■ EXIT
ダインコートのルージュ・その26


≪怖い・1≫


それは、妙になまあたたかい夜だった。
じっとりと湿った空気、風の無い暗がり、なぜか虫の声すらこの日は聞こえなかった。

夕方、よその地区で起きた大規模なカミナリのために、まだ停電が続いていた。

帝国重工本社には非常用電源は充分だが、冷暖房までは使えない。
暑く湿った夜に、あまり誰も会社にはいたがらなかった。

そんな中、シーナ・ダインコートは愛銃H&K改良型の整備に余念が無い。
本社の特殊部隊棟に彼女専用の部屋があり、今日はそこにある武器の整備日だ。
そして夜は彼女の友であり、闇は彼女の愛人だった。

小さなろうそくの明かりで、銃の整備には充分。
彼女の愛用銃は、パートナー以上の親密さで、暗闇の中でも分解構成できる。

長いまつげが一、二度上下し、鏡のように磨かれた銃身をチェックする。
大きな灰色の目に映る、精密な機械工作の芸術。
簡素なシステムは、優れたアイディアの結晶。
握りこむ動作が、自然に安全装置を外し、狙いを定めやすくするという機構に、ほれぼれと目を這わせる。

ゆらっ

風もないのに、ろうそくの炎が揺らいだ。

『なんだ?』

強い視線が周りを観察する。
この部屋には、風の流れ込んでくる場所は無いはずだ。
だが、周りに異常は見られない。

『気のせいか・・・?』

念のために各ドアの状態をチェックするが、どこも開いている様子は無かった。

銃を下に下げ、首をひねるシーナ。
ろうそくが、彼女の影を壁に写していた。


ただその影は、彼女が銃を下ろしても、別のもののように、構えた手を下ろそうとはしなかった。









「暑いわねえ。」

一人ブツブツと言いながら、ソフィア・ダインコートは研究室から出てきた。
ここも、冷房が切れているが、彼女は研究が一段落するまで絶対に止めない。
研究は、特殊な砲身用金属加工のため、高温の金属を扱う。熱源はガスで、調節装置や測定機は蓄電池式のため、実験そのものは全く支障が無い。 ただし、当然汗まみれだ。

お気に入りのアイソトニック飲料をごくごくと飲み干すと、軽くなったカップを置いた、氷がカラリと音を立てた。

赤いメガネを押さえながら、懐中電灯を握り、トイレへ向かった。
非常灯だけがボンヤリ緑の光を放つのが、光が無いよりむしろ薄気味悪い。

「早く停電終わるといいのに・・・」

暗い個室に入り、白衣をドアにかけると、下着をずらして便器に座った。

ギギ〜〜〜〜ッ

ひどくきしむ音がした。

『便座が古くなってたのかしら・・・?』

シャーッ

「ふう・・・」

バタン!

ドキッとする大きな音がした。どこかの個室のドアが閉まったらしい。

バタン!、また大きな音。

『だ、だれかまだいたのかしら?』

なんとなく薄気味悪いが、科学者としてあまり非常識な考えは好ましくない。

バタン!、バタン!、バタン!、

次々と、大きな音がした。

『あれ・・・ここトイレ3つしか無かったんじゃ・・・?』

バタン!、バタン!、バタン!
バタン!、バタン!、バタン!

どんどん音が近づいてくる。

『な、なんで・・・、そんな?!』

シャーッ

『や、やだ止まらない』

こんな時に限って、おしっこが止まらない。

『は、早くとまってよおおおっ!』

バタンッ!

隣の個室らしい、大きな音がした。
びくっ、ショックで今度はおしっこが止まってしまった。

耳が痛くなるような静寂。
背筋が泡立つような気味の悪さ。

ガキッ

急ぎ下着を上げて、立とうとして、ドアノブが回らない事に気付いた。

『えっ?!、なっ、なんで。』

右も左も、びくともしない。

『なっ、なんで、どうして、動いて、動いて、動いてよおおおおおおっ!!』

カチカチカチ
白い歯が震える。必死に力を込めた手が白くなる。だけど、ドアノブは動かない。

懐中電灯の明かりだけが、彼女の理性を何とかつなぎとめている。

『だ、だけどこれが切れたら・・・。』

怖い怖い怖い

ふと、背筋に寒気を感じる。

『だめ!、何も考えちゃ、だめ!!。』

必死に、背筋が震えるのを無視しようとする。でも、全身が震えそうになる。
しっかりしたドアは、叩いても音もしない。

叫びたい、でも叫び出したらもう自分が押さえられなくなる。

手元を照らす電灯、そう、手元・・・。

必死に首を振ろうとする。

『イラナイコトヲ何モ考エテハイケナイ。』

だけど次第に、じっとしてられなく、なっていく。

怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い

顔が、まるで誰かが勝手に引きずりあげているかのように、徐々に上がっていく。 涙が、あふれてくる。メガネの内側にぼたぼた落ちる。

『いや、いや、見たくないいいいいいいいいいいいいいっ。』

歯がカチカチカチカチ、止まらない。

首が、ぎりぎりと、ギリギリと、上がっていく。目が恐怖に見開かれて、それを見る。


目玉があった。


「ひいっ!」

目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉目玉


「−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−!!!!」









トイレは、何の音もしなくなった。
■ 次の話 ■ 前の話