■ EXIT
ダインコートのルージュ・その18


≪さらなる潮流≫


「またか…」

マカロフ中将の強靭そうな白い歯が、歯ぎしりでバリバリと音を立てる。
血管が青く額に浮かびあがり、今にも血を吹きそうな有様だった。

戦艦アドミラル・セニャーウィン、撃沈、
仮装巡洋艦「ドニエプル」撃沈

仮装巡洋艦「ウラール」中破
「リオン」「テレーク」小破

先ほどの連絡で、バイヤード要塞に向かっていた仮装巡洋艦の「クバン」までが、 台湾近海で撃沈されたのだった。



日本とロシアが戦争に突入し、
日本への通商破壊によって、日干しにして根をあげさせようと、
ロシアは6隻の艦隊に、日本の船を襲うよう指令を出した。

仮装巡洋艦とは、中立国の商船に偽装して無警戒の敵国の商船を襲撃する船を言う。
かなり卑怯だが、戦争に卑怯もへったくれも無い。

しかも、襲撃される方は商船で、戦闘力などあるはずもなく、
襲撃する方は、徹底した偽装で簡単には見つからない。
広大な海上で、神出鬼没に襲いかかる船団に、敵海軍は疲労し、
通商は止まり、国は疲弊していく……。

とまあ、相当効率の良く相手にダメージを加えられる戦法の“はず”だったのだが、
なぜか、真っ先に最強のはずの戦艦が撃沈され、あとの仮装巡洋艦も、
“飛んで火にいる夏の虫”と言わんばかりに、攻撃をすると次々と撃沈され、
わずかな商船を襲った代償は、けた外れの損害と人的被害となって、
ロシア海軍は大赤字となる。

もちろん、マカロフは超高空から密かに見張られているなぞ、思いもしない。

「中将閣下…」

高血圧で倒れそうになったマカロフに、
追いうちをかけるように一通の極秘通信が届いた。

「うぐぐぐぐ……」

「わーっ、中将閣下っ!」
「だれかーっ、軍医をよべーっ!!」

幸い卒倒したマカロフは大した事はなく、無念そうに通商破壊戦の中止を通達した。


ロシア海軍大臣からの極秘通信に、どのような事が書かれていたかは定かではないが、
直前、各国大使とロシア皇帝の正室や後室の使者、大貴族や大財閥など(特に女性)から、
密かに、しかし厳重な抗議が山ほど来たらしい。

通商破壊の影響で、欧米への日本からの「ある物資」が、
3か月ほど滞っただけなのだが…。



ちなみに、女性に必需品であるそれは、ロシアの通商破壊が表面化した直後、
欧米・ロシアで、いきなりバカバカしいほどの値上がりと品不足となり、
女性たちはパニックを起こした。
いや、女性たちのパニックが、騒動を引き起こしたというべきか。


当初、十分余裕を持って、正価で代理店に用意されていたはずのそれは、
開戦と同時に、押し寄せる女性の大群に、あっという間に買い尽くされた。
それはまるで『イナゴに食いつくされる』ような有様だったという。
品切れを恐れた女性たちの、集団ヒステリーである。

残った在庫の奪い合いは熾烈を極め、それの強盗や列車襲撃まで起こったのだから凄まじい。 その結果、正価の115倍という信じられない取引まで記録されている。



また、戦略物資たりうる帝国重工製高性能燃料ペレットは、通商破壊中止後も、
ロシアとその協力国(ドイツ帝国・フランス共和国)へは売られるはずも無く、
三国は、アメリカやイギリスなど、表面的には日本と通常の取引をしている国から、
徹底的に、涙も出ないほど足元を見られた。

しかも、ペレットの狂気じみた高騰は、代用品である石炭の値段まで、
天井知らずに吊り上げてしまい、戦時国債のおかげで、資金が潤沢にあるロシアはまだしも、
ドイツとフランスは、燃料の確保に本気で苦しむことになった。

しかも、日本とロシアが戦争状態にある限り、売り手の強気が続きやすい、
つまり下がる可能性が極めて少ないのだ。



「うっわ……。これ本当?。」

イリアが、広報部奥の情報戦略室で、あきれ返ってデータを見ていた。

「恐ろしいわねぇ…帝国は何もしていないんだけど。」

イリナもそばでのぞき込み、驚いている。

昨日、昨年の平均価格の2.3倍だった石炭が、4.4倍にまで値上がりしている。
もちろん、戦時商売(ドサクサまぎれとも言う)の買い占めである。
特に、アメリカやイギリスの買い方が凄まじい。


超高度無人航空機を世界各地に置き、
全世界をタイムラグ無しで把握している帝国重工は、
これらの情報の動きを、逐一観察している。

ある程度想定していたとはいえ、人間の弱さはそのまま激しいパニックとなって、
土石流のように、世界を巻き込んでいく。

まともな商取引を続ける日本が、バカバカしくなりそうなほど、
イギリスやアメリカの略奪同然の商売根性は凄まじい。

事務員の正木葉子が、お茶を持ってきたが、
そのデータを一目みて、心配そうにつぶやいた。

「うわ……えげつない。これって、ものすごく恨まれません?。」

彼女はただの事務員だが、その感覚は正しい。
ここまで“えげつない”商売をされて、ロシアやフランスやドイツが、
恨まないはずがない。

何より、この変動は直接国民の家計をぶん殴る。
燃料費、輸送費、工業生産ETC、
その膨れ上がりが、さらなる国際戦争につながる可能性は十分だ。

先の見える者は、すでに金などの価格が変動しにくい物へ投資を始めている。
貿易の停滞も始まっていた。
燃料の高騰が、活発だった世界の貿易へ、ブレーキをかけているのだ。

戦争をしているというのに、燃料が比較的安定している日本は、
環太平洋圏内への貿易を伸ばし、逆にそれらの国も、比較的安い燃料を頼って、
日本へ寄りたがるという循環ができ始めている。

だが、一方でしわ寄せを受けるところも出てくる。



「おねえちゃあん、これって…植民地にも影響しない?。」

イリアが心底心配そうな顔をした。
植民地への横暴は、さらに加速するだろう。
金が無ければ、どこからか『搾り取る』より他に無い。
だが、その連鎖はどこまで続こうとするのか。

「これは、荒れるわね、世界が。」

イリナの声に、イリアと葉子、イリナ自身すら背筋が震えた。

適切なスピードを守れない限り、早すぎても遅すぎても、
世界の流れは狂ってしまう。
人の欲が、さらにそれを加速する。

そして『降りるに降りられぬチキンレース』と化していく。

世界は、まさに激動を迎えようとしている。
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