■ EXIT
ダインコートのルージュ・その21


≪闇の争い:4≫


猿のような小男は、恐ろしいほどの俊敏さで、
木を移り、枝を渡り、崖を飛んだ。

常人ならば魔物かと思うほどの、身の軽さだ。

『マッタク、サゼントヤラモ、ショセンニホンジン』

5メートル先の枝に、ふわりと飛び移る。

『コノオレサマニ、ダレモ、ツイテコレネエヨ』

わざわざ、木から木へ飛び移るよう、指示されて、
小馬鹿にしたような表情を浮かべながら、次の木へ飛んだ。

自分がひたりとつけられているなど、思いもしなかった。
それも、木の下から。


しょせんは、人である。


垂直に切り立ったがけも、千尋の谷も、山には当たり前の光景だ。

40キロの速度で垂直のがけを駆け下り、
10メートルの谷を平気で渡るカモシカもいる。

聴覚は数十倍、臭覚にいたっては数百倍。
野生動物の感覚の鋭さは、人間など比較にならない。

それを追い、弓矢や手槍程度の武器で、必ずしとめる山人たちである。

野生動物の、恐るべき運動能力と警戒力に比べれば、何ほどもない。

『このままいくと、琵琶の海かもしれない』

つぶらな茶色の瞳の、視力は4.0。
樹上の移動する陰など、目の前のチョウチョに等しい。
小柄で引き締まった体が、音も無く森の中を疾駆する。

その脚力は、カモシカすら追い抜き、引き倒す。

タケルは14歳だが、獲物を追跡する能力では義父ですら舌を巻く。
何より、鈴鹿から近江、北陸にかけての地形は全て頭に入っているほどの、
天然のナビゲーター能力を持っている。

彼の足跡と目印を追うのは、具五郎という戦いに長けた男と、その集団である。
そして全員が、帝国重工製の発信機を持たされていた。

それを高高度偵察用無人飛行船『ララミィ』が追跡している。
この追跡装備だけで、21世紀初頭の経済レベルで言えば、
1億を軽く超えてしまう。

琵琶湖北岸に出た男は、そのまま隠してあった船を引き出した。

『くそっ』
タケルは悔しげに歯噛みする。

『もし琵琶の海に出た時は、決して追ってはならない』と、
きつく妙采尼に言い渡されている。

琵琶湖は、山の民たちには、『琵琶の海』と呼ばれている。
隠れもならない湖上で、船で移動するのは、逃亡しやすくするためと、
もうひとつ、追手を明らかにし、逆襲するため。

この当時の琵琶湖は、湖岸の大半がアシやヨシで覆われ、
小舟が隠れたぐらいでは、見つけることも難しい。

船は、小憎らしくも悠々と、沖合の小島へと向かった。




「いませんね…」

ララミィからの映像を見ていた妙采尼こと木瓜が、ぼそりとつぶやく。

「何がです?」

イリナが、映像モードを変えようとして手を止めた。
精密映像が、湖面の波までも映している。

「この時期、秋の渡り鳥があの辺りはかなり集まるはず。
 船の動きに、驚く鳥が一羽もいません。
 武器、おそらく鉄砲を持った人間が多数潜んでいます。」

ヒュウと、シーナが口笛を吹いた。
イリナが急いで映像モードを、赤外線反応に切り替える。
確かにアシやヨシの茂みの中に、船と思われる形が10数隻あり、
人が数人ずつ隠れている。

「ここに奴がいるのかしら、それとも…」
「いや、たぶん殲滅戦用だな。」

イリナの疑問に、シーナがあっさりと答えた。
彼女からすれば、あまりにも湖へのひき方が露骨だ。
樹木の上ばかりを移動したのは、おそらく周囲で見張っている連中をひきつけるため。
言わばおとりである。


「おそらく、私どもの事を知った佐全が、帝国重工とのつながりに、
 強い疑問と疑念を持ったのでしょう。
 これまでの幕府との関係を思えば、仕方のない事でしょうけれど。」


つまり、江戸幕府の諜報機関であった妙采寺を知り、
幕府滅亡から、帝国重工へ乗り換え、
その諜報機関として働いていると考えたのだ。

もちろん、妙采尼の秘密は、寺の頭首程度が知るはずもない。
妙采尼が死んだ今、妙采寺の組織をつぶす絶好の機会として、
佐全は、自分の父親を罠として、殲滅線の仕掛けを組んでいたのだろう。



イリナたちの横では、
佐全の正体と、その出生が明らかになったことで、
イリアが犯罪者プロファイリングを仕上げ、その検証を行っている。

犯罪者プロファイリングとは、重大犯罪者やテロリストの出生から現在までの、
様々なデータを積み重ね、行動科学(心理学、社会学、文化人類学)的に、
その動きや思考がかなりの確率で推測できる検証法だ。

ここに、妙采寺がシー・リリーフ商会からの情報を提供し、
北陸の妙采尼『花梨』から、出生の情報が加えられた事で、
プロファイリングのデータベースは飛躍的に向上した。

そこにイリアの特技プロファイリング技能が加わると、
ほとんど予言かと思うような、空間的高位予測が算出されていく。


イリアがまとめ上げた行動予測と、調査データが瞬時に照らし合わされ、
成功率の高い帝国重工と妙采寺の行動計画が、高野に送信された。
この戦いは全て極秘であり、世に何一つ出ること無く、終わらせなければならない。
それだけに、総責任者である高野司令は、全てに目を通し自分の責任で承認する。

驚いたことに、帝国重工が示した行動計画に、妙采尼の木瓜は妖しく微笑んだ。
『私どもも、こちらにも戦力を集めておりますゆえ、丁度よろしいかと。』
イリアは、その意味することに、しばらく呆然としていた。


「蛇の道は蛇(じゃのみちはへび)…か。」

珍しく高野が、眉をしかめていた。

“さゆり”嬢が、不安そうな眼をした。
こんな表情の高野は、あまり見たことが無い。

「一歩間違えれば、妙采寺はそのまま佐全の集団になっていたかもしれないな。」

“さゆり”嬢は思わず、息をのんだ。

帝国重工の情報を得ているとは言え、
妙采寺はこちらより先に『イリアの高度プロファイリングと同じ結論』を導き出している。

それは、共頭佐全の心理と行動を『理解している』という事でもある。

妙采尼の話によれば、妙采の血を濃く引く者が、妙采寺に集められたと言うが、
全員、親が無かったり、あるいは不幸な生まれであったり、
まともな生い立ちを持つ者は一人もいない。

考えてみればそうだろう、まともな親なら、子供を簡単に手放したりはすまい。

妙采寺での過酷な修業は、人間を歪めてしまいかねないほどのものがある。
妙采寺がいかなる教えや掟を決めていても、それで人間は変わらない。
佐全の集団にならなかったのは、ひたすら指導者の性質と『他者との接触』にある。


佐全のような、非情で、独善的で、なおかつ異様な知能と力を持つ人間は、
主義主張を自分の利益のためだけに使う。

しょせん、主義主張は人間が使う物であり、人間が変えていく奴隷である。
主義主張に、一時的に興奮はしても、それで人間が変わることはありえない。

「人間を変えるのは、いつだって人間だ。主義主張では変われない。」

キューバのゲリラ指導者だった『ゲバラ』と、
20世紀に清国を潰して国をでっち上げた『毛』は、
同じマルクス主義を学んだ人間である。
どちらも革命指導者を名乗っている。

カストロを助け、キューバ革命を成功させ、常に大国を敵に回し、
アフリカで転戦し、銃弾に倒れた『ゲバラ』。

清国の末路とも言うべき中華民国を潰して、殺戮を繰り返し、
無謀な政策で大量の餓死者を出し、
それでも軍事政権と権力に執着し、神として崇められることを欲した『毛』。

その行動と、思想と、最後は、これほど違う例も珍しい。
それはマルクス主義の責任ではない。
単に、主義を使う人間の都合、ただそれだけである。


「それは、私たちにも言えるのではありませんか?」

高野は静かにうなづく。

「そうだ。私たちが孤独であれば、自分の都合で主義を変えても、
 誰も止める者は無く、間違いを指摘する者もいない。
 軍とは、孤独で独善的な存在になりやすい、
 しかし、シビリアンコントロールはあまりにも脆弱だ。」

大鳳に乗り組んでいた21世紀で、
反体制派勢力による愚劣な、シビリアンコントロールの妨害と工作で、
危うく核の炎に消えかけた経験は、一生忘れられないだろう。

「だからこそ、私は君たちを育てた。
 我々の家族として、仲間として、自分たちの鏡として、
 私たちを見守ってほしい。」

「はい!。」

頬を染め、心底うれしげにうなづく“さゆり”
。 彼女にとって、対等のパートナーと認められるほど、嬉しいことは無い。
それは、彼にふさわしい異性として認められることへの、大事な一歩なのだから。

いつか、彼の妻として、女性として愛されることが、彼女の最大の目標である。

「あっ、でもそうすると、妙采寺の『他者との接触』ってなんです?。」

妙采寺は尼寺であり、男子禁制。
本来他人、特に異性は簡単には入れない。

「妙采尼は、全国の山人たちの部落を、自分の足で回っているだろう。
 あれこそが、最大の人間修業だよ。
 かなりなスパルタだが、心理学的にもあれに勝る方法は、ないだろうなあ。」

21世紀の科学においても、手で筆写する以上の、読書の方法は存在しない。
世界に名を成した宗教において、自分の手で他者を救済することは、何よりの修業である。
山人たちを回り、その救済を行う事で、妙采尼たちもまた救われている。

佐全の不幸は、だれも救う事が無い故に、誰にも救われないということだ。

「我々には君たちが、妙采尼たちには山人たちが、それぞれがそれぞれを助け、救っているのだよ。」

高野の声にじいんと胸が熱くなり、“さゆり”嬢は思わず涙ぐんだ。

『絶対に、絶対に、さゆりはあなたのお側を離れませんっ!』

ラブラブモードで手を重ねあう二人だが、
指令室の映像は、地獄の光景を始めようとしていた。









タケルと、追ってきた具五郎たちは、発信器兼通信機の合図で、
短い筒状の物を懐から取り出した。

イリナが『ララミィ』からの情報を元に、タイミングを計る。

合図と同時に、ボタンを押し、地面に置くと、猛烈なスモークが噴き出した。


北向きの山の斜面から、オロシと呼ばれる風が湖面へと吹き、
スモークが広く視界を奪った。
これから起こる光景を、出来うる限り、誰にも見せないために。

「なっ、なんじゃあれはっ!」

茂るヨシやアシの中から、驚愕する声が上がった。

タケルや具五郎たちも、必死に声を抑えた。


かすかな空気の唸りとともに、黒い巨大なシルエットが湖面めがけて降りてくる。

4式大型飛行船「銀河」である。

その展望室で、妙采尼の一人『花梨』が凄まじい笑みを浮かべ、
見下ろしていた。そばには、同じく寺院にいた鈴鹿集40名が、静かに控えている。

仁王立ちになり、凶悪なくまどりを浮かべたその顔は、
まさにもう一つの別名『鬼姫』の顔だった。

「さあ、始めようじゃないか。
 一人残らず、ブ・チ・コ・ロ・シ。」
次の話
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