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ダインコートのルージュ・その10


  ≪妙采寺≫


帝国重工が幕張に広大な敷地を確保した時、その一角に、妙采寺という小さな寺があった。

寺と言っても、住職一人。それも尼寺だった。


国策でもあり、帝国も丁重に交渉をしたため、寺は快く敷地を譲り、より広い敷地に新しい寺を建てて移った。

と言っても、ほんの300メートル移動しただけで、地元から離れるわけではない。
だから、帝国重工のいちばん近い寺ということになる。

住職は、寺と同じ妙采という尼僧で、
小柄で優しい頬笑みをたたえ、口調は優しく、声も穏やか。
檀家を持たない寺だが、人望が厚く、地元の漁師たちには大事にされていて、
請われて仏事や法要に出向いている。


挨拶にいったイリナが初めて見たとき、
黒く輝く瞳とふっくらとしたほおに、年齢が良く分からなかった。

地元の漁師の話では、もう30年ぐらいいるというから、
50台はとっくに過ぎているはずだが、
どう見ても30代、下手するとそれ以下に見えたりする。

「あの、失礼ですが、お歳はおいくつですか?」

「さあ…私は捨て子だったそうですので、歳は良く分からないのです。
 ただ、僧籍(僧侶としての登録)に入れていただいたのは、元亀元年の3月12日でしたわ。」

この時代、まだまだ西暦はなじみが薄い。
そして、さすがのイリナも、日本の改元年号まではすぐには分からない。
明治以前は、天皇の交代や吉事などでちょくちょく変わっているからだ。

「イリナさん、あなたはどちらからおいでですか?」

「あっいえ、私は日本人ですので…」

公式には、イリナは数代前に流れ着いた、異国の一族の末裔ということになっている。
妙采尼は、穏やかに笑った。

「それは分かりますわ、ただ、お言葉にあまりになまりがありませんので、
 どこの出身なのでしょうかと思いましたの。」

イリナは内心ぎくりとした。
この時代に、磨き上げられた標準語、などという物は存在しない。
ましてや地方にいた一族なら、その土地の言葉が染み付いていないとおかしい。

「私や姉妹は、外国との折衝のための通訳の勉強をいたしました。
 そのため、なまりがあると、公文書などを作るとき問題が起こるので、
 こういう言葉にしてきましたの。」

なるほど、とうなづきながら、妙采尼は茶を入れた。
寺内の小さな茶畑からつんだ茶らしく、素朴な香りだ。
お茶受けは、ちょっと塩からい沢庵。

ズズ…、ポリポリポリ。

「イリナさん、私もほんの少しですが、世の中を見てまいりました。
 激しく流れるように見えて、意外に動かぬ世の流れ、
 大政奉還も、突然に起こったわけではありません。
 いかに鎖国をしていても、時が止まるはずはなく、揺らぐ時が来ていました。  だけれど……、あなたがたはどこから来られたのでしょうねぇ。」


意味深な微笑を浮かべ、イリナの説明をやんわりとからかい、
まったく突然に出現した帝国重工の事をさしていた。

それ以上は頬笑みを浮かべるだけで、問われはしなかったが、
イリナはこの尼僧に少し恐怖を覚えた。



早朝の海岸を散歩していたイリナは、
海から上がって来た海女に出会った。

桶にいっぱいのワカメや海藻類を入れ、裸の体に細いふんどしだけを締めて、
のびやかな肢体は、瑞々しく、裸の胸がむしろ健康的で美しかった。
冬なら薄いうわっぱりもつけるが、夏ならほとんど裸になるのだ。

だが、違和感を覚えたイリナに、相手が声をかけてきた。

「イリナさんではありませんか。お久しぶりです。」

そう、頭が青々とそり上げてあった。

あの妙采尼だった。

妙采寺は海が近いので、時には海藻を取りにいくのだという。

『こ、この人、いったいいくつなんだろう…?』

瑞々しい肉体は、しわもなく、
ぷりんとしたお尻が、かわいらしい形をしていた。


海藻類をお土産にもらったイリナは、お礼にスイカを持って妙采寺を訪ねた。


少し日も傾き、涼やかな風が吹き始めるころ。

「よくいらっしゃいました。」

少し薄暗い本堂は、ひんやりとして気持ち良かった。

「あら…それは?」

大判の絵草子(絵物語、絵本)らしいものが、広げられていた。
だが、それを見てイリナは息をのんだ。

強烈な赤と、墨の闇、黒、煙、
苦しみ悶える無数のやせ細った人々。


カナカナカナカナ…… 遠くにセミの声が響いていく。


「今日は、地獄絵図の虫干しをしておりましたの。
 イリナさんは、六道というのはご存知ですか?。」

仏教には、人の死後に六つの道があり、その魂の修行や行い、罪によって、
成仏出来ない者は、その道に進まねばならない。


天道(てんどう)
人間道(にんげんどう)
修羅道(しゅらどう)
畜生道(ちくしょうどう)
餓鬼道(がきどう)
地獄道(じごくどう)


この道を繰り返す事を、輪廻転生という。
そして、修行が終わり本当に成仏出来たとき、仏として不滅の存在になるのだという。


「ですが、人とは弱きもの。己の欲にとらわれ、道を踏み外し、人としてしてはならぬ罪を犯す事も多くあります。」


特に下の三つを、『三悪趣』という。
そして、もはや己で救いを見いだせない者を、罪を償わせるために向かわせるのが、地獄なのだ。

「畜生道は、獣、牛、馬など、なにも考えることなく生きる者たちの世界。
 考える事も、行いを正す事も出来ず、使われ、屠殺され、喰われることを逃れられません。」

ぺらりと草子をめくると、おぞましい牛馬の頭を持つ人々が描かれている。

「人として生まれながら、己の生に何の疑問も抱かず、ただ本能のおもむくままに生きる人は、
 この畜生道に落ちていきます。
 何もしないのは、単なる堕落。
 また畜生のような生活を、直そうとしないのも、同じこと。
 植民地で、牛馬のようにこき使われる人々も、己で直さねば道は開けません。」


ふっと、イリナは自分が寺ではなく、違う世界に来ているような気がした。


「餓鬼道の餓鬼とは、お腹の膨れた鬼の一種です。この者たちは口に食べ物や飲み物を入れようとすると、
 口の中で火となり、いつもいつも飢えと渇きに悩まされ続けます。
 他人を思いやる心を持てない人は、この道に堕ちて、
 己の口にするものがどれほど有難いものであったか、知らねばなりません。」

やせ細り、お中だけが膨れ、町の人々の周りをうろつき、哀れにさまよう餓鬼の絵。

「自分の事しか考えず、人と分け合う事を知らぬ者たちは、
 生きながらにして餓鬼道へ落ちる事も、珍しくありません。
 そうなれば、どのような栄耀栄華を誇ろうと、常に飢えと渇きに悩まされ、
 いくら得ても、奪っても、足らず、足らず、さらに欲しいと苦しむようになります。
 今の大英帝国など、その末期に来ているようなものではありませぬか?」

イリナの青い眼は、何か恐ろしいものを見るような眼になっていた。
この人は、何を知っているのだろうか?。



「そして…」

ぺらりとめくられた絵の中の、苦しみ悶える者たちの絵。


「私どもが住む世界、これを娑婆といいますが、このはるか下、2万由旬(1由旬は約7.2km)より下の地の底に、
八大地獄と呼ばれる世界があります。」

「等活は、殺生をした者」

罪人がお互いに切り合い、あるいは獄卒に切り刻まれる地獄。
人と人が、刃を持ち合い、殺し合い、あるいは逃げ回っても殺される。


「黒縄は、殺生と盗みをした者」

焼けた鉄の縄で縛られ、無数の線を引かれた罪人が、真っ赤な斧で細かく切り刻まれる地獄。
拷問され、無残に嬲り殺されていく。


「衆合は、殺生に盗み、邪淫を繰り返す者」

崩れ落ちる山につぶされ、あるいは裸の女に誘われて剣の葉をもつ樹を上り下りし、時には巨大な鉄の象に踏みつぶされる地獄。
絶望的な破壊、救い無き欲望、無情な暴力。

「叫喚と大叫喚は、殺生に盗み、邪淫に酒、そして嘘をつく者」

大釜で煮殺され、あるいは燃え盛る鉄の部屋に入れられ、凶暴な獄卒に追いまわされる地獄。
そして地獄は下に降りるほど、その時間は長く苛烈になり、責め殺され、また生き返り、延々と苦しみが続く。
殺し、殺され、焼ける街、焼ける人々。

「焦熱と大焦熱は、殺生に盗み、邪淫に酒、嘘に道理を捻じ曲げる口、幼い者や尼僧を犯す者」

生きたまま焼けた鉄板に乗せられ、切り刻まれ、刻まれた上にまた焼かれる地獄。
炎、轟音、閃光、あらゆるものを焼き尽くす業火。


「阿鼻は、大焦熱の罪に、父や母を殺したり、世に救いを広める人を殺す者」

無間地獄とも言い、地獄の底まで落ちるだけで2000年もかかり、
これまで全ての地獄の責め苦を、常に繰り返し続けられ、その苦しみは万倍にも及ぶという地獄。
終わりなき争いと責め苦、何も見えぬ絶望、繰り返す愚行の連鎖。



淡々と語られる、罪と地獄の相関図は、暑さを忘れ、背筋をぞっとさせる冷気を秘めていた。
妙采尼の、穏やかだが強い黒い瞳が何かを語っていた。


『あなたは、この光景を、垣間見た事がありませんか?』


そう、イリナは知っている。

“2063年2月6日”

核の炎によって、自分たちが、地球上から一度消えた日。



カナカナカナカナ…… 再び、セミの声がものさびしく響いた。


「人とは、弱きものです。
 イリナさん、ゆめゆめその事をお忘れなきよう、この国をよろしくお願いしますね。」

薄闇の中、妙采尼の黒い瞳が、ぬらりと妖しい光を放っていた。
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