■ EXIT
ダインコートのルージュ・その6 【大英帝国の陰謀:8】


  ≪陰謀の終演≫


1897年、史実には無いが「97(救難)台風」と呼ばれる災害が起こる。


台風に巻き込まれ、二百隻を超える(清国からの船はそもそも数えられていない)
輸送船や客船の、転覆、行方不明、座礁に火災、が東シナ海を中心に起こり、
一部のマスコミからは、海難事故世界10大ミステリーの一つとまで騒がれた。

そもそも、なぜこれだけの船が、この地域に、この時期に集中したのか、
しかも、ほぼ全ての船が、航行予定を大幅に短縮したり、
日本へ寄港する予定の無い船まで、日本へ向かうコースを取ったりと、
異様な行動を取っていることが分かってくる。

台風に巻き込まれて、生き残った船も見つかったが、
なぜか非協力的で、発言を一切避けた。

8月から10月にかけて、この海域は台風が非常に発生しやすく、通りやすい。
この辺を航行しなれている船乗りなら、こんな行動は取るはずがなかった。

『まるで集団自殺だ。』
この事件を調べた海運のプロや、海洋保険の関係者は首をひねるばかりだった。

そして、台風の影響した範囲が異常に広い。
東シナ海全域、沖縄近辺と太平洋側数百キロ、朝鮮半島全域、ロシア北西部、
あまりの広さに、気象学者は『何かの間違いではないか』とまで疑った。

双子の台風である事は、かなり後になって分かった。
まだ気象レーダーすら無い時代なのだ。









その影響は時間を追うごとに恐ろしく広がっていく。

清国は広い範囲で海岸が腐乱した死骸で埋まり、伝染病と食中毒が猛烈に発生した。

これは、清国から船を略奪して日本へ移動しようとした、一万人余りの清国人だ。
村丸ごと盗賊などという連中が、黄金の夢に狂い、ろくな航海技術も無いのに、
群がるようにして台風の中に突っ込んだのだから、こうなるのも当然だった。


朝鮮半島は、台風の直撃で建造物の倒壊が相次ぎ、
ロシアの移民がほぼ全域を占める東部や南部は、死者、行方不明者は1000人を超えた。

ちなみに、半島の東部や南部は日照時間が長く、気候が暖かいため、
早くから地元民は移民としてシベリアへ送られている。
環境の悪い西部や北部は、まだ数%地元民が残っているらしい。

半島以北のロシア沿岸部での被害も凄まじく、日本政府は半島から沿岸部への、災害特別救助を申し出た。
ロシア側は、半島のみを許可し、感謝と共に以北の援助は丁重に断った。
これは、対日強硬派が、国内情報を偵察されることを極度に嫌ったためと言われる。
(半島には日本の行政府があったので、正確な地形測量はされている)



カーキ色の作業服が、一糸乱れぬ行動でがれきを取り除いていく。

がれきの間から、幼い少女が助け出された。
やつれ怯えた少女を、銀髪の温かい笑顔が抱きしめ、優しく包み込んだ。

半壊したレンガ造りの建物が、きしみ出した。

「あぶないっ、みんな退避しろ!」

建物の中のがれきを取りのける作業は、一歩間違うと、支えを失った建物全体が崩壊する。

「こわいっ、こわいよおおおっ」

「だいじょうぶ、だいじょうぶよ。」

あたたかい小さな体をしっかりと抱きしめ、
イリナは、ブーツの動力機構を作動させた。

がれきが、ベレー帽をかすめたが、素早い動きで出口を抜けた。

ガラガラガラガラッ

地鳴りをあげながら、建物が崩れ落ちる。

土埃の中を、幼い子供を抱きしめた銀髪の少女が、間一髪で飛び出した。

 えーんえーんえーん

しがみついて泣く子供、だけど、今は暗いがれきの中とは違う。
優しい笑顔のお姉ちゃんが、抱きしめてくれる。だから、力いっぱい泣いた。

少女を、優しくあやしながら、イリナは微笑む。

額から血を流し、土ぼこりが身体を汚していたが、
雲間から差し込む光が、あたりを輝かせ、あたたかく二人を包み込む。

聖者や天使の光臨のように、丸く美しい光の輪が、イリナを中心に現れた。
その中を、慈愛に満ちた表情で、泣く子供を抱きしめ歩む姿は、
聖母を描き出した宗教画のような、静謐な光景をはぐくんだ。

美しく、魂を打つ光景に、記者たちは必死にカメラのシャッターを切った。




特別災害援助活動に、ダインコート姉妹は自ら参加を望んだ。
当然、高野や“さゆり”嬢は難色を示した。

なにしろ、先日のあの騒動の直後だ。
ダインコート姉妹を見て、襲いかかる連中がいないとは限らない。

「だからですよ。私たちがやられっ放しで大人しくしていると、思われてはたまりません。」

広報部のイリナは、これを好機と見ていた。

彼女は情報戦略の専門家であり、悪辣な情報操作による群集心理利用に、本気で怒っていた。
まして19世紀末の情報の威力は、21世紀の数百倍にもなる。

相手が裏から手をまわし、悪辣な手段で来るなら、
こちらは、正面から明るい場所へ引きずり出してやるべきなのだ。

「それに、私と部下たちも、妹たちを全力で守ります。」

シーナの一言で、高野はうなづいた。


姉妹たちが出て行ったあと、よりそう“さゆり”に、高野はつぶやいた。

「強くなったなあ、彼女たちは。AIが魂を持つ日も近いかもしれん。」

高野は、AIにはすでに心が宿っていると信じている。
やがて、知的生命体の一員として、魂を持つAIも現れると夢想していた。 彼の目は、娘たちを見る父親のような、慈愛の目であった。







「97台風」の恐怖と、日本政府の果断な行為は、欧米のマスコミに盛んに取り上げられた。

中でも、幼子を助け出したイリナの、聖母のような美しい姿は、
凄まじいばかりの人気となった。

血を流し、ほこりにまみれ、なお勇気と優しさに満ちた優しい笑顔、
優しく子供を抱きしめ、己のケガもいとわずあやす姿。

見る者の胸を打ち、神を信じる心を強く高める神聖さを持っていた。

もし、この撮影が20年後であれば、
1917年第一回のピューリッツア賞は、間違いなくこの写真だっただろう。

このほかにも、ダインコートの姉妹たちの、勇敢で美しい姿、汗と油にまみれながら微笑む姿、 無防備でどきりとするようなしぐさ、その写真は大人気となった。

全員どう見ても白人種。欧米に受けないはずがない。
もちろん、彼女たちは自分たちの視覚効果を充分に知っている。

そしてこれは、とんでもない反撃となった。




まず第一に、怒りに満ちた声を上げたのは、英国海軍の大半の艦長たちだった。

イリナの輝くような慈悲の姿と、姉妹たちのくもりの無い行い、
そして、白人に対する日本の惜しみない努力を見て、
心を打たれ、男として恥じた艦長たちは、

『なにゆえ、あのような無法な命令を、受けねばならないのか』

と、植民地大臣からの命令に本気で怒ったのである。

船の艦長とは、一国の君主に等しい権限を持つ。
それだけプライドも高ければ、責任も重い。
本気で納得できない命令には、正面から反論できるぐらいの骨もある。

ましてや、海軍の横のつながりは、非常に強い。
艦長たちは、そろって証明書をつっ返してきた。


ただし、各軍艦に必要以上に多くの新聞・雑誌が届けられていることには、
誰も気がつかなかった。もちろん、『働いてくれている軍人の皆様への援助』 と称して、帝国重工のダミー企業が、情報戦略の一環として送り込んでいるのだ。

何しろ、届いた新聞や雑誌は、船員たちが奪い合う状態だったので、
上級士官用の分をのぞけば、どれだけ届いたかは確認しようが無い。
船員たちは皆感動し、彼女たちを賛美した。
そして下からの評判は、上にも確実に届くのだ。
当然、英国海軍内での日本の評判は、うなぎのぼりに良くなった。



これだけでも、大臣が慌てふためくには充分だが、
それですむような騒動ではなくなっていく。



第二に、清国では、海岸のもの凄まじいありさまが、恐怖と共に全域に伝わり、
さらに追い討ちをかけるように、疫病が流行。
海岸からの生温かい風に乗り、猛烈な広がり方を見せた。

しかも、「赤い8月17日」の絶望的な騒乱に、
大英帝国の査証(ピザ)を持つ者が、全ての災難を招いたと噂され、
英国租界(植民地区画)は、清国民や他の列強租界の憎悪の的になった。
大英帝国は必死に火消しを行うが、何しろ事実を消すことほど難しいものは無い。

順調に伸びていたはずの英国租界における産業取引高が、
その年いきなり100万ポンド近く落ち込んだのは、その表れだろう。
おかげで12月は、自殺者が異常に出た。

必死に対処する赤十字の活動を、帝国重工が援助している。
そしてごく当たり前に『危険地域情報』とその内情の口コミ情報を流していることに、大英帝国は気付く余裕も無かった。



第三に、「97台風」の報道と共に、
遠征部隊の末路を知った世界中の暗黒街は、ほぼ全域で、恐怖に憑り付かれた。

裏の連中は、今回の騒動の本質を知っている。
どれほど膨大な数が向ったかも、ある程度分かっていた。

だが、遠征部隊は全滅し、標的のはずの女性たちは“他国で”平然と救助活動を行って、
報道のトップを飾り、大変な人気になっている。
暗黒街の住人たちは、ダインコートの姉妹たちが、心底恐ろしくなった。

『こんな“疫病神”に関わっては、命がいくつあっても足りない。』

普段から命を張る連中だけに、“げん”や“ツキ”には極めて敏感なのだ。
ましてや“疫病神”となれば、近づくだけでも命に関わる。
以後、賞金目当てに日本へ向かおうと言うならず者や犯罪者は、いなくなってしまった。

号外の形で、報道は街頭にて撒かれていた。
何しろトップが美しい女性、文字が読めない男ですら、喜んでもらっていく。
イリナたちが仕掛けた情報戦略の恐ろしさは、こんな場所にまで、浸透していた。


加えて、遠征に出た犯罪者が全滅したからと言って、暗黒街の住人が減るという事は無い。

かえって内部バランスが崩れたために、跡目争いや縄張り争いが激化、
姉妹たちを恐れて、内側へ目を向けた分、血で血を洗う抗争が頻発し、
治安の悪化や、政情不安などがひどくなり、領地や植民地の統治がいっそう難しくなった。
当然、大英帝国の評判はがた落ちする。暗黒街の安定というのは、異常に難しいのだ。

植民地大臣が、うっかり地雷を踏んだことに気付くのは、ずいぶん後になってからだった。

東南アジアに達する前に脱落した連中も、それぞれあちこちで災いをばらまき、
大英帝国の悪評は、さらに高まるはめになった。



さらに第四、イリナの写真は宗教界にも衝撃を与えた。

彼女を現代の聖女として、つまり『看板』として引き込めないかと、本気で模索し始めた。
特にキリスト教、カソリック(旧教)とプロテスタント(新教)が、双方ともかなり本気。

この両者は同じキリスト教でありながら、21世紀でも相手を悪魔よばわりするほど、
日本人から見れば異様に仲が悪い。
ましてや19世紀では、いまだ血なまぐさい部分がある。


宗教と政治は、密接な関係と協力が必要であり、
それは大英帝国(プロテスタント)でも変わりは無い。

当然、今回の裏情報も、教会関係者にはほぼ全部流れている。
(でないと、いざという時、教会に逃げ込めない。)
おかげで王立教会から、『いらぬことをしおって!』と凄まじく恨まれる。

その上、カソリックのローマ法王配下から、裏情報への質問状が届き、
プロテスタント側は、本気で窮地に追い込まれた。

誰がその情報を流したかは、言うまでもあるまい。




そして『とどめ』が、植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンへの、
ロイズ保険組合からの召喚状だった。

ロイズには二つの意味がある。

一つは、大英帝国シティにある、国際的な保険市場そのものを指すロイズ。

もう一つは、イギリス議会制定法によって法人化された団体で、
ブローカー(保険契約仲介業者)およびシンジケート(会社組織)を会員とする世界最大の保険組合であるロイズ。

そして、保険を請け負うのはシンジケートと契約している、無限責任のアンダーライター(保険引受業者)
このアンダーライターになれるのは、莫大な資産と、強力な権力、そしてゆるぎない地位を持つ、
大英帝国の実力者ばかり。言ってみれば、ロイズとは大英帝国の一つの姿と言っていい。


そしてロイズの本業は『海運保険』なのだ。

東アジアの海で起こった大災害は、有名な『ロイズの鐘』(海難事故のたびに鳴らされる)を、
耳が壊れんばかりに鳴らし続け、ロイズに激震を与えた。
もちろん、『鐘』が鳴るたびに、会員の財布から莫大な『金』(保険金)が飛んでいくのである。

その被害総額、実に500万ポンド。
戦艦数隻分が、海の藻屑と消えたことになる。

当然、植民地大臣と今回の騒動の関係を気付かないわけが無い。
ロイズの『コーヒーハウス』(国会にたとえるなら中央議事堂)に呼び出しをくらうというのは、 軍事法廷に出頭するぐらいの覚悟がいる。



真っ青になったジョゼフ・チェンバレンは、絶叫した。

「ボストン!、ボストンはどうしたっ!。」

植民地大臣の懐刀(ふところがたな)であり、筆頭秘書官でもあり、
今回の計画の立案者でもあるボストン・マーチンだが、
今日ばかりは、その首をねじ切ってやらないと気がすまない。

だが、老執事が気の毒そうな顔で、白い封筒を渡した。

「『新しい茶の噂を聞きましたので、旅に出ます、ご幸運お祈り申し上げます…』」

10秒ほどの沈黙の後、ブタが屠殺されるような声が、広い邸内に響き渡った。




ちなみに、ロイズについては、帝国重工としては何もしていない。
ただ、イリアがかなりの数の手紙を出しただけだ。

イリアには、親衛隊とでも呼べそうな、親しくしている女性たちがいる。
彼女を溺愛していて、出来ればさらってでもそばに置きたいと願っている女性たち。
しかも、貴族や王族、大使やその関係者が異常に多い。

今回、特にロイズと関係が深そうな英国の上層部や、そちらと親しい女性たちへ、
簡単な状況説明と、自分は無事であること、
そして、『聞くに堪えない噂(イリアたちにかけられた賞金)』の裏情報をチラリと書き、 情愛に満ちた丁寧な挨拶で締めくくってある。

もしこれが、本気で騒動を起こさないつもりだったなら、普通に『逆効果』という。


イリアの優しい手紙に逆上した女性たちが、どれほど暗躍したのか、
出した本人や姉妹たちにも、ちょっと想像がつかない。

ロイズと言えど、国家の大臣を召還し、つるし上げるには、
通常だとかなりの時間がかかる。

だが、穏便に済ませないかという声は、女性たちのヒステリーに踏み潰され、
あっというまに召喚状が届けられてしまった。

そしてロイズの『コーヒーハウス』は異常な出席者で、
ほぼ満席の場内は怒号が飛び交い、凄まじい修羅場になっていた。

こんなことは、オランダの大騒動『チューリップバブル』以来だった。



古来、男性は女性に、口喧嘩では絶対に勝てない。
チェンバレンは、絶対に口にできない事情も多い。
そして、黙っている相手に、ますます女性の口論は激しくなる。

何の根回しもできないまま、こういう場所に呼び出され、
チェンバレンの前に最初に立ちはだかったのは、
顔つきこそ美人だが、その体格は巨大なビヤダルかガスタンクという、マリア・カラガス男爵夫人。

元欧州トップクラスのオペラ歌手で、カラガス男爵(優男)に見初められ、
現在も男爵に非常に愛されている婦人だが、
イリア・ダインコートを養女にしたいと、夫に泣いて頼んだと言われるほどのイリアファン。

「チェンバレンどの!」

オペラ歌手は巨大な劇場の、隅まで聞こえるほどの声量が必要だ。
その声は、美しいが凄まじい。

「私の愛する夫は、今回の嵐で20万ポンドを失いました。
アンダーライター(保険引受業者)として、その責任は当然ですわ。
ですが、今回嵐の被害にあった船には、
『全て』植民地省が優先的に発給した査証の持ち主が乗っていたとの事。
それも、得体の知れない者ばかりというではありませんか、
これは『『『どういう事ですの!!!』』』」

コーヒーハウスが鳴動するほどの怒声に、チェンバレンは気が遠くなりそうになった。

「し、しかし、カラガス男爵夫人、その問題とは関係は無いかと…」

どこぞの国の、国会答弁のような返答をするチェンバレン、

「『『『関係は無い』』』とおっしゃるの?!」

テーブルが振動するほどの声に、ギラギラと光る目、
チェンバレンは、完全に虎のしっぽを踏んだ。


その後、1時間に及ぶカラガス男爵夫人の口舌は、
コーヒーハウスの管理人に言わせると、『艦砲射撃の暴風雨だった』。


へとへとになったチェンバレンを待っていたのは、
グレゴリオ金取引所の「行かず後家」サーミス・グレゴリオ。

金縁の細いめがねを光らせ、ねちねちと、
『なぜ異常に発給ピザが増えたのか』
『なぜ東洋行きの船舶に優遇措置が取られたのか』
『上海租界での騒動は何か関係があるのではないか』
執拗にして、拷問のような質問が繰り返される。

しかも、この女性数字に異常に強く、
国家予算の計算も、間違いが無いか彼女に検査させていると言われていた。
そのため、数字の嘘がすぐ見破られてしまう。
チェンバレンは、緊張のあまり、何度もトイレに駆け込んで吐いた。


また『聞くに堪えない噂』に関しては、答えられない質問ばかり。
噂としてごまかすには、あまりに被害が大きすぎた。


女たちを中心とした責め苦は5時間にも及び、
チェンバレンは途中で『いっそ殺してくれ』と、何度願ったか分からない。

最後は、あまりに悲惨な状況に、男性陣が憐れみをもよおし、議長が助け船を出し、
ようやくチェンバレンは退席を許された。

ただ、この直前に配られた夕刊の一面に、イリアの子供たちとたわむれる写真が載っていたのが、 女性たちのヒステリーを鎮めるのに、絶大な効果があったとは、誰も知るまい。









幸運なことに(?)、チェンバレンの首は、皮一枚でどうやらつながったらしいが、

わずか5時間で、髪は抜け落ち、目はうつろ、浦島太郎のように凄まじく年を取ったように見えた。
そして、二度と再び東洋の事は触れなくなったそうである。

以後、南アフリカの帝国主義にのみ固執し、
結局自分の政治生命と、寿命まで縮めてしまうことになるのだった。


大英帝国の陰謀『終幕』
次の話
前の話