■ EXIT
ダインコートのルージュ・その21


≪闇の争い:3≫


「あの寺ですか…」

木瓜から報告を受けた妙采尼総帥は、しばし考え込んだ。

どこの国でも、宗教と政治の関係は、恐ろしく根深い。
日本でも、貴族政治の中世はもちろん、武家政権を作り上げた徳川家康ですら、
そばには、『黒衣の宰相』と呼ばれた天海僧正を置いていた。

妙采寺という奇妙な存在も、そのはざまにあったからこそである。

「帝国重工は何と?」

「いえ、寺のことは寺にお任せくださいと申し出ておきました。」

色々とんでもない面もあるが、木瓜は優れた頭脳を持っている。
適切な判断に、総帥はうなずいた。

何しろ帝国重工は、図体が大きすぎる。
下手に動けば、宗派そのものが激しく動揺し、敵に悟られてしまう。

「花梨を向かわせます。ちょうど鈴鹿の山人が、そちらへ移動するころ。
 彼らに合力を頼みましょう。」

妙采尼の一人、旧名花梨は、『鬼姫』という別名を持ち、
戦いにおいては、恐ろしい力を発揮する。

「そうですね、あの方からの手紙にも、
 かなりの効夫(グンフー)を持つ女がついているとありましたし。」

昨日、清国租界(一種の植民地)から、妙采寺のある村の村長の家に、
英語で書かれた一通の手紙が届けられた。

手紙は、村長の家の離れにいる妙采尼総帥に、すぐ渡される。

元来、江戸幕府の諜報機関であった妙采寺は、怪しまれぬよう、
様々な目くらましの技法を、張り巡らしている。
手紙などを直接受け取らないのも、その一つである。

差出人は米国の清国租界、シー・リリーフ商会清国支店となっていた。
そこには、共頭佐全について、かなりの情報が書かれている。
もちろん、ほとんどが英語である。
また、木瓜は、効夫を『グンフー』と広東語の読みで平然と使っている。
ちなみに効夫とは、武器や武術の使い手ととっていい。

江戸幕府の諜報機能が消滅した後、暇になった妙采寺は、
色々な知識や技能を貪欲に吸収していたのである。

「便利になったものね、二週間で上海から手紙が帰ってくるのですもの。」

「姉様、戦争が終われば、帝国は大陸との高速船を就航させるそうですわ。
 東京から二日、九州からは一日で到着する予定です。」

「まあ、それも真田様から?。」

うふふふと、まんざらでもないように笑う木瓜に、

「もう少しお若いと、私の好みになりそうな殿方ですけどねえ。」

総帥はちょっとつまらなそうに、唇を尖らせる。
見かけはそっくりの妙采尼たちだが、男性の好みはそれぞれのようで、
木瓜はかなり年上の男性が好みだし、総帥は壮年まで。
ちなみに、花梨はショタコンであるらしい。


妙采尼たちの言動は、一見平穏すぎるほど平穏のんきに見える。
だが、もしその内心が覗けたとしても、覗かない事をお勧めする。
一切『出さず、見せず、悟らせず』は、忍びの基本中の基本。
日常全てにおいて、それは徹底されている。

妙采尼の一人が死んだことは、彼女たちと交流の深い山人や、
村の者たちは、何も知らされていない。

そもそも、妙采尼が複数いること自体、
この村の村長以外は、一部の山人の部族の長が知っているだけだ。

もし、今ここに、共頭佐全が縛られて突き出されても、
彼女たちの表情はほとんど何も変わるまい。

何一つ変わらない会話を、のんびりと交わしながら、
佐全は、死なぬように、死ねぬように、一寸刻みにされていくだろう。

『忍びとは、人外の化生』
あの織田信長ですら、自分の事は棚に上げて忌み嫌ったというが、
我々には想像の出来ぬ闇と精神が、そこにはある。









「前からとんでもない連中だとは思ったけど、ああもすごいとはねえ。」

先日の真田氏がらみの騒動を、たまたま横で見ていたソフィアは、
未だに、見た物が信じられないという顔をしている。

「確かに、あの印象変化技法は、すごかったねえ。」

イリナもうんうんと、うなづく。
白い頭巾と墨染の衣で、地味で穏やかな見かけから、
一瞬で、妖艶美貌、色香漂う娼婦の愛紗に変わったのは、目を疑うばかりだった。

下手に光学迷彩をまとうより、よっぽど効果的だろう。

「あ、いや、あれも凄かったけどさ。それよりキステクよ、キステク。」

赤い唇を突き出し、細い指を当てて強調する。
ボッと、イリナの頬が赤くなる。
何しろ、一番近くで見ていたので、実に参考にな……いやいや、
彼女自身、固まってしまうほど強烈だった。

「どお、風霧とテストとかして見たの?。ねえっ。」

目を少々ギラギラさせながら、
よだれを垂らさんばかりの、わくわくした口調だ。

「あの角度とか、舌の交わし方とか、息の絡めあいとかっ!。」

「姉さん、鼻息荒すぎですぅ。」

あれをいきなり真似するのは、かなり度胸が必要だ。
何より、完全に技法と快楽オンリーの質問は、
ムードや雰囲気を重んじたいイリナには、ちょ〜っとイヤすぎる。

が、気がつくと周りに、事務員の正木葉子やら、
ツインテールのオペレーター大連撫子やら、
そばかす美人で米系グラマーな、クレア・ウィプトン・松形、
受付嬢の伊集院ツカサまでが、お昼休みなのをいいことに、
群がって、頬を染めながら、聞き入っていた。

「こらああああああっ!」


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

北陸の、若狭湾にもさほど遠くない山の巨大な寺院のまわりを、
『鈴鹿集』と呼ばれる山人の部族が、静かに取り巻いていた。

鈴鹿山脈は、今でいう三重県、滋賀県、岐阜県の県境に位置し、
伊賀や甲賀の発祥地にも近く、彼らの源流とも言える部族が、数多く存在した。

当然、妙采尼との関係も並々ならぬ深さを持つ。


寺院の頭首は、半月ほどの間にひどくやつれていた。
もちろん、原因は共頭佐全の事である。

「む…?」

何か聞こえたような気がしたが、不眠のための空耳だろうと思おうとした。

「日光と月光、如来の手」

今度ははっきりと聞こえた。

『こ、これは…』

まだ一度として使ったことのない、頭首のみが口伝で伝えてきた、ある暗号だった。

「右に薬壺、左に網」

震える声で、暗号を答える。

「素人なれば、しかたなし」

声がまた答えた。

日光菩薩と月光菩薩は、本尊薬師如来の両脇に立つ菩薩。
薬師如来は、本来右手に網を、左手に薬壺を持っている。
それを、わざと逆に答えるのである。

これで、暗号は成立した。

徳川家康のそばで権力をふるった“黒衣の宰相”こと天海僧正が、
『絶対命令』として、各宗派と取り決めた暗号の一つ。
日本中の寺院を、完全に体系化するために、
いわば権威と象徴の裏を支える、命令系統だった。

「きちんと伝わっているようですね。」

確認するような女の声が聞こえた。
頭首は息が止まりそうな衝撃を受けた。

300年近く前の、言わばとうに反故になったような命令が、
頭首の意識をぎりぎりと縛り上げる。

否定するのは簡単だろうが、
その瞬間、自分の、いや寺に所属する全員の存在価値が消えうせる。

だるま落としのように、格がストンと落とされ、
全員が僻地の末寺に配され、
ただの修行僧として何もかも失ってしまう。

この寺には別の者たちが、当り前のように入ってくるだけだ。

突然、足の下の床が消えてしまうような恐怖が襲う。

「なにゆえに、探らせました?」

単なる質問でも、要望でもない、断定と、尋問。

無形無数の重圧が、歴史の重しとなって、
頭首にずしりとのしかかる。

気持ちの悪い、ぬるりとした汗が、顔に、額に、体中にふき出す。
喉が別な生き物のように、激しくあえぎ、止まらない。

閑静なはずの空間が、再び真っ暗な闇となり、
どこまでも落ちていくような恐怖が、喉首を締めあげる。

今度は自分だけでは済まない。
寺院そのもの、そしてここに集う200名の僧侶たち全員も道連れになる。

心の梁が、音を立てて折れた。

文机に突っ伏し、ぼそぼそと、何かをつぶやき始めた。
僧侶にありながら、地獄まで持っていくはずだった事を。



「ちっ、…」

寺を取り巻く、かすかな気配に、
その人影は舌打ちした。

小柄で、どこかサルに似た感じだが、
釣り目で日本人らしくない顔つきだった。

何より靴が、清国人がよく利用する薄く軽いもので、
恐ろしく高い樹の梢に、平然と立っている。

まるで平地を降りるかのように、樹の幹を駆け下り、
音も無く隣の枝へ移り、次々と移動する。

軽身功と呼ばれる、清国の軽業の一種である。

とたんに、集団から数人が動き出す。

彼らは寺の方を向きながら、実は外を警戒しているのであり、
近づく人間を丹念に追っていた。

人間は意外に視線を感じやすい、それを悟られぬよう、匂いや音、
そして第六感とも言うべき、気配で探っていたのだ

そして、男が飛び移る樹の下を、
気配の無い人影が、風のように走っていた。



「首尾は?」

妙采尼の姿に、山人たちが片膝をついた。

「今、タケルが追っています、そのあとを具五郎たちが。」

ふっと、妙采尼のきびしい表情が緩んだ。

「あの子か。昨日は可愛らしかったわね。」

山人の指揮者らしい男が、ニヤッとわらった。

「男になれて、凄く張りきってましたぜ。あいつは運がいい。」

「迷惑をかけますね。」

タケルという少年は、指揮者の息子なのである。

「とんでもありませぬ。我ら妙采尼様のお役にたてるなら、本望でございます。」

この言葉だけを聞くと、山人の部族が妙采尼に絶対の忠誠を誓っているように聞こえるが、
これは妙采寺の『依頼』であり、莫大な仕事料が支払われている。



江戸幕府の諜報機関であった妙采寺は、幕府からかなりな資金が提供されていた。

各宗派の大きな寺院からも、莫大な喜捨(寄付金)の一部が上納される仕組みが設けられていた。
これには、徳川家や各大名家法事への、各宗派の思惑も絡んでいたため、
その額が増えることはあっても、減ることは無かった。

歴代の大奥の実力者たちは、大奥の権威と権力を支えるために、
常に妙采寺を意識し、莫大な額の情報料を払った。

ちなみに、徳川幕府終末期、
大奥の篤姫と、討幕軍総大将西郷隆盛の手紙のやり取りは、
西郷の、京都から江戸までの道筋だけで十数回に及び、
無血の大政奉還への大きなカギとなっている。
妙采寺がいなければ、おびただしい戦場と警戒網を潜り抜け、
それを仲介するのは、まず不可能であっただろう。

それらが徳川250年の間であるから、蓄積した額はとほうもない。

また、情報収集のついでに、徳川家の隠し財産や、金山奉行の横領金、
信玄・秀吉・家康・家光らの埋蔵金の一部まで、妙采寺はしっかり握っている。

明治になってからは、ある縁で、
海外(シー・リリーフ商会)から、かなりの額の送金まである。

妙采寺の財力は、見かけより想像を超えて、はるかに巨大なのだ。
妙采尼も人が悪いというか、その辺は猫を被って絶対に見せない。

ちなみに先日の、『帝国重工の力を借りる対価』は、
『駆逐艦を一隻建造できる』という途方もない額(現在の価値で約百億)だった。
イリナのプランが面白そうなので、そちらに乗ったのだが、
そのぐらいは『金塊』か『ロイズ銀行の小切手』で払う事も可能である。



それでもなお、妙采尼たちは山人たちにやさしく接し、導き続けた。
にっこりとほほ笑む妙采尼に、一同思わず頭を地にすりつける。


『同じ家族でありながら、何と違うことよ。』

昨夜初めての夜を体験したタケルは、しとねの中で頬を染め、色々な事を話した。
後妻の連れ子だが、義父を尊敬し、同じ道を歩もうと必死だった。

少年の意気込みと健気さが可愛らしく、
花梨は裸の豊かな胸に、思いっきり少年をだきしめた。


そして、頭首の血を吐くような言葉を思い出す。


父の妾の娘『松葉』が、父親不明の子を孕み、
出産直後死亡、その忘れ形見が松介と言った。

頭首は義妹を憐れんで、自分の弟扱いにした。

だが、妾の娘の子で、しかも父親不明となれば、
取り巻く視線の冷たさは、吹雪のようなものだ。

まして、古風な田舎であるがゆえに、大人も子供も全てが、松介をよそ者扱いにする。

頭首の弟となれば、扱いは腫れもののごとく、誰も近づいてこない。


『こんな田舎大っきらいだ』


その歪みと孤独は、松介をとてつもない怪物に育てていく。

異常に知能が高く、残忍で執拗な性格が現れ出し、
いつしか、松介の周辺で、肥桶に落ちて死亡した子供や、
酒に酔った後、通いなれた道から転落した乱暴者など、怪死が相次いだ。
子供は通りの真ん中で松介を罵り、乱暴者は意味もなく松介を殴った事がある。


『生まれたくて妾の子に生まれたんじゃねえっ!』


次第に頭首は松介が怖くなった。

十五歳の時、松介は大陸へ出奔する。

その前日、村長の息子の結婚披露で、50余名、ほぼ全員が中毒で死亡した。
食中毒と言うことになったが、頭首には、偶然とは思えなかった。

村長の息子と、その周りの若者は松介と同世代で、
執拗ないじめを繰り返していた連中ばかりなのだ。


『死にやがれ…だれもかれも…死にやがれ!!』



……十年後。

どれほどの地獄を見たのか、二十五で帰ってきた時は、
『共頭佐全』を名乗り、四十のように老けこみ、恐ろしい目をしていた。
(平均寿命が五十年のこの時代、40はすでに老年に入る)

全てを恨みと呪いでしか見れないような、邪悪な目だった。
事実、日本のすべてを憎んでいた。
『全てをひっくり返してやる』と。

そして、先日、佐全は頭首の事を『父上』と呼んだ。
世にも優しげな、馬鹿にし、軽蔑し、侮辱的な口調で。

自分の父親が誰か、松介は知っていたのだ。
母親が怯え、口を閉ざし続けた理由も。

衝撃のあまり頭首は、妙采寺の事を尋ねられるままに話してしまった。
それは、最大の禁忌であり、他言無用と代々の頭首に言い渡されている。

『その目が恐ろしかった』と、うわ言のようにつぶやく頭首を残し、
妙采尼は立ち去った。今の頭首の話は、全て帝国重工にも送られている。


山人たちに、こんな話をしても、決して理解できまい。
部族社会では、母親が同じでなければ、さほどやかましいことは言わない。
子供を大事にするのは、部族全体の責任だと心得ている。
むしろ頭首のたわごとを、全員が軽蔑するだろう。



寺で、緊急を知らせる木の板が、激しく叩かれ、騒然となった。

「頭首様がーっ!!」

首をつった頭首の周りで、悲鳴のような声が、いくつも上がり、
寺のまわりの無人の森を、こだましていった。
すでに、周囲にはだれ一人いなかった。
次の話
前の話