■ EXIT
ダインコートのルージュ・その6 【大英帝国の陰謀:1】


≪大英帝国≫


大英帝国・植民地大臣ジョゼフ・チェンバレン邸宅。

豪壮華麗な邸宅は、両脇に警備兵が詰める8メートルを越す門をくぐると、 広大な緑地と、その中をくねる細い道のみが見える。

そこから急ぎの馬で15分、馬車なら30分、

庭園は華麗に整えられ、来客を目でもてなすよう、
巨大なチェス盤や、家紋の騎士像、遊ぶ家族などが、
道の両方に、刈り込んだ生垣を使って作られている。


右手の、迷い込んだら1時間は出られない薔薇園から、
したたる甘い香りで風を染めて送ってくる。

深い森の影に、邸宅のように見える“あずまや”が、ひっそりとたたずむ。 広大な敷地のあちこちにそれは点在し、休み場所をもうけている。

そして、視界が緑の広がりに覆われつくす、1000人を超えるパーティが行われる芝生。

その奥に、白亜の輝く邸宅が広がっている。
これが、大英帝国上流階級に数えられる大臣の、第一邸宅だった。

女王陛下の元、7つの海を支配し、 世界を一周する数多くの領土や植民地から、日の沈まぬ帝国と呼ばれた国。

その最上位にいる者たちは、人でありながら人ならぬ生活に身を浸し、 それを何の疑問も無く、自分たちの占有物と認めている。

その奥で、ジョセフ・チェンバレンは苦りきった顔をしていた。


「またか…いまいましい。」

彼の、数十人の秘書官の一人、お気に入りの男が、 たった今、報告と同時に首を切られ、たたき出された。

日本という、東洋のちっぽけな国への対策で、失敗したのだ。

最近『帝国重工』という企業が生まれ、 一部には大英帝国といえど認めざるえない技術もあった。 戦争に忙しい大英帝国としては、急ぎその技術の一端を、 偉大にして世界最大のわが国に『移植してやる』必要があった。

なぜか、重工の科学者たちは女性が多く、それも容姿に恵まれた者ばかり、 どう見ても白人種としか見えない女性すらいる。

そんな女性たちを、野蛮で低俗で矮小な東洋に置いておくというだけでも、 神への冒涜であり、彼女たちもさぞ不幸なことだろうと、 名の知れた傭兵たちを使って『女性たちを救い出す』という案に、 面白いと許可を出したのだが、関係者が全員行方不明という、最低の結果に終わった。

これで、日本がらみの案件で首を切られた秘書官は、6人目。 つまり、6件立て続けに、最悪の失敗を重ねている。

ジョセフ・チェンバレンも、暗愚ではないので、 失敗しても、相手の弱点を探してきたり、次に繋がる功績があれば、 簡単には首を切らない。

だが、なんら結果の無い、関係者がほとんど全員消えうせると言う状態では、 有能な秘書官と言えど、救いようが無い。

大英帝国は、世界で最初に郵便事業を始めた国でもあり、 情報伝達はどこより早い。
失敗の報告も、わずか3週間で届いていた。

植民地大臣は、世界中の植民地から上がる巨大な収入を、一手に握る役職であり、 この程度の失敗でどうこうなる事は無いが、それゆえ腹立たしさはつのった。

「ええい、どうしてくれよう。」

いっそ、インド、アジア全域、オーストラリアの艦隊を一気に投入して、 踏み潰せればすっきりするのだが、と物騒なことを考える。 連中が最近販売している、特殊燃料ペレットを焚きながら、作った連中を踏み潰す、 …ふむ、泣いて後悔しても遅いな。紳士は諧謔(ユーモア)も必要だ。

だが、そんな無駄なことをしても、誰も認めてくれないし、大人げない。

『紳士たるもの、無駄なことはしないものだ。』

父親の教えを思い出し、2,3度深呼吸をする。

認めたくは無いが、そんなことをしても、採算が合わぬし、 何より艦隊を差し向けた地域の野蛮な蛮族たちが、 留守中に反乱を起こすことは目に見えている。 未だに、偉大な帝国に所属している栄誉が分からぬ愚か者どもめ。

いかんいかん『紳士たるもの、辛抱強くあらねばならん。』

「清国駐留部隊の強化と…、東シナ海いや日本海での演習を進言しておくか。」

ロシアを刺激し、強硬派に支援をして、日本と争わせ、 うまくゆけば、疲弊したところで、半島と日本両取りという手もあるな。

そこまで考えたとき、ノックがやわらかく鳴った。

「大臣閣下、ボストンです。」

「うむ、入室を許可する。」

失礼いたします、と、細身だが背の低い、額の広い男が入って来た。
身体の割に顔がでかく、ひどく大柄に見えてしまう。

「何事かね?」

「ご静養の所を、おじゃまして申し訳ございません。実は、帝国重工のことで少し話が。」

ジョセフは顔をしかめた。

「お前までそれか、さすがに困るぞ。」

ボストン・マーチンは、植民地大臣の懐刀(ふところがたな)とも言える筆頭秘書官である。 彼までいなくなっては、政策に支障をきたしかねない。

「いえ、閣下の憂鬱なお顔を見るのは私もつらいですし、
 私も自分を知っておりますので、ろくに状況も分からぬ東方の問題に、
 うかうかと首を突っ込むつもりはございません。」

誠意に満ちた声で、しかし前任者に対しては、しゃらっと辛辣な批評を下す。

「それより、閣下の溜飲を少しでも下げられればと、思いまして。」

何か良いアイディアがあるらしい、自分の溜飲を下げると聞いて、 ほお、とジョゼフは身を乗り出した。
ボストンが耳元で何か囁く。

「ほお…、ほお…、なるほど、それはいいな。」

にやりと、酷薄な笑みを浮かべ、ジョゼフはうなずいた。

「さすがボストン、大魔術師マーチンの血筋と噂されるだけはあるな。」

ボストンが迷惑そうな顔つきをする。このジョークは嫌いなのだ。 しかも『大魔術師マーチン』の前には『女好きで身を滅ぼした』の 下世話な伝承までついてくる。

だが、アーサー王の伝説の国で、この姓である以上、 先祖を恨む以外、対処の方法が無かった。

「これは、我が国の通貨が世界最強であるからこそ、通用するのですよ。」

彼が言うように、第一次世界大戦後にドルに取って代わられるまで、 大英帝国のポンドは世界最強の通貨であった。

この当時、ゾブリン金貨、ギニー金貨が1ポンドであり、 金貨と交換可能の金本位制通貨に、世界を一周する領土と植民地、 世界のどこでも、強力な金の魔力を使用できたのである。

宝飾品に使われるスターリングシルバーという言葉があるが、 これはイギリスの銀貨と同じ品位の銀(銀含有量92.5%)を表す言葉である。 それほど大英帝国の通貨のレベルは高く、その経済力は恐るべきものがあった。









≪日本の片隅で≫


大英帝国本国から、1万数千キロかなた。

極東と呼ばれる、小さな列島の国家「日本」。

ザアアア…

湿気を含んだ風が、雨を運んできた。
本格的な梅雨が始まる。

イリナ・ダインコードは、なついてくれている狼の子、 アールグレイを、優しく撫でた。

すくすくと成長する狼の子供は、人間の幼児程の大きさになり、 これから、さらに成長していく。

他の子狼たち、オレンジペコ、ダージリン、アッサムも、順調だった。 ちなみに、狼たちにこの名前をつけたのは、紅茶好きの“さゆり”嬢である。

「キュ〜〜ン」

イリナの、かすかな表情を感じ取ったのか、不安そうに泣いた。

「ああ、ごめんねアールグレイ、ちょっと考え事してたの。」

アールグレイを抱きしめ、あたたかい鼓動に、少しだけ安心する。

狼は家族をとても大事にする。
イリナの心配を、敏感に感じ取っているらしかった。

イリナの青い目と、アールグレイの茶色の目が、 しばらくじっと見つめ合っていた。

急に手から抜けると、

 オウッ

一声吼えた。

出口に、雨の中に、トコトコと歩き出す。
再び振り返り、また一声吼えた。

『行こうよ』

雨の中に濡れながら、じっとまっている。
イリナの青い目が見開かれ、そしてじわっと潤んだ。

「そうね、行きましょう。」


良い天気の時は30分の道のりも、 雨の時は1時間近くかかった。

清流は濁流と化し、かなり危険な場所もある。

アールグレイは、まだ子狼なのに、 恐れもせず、イリナのそばについて歩き続けた。

彼の祖先たちも、雨の中を歩き、あるいは森に潜み、 自然の荒神の行いを、黙って受け入れてきたのだろう。

レインコートの合間や、フードの隙間から、 冷たい雨が染み込んでくる。


だけど、彼は……。

ドドドドドドドド

もの凄まじい音が、大気を鳴らしている。

地響きがしそうな流れ、荒々しい音、 清冽だった滝は、凶悪な暴君と化して、 あらゆるものを流し、落とし、大地を削っていた。

水煙の中、風が一瞬それを払った。

滝壺のそばに、黒い濡れた姿がいた。

目を閉じ、雨と水しぶきに濡れ、じっと立ちはだかっていた。

孤独は、死にいたる病だという。
誰もいなくなった山、仲間も、あの娘もいない、誰もいない。
夜の風が耳に響き、雨のざわめきが耐えられなかった。

滝の、轟音と体が消えていきそうなしぶき、 その中で、夢の中に、ただ立っていた。
オヤジやオフクロがいた夜、仲間とじゃれあった昼、
追われ、次々と殺された夕暮れ、
たった一夜の、幻のごとき白い女、


そして、今、誰もいない。

今にも、身体は滝壺におちていきそうなめまいがあった。

滝の音が打ちのめす、雨が、突き刺さる。

夢が、そっと微笑んだ。
迎えが、きたのだ。オヤジやオフクロのところへ。

だが、冷え切った腕に、あたたかい肌が触れた。

ぼやけた眼が、黄色の鮮やかなフードに眩しい。

そして、幻は消えなかった。
優しい、青い目が、じっと見つめてくれていた。

目が、熱くなった。

ぼやけて、何かが、目からぼとぼとと落ちた。
オヤジやオフクロが死んだときだけ出たそれが、 少しも止ろうとしてくれなかった。
次の話
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