■ EXIT
ダインコートのルージュ・その8


  ≪唇に銀のしずくを≫


ミーンミンミンミンミーン

夏を象徴するかのように、セミの声が空気を満たす。
にぎやかで、どこかもの悲しく。
やがては消える、夏の喧噪。

「ねー、イリナは?」

朝から姿が見えないイリナを気にして、イリアが聞いた。
ソフィアもちらっと首をかしげる。

「今日は、リンドウの花を持っていった。」

シーナの言葉に、二人はどこかもの悲しい表情をうかべた。

「そっか…、もうそんな時期なんだね」



昨日、イリナはテツロの山を訪れた。
テツロは大おじの部落との交流を始め、いない時もあったが、
この日はすぐに現れた。

「ん?、どうしたイリナ。」

テツロは敏感にイリナの気配を察した。

「テツロ、まだリンドウ咲いてる?」

「ああ、まだ北の山にはあった。採ってこよう。」

なにも聞かず、テツロは獣のように山を越えていった。
深い青を帯びた紫のリンドウは、清楚で美しい花だが、
同時に死者を弔う花でもある。



イリナたちは、準高度AIと高品位擬体であり、
生と死の自然の掟とは関係は無い。
だが、それでもその心は人と何ら変わりはない。



「おれも、昨日はオヤジとオフクロに供えた。」

目に染みいるような、鮮やかな紫。

「ありがとう。」

青い目のかすかな動き、それだけでテツロは悟った。
山人の中でも、猟師として特別な腕を持つ彼は、
獣の心を読む力に長けていた。
イリナの、悲しい心も、手に取るように感じていた。

「おれも、人が死ぬのは悲しい。」



小さな寺に、無縁仏を弔う読経が流れる。
白い手が、静かに合わさり、頭を垂れた。



数年前、イリナが初めて幕張の帝国重工へ現れ、東京の街を見て歩いた。
そして、そこである光景を見てしまった。

一人の女性が、ゆっくりと落ちてくるのを。

異常な事態、極度の緊張、その瞬間に人は思考と神経を何倍ものスピードで走らせる。
肉体がついてこれるかどうかは別にだが。

女性はなぜか、悲しく微笑んでいた。




「ちえさんっ、ちえさんんんっっっ」

どこかで叫ぶ声がする。

呆然とするイリナの、ずっと向こうで、
老婦人が泣きながらすがりついていた。

衝撃はイリナの神経を数倍に高めた後、その分を取り返すかのように、
彼女の時間を奪っていた。

重いものが落ちる音、

静寂と、そしてどこからか聞こえる悲鳴。

凍りついたイリナは、動くことすらできず、
気がついたときは、群がる人の間から、人の名を叫ぶ老婦人が現れ、
そして、すがりついて泣いていた。



よろよろと、歩き寄ったイリナは、
思考が停止したまま、しゃがんで手を合わせていた。

サーベルを下げた巡査が、近寄るなと言おうとしたが、
手を合わせ祈る様子に、口を閉ざした。



死んでいる女性は、ひどく貧しい服を着ていた。
髪はほとんどぎりぎりまで切られ、
まだ若いのに、歯も何本か無かった。

頭蓋が割れているだけで、死に顔はきれいで、わずかに微笑んでいるように見えた。
彼女の側に、遅咲きのリンドウの花が、鮮やかに咲いていた。




近所に住んでいたという老婦人は、死んだ女性の事を話してくれた。

親子3人の、貧しいが温かな家庭があった。
だが一粒種の息子が、労咳(結核)にかかり、
小さな幸せは、吹き消すように消えた。

父親は必死に働き、まだ若くきれいな母親は、自分の身を廓(くるわ:娼館)に落とした。

だが、当時まともな医者にかかれる者は、大金持ちか高級官僚、皇族などのごく一部。
町医者では手に負えず、子供を救おうと無理をした父親は、事故で死んだ。
母親は廓に頼みこみ、髪や歯まで売ったが、あえなく子供も亡くなり、
その葬儀が終わった直後に、母親が消えたのだった。

「子供が生まれたとき、あんなにも喜んでいたのにねぇ……」


悲しいかな、当時の日本には、どこにでもある話だった。
それほどまでに、貧しく、厳しい社会だったのである。



母親を簡素に弔う中、数人の揃いのはんてんを羽織った男たちが、
長屋を訪れた。

母親が身を落とした廓の、用心棒兼雑用係の若い衆たちだった。

「この女との約束なんでな、悪く思うな。」

乱暴な口調で、わずかな衣類や布団、家財道具をとりあげる。
老婦人が抗議したが、気にもとめず、全部きれいに片づけてしまった。

死体は戸板にのせて川原でまきを積み上げて焼き、無縁寺に申し出て終わった。

老婦人や近所の者は、抗議とののしり声を上げたが、
イリナは、奇妙な違和感を覚えた。



無縁寺から出てきた男に、

「こんな事をして、あなた達に何の得があるのですか?」

目つきの鋭い男が、イリナの目を覗きこみ、ふっと笑った。
イリナの目には、怒りもさげすみも無い。

「異人さん、意外に目はしが効くようだなぁ。」

使い古しの家財道具など、どれほどの値段にもならない。
死んだ女を川原でわざわざ焼き、寺に供養をさせる手間を考えたら、
ほっておいた方がよほど得だ。

イリナを外国人とみて、男の口も少し軽くなったらしい。

「誰かが、やらにゃならねえことでやんすよ。
 郭は女の涙でできてまさぁ。
 優しい顔はできねえ、だけども、最後を見てやらにゃならねえ。」

縁の残る女の、最後をみとるのも、遊郭の一面なのだった。

260年以上続いた江戸時代、吉原等の遊郭は、幕府公認の売春制度であり、
その代り、『あらゆる娼婦の』管理と責任は遊郭にあった。

私娼窟(無許可個人営業)の娼婦すら、遊郭は責任を負わされた例がある。

意外に思われるかもしれないが、娼婦と言えど理由無く粗雑に扱うことは、道義的に許されず、
その罪は現代よりはるかに重かった。

酷い私娼窟が見つかれば、持ち主は簡単に首をはねられた。
江戸時代の人が、現代の量刑温情主義を見たら、さぞかし軽蔑することだろう。



彼らは、その名残を背負っている。

もちろん、時代は変わり、幕府は無くなった。
私娼窟同然の場所も、少しずつ増えてきていた。

つまり、遊郭が有ろうが無かろうが、
身を落とす女が減ることはありえない。

そして私娼窟のおぞましいばかりの実態を、
男は吐き捨てるように教えてくれた。

壊れるまで使われ、あるいは病気でも無理やりさせられ、
女は監禁同然で見張られる。
見張りの男たちですら、隙を見て当然のように犯すのだ。


『きちんとこの問題を扱わないと、
 悲惨な女性が増えるばかりだわ…。』


イリナが、過激な『開放派』に向う原点は、ここにあったのかもしれない。

女性の美を、過激に表現する活動の一方で、
貧困や飢饉、不幸な事情で娼婦にならざる得ない女性たちを、
積極的に高め、立場を良くする運動を支えていった。


以来、イリナは夏になると、リンドウを持ってここを訪れる。

美しい銀のしずくが、まぶたの間からこぼれおち、
白い頬を伝い落ちて、唇のルージュを濡らした。
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