ダインコートのルージュ・その6 【大英帝国の陰謀:3】
≪日本の片隅で3≫
熱で真っ赤になっていた顔が、次第に落ち着き、息も静まっていった。
安らかな愛らしい寝顔に、イリナは目を潤ませて微笑む。
「あ、あ、あじがどう…あじがどう…」
狼の皮らしい、袖のない毛皮を羽織ったひげのながい男が、涙を流しながら頭を下げた。
隣の、長いぬめるような黒髪を後ろに縛った女性も、頭を地に打ち付けるようにして土下座する。
周りでもうれしそうな声が繰り返しあがる。
ここは、「山人」テツロの大おじがおさめている部落。
イリナは、忙しい合間をぬって、一週間に一度はテツロの元を訪れた。
彼らの言葉は、すでにほぼ話せる。
「病?」
その一言を聞いたとたん、テツロの顔がこわばる。
彼らにとって、病とは死神と同じなのだ。
「私が、あなたに会い続けると、
里の病をもたらすことになるかもしれないの。」
テツロは泣き顔になって、困り果てる。
今さらイリナに会えないなど、考えられない。
そして、この純朴な男は、何ら感情を隠さなかった。
「あなたを病に負けない体にする“おまじない”があるわ。」
とたんに、パッと輝く顔に、イリナはクスリと笑った。
要するに、厚さ5ミリ、広さ3センチ四方の生体たんぱく素材に、
5種類ほどの混合ワクチンをしこみ、皮膚下に埋め込んで、
長期にわたって、ゆっくり体内に放出させ、免疫の多様化を進めるのである。
混合ワクチンは4〜5種が混ぜられているため、
全部で20種類以上のワクチンが半年ほどかけて、
ゆっくりを投与されることになる。
一度に大量のワクチンを投与するのは、危険が多いからだ。
ただ、ややこしい説明ではなく“おまじない”ということにして、
仕込んだ場所に、イレズミを施し、触れないようにさせておくのである。
もちろん、皮膚下に色素を施す程度の事、簡単にできる。
テツロは幾つかの絵を見せられ、“おまじない”の図柄に竜の絵を選んだ。
イリナに渡された薬を素直に飲み、ぐっすりと寝入ったテツロは、
山に上がってきた部隊の医療用テントに担ぎ込まれた。
二日後、腕に書かれた竜の絵に、惚れ惚れと見入って、満足そうだった。
そして、他の「山人」たちにも“おまじない”を施さなければならないというイリナの説明に、深くうなずいた。
テツロの案内で、大おじの部落を訪れた。
偶然、部落で悪性の風邪がはやっていて、大騒動になっていた。
すでに子供が一人亡くなっている。
テツロが病を治せる者がいると、強引に中に入り、イリナは急いで検査キットを取り出した。
「やっぱりRSウィルスだわ。」
春から夏に感染が多く、乳幼児は気管支炎や肺炎になることもある。
急いで抗ウィルス薬と、強心剤、栄養剤を無針注射器で投与した。
感染していた「山人」は全員助かり、長の大おじはイリナに深々と頭を下げて感謝した。
もちろん、イリナの提案を喜んで受け入れることを約束した。
「おぬしは、テツロの嫁か?」
テツロによりそうイリナを眩しげに見て、大おじはふと首をひねった。
「テツロは、私の家族です。」
テツロも、にこと笑う。
「そうか、ならばそなたも我々山の民の一族だ。そして、我らこの恩はわすれない。」
他の集落への呼びかけに、彼らは全力で協力した。
意外なことに、帝国重工のシンボルマーク(太陽系の運行模型を使ったデザイン)
は、「山人」たちにとても受けがよかった。
狼保護の活動を、彼らは知っていたのである。
彼らにとって、狼は単なる獲物ではない。
山のバランスを象徴する存在であり、
戦いで倒すことがあっても、まず山の神に申し上げる儀式をする。
狼が荒れているときは、獲物が少ないと見て、
狩猟を減らし、採取や他の仕事を増やすのだ。
逆に、狼がおとなしいときは、安心して狩猟を行うことができる。
謎の病(ジステンバー等)による狼の激減は、
彼らに食べられる動物の急増と、その反動を招き、
狩猟や採取での生活が立てられなくなってしまう。
近年、帝国重工のマークをつけた者たちが、山に出入りし、
病気の狼を保護しているのを、じっと見ていた。
そして、狼の数が戻り始め、彼らもほっと胸をなでおろした。
やがて、全国の「山人」たちや、同じ境遇の北海道のアイヌたちも、
帝国重工に信頼を寄せるようになった。
≪大英帝国3≫
広大なバラ園に、白や薄いピンク、オレンジの大輪の花が咲き誇り、
甘い香りは、思わず酔いそうなほどの濃厚さだ。
その中で、立派な白いひげを生やした、恰幅のいい初老の男性が、
アフタヌーンティーを楽しんでいた。
白いテーブルの上には、磨き上げられた銀のティーポットと、
様々なスィーツやフルーツを乗せた銀の台、
マイセンの最高級品らしい優雅なティーカップは、
香りの高いアッサムの紅茶。
彼らは、特に濃厚に入れた茶を、「さじが立つような濃さ」と表現する。
植民地大臣ことジョゼフ・チェンバレンは、目を洗うような眺めと、
暖かな日差しに、目を細め、ゆっくりと紅茶を味わう。
「うむ、いい味わいだ。」
「お褒めにあずかり、光栄にございます。」
筆頭秘所のボストン・マーチンは、大臣の懐刀としても有名だが、
お茶を入れさせたら、右に出る物はいないほどのティーマスターである。
「このアッサム茶は、グラム1ポンドといわれるほどの名品でございます。
バラの香りに負けぬお茶となると、そうそうはございませぬ。」
「おお、そうか。たしかにすばらしい味わいと香りだわい。
こうしておると、世俗のうさを忘れるのう。」
「最近、お気遣いされることが多うございましたから…。」
アフリカ南部では、きな臭い様相が広がり始めている。
ボーアと呼ばれる部族が、どうも反抗しそうなのだ。
実際、植民地大臣は広大な領土、植民地の情報を管理統制しなければならない、
かなりの激職と言える。
ましてや、まだ電話や電信がようやく広がり始めた時代、
情報の伝達は、非常に時間がかかる。
「そういえば、あのサルども、今頃青くなっておるであろう。」
ふと、意地の悪い表情を浮かべ、ニタニタ笑い出す。
とたんに、紳士然とした面が、下品な本性を隠し切れなくなる。
「大臣閣下、残念ながら、東洋のはずれ、極東などという地域では、
情報が伝わりますのは、最後の最後になります。
青くなるどころか、今だ何も気付いてはおりますまい。
すでに、シチリアマフィア、フランスの誘拐団、ルクセンブルグ傭兵部隊、
スペインの海賊船団など、少人数から大規模グループまで、
約40チームほどが動き出していると耳にしました。」
ぷっと大臣は吹いた。
「そういえばそうだったな。
日本の黄色いサルどもは、何も知らぬまま、
押し寄せる同類や悪鬼どもに押しつつまれ、
気がついたときは手遅れ・・・・ククク。」
「インドの盗賊、アメリカギャング、清国の黒社会なども順に動き出すでしょう。
その辺は、特に数も規模も大きく、欧州より遥かに多くなると思われます。
特に清国は近い上に人口が膨大ですから、一番期待できます。
あと、ロシアからもかなり出るでしょう。」
ボストンは小さな手帳を取り出し、
各植民地の人口と犯罪率の簡単な推計表を見た。
「各地で、暗黒街をあおるように指示しておきましたゆえ、
うぞうむぞうも合わせますと、200から400近い集団が、
押し寄せるかと思われます。」
ボストンの予測では、人数だけでも3000人以上、
独自で船を持つ者は少ないが、
犯罪者たちは、あらゆる方法で入国しようとするだろう。
21世紀の感覚で言えば、これは3000人のテロリストに等しい。
そもそも連中に、帝国重工の本社がどこにあるかなど、
分かるわけが無い、それゆえに、あらゆる場所を荒らしまわる。
「そういえば、領事館があったな。」
「ヤマグチとかいう都市にございますゆえ、
入国したい者に便宜をはかるよう、申し付けてあります。」
「うむ!。」
「最後の最後、その連中が押し寄せる頃に、
情報が届くかどうかというタイミングでございます。」
「その騒動のさなか、『あれ』も届くな?」
「もちろん、手配済みでございます。」
「うむうむ、紳士はプレゼントを惜しんではならんよ、クックックッ。」
『あれ』とは、アヘン10トン。
犯罪者の対処で、荷物の検査などはかなり手抜きになるはず。
今度こそ、日本のサルどもを、アヘン漬けにして、金を搾り取ってやる。
すでに2度、日本への大量のアヘン持ち込みに失敗しているのである。
だが、国ごと堕落させるには、この手が一番手っ取り早い。
主従は、清冽なバラの園の中で、黒い笑いを浮かべあった。
『帝国重工所属、高野さゆり、ダインコード四姉妹の内誰かを、
五体満足のまま大英帝国の軍艦に乗せれば、艦長から証明書が発行される。
証明書により、一人につき1万ポンドを無条件で支払われる。
もし同時に複数乗せることができれば、さらに1万ポンド追加する。
なお、支払いを受けられる銀行は以下の通り−−−−−』
この情報が、英国の統治する領土や植民地の裏社会に、口頭で伝わり、
徐々に騒ぎが始まっていた。
まさに一攫千金の大もうけ話。
裏社会の連中が、黙っているわけが無い。
しかも、悪党の口は軽いとは言いがたい。
様々な国の犯罪者集団が、日本へと向い始めていた。
彼らが言うように、争って日本へ向う集団より、
情報が先に日本へ到達するのは、まず無理のように思われた。
大英帝国の軍艦は『偶然女性を保護するだけ』であり、
『女性を保護するために、多少の金銭を融通する』ことは仕方の無い事である。
銀行は、ただ言われたとおり支払うだけで、何も知らない。
そして、軍艦は大英帝国へ戻る途中であるため、
『女性たちを英国へいざなう』のは、めぐり合わせなのだ。
その後、日本へ群がり集まった名うての悪党連中が、
日本で何をしようと、知ったことではない。
盗み、略奪し、放火し、殺し、
帝国重工のマークを見れば襲い掛かり、荒らしまわるだろう。
その点、『黄金の国ジパング』の伝説は、あおり文句に都合がよかった。
そして、人口密集地での火災が惨禍になることは、ロンドンの大火で良く分かっている。
まして連中の家は、木と紙で出来ているというではないか。
もちろん、そんなことで首都が落ちるわけは無いが、
激しい混乱が、長期間続くのは間違いない。
我が国の諜報員はもとより、各国もこぞって送り込んでくる。
混乱はさらにあおられ、政権も揺るぐだろう。
世相が暗くなれば、アヘンに手を出す者も急激に増える。
日本は便利なアヘン市場になってくれる。
その結果、治安の悪化や、政情の不安定から、
周辺諸国が心配のあまり、低劣な統治の日本に軍で介入するのは、
神の定めた摂理に等しいのである。
こうして、帝国重工の技術者の美女たちは、大英帝国で第2の人生を送り、
日本は我々を中心とした分割統治、資産はシティの銀行が管理すればよい。
「くっくっくっくっ・・・完璧だ、パーフェクトだ。見ておれサルども。」
バラが枯れんばかりの、黒い不気味な笑いが続いていた。
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