■ EXIT
ダインコートのルージュ・その1


《序章》


ユーラシア大陸南東部、東洋あるいは東アジアと呼ばれる東の果て、 そのさらに海の向こうに、『日本』と呼ばれる小さな島国があった。


『日本』を除いた大陸南東部は、古代から覇権争いが激しく、 急膨張した大型の国が、数十年から数百年の勃興と滅亡を繰り返し、 脈絡も歴史もなく、次々と現れては消えていった。

18世紀から20世紀初頭は清国という国があった。
一時は欧米列強から、『眠れる獅子』というあだ名をもらい、 東洋はこの国が中心と見られていた。

だが、アヘン戦争で英国に負け、落ち目になっていた清国を、 『日本』という小さな島国が、 プロレスラー(清国)と子供(日本)ほどの国力差がありながら、 戦争で打ち負かしてしまった。

日清戦争とよばれたこの事件を境に、 『日本』という2000年を超える統一王朝の国が、 アジアで注目と警戒を集めるようになった。

清国は世界の列強から、完全に舐められ、 各国の植民地同様に、軍事、経済両面から侵攻を受けるようになった。

それでも、日本の戦力、経済力は欧米列強と比べれば、 “獅子の群れの前の子犬”に等しかった。

それはそうだろう。
300年の鎖国の後、農耕中心の身分社会から、 ようやく開国と近代国家への道を、 ありったけの人材と犠牲を払いながら歩み出したばかり。

餓えたピラニアよりも恐ろしい欧米列強に、 生きたまま貪り食われるような、清国の惨状を目の当たりにして、 日本政府も、統帥権を持つ明治天皇も、怖気をふるった。

無理に無理を重ねながら、なんとか国家としての独立と尊厳を守ろうと、 もがき苦しむ時代であった。


この時代、歴史における多少の偶然や幸運では、 後に中国を名乗る、米ソのバックがあった共産党の新興勢力と戦い、 米国他列強を相手に戦火を交え、矢折れ刀尽きるまで戦った歴史は、 ほとんど変えることすら不可能だっただろう。

それほどまでに、日本は貧しく、小さく、道の険しさは言語に絶した。

後世において、日本の過去を批難中傷する者は数知れ無いが、 その場に立たされれば、全員泣いてしゃがみ込むしかない。

『現実』は、極めて限られた選択肢しか無い事に愕然とする。 『時間』は、まばたきする程度の余裕しか無い事に恐れおののく。 そして『運命』は、確実な破滅か、確実な死か、確実な地獄だけが口を開けている。

人に、選択の道も余地も欠片もくれず、無情に火の中へ突き飛ばす。 それが世界、歴史というもの。


だが、それすら変えることができる夢と頭脳があったら?。 小さな野心、己の欲など笑い飛ばせるほどの、未来への希望があったら?。

奇跡が、調和と歴史を積み重ねてきた小さな国家に突如、芽吹こうとしていた。


《始まり・ダインコートの姉妹》


ある日突然に、日本の関東地区、 それもひなびたとすら言えない、無人に等しい海辺に、 恐ろしく巨大で、誰も見たことが無い、不思議な建造物が生まれた。

なぜそれがあるのか、何のために出来たのか、誰も説明ができなかった。

その中から、のちの日本すべてを大きく変える巨大組織『帝国重工』が誕生する。

いかなる歴史学者が調べても、 その誕生と成長期の記録は、一切見つけることができない。 ある瞬間から、突然それは誕生したのだった。


いくつもの部門、幅広い人脈、想像を超える逸材、ありえない科学技術、 『帝国重工』を調べた後世のあらゆる研究機関は、 あまりの難事に、ほぼすべてさじを投げ、 『奇跡』の一言で片づけるより他に手段を知らなかった。

ごく稀に、荒唐無稽な想像力で失笑を買うような意見もあったが、 実はそれが、真実に一番近いとは、神ならぬ人たちは知りようもなかった。

まさか、21世紀後半、世界大戦に巻き込まれた未来の日本から、1個艦隊が丸ごと、19世紀末に飛び込んできたなどと、 誰が想像できただろうか?


帝国重工の幅広い人脈の中には、外部から見れば奇妙な人間もいた。
良い例が、ダインコートの4姉妹である。

長女のシーナ・ダインコード嬢は、軍事部門の研究と実戦両面のスペシャリストであり、 ソフィア・ダインコート嬢は、兵器研究部門で名を上げ、 イリナ嬢とイリア嬢は広報部門、対外的な活動で注目を集めている。

彼女たちは流暢な日本語を話すが、銀色の髪に青い目、抜けるように白い肌といった、どこからどう見ても、白人種の女性なのだ。突然生まれた組織に、最初から異人種がいること自体、不思議と言うほかはない。

帝国重工の代表者、高野氏の説明によれば、300年ほど前に流れ着いた異国の一族の末裔で、日本人の血も混じっているのと、精神的には純日本人であるらしい。たしかに肌のきめ細やかさは、白人種の粗い肌とは比較にならぬほど美しい。

また、鼻筋はさほど高すぎず、愛らしい顔立ちで親しみやすい。

そう言ったわけで、美人ぞろいの上層部女性陣の中でも、ダインコートの姉妹はひときわ目立った。 中でも、最初に最も注目を集めたのが、広報部のイリナ嬢である。

帝国重工の目的の一つは、外貨の獲得であり、そのために海外の企業、特に欧米列強の企業とつながりを作るのは必須である。

日本の女性は、世界的に見ても肌と髪が美しく、非常に好感を得ているが、 やはり話しやすいのは同種の人間が好まれる。

特に話の分かる女性、仕事だけでなくプライベートでの付き合いも広い社交的な人間が、 つながりを作るためには必ず必要だ。

また、広報部門は企業の第二の戦場とまで呼ばれ、 売上の上下はもとより、未来におよぶブランドイメージの確立、 人材収集、世論の好悪にいたるまで、幅広く影響を及ぼす。

帝国重工の企業戦略において、 イリナの明るい笑顔と、なじみやすい白人種の姿は、 当時の日本国とは比較すらできないほどの、 巨大な財力を持つ欧米社会に入り込むには、必要不可欠と言える存在だった。


だが、広報部門にはもう一つの顔がある。 合法非合法を問わぬ情報収集、謀略、情報操作、すなわち諜報活動の最前線。



《平和な朝》


「ねーさん、ソフィア姉さん、起きてよ〜〜っ!」

イリナは白い頬を赤くして、やわらかい羽根布団を必死に引っ張るが、

「ん〜、あと5分…」

丸まったソフィアは、みの虫のように出てこない。

ごく普通の、まあ、多少しかたのない朝の光景のようだが、 実はこの姉妹、準高度AIと、高性能擬体なのである。

『AIが寝坊?!』

普通のSF論者が見たら、目を剥きそうな光景だが、 個性豊かな帝国重工の彼女たちには、そういう画一的論理は通用しない。

いや実際、困ったイリナが仕掛けた手だては、 ドアを開けて、うちわで味噌汁の香りを仰ぐという、 アナログも極まれりのゲリラ戦法。

「んあ…いいにおい…」

それにつられて、みの虫から出てきた、ぼさぼさ頭のソフィア・ダインコート。シーナは海外出張、イリアは遠方取材で留守中なのだ。

ちなみに、見かけは純血白人種のお二人だが、中身は純血日本人。 もちろん食事は和食党で、お味噌汁が美味しいと、その日は気分がいいそうである。

「んもー、昨日はまた徹夜したんでしょう。」

ぷんぷん怒りながらも、おいしそうに味噌汁を、 具4汁6ネギぱっぱ、見事な注ぎ方で置いてあげる。

「えへへへ、砲身計算に新メッキの効果が予想以上でね、  ナノサイズ積層構造メッキなら、1970年ぐらいまでは解析もムリ。  んは〜〜、おいしいいい。」

煮立てず、鼻をくすぐる味噌の香り、 これだけは、この時代に来てよかったと、毎朝痛感する二人。

何しろ、味噌は手作りが当たり前。 大豆からして、国産が当たり前、 半年や一年寝かせてじっくり自然の熟成が当たり前。

「ん〜〜、最高級品の味噌なんて、お給料じゃ買えないのに、  こんな香り10分の1も出ないもんね〜。」

もちろん、これは前にいた日本の超高級デパート最高級食品の話。

「ああ、煮干しだしがおいしい…。
 お米も、天日干しなのかな?。粒が立ってておいしいねえ。」

ちろっとジト目を送るイリナ。

「おいしいご飯に感謝するなら、それなりに早起きしてよね。」

なにしろ、ソフィアときたら、 寝ぐせぼさぼさの上に、ピンクの薄いネグリジェ姿。 可愛いフリルだが、ほとんどすけすけで、ライトグリーンの大胆な下着、 レースとハーフカットで、胸元とお尻がかなり強調されている。 どう見ても、朝食のさわやかな席には、刺激が強すぎる。

「いあ、それは…イリナにだけは言われたくない。」

よく似た愛らしい顔が、むっと眉を寄せる。

まっ白い大きなエプロン姿なのは良いとして、 下着の上に直接エプロンというのは、朝からあんましでないかい?。 しかも、下着が極薄白レースときているから、裸とあまり変わりない。 刺激の強さからいえば、イリナの方がもっとどぎつい。

たぶん、今の二人に囲まれた日には、食欲などどこかに飛んで行ってしまうだろう。

「だあってえ、熱いんだもの。ごはん炊いて、お味噌汁作って、お魚焼いて、 汗かいちゃうよお。」

「いや、キミはいつも、裸になる理由探してるでしょうが。
 今3月よ!
 それに、シャワーを浴びたとはいえ肌がつやつやすぎるって。
 首元のキスマークもどうにかしてほしいわ。」

 ボッ

痛いところを突かれ、イリナの顔が真っ赤になる。

「あ、あのね、昨日は写真撮影で遅くなっただけで、  別にロイゼンバック副頭取とは何でもなかったわよ!。」

「いや…別に来日中のロイズ銀行No2とのことなんか、聞いてはいませんけど?」

とまあ、ギャイギャイ言いながら、旺盛にご飯を食べていく。

30分後、

『魔法でも使ったのか?!』と突っ込みたくなる姿で、 二人は帝国重工の窓口に現れた。

きれいに整えられた髪は真珠に近い柔らかな銀色。 クリーム色の凛としたスーツを一部の隙もなく着こなし、 8センチのヒールが、二人の姿を鮮やかに際立たせる。

知的な細い眼鏡をかけたソフィアと、 かわいらしい白い花をつけたベレー帽を、ちょこんとかぶったイリナは、 あちこちから挨拶を投げかけられる。

「おはようございますソフィア、おはようございますイリナ。」

受付嬢の伊集院ツカサが、長い黒髪を揺らしてあいさつする。 人形のような整った顔立ちに、ほんのり赤い唇が鮮やかな美人だ。 彼女も準高度AIだが、同時に二人の友人でもある。

ツカサの唇に、いたずら猫のような笑いが浮かぶ。

「イリナ、広報部の方に電話が入ってましたよ。
ロイゼンバックさんという方から。」

呆れた顔をするソフィア。

「イリナ…今月まだ12日だってのに、4人目よ、4人目。」

ぽっと頬を染めて、あわてて反論するイリナ。

「だっ、だって私広報部なのよ、アポイントメントは当然でしょ。」

「朝から必死に電話をかけてくるような方が…ですか?」

ツカサがにっこり笑いながら、ぐさりと急所。 彼女、おしとやかそうに見えるが、これで結構容赦ない。 これ以上突っ込まれるのはやぶへびと、イリナはあわてて駆け出した。

「じゃ、じゃあ、広報部へいってきま〜す。」



《イリナ・ダインコートの一日》


広報部では、イリナの他準高度AIが3名、事務員としての女性が3名、 そして広報部部長の風霧隼人が忙しく動いていた。

「おう、イリナおはよう。ロイゼンバック氏から電報が届いてるぞ。」

にやりと笑って軽いウィンク。
ちょい悪オヤジというイメージの風霧勇人は、 日本人にも珍しいぐらい、鼻筋が高く掘りが深い。
ネクタイも、仕事を始めるとすぐ緩める癖がある。

もとは遊び人としても有名だったが、なぜか高野司令の親友である。

ちょっと顔を赤らめ、イリナはイヤホンを耳にはめて聞いた。

「この分なら、もうしばらくお付き合いしても良さそうですね。  もともとユダヤ系ロスチャイルドは、日本に差別意識が少ないですし。」

「うん、さすがにNo2だけの事はあるな、
 半分はこちらに伝わることを前提に話してるみたいだぞ。」

「半分…ですか?」

イリナがちょっと首をかしげた。
風霧は、くすくす笑った。

「あとの半分はな、『イリナ嬢はお付き合いしてる男性はいるのか?』  と聞かれたよ。」

「ひゅーひゅー、モテモテですね、イリナさん。」

事務員の正木葉子が、はすっぱな茶々を入れる。
あとの二人と、イリナの同僚たちは、クスクス笑っていた。

「はあ…」

朝からからかわれまくりで、いい加減うんざりしてくる。 しかし、資金力の小さい日本で、海外大資本とのつながりは、 欠かすことができない。

まして、ユダヤ系の資本は、これからかなり借りを作れる歴史がまちかまえている。

「さて、イリナさん。今日の予定なんですが…」

正木葉子が、ちょっとすまなそうに上目づかいで話しだす。

「え…?、また予定が増えたの?!」

いやな予感がして、イリナが声を上げた。 大正解だった。

「東京日美新聞が、どうしてもと11時からですね…」

「それは午後に回せない?、午前中の撮影は『活躍する女性たち』のパート2で、 私も楽しみにしてたのに。」

「そ、それが〜…」

イリナは思わず天を仰ぐ。 午後には、大阪毎度新聞と御調子月刊が図々しく割り込み、 時間が目いっぱい詰まってしまっていた。

何しろどこからどう見ても異国の女性、 それもとびっきりの美少女のイリナやイリアは、 興味本位とはいえ、マスコミ各社にとっては垂涎の的。

小難しい空虚な社説を並べたて、必ず売れ残っていた大日本朝夕新聞が、 トップに彼女の写真を一枚持ってきたとたん、午前中で完売してしまった珍事に、 今や、面会予約が奪い合い状態なのだ。

「ちょっ、ちょっと、午後4時から皇居前に集合なんですけどぉ」

半泣きのイリナに、朝霧部長がかわいい紙包みを渡した。

「まあ、がんばれ。」

えっ、と一瞬頬を染め、指輪とかネックレスとか期待したイリナだったが、 中に入っていたのは、海軍のレーション(戦闘食)。

つまり『時間が無いから、昼食は移動中にすませろ!』という意味。

「部長の鬼ぃぃぃぃ」









12時45分、ようやく東京日美新聞の取材を終え、 イリナは高速艇で東京へ向かった。

まだ道路も完備されていない明治の東京近郊では、 海路、水路の方が早い。 まして帝国重工の連絡艇は、安定航行を保ちながら最高45ノットという性能を誇る。

「んもう、部長ったら、ひどいんだから…」

かわいくブーたれながら、意外においしいレーションを、 パクパクと片づけるイリナ。

献立は、加熱加工のビーフシチューパックと、 シャクシャクした野菜のブロックバー(見かけによらず美味しい)、 香りのいい胚芽ビスケット、 前の日本では絶滅していたリンゴ「紅玉」のジャム、 紅茶のパックと砂糖とミルク、 あんみつの缶詰。

とまあ、意外なほど贅沢な内容。
鬼の朝霧部長も、かなり気を使ったようである。

「んもう、このぐらいじゃ、ごまかされないんだから…あ、おいしい。」

このあんみつの缶詰、 レーションのおやつでは、常に人気投票1位を譲らない逸品。
ふたを開けると、二段になった部分から、 とろりとしたあんこが出てきて、すごくおいしいのだ。

大柄な軍人用のレーションを、ぺろりとたいらげ、 潮風をたのしみながら、予定をチェックする。

各国大使館を急いで周り、 大阪毎度新聞と御調子月刊の取材も受けなければならない。

その後、皇居前に移動して、 明日のパーティの予定とチェックが必要だ。

各国大使とは、 帝国重工の広報部として、イリナの顔を知ってもらう。

意見交換をしやすくするためと、 それぞれの国の意向を聞いておくためだ。

もちろん、これからの歴史を知っている帝国、 歴史上での各国行動追跡は可能だが、 こちら(日本側)の変化が、 他の国の動向にも微妙に影響を及ぼしている。 常に、情報を集め、追跡しておく必要がある。

また、基本的に大使は全員男性なので、 女性にはどうしても甘くなる。 ましてやイリナは外観が白人種、会話はやりやすかった。

イリナは準高レベルAIなので、地上全ての言語は理解できるが、 表立っては、英語とオランダ語が少しできるという事にしている。

300年前に漂着した一族の末裔という説明は、 意外に広く知られていて、相手はイリナに興味を向ける。
口も軽くなるし、大使級の人間は最低4ヶ国語は話せるものだ。

他の言語が分からないと思えば、フランス語やラテン語で、 割と無防備に側近と会話をしたりしてくれる。

それに、幸いといっては何だが、 この時代では、盗聴に対する防御は無きに等しい。

各国大使館で、会談後、世界的に名高い薩摩焼の置物を送るのだが、 それらには、全部高性能の盗聴機が仕掛けられているから、 大使館内部の話は、ほとんど筒抜けになってくれる。

『前を大型船舶が横切ります。15分ほど止まります。』

4隻の捕鯨船らしい一団が、ゆっくり前を横切っていく。

横を見ると、小さな漁船から、 14,5才ぐらいの少年漁師が手をふっていた。 日焼けした愛嬌のある顔に、イリナもにこっと笑う。

「こんにちは」

少年はぎょっとした顔をした。

「こ、こ、こんちは。異人さん、言葉上手だなあ。」

高速船は、さほど大きくないので、 漁船と高さは、あまり離れていない。

「わたし、イリナって言うの、あなたは?」

「太助だよ、海彦太助。お姉ちゃんはどっからきたんだい?」

思わず苦笑するイリナ。

「私ねえ、日本生まれの日本育ちなの。
 見かけは少し違うけど、日本人なのよ。」

最初は驚いていた太助だが、人懐っこい性格らしく、 すぐにうちとけてきた。

「あ、そうだ。うめえ牡蠣がいっぱい取れたけど、食べねえか?」

藁で編んだ袋がいくつもあった。

「えっ、いいの?。」

「異人さんたちが、結構喜んで買うんだ。
 いっぱいあるから、一つあげるよ。」

よろこんだイリナは、ピョンと飛び移った。
タイトスカートとはいえ、なかなかの光景だろう。

イリナ自身は、高性能の擬体として人よりすぐれた運動能力があるが、 せいぜい2割増というところ。 だが、イリナのはいているブーツは、色々な仕掛けがあり、 靴底の変性と、ヒールに仕込まれた動力機構で、 動きをかなりサポートする。

長距離は無理だが、 100メートルダッシュなら、7秒を切れる。 その場で飛び上がると、助走無しで3メートルは軽い。

「うわっ、身が軽いなあ。」

ひらりと飛び移る、妖精のような姿に、 太助は大喜びで、潮の香りのする藁苞を渡した。

純朴な笑顔と性格、そして、 ゴツゴツした、あかぎれだらけの大きな手に、 イリナはじんときてしまう。

こういう一生懸命な人が、イリナは大好きなのだ。

「私はね、幕張の浜にある帝国重工という会社にいるの。
 人手はいつも足りないのよ。 
 何か仕事が欲しい時は、いつでもたずねてきてね。」

「へええ、あそこのおっきい建物かあ。」

再び飛び移るイリナに、太助はちぎれんばかりに手を振っていた。

この牡蠣がすごく上等なことが分かり、 帝国ホテルでの、明日のパーティに、 もう一品楽しみを加えることになった。

もちろん、太助は牡蠣の注文に大忙しだ。



イリナが全ての予定がおわったのは、6時すぎていた。

さすがに日も暮れ、 東京支社の夜勤室にでも泊まろうと思って、 皇居から15分ほどのそこへ向った。

 ワンワンワン

「どうしたんだ、メリィ。そんなに引っ張ると危ないぞ。」

犬の鳴き声とともに、聞いた事のある声がした。

毛のふさふさしたコリー犬と、 でっぷりと太った丸っこい姿が現れる。

「あらぁ、メリィじゃない。  それにロイゼンバックさんも、こんばんわ〜。」

動物好きのイリナは、興奮したメリィをわふっと抱きしめる。
イリナの香りに包まれ、嬉しさのあまり狂喜したメリィは、 ワフワフペロペロ、夢中でイリナの首や耳を嘗め回す、あまがみする、首をこすりつける。

彼女の首あたりに残ったキスマークは、メリィのだったのだ。

ロイゼンバックの勤めるロイズ銀行東京代理店は、 帝国重工東京支店から歩いても5分ぐらいの場所にある。史実と違ってこの時期にロイズ支店が出来たのは、帝国重工の影響と言えるであろう。 まだ、東京といえど都心部は小さく、外国人の動ける範囲は極めて小さい。
散歩をすれば、あちこちの外交官や大使に出会うことも珍しくない。

「こんばんわイリナ嬢、これこれメリィ、ご迷惑をかけるんじゃない。」

だが、イリナの方が抱っこしてすりすりしてるのだから、 さすがのご主人様でも、あまり言う事を聞いてくれない。 極めて礼儀正しい紳士のロイゼンバックは、困ってしまう。

「いえいえ、ちっとも迷惑じゃありませんよ〜。
 ロイゼンバックさん、今お帰りですか?。」

優雅な口ひげを緩ませ、紳士はにこりと笑った。

「日本は、極めていい成長を続けていますからな、  仕事がいくらでもありますよ。」

実際、日本に代理店を置くことを薦めたのは、 ロイゼンバック自身だったらしい。 見込み以上にいい成長を続けてくれる日本は、 これから、いい顧客に育ちそうで楽しみなのである。 男にとって、やりがいのある仕事ほど、素晴らしいものはない。

「そういえば、代理店を清国と日本どちらに置くか、  本店でずいぶん迷われたそうですね。」

帝国重工の早耳に、ロイゼンバックはちょっと驚いた。

「大英帝国大使のヒューバッハ子爵がおっしゃってましたわ。  『ロイゼンバックは犬を食べる国は嫌いだとごねた』とか。」

とたんにロイゼンバックは渋い顔になる。

「あいつめ、口の軽いのは変わらんな。」

なんでもロイゼンバックは、 ヒューバッハ子爵に経済学を教えていた時期があったそうである。 大英帝国の中ではジョークで通じるが、 よそで聞かれると、変に取られかねない。

ただ、彼がかなりの愛犬家であることは事実で、 純血ではないメリィを、とても可愛がっている事からも、 血統にこだわらない愛情が分かる。

「そういえば、メリィは狼の血が混じっていませんか?。」

コリーにしても、体格が大きく、牙も少し鋭い。
顔つきも鋭く、優しい甘えんぼな性格の割りには、怖がられやすい。 そのため、イリナのような抱きついて遊んでくれる人には、 メロメロになってしまうのだ。

「ほお、お分かりですか?。日本は狼をあまり嫌わないようですな。」

キリスト教徒は、大半が狼を悪魔の使いというイメージがあり、 かなり嫌うが、ロイゼンバックは大の犬好きで、ユダヤ人だ。 それに、狼を保護する帝国重工の奇矯な活動は、耳にしていた。

「古来、日本は多神教の国ですし、狼も山の神の眷属として、  生態系の調停者の地位を伝統的に認めていました。」

英語と日本語を交えた、彼に理解しやすい話し方で、 知的好奇心旺盛なロイゼンバックは、興味深げな顔をした。

「なかなか面白いお話ですな、  どうでしょう私の宿泊所で聞かせていただけませんかな?。」

この頃、日本は海外からの賓客を受け入れるために、 ホテルや迎賓館などを建設していた。

ロイズ銀行も、業務は国家や企業の外貨の借り入れや、 経済交渉のサポートが中心で、代理店で業務を行っている。 まだ小口金融向けの支店を作るつもりはない。 当然宿泊施設も、大臣や政務官、各国大使などの交渉を行うことがあるため、 こういうホテルの数室続きの部屋を借りていた。



ホテルの料理に飽きていたロイゼンバックは、 部屋の簡単なキッチンで、イリナが手早く作ってくれた、 「牡蠣のフライ」という珍奇な料理に舌鼓を打った。

意外に思われるかもしれないが、牡蠣をフライで食べるのは日本独特で、 明治初期に洋食で有名だった煉瓦亭が始まりと言われる。

レモンを絞り、かみしめると、 アツアツの汁が、口に弾ける感覚は、 美食になれたロイゼンバックも目を丸くした。

彼も秘蔵のワインの栓を抜き、この国の伝統文化について、 様々な話題に花を咲かせた。

特に狼を保護することで、生態系の他の種(サル、シカ、猪等)を調節し、 人間と共存しやすくするという思想は、新鮮な感動を与えた。

「面白い、私も色々な国を回りましたが、
 このように他の種族を大事にし、共存のための思考を行う民族は、
 ほとんどいません。」

少し酔ったロイゼンバックは、ふっと溜息をついた。

「あなた方のような民族が、もっと大勢いれば、我々ユダヤの民も、
 このような過酷な生き方をせずとも良かったのでしょうが・・・。」

経済活動において、ユダヤ人に優る者はいないと言われる。 ユダヤ人の苛烈な生き方は、反面滅亡との戦いそのものでもある。 国を持たぬ民のつらさは、 21世紀で滅びようとする国のために、必死に戦った記憶を持つイリナに、 ひどくリアルに伝わってきた。

だが、それを口にする訳にはいかない。

「私の先祖は、300年ほど前にこの国に漂着したと言われています。
 この国でなければ、私はこの世に生まれることもできなかったでしょう。
 そして私も含め、清国の現状を知る者は、みな国を失う事の恐ろしさを、
 どれだけかは知っていると思います。
 我が国は、小さくか弱い存在ですが、もし世界に負けず、
 育つことができたなら、この思想を広めたいと思っています。」

ロイゼンバックは、一息にグラスを空けた。

「もし、そうなれたら、どれほど素晴らしいことでしょうか・・・」

『もし、そうなれたら』かすかに苦い口調。

イリナは、英国・米国の中枢に接する彼の思考をある程度理解した。

いずれ、英国や米国は、この国を植民地化しようと行動する。
彼らにとっては、単なる決定事項であり予定行事にすぎない。

『豚は太らせてから食べる』ということわざがある。
今の日本、とくに帝国重工の活躍は、目覚ましいものがある。 各国に代理店を置き、そこに利益を与えながら、自分たちの利益も確保する。 その活動はすばらしく、黄色人種ながらあっぱれと言える。

だが、全部奪ってしまえば、全部自分たちの利益になるだけだ。
国土、国力が違いすぎる。

いずれ清国という巨大なステーキを切り取り、分けなければならない。 邪魔なロシアは、国こそ巨大だが、仕組みが古すぎてガタがきている。 内部分裂を起こさせれば、容易に抑えられるだろう。 そのためにも、橋頭保たる日本は、 多少の無理をしても、英国・米国ともに押さえておきたいと思っている。

彼にとって、この国の思想は夢であり、理想に近いものがあった。 だが一面、世界の中枢を知る者として、冷酷な現実と向き合わねばならない。

引き裂かれる彼の手に、そっとぬくもりがふれた。

優しく微笑むイリナと、心配そうな顔をする愛犬の目があった。



翌朝、まだ夜が明ける前に、イリナはホテルを出た。
朝一番の便で、会社へ戻るためだ。

一度だけ、振り返る。

『ロイゼンバックさん、いずれあなたたちには、より残酷な運命が降りかかります。
 歴史上でも類をみないほど非道で、無残な歴史が。
 それでもあなたたちは、それを乗り越えねばなりません。
 私たち日本人は、多くの間違いを起こしますが、
 人間としてあるべき道だけは誤らないよう、努力をするつもりです。』

夜明けの光が差した。
眩しげに見上げる、イリナ・ダインコートの一日が始まる。
次の話
前の話