■ EXIT
ダインコートのルージュ・その21


≪闇の争い:1≫


仏前に捧げられる香の香りがただよい、
ほこり一つない廊下を、白い足袋が音も無くあゆんでいく。

天井は高く、土壁は白と緑を基調とし、
あめ色の柱は、年月と、それを崇拝する者たちの尊敬と崇拝を染み込ませている。

仏教界には主流といえる5つの宗派があり、ほぼ全ての宗派はその流れをくむ。
この寺院は、その頂点の次席に位置する格式を持っていた。

椎の実色をした袈裟を来た僧侶が、しずしずと歩む。
寺の使用人、修行僧、僧侶たちも、その前に頭を垂れ、わずかな会釈を返される。

50代半ばの僧侶は、この寺院の責任者“頭首”である。

本尊への仏事を終え、簡素だが磨き上げられた自室に戻った僧侶は、
かすかな違和感を覚え、文机から顔を上げた。

「兄者、ご無沙汰しておる。」

部屋のたたずまいと静けさに、これほど似合わぬ声も珍しいだろう。
背後からかけられた声は、ひどく太く、そして下卑た響きがあった。
だが、日差しの影の闇に、姿は溶け込み、顔は良く見えない。

「松介か、何をしておった。
 松葉の、そなたの母の法要にも出なかったであろう。」

松葉とは、頭首の義妹であり、松介を産んですぐ亡くなり、
その忘れ形見を弟として受け入れていた。

静かな、わずかに老いを感じさせる顔は、何の感情も見せず、
よほど注意深い者で無ければ、その声の動揺には気づくまい。

だが、本人とそしてもう一人もまた、同様に気づいていた。

かすかな、黒い笑いが低く響いた。

「何がおかしい?」

寺院200名の僧を動揺させる不機嫌な声も、義弟には通じない。

「兄者、一つ教えてくれ。」

今度こそ、頭首は眉をひそめた。
この無頼無法な弟が、自分に『教えてくれ』などと、一言たりとも言ったことが無いのだ。

それどころか、仏法の名を借りて大陸へ渡り、
『社会主義』という、見たことも聞いたことも無い主義主張に身を投じたらしい。
そして、名も『共頭佐全』を名乗っている。


人が行う作業に、完全という事はあり得ない。
戸籍ですらも、明治ではまだ不完全極まりない。

まして俗世から距離を置き、独自の世界観をはぐくむ宗教団体の中では、
いまだ行政といえど立ち入ることは困難である。
当然、寺院等を介すると、人間の追跡は極めて難しくなる。
政府と帝国の調査にも関わらず、『共頭佐全』の正体が不明な理由は、ここにもあった。


「妙采寺とは何なのだ?、この寺の頭首たる者が、知らぬはずはあるまい。」

頭首の顔色が明らかに変わった。

松介いや“共頭佐全”は、心の中で『ビンゴ(大当たり)』とつぶやいた。

佐全の替え玉が死んだ直後、姿を消して、間接的に部下たちを焚きつけ、
部下たちは、運よく妙采寺に訪れたダインコート姉妹たちを見つけ、襲撃した。

先日の妙采寺襲撃事件も、実は佐全の策の一つだったのである。

駄目で元々とはいえ、多少多めに武器や弾薬、火炎瓶なども持たせるよう計画し、
かたき討ちと、名をあげて食えるため、必死になった部下どもは、
戦力的に見れば、全滅しても2,3人は道連れに出来るはずだった。

だが、帝国重工側の被害はゼロ。

佐全は首をひねった。
考えてみれば、妙な噂があった。
あの寺の位置からして、各国諜報機関の人間が、利用しようとするはず。
だが、そういう人間がよく消えるという。

直接のかかわりが無い、別の組織から調査をさせ、
その捜査員も、消えた事を知った。

調べれば調べるほど、正体が見えなくなってくる妙采寺。
『ならば、寺なら寺だ。』


「知って、どうすると、いうのだ…。」

頭首の歯の間から、押し殺すような声が漏れた。


『妙采寺』

この国の暗部、暗闘に触れる秘事に、頭首は動揺を隠しきれない。
それは仏教界の恥部であり、表に出すことのできない秘密だった。

「それは、あんたの知ったことじゃない。
 あんたにも迷惑はかけんよ、兄者・・・いや『父上』。」

部屋の隅の暗がりで、薄い唇が、裂けたように笑った。

光あふれる午後にもかかわらず、
閑静な部屋が、真っ黒な闇に包まれたように見えた。



−−−−そして、悲劇の幕が開ける。



ドオッ、ドドドンッ

地を揺るがす砲声、着弾の衝撃。


日露開戦で、日本で最初の戦場となったのが佐世保だった。
通商破壊をもくろむロシアは、大きな軍港と貿易施設を兼ねた佐世保へ、
大艦隊を差し向けた。


戦場の狂気は、その場にいた者しか分からない。


------激しい砲撃の痕、きな臭い匂いの中に、-----


『空気の悲鳴』


砲弾が飛び交う、引き裂くような音、
それは、巨大な質量と火薬を満載し、長大な砲塔を震わせ、
竜の舌にも等しい炎を吹き出し、周囲に爆圧の衝撃波を撒き散らして、
天空へ次々に飛び出していく。

シュリュシュリュと、軽やかに聞こえる音を、
身震いするような巨大さで奏で、はるかかなたから一瞬で押し寄せる。
その音に向かってこられた時、不安と、恐怖と、驚愕が、
脳を染め上げると、同時に終焉が来る。


『火薬の匂い』


着弾、爆着、いや言葉などに出来るわけがない。
その瞬間を、見たものは、等しく全てを失うのだから。

空気の悲鳴を引き連れ、黒い悪魔が一瞬で落ちる。

熱と、光と、爆裂の刃。

全てがその場で破壊され、吹き飛ばされ、打ちつけられる。
そして、悪魔のメインデッシュ。

火薬の雄叫びが、閃光と熱と音と空気の砲弾を打ち放つ。
砕ける、焼ける、吹き飛び、ちぎれる。

首の無い身体を、頭が見て、それを理解する前に砕け散る。

終了を告げるのが、火薬のにおい。
悪魔の食事が、一つ終わる。

だが、貪欲の胃袋は、終わりを知らぬ飢えをもち、
次々と、瞬間に、食事と終了を繰り返し、
そこにいる全てを、食い尽くし、焼き払う。


『燃え盛る様々な煙』


一瞬で食われた悲惨は、それだけで済ませられる。
だが、後の食い残し、残飯と化す者たちは、いかなる悲劇と言うべきなのか。

悔い残した火が、余った爆風が、残り物の毒煙が、
焼く、燃やす、襲いかかり、かじりつく。

餓鬼のような炎が、泣き伏す子供たちの記憶を喰らい、逃げようとする女性の足を焼き、救おうとする手をしゃぶる。
執拗な煙は、逃げ遅れた者の首を締めあげ、呼吸を奪う。

カーテンは燃え、柱は灯火となり、畳が焼けながら舞い飛ぶ。
レンガは崩れ、押しつぶし、あるいは飛び散る散弾と化して不運な犠牲者を打ちのめす。




悲痛な戦場の記憶、それが佐世保の軍港残骸には濃厚に漂っていた。


完膚なきまでに破壊された佐世保軍港だが、帝国軍と帝国重工、警察と消防、
地域の強力な連携もあって、人々の退避は想像以上に素早かった。

特に帝国軍の兵士たちは、おびただしい犠牲者を出しながら、
市民の盾となり、幼子や女性を守り、戦火の中を最後まで救助に駆け回った。

娼婦を助け出すために火の中に飛び込んだ二等兵や、
幼子を抱いて、背中に重傷を負いながら、守り抜いて息絶えた上等兵など、
その壮絶な雄姿は、長く伝えられた。

明治天皇は、
『佐世保の海戦において、敵艦と戦った海の勇士たちと共に、
 民を守り抜いた陸の勇士たちの功績は、決して忘れませぬ。』 とのお言葉を残している。

佐世保全域を焼け野原とする凄まじい弾幕と、広範囲の攻撃にも関わらず、
100名足らずの死者と行方不明者ですんだのは、奇跡と言っていい。


「……?」

立派なひげと、厚手の丸眼鏡をかけた中年の医師は、
その死体に眉をしかめた。軍医上がりで、傷や死体には慣れている。

『死に方がおかしい…』

爆発や火災で死んだ死体とは、明らかに違っていた。
場所は、艦砲の直撃より、火災で類焼した場所だが、
運よく焼かれていなかった。

若い女性、それも尼僧だった。
明らかな銃による傷、そしてとどめと言える、正確な心臓への鋭い刃物の一撃。

わき腹を後から一発、そして正面から両足に打ち込まれ、
最後に心臓を後から貫かれて死亡。
ほとんどなぶり殺しと言えた。

右のわきの下に、その女性が必死に爪でひっかいたらしい痕が、
文字になっていた。

「さ、ぜ、ん…?」
その不審な死体は、すぐに帝国の関係各所に報告された。 翌日には、帝国重工の輸送部隊が遺体を引き取り、
高速艇が東京湾まで送り届けている。

18名の妙采尼の一人、旧名を楓と呼ばれた尼僧は、
佐世保の海女の娘だった。

父親は漁師だったらしいが、早くに亡くなり、
母親が一人で育てていた。
だが、冬の海でほんの少し無理をしたために、
母親も亡くなってしまう。

母親は妙采の一族の血をひいていた。

両親を亡くした楓を拾ったのが、先々代の妙采尼総帥だった。
今の妙采尼総帥も、同じころに先々代に仕え、いわば姉妹同然に育てられた。
もちろん、彼女も妙采尼になったのである。


もちろん佐世保海戦時に、彼女が故郷にいたのは偶然ではない。
おそらく日露開戦において、真っ先に狙われるのが佐世保だろうと予測していた。

そして、そう思うとたまらなくなった。
自分のたった一つの思い出の地であり、両親の眠っている土地でもある。

ロシアと国内の緊張、そして妙采の一族の持つ情報を照らし合わせ、
ほぼ正確に日露開戦の時を読んだ楓は、佐世保海戦の行われる前日、
佐世保を見下ろす山に現れた。

当時の日本の情報速度から考えれば、これは恐るべき精度だった。
妙采のしなやかな指先は、海外にまでもその情報網をそっと広げていた。

だが、それは不幸な偶然をも招き寄せた。


滅びていく佐世保の姿に、衝撃を受けた楓は、
海戦が終わると、山を降りた。
去来する思い出や、父母の墓のことが、彼女の意識を半ば奪っていた。

針のような細い敵意に、わずかに気づくのが遅れた。


 ドンッ

重い銃声が、後ろからわき腹を深くえぐった。
強烈な衝撃に耐え、必死に飛び下がった彼女を、
さらに3発の銃声が襲った。

 バンッ、ババンッ

両足と右肩を、骨をえぐる衝撃が襲い、突き抜ける。

「ぐっぐっぐっ、まさか、こんなところで会えるとはな…。」

しわ深い顔の中に、異様に生気をあふれさせた目と、まっ白な歯が光った。
墨染の衣を着ながら、その目と顔つきの迫力は、僧侶の姿をした獣のようだった。
その手には、わずかに白煙を引くリボルバー式の拳銃が握られている。

「とっ、共頭佐全…・・・?!」

ニタリと佐全は笑った。

右のわき腹が、焼きごてを当てたように熱い。
手の中に、あふれ出る血とともに、身体がどんどん冷えていく。
足と肩の傷は、しびれたようになって、痛みすら感じない。
かなり深い傷であり、このままでは出血死するだろう。
だが、身体はほとんど動かすこともできない。

周りにも、わずかに気配があった。

「国防軍の戦力の検分に来て、妙采尼までも引っかかるとは、まさにカモネギよ。」

心底楽しそうに、凶暴な歯をむき出した笑い。
血まみれの妙采尼の、死相の現れた美しい顔が、ひどく嗜虐心をそそる。

「わざわざ兄者に聞くまでも無かったわな。
 だが、いいざまだな。そのまま犯されたら、さらに早く成仏できるだろうぜ。」

外道極まりないセリフとともに、衣の前が異様に膨らむ。
この男なら、本気で死ぬまで彼女を犯すだろう。

かすみかける意識の中、楓は必死に懐剣を握った。
まるで、突撃をかけるかのように、佐全に切っ先を向けて。
だが左手一本で、身体すらろくに動かせない尼僧など、怖いはずもない。
リボルバーにはまだ2発弾丸が残っている。

わざと足音を立てて、佐全はズカズカと近寄った。

 ドドスッ

鈍い音が、重なり合うように響いた。
一つの音は、楓の背後から、正確に彼女の心臓を貫き、
もう一つの音は、佐全の左耳をかすめ、後ろの焼け残った柱から響いた。

「サゼンサマ、オケガハ?」

清国なまりの聞きづらい日本語が、機械仕掛けの人形のように聞こえた。

黒い瞳がひどく大きい。
少し吊り目で、髪を丸く頭の両脇にまとめた、清国人らしい小柄な女性は、
表情の無い人形のような、美しい小づくりな顔を向けている。

そして、細く長い刃で背後から、楓の心臓を正確に刺していた。

彼女が一瞬でも遅れれば、楓は最後の力で柄の仕掛けを押し、
後世のロシアの特殊部隊に使われたスエッペナズナイフのように、
飛来する刀身で、佐全の心臓をえぐっていただろう。

耳のぬるりとした感覚を確かめ、佐全の青黒く染まった顔が、
恐怖から、少しずつ怒りの赤に変わっていく。

楓の身体が崩れ落ち、清国人の女性が立ちあがった。

身長は150センチぐらいだろうか?。
ひどく胸や腰のメリハリが激しいスタイルだが、
無表情な美貌は、20前にも、20代後半にも見える。

赤地に鳳凰(ほうおう)らしい刺繍をした服を着ていた。
袖無しで長いタイトなチャイナドレスの両脇は、
深くスリットが入り、肉感的な足を、わざと見せるようにしていた。

「くそっ、このアマずたずたにしてやる。」

「ヒトノケハイガシマス、軍隊ノヨウデス。」

戦場となった佐世保の治安のために、軍が巡視にきたのだろう。
悔しそうに死体に唾を吐きかけると、佐全と女はすぐに消えた。


崩れ落ちる炎と煙の中、一人の尼僧の魂が、
静かに故郷へと帰って行った。
次の話
前の話