■ EXIT
ダインコートのルージュ・その19


≪未来への投資≫


厚いとばりの奥、薄暗い部屋の中、
ほのかな明かりと、金と赤の緞帳、分厚いカーテン。

夜の闇をなお暗く、外の明かりすらも閉じ、
小さなランプは、むしろ闇を孵化させ、闇の羽を広げ、
深さをより深く引きずりこむように、黒く染め上げる。

ギシッ、ギシッ、

スプリングのきしむ音、

「んっ、あっ、はあっ・・」

かすかな、堪え入る女の声、

白い歯が、甘い香りが、すすり合う濡れた音が、

激しいきしみと共に、次第に激しくなる。

シーツが乱れ、淡い波を繰り返し、汗がそこに雫を散らし、
ほの白い肌が震え、のけぞる。

「イリナ・・・イリナ・・・・」
「ロイゼン!、んあっ、もっ・・と・・・」

白い足が突っ張る。
濡れた音が激しく沸き立ち、闇の中に喘ぎと香りと淫らな波となって、打ち広がる。


闇が静けさを取り戻し、かすかな喘ぎは、狂乱よりもさらに淫らに、そして甘く溶け合う。




かすかなささやき、頬笑みと恥じらい、
聞かされる者がいたとしたら、さぞかし胸が焼けた事だろう。

太った男の胸に、愛らしい美貌は汗をこぼしながら寄り添い、
握り合った手は、汗と熱さに濡れそぼっている。

「ねえ、ロイゼン。」
「なんだね?」

イリナの甘い声が、闇に響いた。

だが、その声のわずかな違い、
『知性の宿った声』に、彼も陶酔から意識が覚醒する。

覚めた感覚に、かすかな失望を感じ、
彼が何度も繰り返してきた、記憶が痛みを覚える。

彼の頭脳は、ロイズ本社からはるか遠いこの地においてすら、
No2と呼ばれる力を持っている。地位がではない、実力がである。

女が甘い世界から、知性を隠して声をかける時、
そこには必ず罠があった。

彼と共に過ごした女性が、巧妙に聞き出そうとする情報、知識、秘密。
失望と共に、静かに起き上がり、部屋を立ち去る時の思い。
何度も何度も繰り返した記憶が、体温を下げていく。

『きみも・・・そうなのか?』

この女性が、彼の部屋で夜を過ごしたことは、一度や二度ではない。
だが、それでも彼は心のどこかに、ひび割れた思いをぬぐいきれない。


「あなたが食事の時に教えてくれた事、あれを重工で話してもいい?」
「えっ・・・?」

とたんに彼の意識が混乱する。
そんな重大な話をしたか・・・??。

「何のことかね?。」

驚いて顔を上げた彼に、キラキラした無心の喜びの目が、
目も眩むほどまぶしく映った。
快楽の中で、彼女の頭脳はある啓示を得たのだった。

「子供たちのための奨学金を、個人が出す制度よ。」

やっとロイゼンバックは、自分の少年時代の話だと気付いた。



彼は決して裕福な家庭ではなかったが、彼の才能と努力を認めて、
個人で奨学金を負担してくれた人たちがいた。
また最近では、個人の祝い事(孫の誕生、会社の成功、結婚記念日等)に、
少額ながら寄付に近い形で、奨学資金を学校に渡す人もいるという。



「海彦太助っていう14の漁師の少年がいるの。
 その子は、まだ若いけれどすごく熱心で、地域の漁師さんたちからも可愛がられていて、
 ほんの少しの助けがあれば、もっと大きく伸びる才能を持っている。

 その子だけじゃない、そういう子はいっぱいいるはずなの。

 でも、帝国重工だけでは、なかなか手が回らない・・・。
 私だけじゃなく、多くの人たちがそう思ってるのよ。」

ロイゼンバックは、体と心が、とてつもないぬくもりで満たされるのを感じた。
ちっぽけな過去に囚われた自分を恥じた。
そして、この広い輝く心を持つ女性に巡り合えた幸運に、心から感謝した。

「奨学資金を受けるような子供は優秀なはずだ。
 人々が手伝う事があっても、少しもおかしくはないだろうな。」


二人は起き上がると、話し始めた。
熱い交わりよりも、さらに熱く、温かく、幸せに満たされながら。


システムは単純に、しかし精緻に絞られた。
無利子長期返済型と、募金式無返済型の二つだけだ。

無利子長期返済型は、有志の募金を口数で募り、
厳しい試験と、生活態度、家庭環境を考慮し、15年から20年の長期で返していく。
現在の奨学金制度そのもののようだが、実は巧妙な仕掛けを組んでいる。

社会的人材育成事業として、帝国重工と多くの企業が協力し、
有志の応募金は、20年後に『運用利子』をつけて返済されるのである。
(予定では年利5%)

何しろ、長期の運用なのだからその利子はかなりの額だ。
資金を出してくれた人の20年後、つまり年金的な意味合いも含んでくる。
(本人が亡くなれば、家族に全額返る。)


奨学金に使われながら、利子をつけて返金すると言うと、無謀なように聞こえるが、
元になるお金『基金』が、帝国重工の資産の一部で、ケタ外れに大きい。

実際に動く部分、企業からの協力、個人の募金等は、ほぼ全て奨学金に回されるが、
『基金』を本体とすると、その額は体毛のようなものだ。

『基金』の運用で体毛はどんどん伸びてくる。
奨学資金どころか、20年後利子つきの返済を払っても有り余る。


その『基金』になる資産は、帝国重工が、世界中に置いているダミー会社から入ってくる。

多くの会社は、貴金属や資源を世界中からこっそりと集めるためのものだが、
どうしても通貨も交じってしまう。そして貴金属や資源と違い
、 通貨は各国の経済と連動しているため、大きく動かすと見つかりやすい。
そして、日本がそれなりの力をつける前に、資源ルートの全貌が解明されれば、
その時が日本の最後だ。

今の日本(すなわち帝国重工)が、どれほどの富と資源を集めているかが知られると、
世界の列強はスクラムを組んで襲いかかり、日本をずたずたに引き裂いてしまうだろう。

日本上層部と帝国重工の夢は、未来に他国に先駆けて宇宙進出を果たすことであり、
戦争も領土拡張も、興味も関心も一かけらすら無い。
富も資源も、そのためだけに絞り込まれている。

だが、なげかわしい事に、今の世界のどんな国も“絶対にそうは思わない”。

帝国重工の恐るべき技術に、富と資源が組み合わされば、
その牙を伸ばし、研ぎ澄まされれた時、『国ごと食われる』と恐怖する。
恐怖は即ち暴力と化し、死に物狂いで叩きつぶしにかかってくる。

それは、女性が恐怖のあまり虫を叩きつぶすのに似ている。
何をどう説明しようとしても、ヒステリーで襲い掛かり、
ずたずたにつぶれ死ぬまで殴り続ける。

くだらない戦争や防御に金をつぎ込む愚行は、お断りだ。
欧米列強から下手に勘ぐられ、金の流れを追跡されないための、
資金洗浄(マネーロンダリング)が必要になる。
つまり、どこから金が来てどこへ行くのか、分からないように、
募金などと混ぜてしまうのである。
その場所の一つとして、この奨学資金システムが利用される。

これは、宗教団体や学校・病院組織などを洗浄装置として、
政治家、裏組織、大富豪などに、良く使われている手段だ。

一度に大金が動けば、誰でも不審に思うが、
おびただしい日本人が、各個人で分散して送るならば、
それを追うのはほぼ不可能だ。

世界中にいる日本人や日系人たちが、子供たちへ奨学金を送ることに、
誰が不信をいだくだろうか?。

つまり、あらぬ疑いや戦争の予防装置としても、重要な働きを持つことになる。

もちろん帝国重工の下部組織が、そのシステムを面倒見るのだから、
『無駄な経費』や『悪質不要な流用』はまずありえない。




そして企業は常に、優秀な人材は喉から手が出るほど欲しい。

「日本の各企業は、もろ手をあげて賛成するだろうな。」

この時代、ものすごい勢いで活動する日本の、各企業は人手がいくらあっても
足りないことを、銀行家のロイゼンバックはよく知っている。
しかも、優秀な人材が欲しくて欲しくて仕方が無い。

一部の企業は、すでに自分たちで目をつけた人材に、奨学資金などを出してい
たが、そんなことでは足りない事を、痛感している。
いや帝国重工自身、とてもではないが人手が足りなくて困っている。
特に開発関係は、万単位で人材が必要になるだろう。

日本全体のレベルの底上げと、未来への資産と、そして老後の資産にも、
人材も財産も役立てる贅沢な計画だった。


もうひとつ募金式無返済型、これはお金は返ってこないが、少額でも受け付け、
その年の集金額によって、翌年の奨学金と人数が決まる。
無返済型で、かなり優秀な学生だけが受けられる。

そしてイリナの発案で、学生たちは毎年数回、
全国への感謝の気持ちを、お礼の手紙で出すことになっていて、
全国の郵便局に張り出される制度も組まれている。


運用法やシステム構成については、ロイゼンバックの頭脳が大いに役立った。
イリナの知性が、それに人と人を繋ぐアイディアを組み込んでいく。


夜が明けることも忘れ、二人が夢中で組み上げた新制度は、
分厚い提案書となって、帝国重工に持ち込まれた。


ちなみに、ロイゼンバックはイリナとの関係のみならず、
帝国重工とも抜き差しならぬ関係をもっている。
彼が魂を売っても、誰も文句を言えないほどの報酬が、無条件に渡されている。
そして、彼にとって日本ほど住みやすく、仕事と生活で面白い場所は、世界に他に無い。
たとえロイズを辞めても、日本を離れる気は無くなっていた。




会議において、教育熱心な帝国で、提案に反対する者は誰もいなかった。
ただ、最高指揮官の高野が目を光らせた。

「これは、国の機関にはしないのだな?。」

「はい、国家システムに組み込んでしまうと、どうしても政治に振り回され、
また、非効率な行政機関に多くの問題を抱え込まされてしまいます。
特に、教育関係者と接近させることは、絶対避けるべきです。
そして、常に外からの厳しい監視も必要ですから。」

イリナは、21世紀から見た過去の苦い経験を、繰り返すまいと誓っている。

「ただ、一つだけ気をつけねばならないことがあるな・・・。」

彼の懸念は、さすがとその場にいる全員をうなづかせた。




予定通り、帝国重工の下部組織が母体になり、日本各地の企業へ、
新事業『教育奨学資金制度』への協力を呼びかけた。
ロイゼンバックは、彼の人脈で日本のみならず、海外で活躍する日本人たち
にも、積極的に情報を広げた。

学校や郵便局を通じて『教育奨学資金制度』の情報が広げられた。
広報部もフル回転し、分り易く、そして丁寧に情報を流した。


そして、驚くほどの協力と金額が、ぞくぞくと集まり始めた。
半年で、ロイゼンバックの予想していた金額の2倍近い額となる。

さらには、このシステムを知った各地の財界人たちが、
この制度を母体に、東北会、四国会、九州会など地区システムを作り出し、
自分たちの地域の子供たちを、もっと育てようと意気込んだ。


このうねりは、社会の話題をさらい、より広がろうとしていた。


だが、ある日、14人の国会議員の一団が言いだした。

『このような大事な事業は、国家で保護すべきである!』

亀乃威という、黒ぶち眼鏡に角ばってこわもての顔の議員が、
中心となってドラ声で叫んでいた。

『責任ある国が、大事な資産を保護し、有益に使わねば、
 いかなる事態が起こるか知れたものではない。
 幸い我々には、郵政事業という金融部門がある、
 そこで保護し、管理し、運営すれば未来は安泰、
 各地の子供たちも、受取しやすく、我が国は繁栄するでありましょう!』

要するに、全国に作られた郵便局網を使えば、
どんな田舎でも受け取り易く、使いやすく、子供たちも安心だと叫んでいる。


「はあ・・・高野指令が言っていた通りになりましたねえ。」
広報部でみんなとニュースを見ていたイリアが、思わずため息をついた。

高野は、日本人の教育熱から、これがかなりの金額を集めるだろうと予測し、
それを取り込もうとする権力集団ができることを懸念していた。
莫大な金と、親の票まで集めることができるのだから、食いついたら絶対離すまい。

亀乃威のすっぽんのような顔つきに、ますます納得する一同。



それを裏付けるように、連中があわてて集団を組んだのは『教育奨学資金制度』の、
中間発表による集金額のニュースの直後からだった。

あまりの金額の集まりに、仰天して、それに飛びつこうとしているのだ。
もちろん、こんな連中に掴まれたら、何に使われるか分ったものではない。


本来この事業は、便利とか受け取りやすいとか、
そういう問題で考える事業ではない。

そして、金銭の受け渡しは、不便なぐらいでこそ安全性も高い。
便利になりすぎて、凄まじい詐欺被害が続く21世紀のありさまは、いい反面教師だ。

そして、国がどれほど“他人の金”に関して当てにならないか、
明治の歴史を振り返るだけでも、げっぷが出るほど事例がある。
21世紀に関しては、『年金』一つをとっても、
情けなくて高野もほかのメンバーも、涙が出てきそうだ。


「では、予定通りAプランで」

シーナが“さゆり”と確認し合う。
シーナの部下たちは、命令に沿って闇に消えた。


『はっはっはっ、もう決まったも同然だな。』
亀乃威のドラ声が、超一流料亭“夜光杯”の座敷に響く。

『さすが閣下、金と票は確実に我々の物。』
『その資金を、我々の事業へぜひ。』
『学校設立や工事と言えば、誰も文句は言えますまい。』
『いろいろ煮え湯を飲まされましたが、今度ばかりはバカな帝国どもに感謝ですなあ。』

『いずれワシが国を動かすんだ、アホな国民の金は俺のもの、どんどん飲め飲め。』



亀乃威は、真っ青になっていた。

昨日の宴会の様子が、目の前のラジオから流れてくる。
よほどうまく行き過ぎたのか、シーナの部下たちが拍子抜けするほど、
連中はあっさりと内幕を晒してくれた。

「かっ、閣下〜〜」

腰ぎんちゃくの秘書が新聞を持って、泣き顔で走り込んできた。
もちろん、一面トップは昨夜の酔っぱらった狂態が大見出し。

陛下のお怒りの様子が、内大臣から正式に伝えられ、亀乃威の運命はきまった。


その日のうちに、14人の国会議員全員が辞表を出した。
それに連なるように、10社あまりの企業で、社長の首がすげ変わった。

翌日の議会で、明治天皇の御言葉が、静かな怒りと悲しみをこめて語られる。
二度とふたたび、この問題に手を出す者はいなくなったことは、言うまでも無い。



一年後、全国の郵便局に、奨学資金を受け取った子供たちの、 一生懸命の手紙が張り出され、大変な話題となった。


子や孫の活躍を見るような思いで、その手紙を読みふける人たち。

多くの人たちが、財布の小銭を募金箱に入れていく。
それも、毎日のように。

小さな小さな善意、それが大きく膨らみ始めていた。
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