■ EXIT
ダインコートのルージュ・その17


≪米国駐日公使≫


 日露戦争が開戦し、佐世保湾海戦で多くの犠牲が出た。
両国の緊張と共に、舞台の裏側では、様々な者達がうごめいている。

 その日、イリナにロイゼンバックからアポイントメントがあった。
だが、彼の隣りにいる偉丈夫を見て、ちらっと彼の顔を見る。
ロイゼンバックの青みがかった灰色の眼は、『すまない』と言っていた。

ジョージ・ウィルキンス・ガスリー米国駐日公使だった。
ちなみに、この時代の日本には『大使』はいない。
欧州の列強のみに『駐在大使』がいた。


にこやかな表情で、イリナは出迎えた。
「いつからお知り合いですか?」

だがしかし、ロイゼンバックはこの表情にかすかな刺を感じた。
『いつから、米国代表と共同歩調を取るようになられたの?』
と心中でにらんでいるのを視線で感じ取り、冷や汗をかいた。


「いやいや、ベネトン子爵の歓迎PTで挨拶しまして、ほんのそれからですよ。」
ガスリー公使は、手を振り賑やかなジェスチャーとともに、
人のよさそうな笑みを浮かべて話した。

「うん、その時にお会いしてね、欧州の金融事情を教えてほしいと、
 言われたのですよ。」
『最近急に接近してきたんです。帝国重工に金融で絡む私に、
 どうやら同席してほしいらしい』

アイコンタクトで、イリナはロイゼンバックの心中を正確に読み取る。
ガスリー公使の表情からは、どちらかと言うと米国人的な、
あっけらかんとした人の良さと、素朴だが実力主義的な落ち着きが感じられる。
この手の人間は、見かけによらず手ごわい。

樫の古木のような強靭さと粘りがあり、動じることが少ない。


イリナの頭脳は高速で回転した。
公使がわざわざ広報部のイリナに、それもロイゼンバック同席で会いたいとなると、
これはただ事ではない。何と言ってもガスリー公使は米国代表なのだ。

ロイゼンバックの所属するロイズ銀行と重工の関係は、誰でもわかる。
イリナとロイゼンバックのプライベートな関係は、注意して調べれば分かるだろう。
だが彼女がどれほど重工の中枢に関わっているかは、外部からは分かるはずがない。

今や帝国重工の名前と共に、イリナは世界的に顔と名を知られている広報部の名花である。
同時に、花形スターが大企業の中心にいるとは、よほどの子供でなければ思わない。

彼女の言動が、帝国重工の、ひいては日本の意思決定に大きな影響があるなど、
誰も思いもしなかった。

ロイズNo2の実力者であるロイゼンバックは、薄々感づいているかもしれないが、
それを口にするほど軽薄な男性ではない。



『帝国重工に影響力を持つ、外部の金融関係代表者を引き連れた、米国公使』となると、
普通は重工の代表者、高野か“さゆり”嬢に会いに行くはずだ。

ガスリー公使の行動は、それと同じぐらい、イリナを重視しているということになる。
これは非公式な会合としての、米国と帝国重工の会談ということなのか?。



イリナは自ら紅茶を入れ、いい香りのダージリンを立てた。
『私は単なる広報部の一員ですよ』と、あえてアピールしておく。

「おお、いい香りだ。お茶を立てるのがお上手ですな。」

鼻も目も口も大きく、いかつい顔だが、それだけにほめ言葉にも味わいがある。

「それに日本の水は甘い。紅茶も香りが良く立つようだ。」

まずそのままで味わい、それからミルクを落として楽しむように飲んだ。
紅茶談議に花が咲き、水の味から国の話が出る。

「我が国は開拓の国です。
 荒野を旅し、水を求めて地を掘り、自ら切り開き、作り上げてきた国です。」

ガスリー公使は、空になったカップをそっと置いた。

「それだけに、出てきた水が苦かろうが渋かろうが、我慢して飲まねばならない事もしょっちゅうでした。  ・・・・と、これは爺さんの受け売りですがな。」

調子よく笑わせる。だが同時に、
『そういう世界を想像できますか?、この狭い日本で。』
と、少しプレッシャーも感じた。


今の日本の状況、ロシアと戦火を交え、多くの戦艦を失った現状で、
苦い水、即ち他国の戦艦を買ってでも戦わねば、全てを失うことになりますよと、
ガスリーは警告しているのだろう。米国からの戦艦売却の打診を蹴った上に、
どこか他から買う様子も見えない。
公使として、日米交流を行っているガスリーとしては、国益だけではない心配も多少ある。


「まあ、お爺様は立派な教育をなさったのですね。
 我が国でも、歴史は最高の教育の一つです。色々な歴史を聞くようにしていますわ。」

『あなたのご高説は、聞かせていただきます。ですが単なる一意見としてですわよ。』
と、言う意味で切り返してみる。

ロイゼンバックはハラハラしながら、両者のやり取りを聞いていた。
彼の優れた頭脳は、最初から二人のきわどい会話を理解している。

「はっはっはっ、私の祖父はほら吹きで有名でしてな。実は大統領秘書官をやっていたのですよ。」

イリナとロイゼンバックは苦笑して見せた。が、内心は穏やかではない。
ガスリーの口元や頬はとにかく、目が笑っていないのである。

『ほら吹きはどちらでしょうかねぇ。あなたも重工代表者の側近なのでしょう。
 そろそろ本題に入りませんか?』
と、その目が言っていた。


やっぱり、とイリナは細く形のよい眉を、かすかに動かす。

この大柄で人のよさそうに見える外交官は、ロイゼンバックに劣らぬ優れた頭脳の持ち主らしい。
ダインコート4姉妹の活躍と活動、そして日本のこれまでの経緯、
それら膨大な資料を突き合わせ、丁寧に検索を繰り返して、彼女の立場を調べ上げたのだろう。
単なる企業の一広報部員相手の口調では無くなっていた。
そして、ここでの会話なら、何を話してもジョークで済ませられる。


「まあ、そんなことを言ってよろしいのですか?。」
『私の立場上、責任など持てませんよ』

ここで、知らぬ存ぜぬで突っぱねても、いい結果が出るとは思えない。
相手の手に乗ってみるのも、一つの方法だろう。
あくまで、会話の影の会話である。

「なに、祖父は気にもしないでしょう。大統領のためにほらを吹くのは、
 国民のためと、本気で言っていた人でしたから。」

しみじみとした口調は、うっかりするとほだされそうだ。
『国民のために汚名を着ることぐらい、どうということはないでしょう』と、
相手のふところに滑り込むような口調だった。

ただし、『双方の』と言っている訳ではないのだから、注意が必要だ。

念のため、イリナは1/100秒ほど使って、“さゆり”たちと意識をリンクさせてみた。
準高度AIであるイリナたちは、通常は完全独立(スタンドアローン)だが、
必要に応じて、瞬時に意識のリンクを形成できる。

ソフィア『ふむ、ガスリー公使もやるわねえ。』
イリア『元々神父の道も考えていた人、どちらかと言えば平和主義者ですね。』
シーナ『むしろイリナらしく応対した方が、間違いはなかろう。』
さゆり『そうね、あなたに一任するわ。基本方針は変わらないしね。』


イリナは意識を戻すと(まばたきするより短い時間である)、青い目を曇らせた。

「我が国で300年ほど前の政治家、本田正信が言っていますが、
 国政とは元々むごいものなんです。ほらでごまかしても、
 自分が責任を取って背負えるなんてことはあり得ません。
 結局“つけ”はすべて国民に帰ります。」

歴史で言われることは、新興国の米国人にとってはかなりこたえる。
さすがのガスリーも、苦悩を浮かべた。

「あなたのおっしゃることは、確かに正論でしょう。
 ですが、国が滅びれば何も残りませんよ。
 ロシアが朝鮮をどうしたか、隣国の日本が知らないはずはありますまい。」

とうとうたまりかねて、米国公使はロシアの名を出してしまった。
つまり、米国として戦艦購入の余地が無いのか、探りに来ているのだ。


 この世界で、1904年現在、朝鮮半島にはロシア人を中心に欧州各国の人間と、
それに仕える使用人(それも100%移民)だけの社会に変わっていた。
そこにいた土着の人間は全て、ロシアが『教化は不可能』と判断し、
シベリア鉄道やシベリア開拓、アフリカプランテーションなどの尊い礎として、
一人残らず送り出され、消えている。

最後の移民は王族だったらしいが、太ってきらびやかな一団は、
誰ひとり見送りも無い状態にようやく気付き、泣きながら、
最後の最後に一番最低の船で、アフリカの『奴隷海岸』から、もっとも未開の地へ送られた。
民のいない王など、単なる一庶民と変わりはしないのだ。

 幸い、米国は朝鮮からの移民は極めてわずかだったために、
大きくは取り上げなかったが、母国が滅びてしまった連中の狂乱は、
手のつけられないほどの凄まじさで、
『米国軍をロシアに送ろう』と議会に陳情したり、
祖国再興運動をニューヨークで繰り広げたり、
ロシア皇帝人形を串刺しにしてサンフランシスコをパレードするわ、
議会前で火だるまになって見せるわ、
ホワイトハウスは迷惑極まりなかった。

 幸い議会の圧倒的賛成多数で、騒乱防止の時限立法が成立し、
迷惑な連中は国外退去(旅順行きの船に、まとめて押し込んだ)させることができた。

そういう経緯で、米国知的階級は朝鮮半島の状況を良く知っている。
相手がロシアなだけに、説得力もあった。

「それに、ロシアは莫大な戦時国債を発行し、世界中が買っています。
 その額は、戦争だけでなく、国内投資に回せるほどです。
 それはロイゼンバック君もご存じですな。」

ロイゼンバックは黙ってうなづく。
ただ、戦時国債はリスクの大きな商品であり、ロイズは規模の割に低い額しか購入していない。
ロイゼンバック自身、経済の流れを追っていくとどこか不可解な部分のある帝国重工に、
思うところがあり、ロイズのロシア国債購入を極力控えさせていた。
日本が何か強力な切り札を持っていることを、おぼろげに察していたのだ。
彼はユダヤ人であり、ロシアのユダヤ人への差別にいい感情は持っていない。

そして、こと経済に関しては、ガスリーといえどロイゼンバックには、足元にも及ばない。
米国は帝国の暗部については、全く気付いていなかった。
ただ、ロイゼンバックの静かな事に、公使はほんの少し奇妙さを感じる程度で、すぐ忘れた。

「その資金と大国ロシアの信用があれば、いくらでも他国の戦艦を買うことができます。
 我が国にも、買ってくれる方に売れば良いという者はいるのです。
 日本の艦隊が必死にがんばり、多くのロシア艦を沈めたのは知っていますが、
 それを補って余りある戦艦が、世界中から集まってくるのですよ。」


まともに見れば、古今東西世界のどんな名宰相や名将が見ても、
このままの状況では、間違いなく日本が負けて占領されるだろう。

あと、ガスリーは日本がこの状況にどのような対応を取るのか、
それを確認する使命も帯びている。


イリナの青い目が光った。
「お忘れですか?、我が国はつい先ごろまで鎖国を行っていました。」

急に、全く方向の分からない話が出て、公使はきょとんとした。
もちろん、日本の歴史ぐらいは知っている。

「まして日本には、大陸と陸続きの場所は一か所もありません。
 大量の陸兵を送る方法は無いのです。
 ロシアは日本を経済封鎖して、降参するのを待つつもりでしょうが、
 我が国が、それに耐えられないとお思いですか?。」

ガスリー公使は青ざめた。
「徹底抗戦するおつもりですか・・・?」

鎖国を300年以上続けた歴史があるのだから、
長期の封鎖にも耐えてみせると、いうのか?!。

「私個人の考えとしてです。」
と、優雅にしかし、強烈な意思を込めて目を向ける。
ロイゼンバックすらギョッとするほどの、強烈な光があった。

『私のような考えは、この国の隅々まで広がっています!。』
気弱さなど欠片も無い眼力に、一個人がこれだけの意思を見せるのだから、
この国をなめてはかかれない事を、ガスリー公使は思い知らされた。




そして、悪夢の再来に背筋がそそけ立つのを覚えた。




長期の経済封鎖になれば、他国では、まず民が耐えられない。
そのため暴動や騒乱、反政府勢力が内部を乱し、それに乗じて国を乗っ取るのが、
殖民地支配の常套手段だが、『経済封鎖は経験済み』と断言されてしまっては、
これは通じない。

たとえ戦闘艦を50隻集めても、船を動かす人間を除けば、上陸できる人数は限られる。

通常だと、
『艦砲射撃で相手をパニックに陥れ、混乱しているうちに政府中枢を押さえる。』
というのが植民地化に抵抗してくる国への常套手段だが、
清国『義和団の乱』ですさまじい戦闘力を見せた、日本の陸軍相手では、
5千や1万の上陸部隊では、歯も立つまい。

また、この国の反政府勢力、権力の腐敗、騒乱因子は、世界的に見ても桁違いに少ない。
探すのに苦労し、情報が集まらないので各国公使館は困っているほどだ。

そして万一、1年以上徹底抗戦されてしまうと、
様々な問題が浮上してくる。



まず第一に、帝国重工が独占製造している抗老化化粧品や優れた医薬品が止まると、

『あなたっ!、ロシアの馬鹿どもを今すぐ止めてええっ!!』

たぶん…ガスリーは、妻ロザリアに絞め殺される。
彼女も帝国の化粧品信奉者なのだ。


世界中の女性からの恨みと訴えは、想像するだけでも恐ろしい。
そして、高齢の権力者や大富豪は、優れた医薬品欲しさに、本気で戦争中止に動くだろう。

だが、そうなればロシアは窮地に追い込まれる。
戦時国債の返済だけでも、大変な額になるのに、
おそらく日本からは利益を殆ど得られない可能性が高い。



第二に、現在動いている戦闘艦の大半は、帝国重工製高性能燃料ペレットで動いている。
備蓄はたっぷりあるはずだが、これが1年となると、これも大きな問題となる。
ある人物が、日露の戦争が始まった直後、難しい顔つきで訪ねてきたのだ。

『ガスリー殿、私としては、この戦いを短期に終わらせてもらわないと困るのだ。』

米海軍の初老のベテラン船長は、少し心配症だが有能な人間で、人望も厚い。
彼とガスリーは20年来の友人だった。

『現在、我が国を始め大半の国家海軍、いや高速の輸送船や客船に至るまで、
 帝国重工の高性能ペレットを使用している船は多い。もしあれの供給が止まれば、
 世界的な問題になりかねないぞ。』


高性能ペレットは、量も少なくて良く、エンジンや各機関にも負担が少なく、
結果メンテナンスも極めて楽になるという、いい事づくめの帝国重工製高性能燃料である。

『なるほど、あれが止まると、使っている船は困るだろう。』

それに慣れてしまったために、急に低品質の石炭に戻すと、
場所は大幅に取るわ、航海可能期間は短くなるわ、エンジンや各機関の寿命は縮むわ、
メンテナンスが増大するわ、そのための技術者がいなくなっているわと、いまさら元に戻せない状態だ。


『ちょっと待ちたまえ、君は大きな勘違いをしているぞ。』

彼の懸念を聞くと、船長はさらに眉をしかめた。


『どんな愚かな船長でも、エンジンとその周辺には、徹底的な注意をする。
 海の上で動かなくなることが、どれほど恐ろしいか、よく知っているからだ。
 問題は、港にある。』


船長の説明を聞いているうちに、ガスリーの血の気が引き、顔は紙のような白になった。


世界の血脈たる海運事業は、資源、燃料、食糧、工業製品、人、あらゆる物資を運び、
人間を運び、世界を動かしている。

これがペレットを使用するようになったことで、非常に効率が良くなっている。
全ての船が使っているわけではないが、メンテナンスに時間がかかる船ほど、
ペレットを使用し、その結果航行時間が飛躍的に伸び、非常に早く港を出られるようになった。

この時代、一航海半年と見て、航海中の補給とメンテナンスは通常2週間は必要だ。
船員の休暇も含めれば、一か月を見ておかねばならない。
航海後の大きなメンテナンスは、だいたい1カ月、嵐などに会えば、半年越えることもある。

だが、石炭に戻すと、これが航海の間で3週間を超えることもありうる。
船員の休暇も含めれば2カ月。
航海後のメンテナンスは、軽くて2か月を超えるだろう。


こうなった時、港は大渋滞を起こす。
それは通常よりわずか1割、港に船が多く停滞するだけで起こるという。

補給や航海の効率化で、船の数が飛躍的に増えているからだ。
しかも、長く手間がかかる船ほど、石炭に変わるとメンテナンスと補給がさらに長くなる。

停滞がさらに増えれば、
補給のための入港待ちで1ヶ月、出港までにさらに1ヶ月などという、
冗談のような事態も、ありえると船長は本気で言った。

この時代の港湾施設は、極めて貧弱で、多数の船の長期滞在には対応できない。
加えて、船が時代の要請により、どんどん大型化している。
港湾施設の負担は、凄まじく増大していた。

『おおい、ちょっと待ってくれ。そうなったら航海にどれだけかかるんだ?。』
『頼むから、そこまで計算させないでくれ。私はこれ以上髪を減らしたくない。』


船長の冗談じみた悲痛な声は、むしろ現実の悲惨さを物語る。

21世紀の日本でも、高速道路が大渋滞や天災による断線を起こすと、
想像もつかない事態が次々と起こっている。
それが日常・広域化すれば、社会崩壊すら起こせる破壊力を秘めている。

同じことが、この時代の海運という、脆弱で最大の物流ルートにも言えた。
長期の滞在でストレスがたまれば、騒動も増える。
運送料にももちろん跳ね返る。

荷物は来ているのに、港が無いとなると、
港の外ではしけでも使うしかないが、
そんな事をしては商売にならない。


軍艦にしても、ペレットと石炭では、積める量が大きく異なるため、
航行時間が3割近く違ってくる。当然、補給頻度は石炭の方が圧倒的に高い。


対策は『世界中の船を減らす』か、『世界中の船の運航速度を全て落とさせる』か、
『世界中の港を増やす』かだが、とてもではないが、できることなど一つも無い。

それができないなら、運送会社が壊滅的な打撃を受け、
その結果として、各国家に致命的なダメージがいく事になる。

物価の上昇、資源の不足、経済の停滞、社会不安、
海運は世界の動脈であるとともに、アキレス腱でもあるのだ。


あいにくと、ガスリーはその優れた頭脳にもかかわらず、
当時の米国日本駐在公使という、外交官でも窓際族であり、
友人は、まじめで物欲の少ない駆逐艦の艦長にすぎない。


『これはあくまで懸念にすぎない』と、友人と話をまとめ、
気落ちして、二人は別れたのだが、まさか悪夢が本当になるとは…。




「そのような事をして、本当に民のためになると、お思いか?」

悪夢に対抗すべく、必死にガスリーは気力を振り絞った。
だが、イリナの目は意外なほど冷たく光った。

「あなたが先ほどおっしゃったのではありませんか。朝鮮半島がどうなったか。」

かすかだが、表情が凍りつく。
だがそれで耐えたのは、さすがに公使だけのことはある。
『あなたたちも同じ穴のムジナです』と言われたに等しかった。


他国の侵略を受ければ、この時代の国家は骨の髄までしゃぶり取られ、
民族全てが消え去ることすらある。

しかも“侵略”とは戦争での勝ち負けだけではない。

米国の戦艦販売条件の中に、帝国重工の技術なども含まれている事を、
イリナたちは探知している。

米国の戦艦を買い、ロシアと泥沼の戦争を続ければ、
結局日本はしゃぶりつくされてしまう。
これも立派な経済侵略である。



「公使、そろそろお時間です。」

ロイゼンバックは助け船を出した。
これは完全にガスリーの負けだろう。
米国公使は、よろよろと立ちあがると、力なく礼をして帰って行った。

もちろん、イリナもロイゼンバックも、ガスリー公使が友人と交わしたペレット問題の事は、 全く知らない。

イリナは、『徹底抗戦』のガスリーの言葉に、長門級戦艦の事は全く匂わせなかったが、
日本の決意と、戦意の高さは十分に知らせたつもりだった。
気弱になれば、なめられ、襲いかかられる弱肉強食の世界で、
こちらの覚悟を知らせることは絶対大事だからだ。

ただ、帝国重工の積み上げてきた、極めてバランスの良い哲学に基づく方法論は、
恐ろしいほどに優位な立場を、日本に作りあげている。
後日、ホワイトハウスを盗聴していて、イリナはそれを改めて確信した。


ガスリー駐日公使が必死の思いで書きあげた報告書は、
ホワイトハウスを真っ二つに割る論争を引き起こした。

ただ、悲しいかなガスリー公使の立場は、あまりにも弱かった。
また、イリナの立場についても、確信はあったが確証はないのである。
報告書の説得力は格段に下がる。

最終的には、マッキンリー大統領の『あくまで懸念にすぎない』という一言で、
論争には終止符が打たれたのだが…。

マッキンリーは後に、所属する共和党ごと総退陣に追い込まれる。
『ガスリーの懸念をもっと真剣に考えるべきだった』
と、言い残したという。
次の話
前の話