■ EXIT
ダインコートのルージュ・その25


≪何気ない日常の中で・その3≫


 「えいさあ、おいさあ」

少年たちの元気な掛け声とともに、大型の漁船が船台に引き上げられていく。
50トンほどだが、陸に上がってくると、船は驚くほど大きく見える。
逆に、曳き綱に群がる少年たちは、豆粒のようだ。

木造の船は、年に一度は陸上に引き上げ、張り付いたフジツボなどの海洋生物を取り除いたり、フナクイムシという木にもぐりこむ特殊な貝を寄せ付けないよう、船底をいぶす作業をしたりする。
ちなみに、このフナクイムシ、口のところに円形の貝殻をつけ、それで固い船底をえぐり、内側に石灰質の膜を張って巣穴となるトンネルを掘るという、ちょっと信じられないような生態を持つ。軟弱な地盤や海底に、円形の刃先で丸いトンネルを掘り、掘った後に分割したブロックで穴を補強するシールド工法は、このフナクイムシの研究から生まれたそうである。


ここは、小久保海洋学校。
房総半島の東京湾側にあり、21世紀では富津市と呼ばれているあたりである。東京湾の出入り口にあたり、帝国重工のある幕張とは、湾をはさんだ真向かいになる。

帝国重工が発表した奨学資金制度に、多くの事業者や地方の名士、貴族や皇族等も次々と賛同し、協力や事業が開かれ、多くの新しい学校がつくられた。
『貴賎を問わず』子供たちを教育しようという、この時代の世界としては、ありえない大方針が国是として広がったのである。
この時代は、世界はれっきとした階層社会であり、その意識が植民地支配を正当化している。
当然、高度教育は上の階層の独占物だった。下の階層に教育が広がれば、上下関係にひびが入るに決まっているからだ。
独立戦争の混沌から階層社会の悪癖を抜け始めたアメリカを除けば、日本のように全国民へ教育の機会を与えた国はまだ無かった。

ただ、そのきっかけは、おぞましいまでの搾取で苦しめられる植民地化への恐怖であり、ありとあらゆる力を統合しなければ、日本が消えてしまうという絶望への、悲しいまでの必死の抵抗だった。その凄まじいまでの抵抗は、正史に何度か奇跡を起こす。清国と、ロシアと、世界的な大国相手に渡り合うほどの奇跡を。だが、根底にある物が、恐怖と絶望であるがゆえに、マイナスの思考はマイナスの道を、いつか必ず引きずり込む。日本はその後、破滅的な大戦へ突き進むことになった。

その日本へ、一つの種が、未来より落ちてきた。
プラス思考、プラスの道、遥かな宇宙進出という果てしない理想。
それはマイナスの道を変えようとする、新たな芽ぶきかもしれなかった。

多くの人々の協力で、技術者を育てる学校や、経済学、農業科学、法律、工業化学など、様々な分野の学校が生まれた。
教育への情熱と意思に、世界中から、応えようと言う教育者や研究者たちも、ぞくぞくと集まりつつあった。

科学技術で世界を席巻する帝国重工の名前が、さらに彼らを強く引いている。
凄まじい勢いで伸びていく、日本という国への興味と関心も大きかった。
そして、この時代の輝くような日本の学生たちに、教育者たちは本気でのめり込んでいくことになる。


漁師を束ねる網元たちや、海運業の大物たちが真剣に取り組んだのが、船乗りや専門の漁師を育てるための学校である。
元来日本は教育熱心な国だが、特に船乗りは江戸時代以降、『読み書き計算ができないと船頭(船長)にはなれない』という鉄則がある。
当然、船に関係する職業の人間は、勉強に必死にならざる得ない。

そして、国土の小さい日本にとって、海洋資源は重要不可欠なタンパク源。
この成否が日本人の生命、体格、頭脳の未来にまで影響してくる。

また貿易で稼ぐ日本にとって、優秀な操船技術者の確保は、目立たないが命綱だったりする。
帝国重工が密かに、しかし真剣に力を入れたのも無理はない。



物影からイリナが、こっそり少年たちを見つめていた。薄桃色のベレー帽に、同色のスーツとミニスカート、濃い色のストッキングですらっとした足がきれいに伸びている。青い大きな目が、海彦太助の声と真っ黒だが元気な顔を見つけ、優しい美貌が嬉しそうに微笑む。その頬笑みをまともに向けられたら、どんな男性でも一発で落ちそうだ。
海彦太助はイリナと知り合いになった、熱心な漁師の少年で、奨学資金と地元の網元の推薦で小久保海洋学校へ入学した一人である。
本当なら、駆け寄って声援を送りたくてうずうずしているが、今全力で船を引き揚げている所へ、日本中に知らぬもののいない彼女が現れたら、おそらく非常に高い確率で、大惨事になる。

青い大きな眼は、優しくいとおしげに少年たちを見つめている。

海洋学校は、教育だけでなく、実際に海運や漁など実業を行わせ、即戦力なれる人材育成を目的としている。
そのため、働きに応じて給金まで払われるので、貧しい家庭の子供や少年たちも、真剣そのもので頑張っている。
ちなみに海彦太助は、父親を早くに亡くし、母と妹二人をがんばって養っていた。そういう少年たちが、勉強しながら家族に食べさせていけるのである。気合いの入り方が違おうというものだ。


イリナは大いなる先駆者だった、勝海舟に思いをはせる。
彼のまいた驚くべき貴重な種子『海軍操練所』の影響は、歴史をひも解いてみても計り知れない。
ちなみに、操練所にいた伊東祐亨(いとうすけゆき)という薩摩藩士は、後に初代連合艦隊司令長官となり、日清戦争の大海戦、黄海海戦の指揮をとっている。

どんな巨大な大河も、始まりは小さな小さな一滴に過ぎない。
だけれども、その一滴を作らねば、全ては始まらないのだ。

日本中の若い小さな苗をしっかりと育て、大きく世界に伸ばす。いや伸ばさねばならない。 それなくして、日本の未来はありえないのだから。


学校のある小久保は、元は東京湾防衛のための砲台建設予定地であった。
だが、さほど意味の無い上に、関東大震災で水没する事が分かっていて、建設をやめさせている。
ただ、やめたからと、どこぞのダム建設中止のように、後は野となれ山となれと放りっぱなしでは、国家にも地元にも、ひびが入るだけだ。
そういう場所を、学校へ転用するアイデアは、これまた技術幕僚真田忠道准将の名案だった。

『なぜあの人は、国土開発にあれほどの閃きを見せるのか?』
帝国重工内でも、よく話題になる話だが、本人は技術屋らしい白髪で艶のいい顔に、いたずら小僧のような笑いを浮かべて答えた事は無い。
まあ、まさか20世紀から愛された、都市開発ゲームのマスタークラスだからと答えられたら、高野司令ですら絶句するだろうが。


最初は、学校設立の説明にきょとんとしていた地元市町村も、数百人の学生と、学校施設、港湾の整備等を聞くにつれて目をまん丸に見開いた。
周辺市町村は沸き立つように騒ぎ、資材や土地等の提供まで相次いだ。

そして、実際に学校が始まると、前以上に地元の人々は喜んだ。
若者というのは、エネルギーの塊なのだ。
まして、やる気に満ちた少年たちがどっと増えると、それだけで町や村に活気がつき、人や物の交流が増え、地元の経済まで活性化していく。
学生たちは、授業の一環として、さまざまな『お手伝い』に参加し、船や漁具の手入れ、祭りや葬儀の手伝い、荷運びや力仕事など、仕事を教えてもらいにいく。
現代で言うボランティアである。
これがまた地元の人たちを喜ばせ、ますます評判は高まった。

広報部のイリナは、各地の学校をめぐり、その活動状況を取材し、広報誌に積極的に載せている。
小久保海洋学校は、近い事もあって2度正式に取材を行ったが、『イリナ嬢が来る』と言うだけで、すごい人だかりになった。
もちろん、地元の名士を交えて学長にインタビューしたり、『お手伝い』活動をする少年たちを、地元の人たちと写真に撮ったり、こっそり盆踊りに浴衣姿で参加したら、逆に特ダネ扱いされたりと色々あったが、地域の人々は『オラが村がこんなに大きく取り上げられた』と大喜びだった。

今や、村や町の人々は、子や孫を見るような優しい目で、学生たちを見てくれている。大型船の操船訓練などの時は、地元の人たちが大勢見に来るほどだ。
おそらく初めての卒業式の時は、地域総出で祝ってくれるだろう。

イリナは、少年たち一人一人を抱きしめたいほどに、嬉しかった。



ようやく船が台に上げ終わった。
わっと、歓声があがる。

この作業、指揮まで全て学生だけで協力して行われた。
一歩間違えば、船がひっくり返る事もある危険な作業だが、それだけに無事上げ終えた感動が、少年たちを喜ばせていた。

「みんな、がんばったわね。」

イリナが物影から、拍手をしながら現れると、一瞬広場が静まり返り、そしてさらに凄まじい歓声が沸いた。
やがて、イリナと一緒に校歌を歌い、全員で記念撮影と言うサプライズが待っている。

この時の記念撮影は、全員の宝物となることだろう。
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