ダインコートのルージュ・その24
≪サハリンに乾杯≫
マイナス40度にもなる冬、そんな国ではアルコールは楽しみと言うより、体温を保つための命綱と言った方がいいかもしれない。
たとえばウォッカは12世紀の頃から、ロシアの地酒として作られていたという記録がある。
極寒の地ロシアのどんな僻地でも、どんな不便な土地でも、酒なしには成り立たない。
最果てだった、サハリンのアレクサンドロフスクという街でも、5分歩けば必ず酒場が見つかるのだ。
攻略が終わり、降伏したロシア軍を、まとめて丁重に船でウラジオストックへ返した。
敵を捕虜として拘束せず、すぐ返すのは、相手の兵力にプラスになるかのように見えるが、相手が有能な指揮官なら、さぞ苦悩するだろう。
世界に冠たるはずの陸軍が、あっという間にひねられた日本帝国軍への恐怖が、全軍に伝わりかねないからだ。
しかも、何がどうやって負けたのか、有能な指揮官たちですら、分析も判断もまず出来ない。
ロシア屈指の名将コンドラチェンコ中将ですら、自分の作戦を先読みされたような結末に、ロシア軍内におびただしいスパイがいるのではないかと、自縄自縛に陥ったという。
アレクサンドロフスクに帝国軍が行政府を置くと、意外なほど早く全土が落ち着いてきた。
民事作戦部隊の第3小隊長、宮地友昭(みやじともあき)も、一人でのこのこと酒場へ行けるほどだった。
日本との交戦で、街に閉じ込められた市民の一番の恐怖は、食料とアルコールの途絶だ。
寒冷地の民族にとって、この二つが無いのは、首が落ちるのと同じだ。
だが、意外なほど早くロシア軍は降伏し、そのあとに乗り込んできた日本帝国軍は・・・・・、彼らの想像とかけ離れた存在だった。
『まず略奪がまったく無かった。』
これは、血で血を洗う戦いを繰り広げた大陸の人間にとって、絶対に無くてはならない3つの儀式の一つである。
『さらに虐殺がまったく行われなかった。』
略奪をフルコースの前菜とするなら、虐殺はメインディッシュであり、これが無い戦争などだれも経験したことが無い。
あまりの静けさ、平穏さで、精神がおかしくなった人間がかなりの数出ている。
『とどめが、強姦すらだれもされなかった。』
いかに女性の人数が少ないサハリンとはいえ、これ無しに戦争が終わるはずが無い。
全ての人間が諦めと恐怖の中で、女性を守るか、自分が命を落とすか天秤にかけていた。
だが、その天秤は極めて弱いものであることは、誰もが良く分かっていた。
歴史は、それを全て大陸の人間に繰り返してきていたのだ。
宮地が、部隊を連れて、その酒場に初めて入った時の事を、今でも思い出す。
金髪で化粧の濃い女性が、青ざめた顔をしながら、立ちふさがったのだ。
「ご、ご用なら、私がうけたまわりますわ。」
わざと薄い服を身につけ、襲うなら自分を襲えと、その目が必死に宮地を睨んでいた。
下士官が自動的な動作で、銃を向けたが、宮地は左手を下げるように動かし、制止した。
女性が武器一つ身につけていないのは、身体のラインが出ている、薄い服からもよくわかる。
「正直に答えるように。ここの人間は何人だ?。男女と年齢構成を言いなさい。」
女性が、一瞬不審そうな眼をし、そしてギョッと驚く。
何故なら、その言葉が全て分った・・・つまりロシア語だった。
「あ、ああ、あなた、私たちの言葉が分るの?!」
言葉が通じると言うのは、相手に驚きと、そして希望を与える。
「簡単な言葉ならね。私たちは危害を加えるために来たのではない、周りを見なさい。」
不気味なほど、街は静かで、そして異常なほど平穏だった。
「正直に話すのが、一番だよ。」
宮地は、鼻の下にかなりきれいなヒゲを持っていて、ほほ笑むとしぶく、優しげに見える。
女性は少し頬を赤らめた。
「私は、マリア・ツヴァイコフ。中には・・・私を含めて女性が3人とここの主人と奥さん、子供が二人。で、でも・・・」
酒場の女性とは、つまり娼婦で、同世代ぐらいだろう。
「お願い、連れて行くなら、私だけに、イキナは許してあげて、もうすぐ出産なのよ!。」
必死の面持ちに、彼女が嘘をついていない事は分った。
「私たちは、人口の調査に来たんだ、何も心配はいらない。」
一言一言、ゆっくりと区切るように言う宮地に、警戒しきっていたマリアの顔が少しずつ変わってきた。
その時だった。
「マリア!、マリア!、イキナが苦しんでるの。」
少し幼い感じの女性が、上の部屋から叫んだ。
「いかん!、軍医を呼べ。」
激しいストレスで、妊娠期の女性が早産することは珍しくない。
日本語を叫んだ宮地に、泣きながらとりすがるマリアを必死に押さえ、なだめていると、
「患者はどこだ〜〜〜っ!」
これが、男のだみ声ならむしろ衝撃が少なかっただろうが、女性の高いアルトはキンキンに響いた。
ドドドドドドドドドドドドドド
赤十字をつけた白衣の女性が、猛然と足音も高く駆けてくる。
男の衛生兵二人が、必死に走っても追いつけない。
黒髪はざっくりぎりぎりまで刈り落としてあるが、それが不思議に似合う、細身で背の高い女性だ。
「マリア、彼女は医者だ、それもとびきり優秀なね。」
外科に内科、伝染病、緊急手術にラマーズ法、帝国軍の誇る無敵のスーパー軍医こと高峰富士子女医である。
あまりの事に、マリアたちの方が、精神が追いつかないらしく、呆然として手を指し示すのが精一杯。
高峰女医は、怒涛の俊足で階段を駆け上がると、部屋に飛び込んだ。
衛生兵たちも、必死に駆けあがったが、
「男は外!。お湯持ってこおおおおい!」
かわいそうに、女医の長いおみ足に即座に蹴りだされ、必死にオケ探しと湯沸かしに走り出す。
それからわずか30分後に、元気な赤子の泣き声が酒場に響き渡った。
「わーーーーーーーーっ!」
マリアは、涙をぼろぼろ流しながら、宮地にとりすがり、安堵のあまり腰が抜けたらしく、それこそしがみついてワンワン泣いた。
その上、感極まったのか、泣きながらキスを激しく繰り返され、宮地は照れくさいやら、部下の苦笑がこそばゆいやらで、えらく困った。
「逆子だったが、母子ともに健康、問題なし。行政府には、サハリン行政府最初の赤ちゃんが生まれたと報告しておくよ。」
高峰女医が、手を拭きながら現れる。
行政府はさぞ喜ぶだろう。これで赤子も母親も、かなりの優遇が受けられるはずだ。
そして、このニュースが広まると、サハリンの地元民は、驚きと安どで胸をなでおろすだろう。
いつもの酒場の扉を開けた。
アルコールのにおいと、にぎやかな、朗らかな喧噪。そして、
「よお、マリア。サーニャは元気かね?。」
ちなみに、生まれたのは男の子で、彼が名付け親になってやった。サーニャ・ゴンチャロフ、なかなかいい名だと宮地は思っている。
マリアが、花のような笑顔を浮かべて、飛びついてきた。
アレクサンドロフスクの雰囲気は、ロシア時代の数十倍も明るく、食料とアルコールは働いた報酬で十分に買える。
何より、サーニャ坊やへの行政府の祝福は、サハリンに住む者たちに、素晴らしい希望を与えた。
今やサハリンのアイドルと言っていい。
「高峰の旦那に乾杯!」
「サハリン行政府に乾杯!」
「「「サーニャ坊やに・・・・かんぱ〜〜〜〜〜〜い!!」」」
酒場の男たち、女たちの、朗らかな乾杯と、明るい歌声が、全員のコサックダンスとともにいつまでも続いていた。
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