言目には言いだすが、4000年前から何も変わらないし、これからも変われない、いやむしろ『4000年〜、4000年〜、』と言い続けて、新たに国ができるたびに退化逆行していくのである。

「だから、普通の国と思って相手をするとダメなのだよ。」

相手をまともな国家として扱うから問題が起き、ついには戦争になってしまった。日本は勝ったから良かったようなものの、万一負けていたらその時点で他国の清国侵略基地として、欧米の植民地にされている。欧米のような、道徳がある程度は通用する国家として扱ってはならない。多少金は使っても、戦争になるよりはるかにましだ。どうせそのうち腐って勝手に潰れる。これが清国、そして未来永劫その地域への鉄則だ。

「でも、今は難しいんですよねえ・・・」
イリナが思わずため息をついた。イリアもあーっそうか、という顔をする。真備も紅茶の鮮やかな赤に目を落とした。今の日本は、政治経済がうまくいき、ノリにノッている。しかも優秀な人材をどしどし登用、若い人も多い。当然、こういう薄汚いつきあいを得意とする人間は、極めて少ないし、日本人として誰もが嫌がる。そんな役をやらされたら、即腐っていくだろう。

「先日寺へこもった大沢とか、その親分だった田之中とかだったら、わいろや汚職をやりたい放題だったから、ああいう国は得意中の得意だったんだがな。」
イリナもイリアも苦笑い。実際、未来の日本でも中国を得意とした政治家は、与野党を問わずそういうダーティな方面で剛腕であるか、日本には合わない片寄った政治思想をもっているかに限られた。


「一つ案が無い事も無いが・・・、
 これは政府の腹一つだろうなあ。実際腹が煮えるだろうし。」

「よろしかったら、聞かせていただけませんか?。
 今度谷町総理大臣にインタビューしますので、それとなくお伝えしてみますが?。」

「おおっ、そうか助かる。それで無くとも『何かと騒がしい』とにらまれているからな。」

偉石にとって、自分の名前よりも、日本国の将来の方がよっぽど心配なのである。彼が下手に名前を出すと、名前そのものに反対する勢力がある。『植民地異界』で軍事国家論を唱えていて、煮え湯を飲まされた学者やマスコミ関係者も多数いる。

「そろそろ気づいている人間もいると思うが、
 大日本帝国政府は『大陸への進出は100%考えていない』だろう。」

「なぜそう思われますの?」

真備の慎重な発言に、無邪気にツヤツヤのほっぺを寄せて、青い目を輝かせ赤い唇を動かすイリナ。だが、その心中は穏やかではない。帝国重工と陛下のみが知る未来への予測は、最重要機密の一つだ。大陸進出がどのような悲劇を招くか、子孫たちに中国成立時の偽りの重荷を背負わせるか、恐ろしさですくむような思いをしている。だが、この時代の知識と知性を動員し、何をどう考えても、日本の生命線は大陸にあるはずである。食糧、資源、市場、大陸進出をしなければ、いずれ日本は枯渇と飢餓の地獄に落ちる可能性が極めて高い。『20世紀初頭の』全知能ならばだが。


「私の『植民地異界』とも関連があるのだが、今の日本は完全に貿易立国を目指している。しかも効率の良い無駄を無くしたしくみを作り、資源を集め、金城湯池(鉄壁の壁、煮えたぎる堀、非常に強力な城や国家を意味する)を作ろうとしている。現在の世界を構成する国家とは、いわば逆だ。普通は大量の植民地を抱え、その広大な領地から絞り取った金を自国で独占し、国を富ませようとする。だが、そのためには常に強大な戦力がいる。その戦力が結局は国家の首を絞める。」

「日本も、強力な海軍力を持っています。」

「それは、自国を守るためで、植民地を押さえつけるためでは無い。植民地を持てば、自国を守るのと、常に植民地を油断なく押さえつけるのと、他の国から植民地を奪われないように守るのと、最低3種類の用意が必要になる。そして植民地からの圧力は常に増え続ける。他国の侵略の圧力も常に増え続ける。そして植民地は有限だ。自国を守るだけの日本は、ずっと小さい負担で済む。植民地で利益の増大を考える国は多いが、負担の軽減から考える国は、私の知る限り存在しなかった。」

『しなかった』という言い方に、ゾクリとするような力があった。
実は『植民地異界』の本論も、現在の植民地主義の世界に激しい警鐘を鳴らしている。だが、彼の出版以前から、日本はその道を歩み始めていた。

「だが、そんな事を考え、認める国が他にあると思うかね?。どの国も絶対に思うまい。たとえ理論的に結論としてたどり着いたとしても、結局は否定してしまう。自国の制度そのものを否定する事になるのだからね。」

他国は、強大な戦力を持った日本が、100%大陸に進出すると決めつけているし、それ以外の結論を否定するということだ。

「ならば、それを利用すればいい。他国は思考を利用されたとしても、絶対にそれを疑う事が出来ないし、否定もできないのだからね。」

「どういう事ですの?、意味が良くわからないのですが・・・」 何かを気付いたイリナと、細い首をひねるイリア。

「毒には毒をという言葉がある。確か、帝国重工の化粧品は、イギリスの商社を通した代理店販売をしていたのだったな。」

「あっ!」
イリナがはっと顔をあげた。

「つまり、清国における日本の利権の確保を、他国にさせるという事ですね。それも・・・英国が一番適している。」

「正解だ。日本が清国を利用する気が無くとも、必ずそれを他国に疑われる。ならば逆に疑う国に利権の確保を願い、頼る。その利益を分ければ、表向きは協力体制を取らざる得ない。英国と協調ならば、他国はおいそれと手を出せん。理由は、広すぎて手に負えないとでも言って、秀吉の朝鮮征伐の例でも上げればいいだろう。」

「しかしそれは・・・ロシアやアメリカが真っ青になるですよ。」 イリアが、思わずこめかみに冷や汗。世界最強の海軍力を持つイギリスと、世界最大級のロシア連合艦隊を圧倒的勝利でぶち破った日本が手を結んだら誰でも『手に負えない』と絶望するだろう。

「それは仕方無いだろう。ナンバーワンとなら手を結ぶ価値もあるが、それ以下では価値など無い。」

真備がにやっと笑った。『凄い殺し文句だわ』とイリナは鳥肌の立ちそうな気分になった。こんな言われ方をしたら、英国の外交官や政治家たちといえど、まず悪い気はしない。

「通商条約を破棄した清国も、イギリスにすがりつくでしょうねぇ。」

イリナも困惑した顔つきだ。うちでのこづちのように、利益を生み出し続けてくれる帝国重工製品が手に入らないのだから、清国内では重大な責任問題になっている。すぐそばに日本があるのに、帝国重工の化粧品や医薬品は、欧米経由でしか入ってこない。清国への輸入業者は値段のつけ放題で笑いが止まらない、金の亡者のような為政者たちは、一部で殺し合いまで始まっていた。

「イギリスは儲け放題だ、ごうつくばりのバルフォアやチェンバレンも嫌とは言うまい。」 イリナは形の良い眉を寄せ、イリアは小首を可愛らしくかしげる。真備は二人と面識があるような口ぶりである。いや、この男なら面識があっても不思議でも何でもない、とイリナは思い返す。何しろロシアを放浪中に、どういうわけか皇帝ニコライ2世に拾われ、1ヶ月ぐらい宮廷にいた記録まであるのだ。

そこまで話して、にたあっと笑いかけてきた。

「陛下と現在の政府、そして何より帝国重工と高野公爵が中心とは思うが、どういう考えを持っているかは知らん。だが、これだけの戦力と科学力を持ち、他国への侵略など毛頭考えないのは、そんなものはどうでも良いと言えるようなとてつもない夢を持っているはずだ。それがどう花開くか、私は実に楽しみだよ。」




高野司令は、イリナの偉石に関する報告書を読み終えると、くすりと笑った。

「さすがだな、あの『植民地異界』は私も読んだが、非常に興味深かった。」

彼が偉石の案に驚かないのは、すでに同種の案を検討済みだからだろう。何より視点の高さが違う。
そばにいる“さゆり”嬢が、少し考え込んだ。

「この人も、1895年組の方ですね。」

「1895年組って何ですか?」
イリナが、思わず聞き返す。そんな言葉は初めて聞いた。ただ、その年については、帝国重工中枢部のメンバーは、全員心当たりはある。
西暦1895年4月23日火曜日、旗艦大鳳を中心とする第3任務艦隊は、21世紀の世界から19世紀末の日本へ現れたのだ。

「共頭佐全、覚えているでしょう。」

以前、妙采寺と帝国重工を大騒動させた、社会主義者を名乗ったテロリストである。

「あの男も1895年、私たちの出現から、急激に力をつけてきました。偉石氏は製紙業を営んだ父親の遺産の一部を受け継ぎ、ロシアに譲られた朝鮮半島から世界を見るために飛び出して行きました。他にも、1895年以降、九州、四国、中国、北海道、東北、各地に歴史に名前の無い人物が、次々と頭角を現してきています。そういう人々をとりあえず1895年組と呼んでいます。」

「真田とも話したんだが、バタフライ効果のようなものではないかと予測している。」

バタフライ効果とは、『ヨーロッパの蝶の羽ばたきが、南米の雨を降らせる影響を持つ』というような、カオス理論の力学系において、通常なら無視してしまうような極めて小さな差が、やがては無視できない大きな差となる現象のことを指す。ましてや、第3任務艦隊の突然の出現は、カオス理論ではめちゃくちゃな数値になるだろう。

「それに、我々も色々やらかしてきたからな、影響がどんどん出てきても不思議はあるまい。」

衛生や医学への協力と経済が豊かになることで、病気や飢餓の死者は極端に減っている。大陸での戦闘が少ないため、正史とは戦死者の差もけた外れもいいところだ。 当然、その影響は計り知れない。日本のレベルアップを急いでいる高野たちにとっては、一部の不穏分子を除けば歓迎すべき事態だ。

「まあ、清国には恩も無ければ義理も無い、いずれは他国の援助で我が国に牙をむいてくる相手だ。鉄鉱石の輸入などをしておくのもいいだろう。」

「大陸に出ない我が国には、もう影響は無いのでは?。」
イリナがちょっと首をひねる。

「可能性の問題だけど・・・、いずれ満州国のような傀儡政権を、別の国が作らせるでしょう。あるいは同時にいくつも出来るかもしれないわ。利権の確保には、正式に植民地国家を作ってしまうのがベストだもの。それを我が国にぶつけてくる可能性があるわね。」

“さゆり”嬢が、冷徹に予測を述べた。ゲリラ化されて消耗戦を挑まれると、確かに問題だ。その点でも、煮ても焼いても食えないイギリスを前に立てるのは、かなりな効果が期待できる。あの国(清国)に対しては、そのぐらいの予防線(バイオハザードとメルトダウンと化学兵器汚染ぐらい)を張っておかないと、『あ、ごめん』で同時にそれ三つぐらいやりかねない。



「ところで・・・イリアからちょっとお願いがあるのですが〜〜。」

非常に言いにくそうにイリナが言った。

「なあに?」

「パンダの輸入って、今ならできますよね?」

一瞬、きょとんとした高野と“さゆり”が、直後大爆笑になった。どうやらイリアはパンダが大好きらしい。
19世紀末に、東京国立博物館の付属施設として作られたものが、東京上野動物園の前身で日本の動物園のはじまりなのだが、高野と“さゆり”は同時に目を向けあった。

「子供たちが、動物に触れあえる公園を。」
「それに自然の動物の様子が見える、回遊型も含めて。」

ほぼ思考はがっちりと合ったようである。自然の少ない東京の子供たちや大人たちに、動物とふれあう事や自然の大切さを考える場所を作る事を、二人は考えたのだった。 おとなしい動物たちの放し飼いの庭や、10頭余りのパンダがうろつきまわるパンダ山なども造られるかもしれない。

面白そうな動物公園が出来る事だろう。
二人に染み込んだ毒気を、スポーンと抜けるイリアの癒し系能力は、実にありがたかった。
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