ダインコートのルージュ・その6 【大英帝国の陰謀:5】
≪男の戦い・女の戦い≫
ロイズ銀行日本代理店に、夕刻になってロイズ本社から、わざわざ役員が一人やってきた。
英国領や入植地などにあるロイズの支店、代理店、直轄の金融機関を急いで回っているという。
「いったい何事かね?」
以前から目をかけてやっていたその役員は、本社からの指令を渡した。
「大英帝国軍艦艦長のサインと記入のある証明書と交換で、以下の条件の元、支払いを行うこと…」
記載数が1ならば1万ポンド、2ならば2万+1万ポンド、3ならば3万+2万ポンド、
最大数は5であり、5万+4万ポンドが最大値となる。
見本となる証明書は、紙幣にも使われる透かしのある特殊な紙で、
非常に高度な偽造防止の印刷がされている。
「ちなみに、支払いは無条件です。どんな人間であれ…。」
ひどく苦痛そうに、その役員は言った。
そして耳を寄せさせ、話し出した言葉に、ロイゼンバックは顔を真っ赤にして怒った。
「なにごとだそれは、正気の沙汰ではないぞ。」
「ですが、事実です…。」
『帝国重工所属、高野さゆり、ダインコード四姉妹の内誰かを、
五体満足のまま大英帝国の軍艦に乗せれば、艦長から証明書が発行される。
証明書により、一人につき1万ポンドを無条件で支払われる。
もし同時に複数乗せることができれば、さらに1万ポンド追加する。
なお、支払いを受けられる銀行は以下の通り−−−−−』
この情報が、全世界の英国の統治する領土や植民地の裏社会に、
口頭で伝えられたというのである。
「栄光あるロイズが、裏社会のならず者に、人さらいを代金を渡せというのか!」
「わ、我々は証明書にのっとり、支払いを行うだけです…」
役員は顔をゆがませ、涙すら流した。
彼も心中は本気で悔しいらしい。
「すまん、君に怒ってもしかたのないことだった。
おそらく植民地大臣あたりの仕業だろうな。」
思わずうなずきかけ、あわてて首を振る。
たぶん重大な守秘義務がかけられているのだろう。
この国にいれば、植民地大臣の仕掛けるべき悪辣な貿易、諜報、撹乱、策略、
その一切が伝わってこないことから、
日本に対しては、ほぼ何もできないでいることが分かる。
外交上は、穏やかな協力関係を維持しつつ、内実は鉄壁。
これでは植民地大臣としては、立つ瀬があるまい。
協力関係にみせかけて、内側から食い荒らし植民地に取りこんでしまうのが、
植民地大臣の仕事の一つなのだ。
何度か、清国のようにアヘン(麻薬)を持ち込もうとしたらしいことは、
貿易関連の取引で、とばっちりを食って入荷が大幅に遅れた運輸会社が、
腹立ちまぎれに話していた。
1830年代、清国との貿易で、茶と絹による巨額の赤字が発生しつづける大英帝国は、
アヘンを大量に持ち込み、容赦なく売りさばいた。
怒った清国がアヘンを焼き払うと(実に1400トンにのぼったという)、
それを口実として戦争を起こし、ねじふせた上で多額の賠償金と、領土の割譲(香港他)を認めさせた。
大英帝国のみならず、清国、ロシア、フランス、イタリア、
インドやモロッコ、南部アフリカの犯罪集団まで、
悪しき先輩に習い、豊かになり始めた日本にアヘンを持ち込もうとした。
だが、それらはことごとく失敗している。
それに、南部アフリカとの確執と騒乱が、大英帝国の戦力を縛りつけている。
ロシアやフランスの協力体制が、東洋での利権を容赦なく確保しているはずだ。
植民地大臣としては、腹の立つことおびただしいものがあるだろう。
「もしかして、日本が最後かね?」
役員は力なくうなずいた。
先ほどロイゼンバックに漏らした情報も、伝えるなと副社長から言われていた。
本来なら、真っ先に連絡が来るべき日本へ、
一番最後に最低限の情報だけ送ろうとするとは、ロイズ内部の権力闘争も絡んでいるようだ。
『日本、いや帝国重工の貿易が異様に伸びているから、苦々しいか…。』
苦笑しながら、つまらん話は忘れることにした。
彼にとっては、大した事ではない。
だが、時間の問題に気づく。
「『伝えられた』、と言ったな、いったいいつ?。」
ロイゼンバックは絶望的な表情になる。
銀行の決定が行われてすぐだった。
船便のスピードを考えると、この使者を追いかけるように、
世界中の暗黒街の住人が、日本へ向っているはずだ。
役員を退席させた後、大英帝国の目的を考えてみた。
まずは日本と帝国重工への腹いせ。
下手をすれば、帝国重工が情報に気づく前に、
無数の名も無い悪党たちから、襲撃を受けることになる。
技術者を奪う事での高度技術の奪取、
技術者でなくとも、内部情報に詳しい姉妹もかなりの価値か。
政治と統治の混乱、騒乱の発生、貿易の停滞、
それでなくとも帝国重工の成功で注目があつまっている。
悪評が立つだけで、ダメージは計り知れない。
帝国重工内部の士気も、がっくりと落ちるだろう。
同時に、大英帝国がおびただしい諜報員を送り込むだろう。
いや、他の国もこぞって送りこみ、諜報合戦と騒乱の火種をあおるのは間違いない。
まさかと思うが、またアヘンを持ち込むことも考えられる。
なにしろ、あれほど莫大な利益をあげ、しかも国家を根底から蝕むものはない。
『大英帝国の軍艦にのせる』つまり保護すると言い張るつもりか。
まてよ、軍艦がそれだけ日本近海に寄せるとなると…
いずれは、騒乱に乗じて軍事介入をする気か!。
アジア支配を完成させるには、最外郭である日本を支配化に置かねば、完成しない。
「私は、銀行が銀行の利益だけを考える時代は、終わったと思っています。」
帝国重工の応接室で、長い独白の後、ロイゼンバックは怒りを抑えた声で、呟いた。
彼の頭脳には、欧米各国の経済や人脈の情報がギッシリとつまっている。
肩書きこそ日本代理店支店長だが、ロイズのNo2の実力は伊達ではない。
直接の情報を一切与えられていなくても、
彼の高度な推測と予測は、銀行の保守義務に対する重大な違反行為だろう。
たとえそのために首を切られても良いと、覚悟を決めていた。
この手が汚れていないなどとは、思ったことも無いが、
誇り高きロイズが、アヘン戦争に等しい愚行に手を貸し、
裏社会のならず者に、直接誘拐の礼金を払うなど、考えるだけでもおぞましかった。
一度でも成功すれば、裏の者たちは、容赦なく金融世界に土足で踏み込んでくる。
それが発覚すれば、大半の清廉な顧客は我々を許してはくれまい。
『そして何より……』
ロイゼンバックは何も言わず、イリナを見つめた。
イリナも美しい頬を染めて、澄んだ青い目を潤ませる。
ロイゼンバックは、イリナを、そして彼女の思想を愛していた。
イリナも、何も言わずともその気持ちが伝わり、嬉しかった。
風霧は、猛烈に焼ける気分に、悩まされた。
ロイゼンバックが帰った直後、帝国重工首脳部の緊急会議が開かれた。
実の事をいえば、ロイゼンバックの話は、彼が最初ではなかった。
イリアが昼間馬車に連れ込まれたおり、ロシア大使夫人から、同種の警告を受けていたし、
(イリアを溺愛していて、なんとしてもロシアへ連れて帰りたいらしい)
シーナはなんと一昨日、大英帝国海軍のある艦長から忠告を受けていた。
何でも以前、日本海軍が招いて軍事作戦のシュミシュレーションによる競技会を行い、
僅差でシーナが勝ったが、その夜は酒で相打ちに持ち込まれた仲だそうだ。
高野や“さゆり”嬢まで、友情やら、信愛やら、下心やら、
大英帝国の出過ぎたまねに対する腹立ちまで加わり、かなりの情報が寄せられていた。
それを知っていながら、昼間花火大会へ悠々と参加する度量は、
彼ら帝国重工の自信を物語っている。
すでに水面下では、着々と対抗手段が組み上げられていた。
「それにしても、まるで“ザル”ですよね。」
珍しく“さゆり”嬢が辛辣な言葉を述べる。
「好かれてないからなあ、あの男は…」
温厚な高野までもが、皮肉な口調である。
イリナが立体映像で数字とグラフを描き出す。
「推測ですが、各国人口と犯罪発生率の比較などのデータからみて、
大規模な移動を行い、かつ日本まで侵攻してきそうな犯罪者グループは、
300〜350前後、清国を除けば、2500人規模かと。」
「うあ〜、そんな大勢のオジサンたちに襲われちゃうのぉ、
あたし身体が持たないわよぉ」
紅紫のゆかたをくねくねさせながら、赤い唇に指を当て、濡れた舌がちらりとのぞく、
思いっきり悩ましい表情のソフィアは、どう見ても困っているようには見えない。
「うーむ、さすがに10人以上は経験が無いな…」
さらに恐ろしいセリフを、シーナがほんのりと頬を染めて、ぼそりと吐く。
「ちょっ、ちょっとシーナっ、場所を考えてっ!」
珍しく“さゆり”嬢が切れたりする。
「ん、どういうことかね?」
「いや、“格闘戦”はお前は考えることじゃないから。」
高野がちょっと首をひねるが、風霧が絶妙のタイミングでそらして、
うまくごまかした。
高野と風霧は、性格は全く違うのに、親友なのだ。見事なボケとつっこみになっている。
ただ、妙なたとえ方にイリナは真っ赤になる。
シーナが、清涼剤のパイプを吸った。
「さすがロイゼンバック氏、よく裏の裏まで読まれていますね。」
「ああ、切れすぎて煙たがられるタイプだな。」
風霧が言うと、妙に真実味がある。
じっさい21世紀では、彼もかなり煙たがられていた。
「私が心配なのは、清国の方です。」
イリナが不安そうに言う。
20世紀後半、日本はボートピープルという漂着民に悩まされた。
新興国家中国の悲惨さに耐えきれず、国を捨てて逃げ出した民衆が、
小さなボートで東シナ海をわたって、おびただしく漂着したのだ。
もちろん、その何倍もの数が、海の藻屑と消えただろう。
今の清国も、非常に悲惨なありさまで、
ここにあの情報が流れれば、欲と道連れで膨大な数が押し寄せてきかねない。
おそらく数千人規模になるだろう。
「ここは非情に徹しよう。我が国に、そんな人間を養う食料は無い。」
高野が、最高指揮官として厳しく決断する。
『同じ人間どうし』などという甘ったれた言葉は、この中では通用しない。
第三次世界大戦の最前線で戦い、核攻撃の中で死にかけた者たちである。
日本のため、愛する人々のため、それを後悔した事は一度もない。
逆にいえば、それを傷つけようとする者には、一片の容赦もしない。
少なくとも、自分たちからは戦争は行わない。
しかし、降りかかってくるなら、容赦なく叩き潰す。
その覚悟がなければ、自国を守るなどできはしないのだ。
「船に密航してくる連中は、ソフィアが高度熱源調査システムを多数用意してくれましたから、
船に乗らずとも、外から隠れている人間は発見できます。」
温度差を、立体的に把握できるこのシステムは、
船のような空洞の多い構造では、内部がほぼ筒抜けになる。
「ついでに、火薬、爆薬、麻薬、毒物調査システムも付属していますので、
隠し事は、まず無理ですね。」
空気中に漂う物質から、それらを極めて敏感に察知するのだ。
船室内は空気が動きにくい、これを船室に持ち込み調査すれば、まず隠せない。
「あと、アヘンは有り難く貰っておこう、医療用の麻薬は戦場ではいくらあっても足りんしな。」
10トンのアヘンから、1トンのモルヒネが精製できる。
これを医療用にさらに高度精製すれば、輸出もできそうだ。
「あとは諜報員の大量投入の可能性だが、これはシーナに任せる。」
高野の言葉に、シーナがこくりとうなずく。
「気付いたのですが、今日イリアが捕まった女性記者ですが、
彼女の他にも4人、他の欧州系の新聞・雑誌・報道関係が、通常の倍近くなっています。
たぶん、この事態に合わせて投入してきたと思われます。」
イリナが広報部としての意見を述べる。
涼やかなゆかた姿が、厳しい意見をなごませてしまうが。
「つまり、悪党どもは一人も上陸させてはならんということだな。」
日本の惨状を、鵜の目鷹の目で待ち望んでいるはずだ。
「山口の領事館はどうしましょう?」
「人手が足らんな…」
「足りませんねえ。」
高野と“さゆり”嬢が同時に首をひねる。
帝国重工は無駄の極めて少ない組織だが、その分かなり人数は厳しい。
地元の警察ぐらいでは対処できないし、軍を出動させるのも外交上問題がある。
「要するに、非常識な相手に対応できる程度の、戦力を持った人手があればよいのですね?。」
「おおっ、そうか。」
イリナの言葉に、シーナが打てば響くように気づいた。
「山人」の中には、すでに帝国重工に親愛の情を抱いている者も大勢いる。
今日招いた者たちを通じて声をかければ、人手と戦力としては、十分すぎるだろう。
大国相手に、正面切って戦い、撃破しようという帝国重工。
ふいさえ打たれなければ、この程度の規模、叩きつぶすのはわけはない。
準備はあと二日あれば、昼寝ができるぐらいだ。
「あとは海軍に、航路から外れて、不法入国しようとする連中を見張ってもらいましょう。」
これで、会議はお開きになった。
かえすがえすも残念だったのは、このあと夜の街に繰り出す予定がキャンセルされたことだろう。
|
|
|
|
|