ダインコートのルージュ・その5 【美女と野獣:2】
≪ベルヘルネン・ダフィ≫
午後からフォトグラファー社の一行が、帝国重工を訪問した。
だが、その中にベルヘルネン・ダフィの姿が無かった。
イリナや風霧は、少し拍子抜けした。
帝国側が知らないことだが、
ベルヘルネンは、フォトグラファー社の記者が訪れる3か月前から、
すでに日本に入国していた。
慎重に、帝国重工の周囲を、最低1キロ以上離れて観察していた。
彼の視力は鷹並みで、それだけ離れても、人の顔ぐらい認識できる。
赤い癖のある髪と、大きな鼻、
眉の寄ったいかめしい顔。
彼には、帝国の警戒網を理解する知識は無い。
だが、首筋の毛がちりちりする危険な匂いを嗅いだ。
『踏み込めば、生きては出られない死地だな・・・。』
彼は15の歳から傭兵として過ごしていた。
ただ、19世紀の激動する世界に触れ、少しずつ意識を変えていった。
ある時、雇い主から奇妙な相談を受ける。
『特殊な爆薬の作り方を知る男を、こちらにさらう方法は無いか?』
しばらく首をひねっていたベルヘルネンは、
『さらうより、連れてきた方が簡単じゃないですか?』
方々を渡り歩いてきた彼は、その男がこき使われている主に、
しばらく雇われていたことがあった。
ちょっといい条件で誘えば、簡単に来るだろうと推測し、
説明を受けた主は、傭兵十人雇うより安上がりな事から、
やらせてみたところ、成功して大喜びした。
傭兵だからこそ、命は惜しいし、金も欲しい。
戦場に立たずにすむなら、それに越した事はないとも思っていた。
これに味を占めた彼は、同じような仕事を探し始め、
世界最初のヘッドハンター(人材引き抜き業者)になったのである。
ただし、この時代は21世紀より遥かに野蛮なため、
闘争、謀略は当たり前、血なまぐさい仕事も少なくなかった。
そして彼は、戦場は嫌いだが、戦闘は好きなのだ。
その長年磨き上げてきたカンが、激しい警戒を鳴らしている。
ベルヘルネンは、帝国重工に近づかない事を決めた。
バチカンの警護もしたことがある彼は、
つてから教会に泊まり込み、何度も資料をめくり、検討を続けた。
平和な交渉による引き抜きは、まず無理だろう。
帝国重工に働く人間たちは、
最下層の作業員や清掃係りまでも、恐ろしく元気で明るく、
不平や不満がまったく聞こえてこない。
欧州で、この手の人間たちに接触すれば、
差別、貧困、暴力、不潔、賄賂、病気、
不平や不満、不安が煮詰まり、
簡単に外へ、何でもぶちまけてしまう。
礼金など口実に過ぎず、それだけうっぷんが溜まっているものだ。
『どういう会社・・・いや本当に会社なのか?』
宗教団体ですら、これだけ希望と明るさに満ちた所は無い。
最下層からこれだけ慕われるなら、上層部は天国だろう。
彼の経験上、組織も建築物と同じで、
最下層が不安定になればなるほど、上も不安定になるものだ。
欧州の大会社や、財閥の最上部の連中ときたら、
他人にも、家族親族にすらも、一部の隙も見せぬようビリビリしている。
どれだけ贅沢ができようが、あれでは楽しさなどあるまい。
まあ、だからこそ自分のような悪党が楽しめるわけだが…。
次に、移動時の襲撃と誘拐だが、これも難しい。
どうもここは、専門の護衛集団がいるらしく、
社用による上層部の移動には、必ず危険な連中がついて回る。
『噂で聞いた、ニンジャという者だろうか・・・?』
超人的な能力を持ち、多人数相手に魔術のような力を振るう、
そういう集団がいると、文献には出ていたが。
バリッ
干し肉を、頑丈な歯が引きちぎる。
ゴクッ
ブドウの絞りかすから作る安物のブランデーが、
喉をかっと焼く。
「やっかいな連中だぜ…」
農地に適した場所も少なく、
大きな産業も無く、貧しく、寒いふるさと。
その味が、生きるために傭兵に出た日を思い出させる。
ニヤニヤと、悪党らしい笑いを浮かべた。
陽気で、残忍で、他人の命など気にもとめない顔だった。
彼はイギリス大使館へ行くと、
植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンの許可証を見せて、
日本の地図と、地域情報を集めた。
「小久保か…」
彼がつぶやいたのは、21世紀では富津市と呼ばれる場所、
房総半島の、東京湾の出入り口にあたり、
帝国重工のある幕張とは、東京湾をはさんだ向かいの地域になる。
開国のごたごたで、江戸防衛の拠点(砲台)が置かれ、
明治になってもその拡張を続けていたが、
関東大震災で水没する歴史と、
無意味な拠点に多額の予算を消費する愚を嫌って、
高野からの進言で、今は中止されていた。
その後は、忘れ去られたように静かな場所だ。
そして、一か月後、フォトグラファー社の一行は、
帝国重工を訪れたのだった。
≪罠≫
「お嬢さん、ちょっとよろしいですか?」
記者の筆記者の一人が、取材の合間、事務員の正木葉子に声をかけた。
かなり流暢な日本語だ。
「実は、趣味で山の写真に凝っていまして、
こう言う写真なんですが、どこかいい場所をご存知無いでしょうか?。」
白黒ながら、幻想的なまでの滝、水のしずく、山のいぶきが感じられる。
写真の裏には、その場所が細かに書かれていた。
それらは日本で写したものだった。
「わ〜、きれい…」
残念ながら、葉子はそういう場所はとんと知らなかった。
「そうかあ、残念です。でも、お友達でもし知ってる方がいましたら、
私の所へご連絡ください。」
そう言って、写真を置いて行った。
「これで、よろしかったのですか?」
帰りの船の中で、筆記者が記者に尋ねる。
「ああ、私らは言われたとおりにして置けばいいのだ。」
「しかし、何の意味があったんでしょうか?
『広報部の一番話好きそうな事務員に、話を振って写真を渡せ』って。」
ジロッと、記者が濃い茶色の目を向けた。
「いらぬことを詮索すると、帰る場所も無くなるぞ。」
「こんなきれいな場所が、小久保に?」
イリナは、写真を見て目を輝かせた。
正木葉子は、森林浴が趣味のイリナに写真を見せた。
こういう場所を一番知っていそうだからだ。
なるほど、房総半島は意外に山が多く、
小さな川が、数多く東京湾に流れ込んでいる。
しかも、防衛拠点作成の工事で道があり、
海からでも、滝へは歩いて30分ほどで行ける。
森林浴が趣味のイリナは、意外な盲点に大喜びだ。
「今度の日曜日は…うん天気もいいわ。」
すでに帝国重工では、無人気象観測機を使った天気予測もしている。
季節も5月、さわやかな日差しがイリナを誘っている。
「姉さんたちとイリアを誘って…あ、葉子さんも来ない?、気持ちいいと思うわよ。」
「いっ、いえ、あたしはいいわ。家族水入らずでいってらっしゃい。」
葉子はあわてて断った。
さすがに、美人四姉妹として名高い彼女たちと並んでは、
こちらが落ち込んでしまう。
その上、イリナの趣味を考えたら、絶対滝で脱がされる。
『それだけは、死んでもいやっ!』
こうして、イリナたちは、ベルヘルネンの周到な罠に落ちることになった。
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