■ EXIT
ダインコートのルージュ・その6 【大英帝国の陰謀:4】


  ≪日本の片隅で4≫


この夏、帝都東京はことのほか暑かった。

東京都は都民のために、 8月10日に荒川にて花火大会を催すことにした。

ちなみに、この当時の荒川とは、21世紀の隅田川のことを言う。
明治後期から別水路が作られ、後にそちらが荒川と呼ばれるようになった。

ただ、正直なことを言えば、バックにいるのは政府と帝国重工である。

人口密集地である帝都では、常にストレス発散のためのリラクゼーションが欠かせない。
また、集中する国家大使、外交官、来日している貴族や賓客を満足させるイベントも必要だ。
何より、海外の記者に、お祭りは常によい話題になる(重大記事が無い場合は)。


「おおおっ、う、うつくしいいっ!」

受付嬢の伊集院ツカサは、それでなくとも、 長い黒髪に、日本人形のような整った顔立ちなのだが、 紺と白の四角を交互にあしらった、上品な市松模様のゆかたは、 ドイツの光学測定器研究者のダイム・ベンゼフト氏を驚嘆させた。

日本人には見慣れた模様だが、 光学技術者の彼には、このシンメトリック(対称)とアシメトリック(非対象) を見事に融和させた、大胆極まりないセンスとデザインに見えた。

彼のみではなく、この日帝都重工を訪れた客は、全員が喚声を上げた。
重工の女性陣全員がゆかた姿だったのだ。

特に、

清楚にして優雅な“さゆり”嬢は、水とトンボの涼やかな姿。

凛とした美貌と、背が高くすらりとした体型に見えながら、 脱いだら超凄いんです!のシーナ嬢は、黒地に大胆に桃色の花を散らした柄。

ゆったりと着付けて首筋を強調し、どきどきさせるソフィア嬢、紅紫に白で花を抜いて描いている。

可憐な白ユリの花のようなイリナ嬢、白地に淡い色で様々な花と葉を散らしている。

愛らしい赤白の編み紐に小さな鈴を飾り、可愛く髪をとめ、可憐極まりないイリア嬢、 赤い小さな金魚が泳ぐゆかたである。

外部からの客で、この5人を見てしまった者は、 ほぼ一日魂を抜かれて、仕事にならなかった。



ちなみに、ゆかたは全て、重工の貸し衣装部が管理している。
何しろ、首脳陣からして、だれ一人着物を持っていなかったのだ。


まあ、戦闘中にいきなり19世紀へ飛ばされたのだから、無理も無いが、 いざ着物を使おうとすると、その手入れと管理の大変なこと、 時間も人手も足りない重工としては、大問題になった。

結局、貸し衣装部を作ることで、各人専用のゆかたや和服をまとめて管理、 その上、いざこういうイベントでも、会社が用意してくれるので、 どこからも文句が出ない上に、家族からまで感謝された。

それに需要の多いこと、多いこと。

帝国重工の家族や知り合いなら、誰でも安価に使えるので、 すごい人気だった。




河口から10数隻の屋形船が、ゆっくりとさかのぼる。

貴賓の船に、重工の社員、そして最後尾5隻はなんと「山人」たち。 異なる人間を、なじませるのに、祭りほど適したイベントは無い。 誘ってみると、100人あまりが希望してきた。 彼らが帰ってからの話は、「山人」たちのよい話題になるだろう。

帝都の繁栄に目を丸くし、 人がこぼれんばかりに群がり歩くさまに度肝を抜かれ、 ま新しいゆかたを着て、酒と料理の歓待に、大喜びだった。


意外なほどおとなしい「山人」に比べ、 一番トラブルになったのが、イリアだった。

イリアは、おとなしいいい娘なのだが…、 なぜか女性のトラブルに巻き込まれやすい。

姉のイリナが、異常に男性から興味を持たれるのと対称的だ。

その異常さは、海外からの貴賓客の女性で、 『イリアを養女に誘わなかった女性はいない』 という一例からでもお分かりだろう。

ちなみに、『孫や息子の嫁に』と言われるのもイリアだったりする。
つまり、イリアは異常に女性に好かれるのだ。

そして今日は朝から、 英国の婦人記者に、被写体として離してもらえなかったり、 ロシアの大使婦人が、馬車に連れ込んで離さなかったり、 名高い料亭のおかみさんから、うちに来ないかと執拗に誘われたり、

とまあ、行方不明が3度も続き、単独行動禁止を言い渡された。




ドーン、ドドーン

轟音と共に、薄闇の空に、鮮やかな花が開く。

喚声と、轟き。
川岸が揺れ、船が揺れ、皆夜空の祭典に酔いしれた。

すんだ目が、初めて見る花火を無心に見ていた。

それは、幼子かも知れず、初老の男性かもしれない。
だが、この世にこのような物があることを、生まれて初めて見る目は、 ただただ、無心だった。

『世界が変わったのだ』

もし、その気持ちを、言葉と言う極めて不細工な物で表すなら、 こう言うのかもしれない。

見た者の衝撃は一生残る。
たとえ記憶は忘れても、その痕跡は消えることは無い。

彼らの、そしてテツロの、無心の目を見て、 イリナは、彼らを連れてきて良かったと思った。


イリナたちは、花火が終わって重工に戻った。

「山人」たちは世話はいらなかった。

重工の敷地内の、涼しい林の中に除虫菊の線香を焚くと、 彼らは喜んでござの上に寝た。
まだ、コンクリートの建物の中で寝るのは無理らしい。

明治18年にすでに除虫菊はアメリカから入っていて、 1890年には、あの渦巻きの線香ができていた。
結構重要な輸出品になっている。

だが、「山人」たちの世話が終わり、社屋にもどると客がいた。

「どうされたのですか、ロイゼンバックさん?!」

ひどく青ざめた顔をして、彼はこんな時間なのに待っていた。
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