ダインコートのルージュ・その22
≪東洋の神秘≫
女性の美と若さへの執念は、男性には理解しがたいものがある。
日露戦争の勃発は、当然太平洋や東シナ海、日本海の『安全』という言葉をほぼ破壊してしまっているが、それでも『日本へ寄りたい』という、大富豪や高貴の女性たちは、何故か後を絶たなかった。
妙采寺と呼ばれる小さな寺院から、その道はのびていた。
美しい木立に囲まれた小道を、古風だが美しい馬車がポクポクと、伸びやかな音を立てて進んでいく。
窓枠や台は、美しい寄木細工に、漆のしっとりとした赤が冴え、日本の優れた紙技術による、革細工としか見えない車体や、金色の見事な内張りが、乗る人を優しく包み込んでいる。
革唐紙・金唐紙と呼ばれたこの最高の紙技術に、見る者全員が目を丸くした。
しかも、紙であるため軽くきしまず、吸湿性に優れ、抗菌作用もあり、非常に静かでさわやかな室内だった。
やがて、黒々とした巨大な姿が、道に立ちふさがる。
樹齢300年を超えるであろう、巨大な古木を組み合わせ、草で編んだ縄や屋根がすっぽりとそれを覆うという、自然と芸術が溶け合うような門が、馬車の前にしずしずと開かれる。
「おお・・・なんて優しい・・・」
ある米国大富豪の夫人は、優美な木立、岩、水面の織りなす光景に、目を潤ませた。
その中に完璧なピースとして、光景を作りあげる建物が、静かにたたずんでいた。
しっかりした柱が天地を支え、磨き抜かれた木の回廊が取り巻き、どっしりした屋根の下、繊細で精密な紙と木の造形美が、鮮やかに、しかし落ち着いた風格をまとっている。
石の道の両側には、白砂が鮮やかな文様を描き、静謐な香のかおりが、自分が異世界“東洋”に来たことをジンと知らしめる。
だが、丸顔で中年のおとなしやかな、50代中盤の夫人は、出迎えた女性を見て不審そうに眼を凝らし、直後驚愕にのけぞった。
「きたわね、アーリア。」
嫣然と笑う女性は、彼女の親友、ドミネシアだったが・・・。
「ど、ど、ドミネシア?!」
あわあわと、口が動かない。
彼女と同じ年齢で、年相応の容貌と老齢を迎えかけていたはずのドミネシアは、30代始めの女盛り、何本もの主演映画を持っていたころの、妖しく美しい表情で、濃い紫のアイシャドウをゆがませ、笑っていた。
長い髪を黒々と染め、椿の油で艶やかに大きくまとめ、飴色で棒状の鮮やかな飾りのある髪留めを、何本も刺している。
江戸時代に日本の遊女が好んだ、大胆な髪型である。
日本独特の“キモノ”とか言うドレスを、大胆に細い首や肩や胸元まで開き、太い帯で留めた姿は、まるで最新鋭のデザイナーが生み出したような鮮烈さだった。
「よくいらっしゃいました、アーリア・フォビル・マキュビエィ様。」
長いキセルをふかすドミネシアの横に、白い頭巾をかぶり、黒いシックなキモノをまとった女性が、穏やかに頬笑みかける。
「ここクイーンズ・サルーンは男子禁制の聖域にございます。
ゆっくりおくつろぎくださいませ。
私は、こちらの館長を務めさせていただいています、妙采尼と申します。」
胸の前で手を合わせ、ゆっくりと礼をする女性も、年齢を重ねた者だけが持つ成熟と、その年齢を全く感じさせない若さの、両方を違和感なくまとっていた。
奇跡を目の前にした彼女は、まさしく神秘の国に来たのだと、心から信じた。
アーリア夫人には、ささやかな願いがあった。
それはささやかでありながら、奇跡に等しかった。
夫は大きな鉄道網を持つアメリカ有数の大富豪であり、財力も権力も、並の人間には想像もつかない。
おびただしい召使いにかしずかれ、宝石と絹に包まれ、願いは何でもかなうような生活。
だが、彼女は夫を愛していた。
今でも、夫に振り向いて欲しかった。
精力的な夫は、冷たく礼儀正しい言葉をかけるだけで、優しい言葉一つかけてはくれない。
外に何人もの女がいるのは知っている。
けれど、夫の愛を少しでも向けて欲しかった。
若いころの激しい情欲で無くてもいい、優しい言葉、キスの一つ、心のさみしさを埋められるのは、夫だけなのだ。
「あら、私ったら、こんなことを。」
レースのハンカチが、目元をそっと抑えた。
東洋のゆるやかで艶やかな、幾重にも重なり合う豪奢な衣類に身を包み、"タタミ"と呼ばれる草を編んだ分厚い敷物の上で、大きなクッションに身体を乗せ、上等な茶のさわやかな味わいが喉をうるおし、懐かしくなるような、不思議な香の香りが、彼女の心を穏やかに包んでいる。
そんな中で、妙采尼は頬笑みながら彼女と会話し、彼女の心を解きほぐしていったのだ。
アーリア夫人はいつしか、心の奥底の願望を、見知らぬ東洋人の女性に話していた。
妙采尼は、天性で際立ったカウンセリング能力を持っていて、どんな女性も彼女には心を開いて、何もかも話してしまう。
聖職者であるため、なおさら女性は心を開きやすくしていた。
また夫人は、妙采尼の滑らかで素晴らしい英語に、感動すらしていた。
妙采尼は帝国と接触する前から、英語とフランス語が話せが、現在はすでに6ヶ国語がほぼバイリンガルになっている。
豪奢で悲しい日々を送っていたアーリア夫人のもとに、一通の電報が届いた。
『奇跡を願うなら、日本へ来なさい』
親友のドミネシアの一文が、彼女の残り火を掻き立て、周囲の反対すら押し切って日本へ旅立ったのだった。
「あなたは、奇跡を願われるのですね?」
まるで、当り前のことを聞くように、穏やかな、しかし底知れぬ光を秘めた目で、妙采尼が尋ねた。
「願っても、良いのでしょうか?」
怯えた子羊のように、大富豪の夫人は問い返す。
「愛しているのなら、良いに決まっています。」
妙采尼の力強い言葉に、しわの目立ち始めた灰色の目が涙であふれた。
クィーンズサルーンの地下20メートルにある、生物工学研究フロア、F3−b8抗老化研究室では、白衣を着た研究者たちが、忙しそうに立ちまわっていた。
そう、実の事を言うと、ここは帝国重工の広大な敷地の一角なのである。
「アーリアさんの遺伝子解析終わりました。」
「非常に身体健康、やりやすそうですね。」
ソフィア・ダインコートはうんうんとうなずく。
彼女の専門は兵器開発だが、片手間にこちらの研究も手伝っている。
ここを訪れた女性の唾液や毛髪から、遺伝子解析を行い、その抗老化遺伝子を活性化したり、ホルモン分泌や受容体の活性化をしたり、足りないビタミンミネラルを補給し、皮膚粘膜の細胞回復を行い、髪や歯の状態を良くし、骨格のバランスの調整を行うことで、比較的短期間の若返りは可能なのである。
平成の50代と、明治の50代を比べてみると、その差は歴然としている。
その差はひとえに、栄養状態と科学的知識の差にすぎない。
人間の内部構造は、百万年前からほとんど変わっていないのだ。
そしてここは、『東洋の神秘の技法によって、若返りという奇跡を起こす』と世界の超一流の階級層で噂される、妙采寺別館『クィーンズルーム』。
すなわち、世界初にして21世紀最先端技術を集結した、最高級エステティックサロンだったりする。
もちろん、その費用は『神秘の技法』ゆえ莫大な額になるが、それが払えないような相手は、最初から入れない。
そして驚くべきことに、『一週間滞在して、効果が実感できない場合は、費用はいただきません』と、最初に告げてある。
わずか一週間の滞在費用は、豪華客船で地球が半周ぐらい出来そうな金額だが、これまでにここを訪れ、払わなかった女性は一人もいなかった。
カポーン
もうもうと湯気がただよい、不思議な香りが濃厚に立ち上る。
おびただしいハーブや、果実、得体の知れぬ木の根が浮かぶ巨大なヒノキの風呂。
そこにふんわりと浮かびながら、まるで体中が透き通っていくような感覚。
「ゆっくりと、この香りを吸ってください。そう、そして手を優雅に広げて、」
象牙色の肌をした、長い黒髪の女性が、穏やかな声をかけてくる。
大きなタオル一枚巻きつけた身体は、ほっそりとして若木のようだ。
風呂を出ると、温かい黒の石板に横たわり、引き締まった体つきの女性たちが、彼女とドミネシアの身体を、丁寧にマッサージする。
人体工学と、エステティック技術の最先端の技法による、生体活性化を促すミネラルオイルとマッサージである。
その心地たるや、天国に昇って行ってしまいそうで、まるで、体中に染み込んだ汚物が、肌から押し出されていくような快感だった。
アーリア夫人の肌がみるみる色艶を増していく。
新陳代謝速度が上がり、肌と体内の老廃物が入れ替わっていくのだ。
翌日は、銀色の髪をした愛らしい女性が、身体にぴったりした「レオタード」とかいう薄い服を身につけ、待っていた。
「ええっ、わ、私もそれを着るの?!」
ぽっちゃりした身体には恥ずかしかったが、着てみると凄く動きやすく、彼女の指導するヨガとかのポーズも、とても軽々と出来た。
女性はイリナといい、どう見ても白人種だが、300年以上前に日本に流れ着いた子孫だという。
彼女が両手をついて、右足をゆっくりと後ろに上げる。
“猫ののび”とかいう可愛らしいポーズだが、見事な脚線美が、鮮やかなラインを描いた。
汗が気持ちよく、呼吸もとても楽で、アーリア夫人はこれまでの重かった身体がウソのような気がした。
東洋の食事とは、こうもあっさりと、深みのあるものなのかしら?。
アーリア夫人とドミネシアは、食事のたびに、不思議な感動にとらわれる。
実は、東洋と西洋の料理を融合させた創作料理なのだが、それゆえに彼女たちの舌にもなじみやすかったりする。
食べやすくビタミンミネラルが豊富、そのくせ適度なオリーブオイルや女性ホルモンを補う大豆食品など、女性を若返らせる精髄が大量に含まれている。
同席する妙采尼の会話も、さまざまな日本の文化や宗教感を盛り込み、彼女たちの人生を引き出し、食卓を何倍も盛り上げる。
いつしかアーリア夫人は、自分の性癖や秘密はおろか、夫婦のセックスについてまであからさまに全て明かしてしまっていた。
イリナは、妙采尼に初めて出会ったとき、その才能に恐ろしさすら感じている。
広報部に所属している彼女は、その対外的な活動のために、カウンセリング知識と能力を高くされている。
それでも、妙采尼との会話では、危機的な状況に何度も追い込まれそうになった。
妙采尼本人は、無意識なのだろうが、一言一言が微妙なトラップや多角的な視点を持っていて、あっという間に相手の心理内に侵入してしまう。
しかも、鋭いだけではなく、凄みと言うかカリスマと言うか、自然に意識が魅了され、何でも話してしまいたくなる。
イリナは、なんとか防御しぬいて機密保持は出来たが、逆に妙采尼の心理を探るなど、とても不可能だった。
もし、姉妹の内で一番その能力値が低いソフィアだったら、うっかりかなりの秘密をばらしていただろう。
それゆえ、クイーンズルームの設立をリリスと検討した時、館長は、妙采尼以外の適任者は考えられなかったのである。
また、アーリア夫人に従ってきた侍女たちも、ふるまわれる食事に涙を流すほど喜んでいた。
彼女たちは、夫人の世話が無い時は、掃除や洗濯、風呂焚き等を手伝わされるが、食事があまりにおいしいので、文句を言う人は一人もいなかった。
一ヶ月後、アーリア夫人はまるで20も若返ったような、艶やかな肌と、輝く表情で門をくぐった。
身体の改造だけでなく、心理的なカウンセリングが、その効果を数倍に高めている。
ふっくらとした体つきは、むしろ男性を悩ませるような色香を発し、艶やかな笑みは愛嬌を増し、泣いている子供ですら頬笑みそうだ。
そして、側にいる妙采尼に深々と頭を下げた。
「導師様、本当にありがとうございました。」
「自信を持っていいわ、ご主人は必ずあなたを愛しています。あなたから、勇気を持ってしがみつきなさい。」
しわの消えた、灰色の美しい目が大きく見開かれ、ハラハラと涙をこぼした。
男性として不能になっていた彼女の主人が、最愛の妻とよりを戻したのは、3週間後のことである。
自分の不能を知られたくなくて、彼女を避け、他に女がいる振りまでしていたのだった。
ちなみに、親友のドミネシアは、彼女の最初の映画を取った監督の元へ駆けもどり、結婚したそうである。
夫人の奇跡の代償に、『大きな鉄鉱石の鉱山』と『大型の運輸会社』が、妙采尼『個人』を通じて帝国重工に譲渡されたことなど、夫婦には取るに足りない問題であった。
何しろこの時代ときたら、よほどの大会社でも個人の物と言って、不思議に思わない時代なのである。
帝国重工広報部情報戦略室は、今日もイリナを中心に大忙しだった。
「次は、スペインブルボン家侯爵夫人ですね。この方領地はありますが、お金しか取れそうにありませんねえ。
あ、その次の英国ウィンザー家のご息女は、アフリカ鉱山をかなり相続しているようです。」
ユダヤの商人はこういう名言を残している。
いわく、『金を儲けるのは男であり、その金を使うのは女である』と。
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