■ EXIT
ダインコートのルージュ・その2


今日の予定を確認し、イリナは珍しく眉をしかめた。

「ドイツメルク社のブローゼン・バック氏かあ…」

ドイツメルクの営業部長で、一番の出世頭だが、 経歴を見ると、軍とのつながりが深いらしい。

本人の写真も、軍人時代を誇りにしているのか、 大尉の記章をつけた軍服姿を用いている。

恰幅もいい、少しいかついが鼻も高く、 かなりハンサムの部類に入る。
だが、イリナはこういう男性は好きになれない。

「わっ、今日の対談はこの方ですか?、すごいかっこいい〜。」

事務員の正木葉子が、本気でうらやましそうな顔をする。 どっちかといえば太め、しもぶくれの顔で、 決して美人ではないが、愛嬌は人一倍ある。

「欲しいならあげるわ。」

軽い口調の影に、チラッと牙が覗く。
葉子は、イリナが本気で不機嫌だと悟り、そそくさと席にもどった。

彼女はどちらかといえば軽めのお調子者だが、 人の気分や空気は、意外によく読める。

『ふむ・・・イリナさん、何で嫌いなのかな。
 そういえば、あの若さで大尉って、コネかな?。』

写真のブローゼンは、たしかに20代前半だろう。
そして、イリナの一番嫌いなタイプが、 コネで要領よくのし上がる人間だ。

要領がいいのは気にしないが、 努力もせずにコネで上がる人間は、彼女が最も嫌うところだ。

そういえば、あの写真、顔にキズ一つ無かった。
葉子は貧しい家の出なので、周りの子供は、 みんなキズだらけ、垢まみれ、鼻汁たらして笑ってた。

だが、顔にキズの無い子供といえば、 名主の息子や、名士の息子で、威張っていたのを思い出す。
ほぼ例外なく、『いやな奴』だった。

資料をめくると、軍の上級幹部に親戚が何人もいる。
軍に入って、殴られた痕も無いとなると、 階級は嘘ではないにしても、その経緯など怪しいものだ。

「私もいらないわ。」

葉子は小声でくすっと笑った。









「ほほう、写真で見るより何倍も美人だね。」

ブローゼンは、いきなり最悪の挨拶をしでかした。

彼女の美貌をほめるのはいいが、 まるで果物を鑑別するかのように、 イリナの顎に手を当てて、自分の方へ向けさせたのだ。

バッシイイイイイン!!

ものすごい音がして、 ブローゼンはイスと机を巻き込み、壁に叩きつけられた。

「この国で、婦女子の顔に手をかけるのが、
 どれほど失礼かご存じないようですね。」

イリナの小さな手の痕が、頬に青黒くくっきりと残り、 歯が2本ほど落ちていた。
イリナは小柄だが、彼女の身体機能に、 ブーツに仕掛けられた動力機構の力をプラスすると、 ヘビー級ボクサーのストレートに匹敵する破壊力が出せる。
(ただし、彼女の手もかなり痛むが)

「にゃ、にゃにをふるかああっ!」

それでも、タフネスさだけは、 身長が180あまり、筋肉も相当あるだけに、 何とか起き上がり、間の抜けた声をあげる。

「おっ、おっ、親父にもぶたれたことにゃいのにぃっ!」

錯乱したのか、イリナにつかみかかったとたん、 首が絞まった。

「ブローゼン殿、ここは日本です。
 わが国は、あなた方の植民地ではありません。」

風霧部長が、後ろから送襟絞(おくりえりじめ)で“軽く”締めていた。 身長差は10センチ、体重は20キロ以上違いそうだが、 まるで力を入れているように見えない。

ブローゼンの顔が赤から青、そして黒くなりかける。

「ひゃ、ひゃめれえええ。」

「この国の礼儀を、守っていただけますかな?」

必死に縦に首を振るブローゼンを、イスの上に放り出した。

チャリン、

ポケットの中身が飛び出し、硬貨が数枚落ちた。

「これは失礼。」

目の前に、分厚いドイツのニッケル貨が差し出され、 まるでオモチャのように、親指と人差し指の間で、ペキリと折れた。

もちろん、ブローゼンのプライドも完全にへし折れた。









「すいません、風霧部長・・・」

ブローゼンが恐怖に逃げ出したあと、 イリナはしゅんとなって謝った。

「いや、俺ももう少し速く気付くべきだった。  あの男、しばらく上海にいたらしいが、  シーナからの連絡で、そちらでの素行があまりに不評でな、  心配になって駆けつけてきたんだ。」

が、ニヤリと笑う。

「でないと、ブローゼンが殺されちまう。」

「ああっ、ひどおおおい!。・・・つうっ!」

反射的に上げようとした手が、ひどく痛んだ。

「ムチャをするからだ、ほれ。」

イリナの小さな手を取り、緊急キットで擬体保護のスプレーをかけ、 起用に包帯を巻いた。

擬体保護といっても、止血、消毒、炎症止め、再生促進、ダメージ軽減と、 人間にもそのまま使える万能薬だ。
もちろん、機密保持のため外部には絶対流せない21世紀技術だが。

イリナは幸せそうな顔をして、手当てを受けていた。

「それに、もうドイツとはあまり縁を作るべきじゃないしな。
 その点、ああいう阿呆を送り込んできた事だけは、  少しだけドイツメルクに感謝だ。」

風霧は、そう言って人の悪そうな笑いを浮かべた

シーナが連絡してきたブローゼンの上海での素行は、 とてもじゃないが、イリナに聞かせられるものではない。
植民地の人間は、もはや人間ではないらしい。
それに軍のバックがあるのだから、何とかに刃物だ。

『女など、手篭めにして連れ帰ればすむことだ』と、 ダインコートの姉妹やさゆり嬢の対策で、 ドイツメルク営業部長として、本気で言っていたらしい。

実際、彼女たちを連れ帰るために、 陸軍中将のおじのコネで、軍を動かしていた節も見られた。

ブローゼンと同時期に、 上海から、偽装の旅券で移動してきた20人がそれだ。

だが、動かしていたはずの手駒は、 一切痕跡を残さず、全部地上から消えうせている。

“あの”シーナを怒らせたのだから、無理も無いが、 さぞ愕然としていることだろう。 もちろん、偽装の旅券で入ってきた人間、 行方不明になっても、どこにも抗議の仕様が無い。

あとは、洗脳後に、アメリカにでも送り込むだけだ。


1890年に、ビスマルクが失脚した後は、 ドイツ帝国は、もはや坂道を転がり落ちる石だ。

ビスマルクがさんざん苦労した独露再保障条約をあっさり蹴り、 ロシアは、ドイツと敵対的なフランスと手を結ぶ。
これだけで、ドイツは2倍以上軍事に無理をする事になる。

とどめが、それに対抗するための、 シュリーフェン・プランと呼ばれる狂気のさただ。

多少でも軍事に知識がある人間なら、 『フランスを速攻で叩き潰した後、ロシアを叩き潰せばいい』 というプランの馬鹿馬鹿しさが、分かろうというものだ。
これを、『参謀総長』シュリーフェンが考え出すというのだから恐れ入る。

その結果、第一次大戦でぼろ負けし、 賠償金と植民地を取り上げられ、 落ち込んだドイツは、ヒットラーの出現に酔いしれた。 だが、その後の第二次大戦のありさまは、 シュリーフェン・プランとさほど変わらないのだから、 相当珍しい国だといえる。

「あれを見たとき、私も納得しました。
 ヒットラーは、あの国では珍しい人じゃないんだと…。」

風霧は、うんうんと首を振った。

「そう言えば、シーナが
 『あれは人生やり直した方が良い』と言ってたから、
 洗脳リストに上げておこう。
 アメリカ移民として一からやり直す方が、
 幸せというものだろう。」


それから2週間後、 突如『神の道に目覚めた』と言い出したブローゼン・バック氏は、 ドイツメルクを辞め、敬虔なカソリック神父見習いとなって、 アメリカへ渡ってしまった。

開拓村の神父見習いとして、真摯な毎日を送ったらしい。

笑いながら、風霧はイリナの手を取って、酒に誘った。
もちろん、イリナは喜んでつきあった。
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