■ EXIT
ダインコートのルージュ・その26


≪ある小さな勝利≫


ロシア北東部、ハバロフスク州ラザレフ地方。 ザスリッチ中将率いるロシア帝国軍シベリア第2軍団は、帝国軍が新規に作成した基地を襲撃した。

サハリンに隣接する地域の一つで、この時代には村落すらほとんど無い、極めてさびしい地域である。
だがロシア陸軍にとっては、後々まで呪わしい場所として記録されることになる。

秋山好古(あきやま よしふる)大佐が率いるラザレフ守備隊(第5師団歩兵第21連隊)は、圧倒的多数のロシア軍の攻撃に耐え、ついには撃退する。
日本側の被害も小さくは無かったため、直後の追撃こそ出来なかったが、それを引き継いだのが国防軍の特殊作戦群。加えて4式大型飛行船「銀河」を対地制圧用のガンシップに改修したAC-004A局地制圧用重攻撃機「飛龍」がいた。

特殊作戦群の悪夢のような追撃を受け、抵抗する兵士は凄まじい攻撃であっという間に人の姿を失う。
空から音もなく現れる巨大な死神「飛竜」は、雪穴に隠れた兵士すら、熱源探査で見つけ出し爆殺する。
ロシア軍にとっては、日本が死神とタッグを組んで襲いかかってきたとしか思えない。

ロシア兵たちは、恥も外聞もなく、逃げて逃げて逃げまくったが、それでも逃げ遅れた兵士たちはいた。

「がんばれ、あきらめるなっ!」
「じ、じぶんはもうダメです。小隊長どの、逃げてください・・・。」
「バカな事をいうんじゃない。」

足を引きずり、喘ぐ心臓が悲鳴を上げ、その兵士はついに倒れる。
小隊長ラテノス・ユゴーは、必死にその腕をつかみ、肩に担いで歩きだす。
部隊の別の隊員も、もう一方の肩を担いだ。

「オレの、ことは、置いていってくれ・・・。」
「イワノフ、一緒に帰るって、言っただろうが!。」
「そうだ、お袋さんが待っているんだろうが。がんばれ。」

ロシア軍は、基本的に指揮官が貴族、兵士は農奴出身者が多いが、さすがに末端の小部隊ではそんな差は無く、全員農奴出身者で構成されている。
食糧事情も彼らはあまり良くなく、脚気や壊血病は、広く兵士たちをむしばんでいる。
せめて植物の若芽でもかじれば、かなり違うのだが、雪と氷に広大な大地全てを閉ざされた冬のロシアでは、望むべくもない。
イワノフという兵士も、重度の脚気で苦しんでいた。足がむくみ、全身が疲労と微熱で苦しみ、心臓まで異常を起こしている。

部下を担ぐ人望の厚い小隊長に、周りの兵士も決して離れようとはせず、お互いに声を掛け合い、銃や荷物を助け合いながら、必死に逃げていた。
それだけに本隊から遅れに遅れ、もはや追いつけないほど離れてしまっている。貴族上がりの指揮官連中は、真っ先にトラックを占領して逃げてしまった。
だが、小隊長は諦めず、途中ではぐれた兵士は拾い、辛抱強く本隊を追っていった。 その態度が、彼らを救う事になった。

『勇敢なロシア兵たちよ』

きれいなロシア語で、天空から声が響いた。

『君たちはよく戦った。だが、これ以上の抵抗は無意味だ。投降するなら、君たちの命と名誉を守ることを約束する。』

かすかな風鳴りと共に、巨大な黒い影が空を横切ってくる。
同時に、周りに一群の部隊が展開していた。

「くっ!」

恐るべき死神の姿と、その配下の整然とした陣形に、萎えそうになった戦意を必死にふるい起し、兵士が銃を構えようとする。

「やめろ!」
「しっ、しかし小隊長!。」
「殺そうと思えばすぐに殺せたはずだ。わざわざ知らせるぐらいなら、さっさと撃ち殺した方が早い。」

ゆっくりと、静かに、銃口が下がった。

「それに、悔しいが、日本軍は一度も約束を破った事が無い。」

これが全員の戦意を砕いた。

転戦し、何度も帝国軍と戦った小隊長は、その事実を身をもって知っている。
それに比べて、ロシア軍の大隊長以上の貴族出身指揮官たちは、さっさと先に逃げ出してしまっていた。連中がトラックを占領したために、彼ら末端の兵士たちは、マイナス30度を超える極寒の地に、おいてけぼりを喰わされたのだ。これは、勝手に死ねと言われたのと同じだ。
部下を見捨てない小隊長になら、命をかけて悔いはないが、平気で部下を見捨てる腐れ貴族の指揮官に、忠誠を誓ういわれはない。

全員が泣きながら銃を置いた。
小隊長が、両手を上げ、一人で前に出た。

「投降する。部下たちの命を助けてくれるか?」
「約束しよう。君たちの命と名誉は、我々帝国軍の名誉にかけて守る。」

ロシア語に堪能な部隊長、宮地友昭(みやじともあき)が、彼と向かい合い、大きな声で答えた。
もちろん、他のロシア兵たちも、ロシア語を聞いただけで、ほっとした表情に変わった。

武装解除を確認すると、彼らの両手を下ろさせる。
中に二人病人がいて、一人は自分で歩くのも困難だった。

「かなりひどいな。これを食べろ。」

宮地が腰のパウチから、小さな包みをだした。
『ライク』と書かれたそれは、封を切ると、ロシア兵の知らない香ばしい香りがした。
薄いきつね色のクッキーで、ごま油を軽く使って焼かれている。

「我々も食べている物だ。」

そういうと、一枚ぼりぼりと食べて見せた。そして部下の分ももらい、彼に両方とも食べさせた。

ほんのり甘く、食欲をそそる香ばしい香りに、イワノフは思わず涙を流した。こんなうまいものは、軍では喰った事が無かった。

そしてわずか数時間後、イワノフの症状は劇的に改善した。




「宮地、部下を救っていただいた事、心から感謝する。」

宮地の元を訪れたラティノスは、深々と頭を下げた。
宮地は軽くうなづき返す。

「一部所属とは違う部隊の者もいたので、詳しく聴いてみたのだが、貴君ははぐれた兵士を見捨てず、必死に救おうとしていたそうだな。我々はサムライの子孫であり、気高い精神を持つ戦士を尊敬する。貴君の態度は立派だったと思う。」

思わぬ言葉に、ラティノスは薄青い目を見開き、そして、感極まってハラハラと涙をこぼした。
異国人とはいえ同じ軍人であり、戦士として自分の行いを立派だったと言われた事は、彼にとって初めて受けた栄誉だった。

実を言えば、超高度無人監視システムにより、熱源探査からシベリアでのロシア軍の動向は、ほぼ正確に掴んでいる。
そこには見たくもないような、様々な事件までもが露わにされる。
部隊ごと放り出して逃げる指揮官、恐怖で混乱する小部隊、集落で略奪や暴行をしたり、別の部隊を襲撃する部隊まであった。

真っ先に逃げ出した指揮官たちを乗せたトラック部隊は、『飛龍』の最初の餌食となり、一人残らず雪原に屍をさらしている。抵抗する部隊も、ひとつ残らず潰し尽くした。 戦争をする以上、徹底して叩くべきところは叩き潰し、ロシアのみならず世界に決意と戦意を示さねばならない。世界は『弱肉強食』の無情が支配している。ロシアは逆の立場なら、何のためらいも無く虐殺をかけてくる。他の国も群がり寄って、生きたまま日本は貪り食われる。ならば、半端な情けをかけることは許されない。
皮肉にも、見捨てられたラティノスの部隊は、あちこちにさ迷う兵士を一人一人拾いあげながら進んでいたため、指令部はこの部隊なら救う価値があると判断したのだった。それに、おそらく部下のために投降するだろうことも予測できた。


「ところで、イワノフを救ってくれたあの焼き菓子は何なのだ?。私はあんなすごい効き目を持つ食べ物は、初めて見た。うまかったと言われて、みんな羨ましがっていたよ。」

宮地は、口元をほころばせた。



正史においても、日露戦争は実に様々なドラマを生んだ。
中でも最大の悲喜劇は、その戦死者だろう。

戦死者数4万7千、負傷者は14万を超えているが、それ以外に戦病死者という数字があり、これが3万7千人いる。
そのうちの2万8千弱(約75%)が、脚気による死者だった。この数字を見るだけでも、恐ろしさに肌が泡立つ気がする。
そして99%が陸軍で起こった。(海軍では数十人。間違いでも何でもなくこの数字)

要するに、愚かにも白米に固執した陸軍のビタミンB1不足であり、激しい疲労、異様な体調不良、むくみ、そして最後は心臓発作を起こす。
しかも、この死に方は非常につらく苦しい。
外見上は異常が見られず、周りは同じ生活をして普通に行軍しているのに、ただ疲れ、だるく、発熱や悪寒を起こし、ちょっとでも動きが乱れると鉄拳制裁が飛んでくる。『根性が足りない』と怒鳴られ蹴飛ばされる。

突然倒れ、息絶えた兵士は数知れず、その無念いかばかりかと思わざる得ない。

陸軍と海軍の差は、単なる食生活の違いに過ぎない。 それが、これほど恐るべき桁数になると、ブラックジョークにすら見えてくる。 人こそ最大の財産である日本で、これは、正史の将来には、計り知れない損失となっている。



帝国軍は、帝国重工と国防軍の指導により、食事の改善も積極的に行ってきた。 正史では陸軍が固執した白米を、麦を混ぜた麦飯にして、惨状を極めた脚気もすっかり影を潜めている。

だが、戦時、最前線では、それでもかなり不自由する。激しいストレス、激烈な戦闘、積み重なる疲労はビタミンやミネラルを急激に消耗させる。兵士の命はかくももろくはかない。
ビタミン剤、携行食糧、飲料形式など、様々な補給方法が提案されたが、どれもビタミンとそれを含む製品の生産能力と、費用対効果、そして飲む側すなわち兵士の心理的な抵抗にあい、普及しにくかった。特に自らの装備を背負って行軍する陸軍は、邪魔な物をひどく嫌う。
それに、医薬品の製造は、戦争と同時に救命用の止血剤や抗生物質などに重点を置かれ、急を要しないビタミンなどは、製造余力が無かったのである。

だが、ある日それを突き破る新提案が行われ、爆発的な広がりを見せることになった。 提案の行われた場所は、帝国重工調理区画、F−4。
重工の女性陣からは『パティシエルーム』とあだ名される場所である。
さらに言えば、その提案の元は、そのルームで行われた“はるな”大尉主催のお食事会の、ちょっとした会話からだった。

「これは、この間のお話から作ってみたお菓子なんだけど、試食してみてくれる?。」 「この間のお話?、わ、香ばしいね。」
「ゴマの香りがいいし、甘味も薄めで食べやすうぃ。」
「私もちょうだい。」

女性たちに好評を得たそれは、ビタミン(特にB1)を多く含む米ぬかを混ぜて焼いたクッキーだった。ごま油を少し使って焼いているので、香りもいい。
最前線の兵士の健康を気遣った“はるな”大尉は、手軽で、安く、おいしく、ビタミン補給と運送の軽量化全てを考え併せ、このクッキーのレシピを考えだしたのだった。

何しろ、米ぬかならば精米時にいくらでも出る上、それまではゴミとなって捨てられていた。それなら玄米を食べればいいという意見もあるだろうが、圧力なべなど未だ無いこの時代、玄米を炊くには時間と燃料がかかる。味もまずく、消化も悪いのだ。

この焼き菓子は、食物繊維も豊富で、便秘の予防にも効果がある。何より軽いので携行食糧にも持ってこいである。
女性たちは、みんなで名前を考え、ライフ・クッキー略して『ライク(大好き)』と名付けた。
若い軍人たちには、この名前も大うけした。イリナが、『ライク』にキスをしているポスターも作られたが、あっという間に一枚残らず盗まれたのは、言うまでも無い。



「あれは帝国軍ですごく人気のある『ライク』というお菓子だ。国防軍の大尉が開発した食品で、脚気に優れた効き目があるが、それだけではなく、疲労回復、精神安定、筋肉痛や目の疲れ、便秘の予防にもなるという優れモノだ。」

説明を聞いているラティノスは、驚きで目の玉が転げ落ちそうなほどまん丸くなっている。 そういう特殊な食品も驚きだが、『女性大尉』などという、奇怪な存在は彼の想像をはるかに超えていた。
何しろ、陸軍で言えば大尉は中隊長クラス。下っ端からの叩き上げで成れる最高位。荒くれ者どもをまとめ上げる度量と力(つまり暴力)を兼ね備えた実力者である。 彼の知る限り、どいつもこいつも子供が小便チビって泣き叫ぶような、凶暴な面構えの巨漢ばかりだった。

思わず、奇怪醜悪な容貌と凶悪な体格の女性(?)を想像しそうになり、胃のあたりからこみあげてくる恐怖を、必死に追い払った。

もし万が一、彼がその女性大尉に出会ってしまったならば、おそらく彼の世界観はひっくり返り、救いを求めて宗教に走ったかもしれない。 その女性大尉ときたら、コック帽がにあう、ちっちゃくて可愛らしい、いや愛くるしいまでの、大尉様なのだから。


「ただ、困った点も一つあってな。」

困った点と聞いて、ラティノスは眉をひそめる。何か副作用でもあるのだろうか?。

「あっちの方が元気になってしまうので、落ち着かなくなる。」 と、自分の下半身を指差した。これは世界の男性共通、一瞬きょとんとしたラティノスが、急に相好を崩して大笑いした。

「アッハハハハハ、なるほど、身体が元気になれば、あっちも元気になるのは当然だな。」

共に大笑いをした宮地とラティノスは、やがて民族を超えた友情を育てることになる。 戦いに勝つことももちろんだが、こうして敵対する国に心を許す人間を作っていくのもまた、一つの小さな勝利となる。
小さな勝利は、小さな種にすぎないが、それが世界に無数にばらまかれた時、どのような大輪の花を咲かせるのかは、後々のお楽しみだろう。

時が進むと共に、ビタミンを始めとする医薬品の製造能力の増加や、新しい製品の開発で、『ライク』もその役割を終えていく事になるが、それでも“はるな”大尉の優れたレシピと愛らしい名前は、多くの人々に愛され、ずっと後年まで軍関係者の嗜好品として残っていくことになった。
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