■ EXIT
黒江大佐の憂鬱(番外):インターミッション1


その日、黒江大佐は海沿いの道を馬で疾走していた。

『騎兵将軍』の秋山大佐に誘われて、かつての趣味が再燃したというべきか。自分の馬を買い求め、近隣の農家に預けて世話を任せ、たまにこうして息抜きに早駆けするのが楽しみになっていた。
馬を所持するというのは二一世紀にあっては考えられない贅沢な(あるいは変わった)趣味であったが、明治の世にあってはごく当たり前。特に帝国重工のような大企業の幹部が、馬や馬車を持っているのはステータスとして当然な風潮であり、この時代に生きているという、ある種の「役得」を感じないではいられなかった。

頬に当たる風に心地良さを感じながら、無心に馬を駆るうちに何者かの視線を感じた。広がる畑には特に不審な人影は見あたらない。海上で小魚を漁る小舟もあるが、陸の騎走者に注意を払っている風な漁師は居ない。下校途中と思われる小学生の列を追い越したが、もちろんこの子供達ではない。

刈り草を荷車に満載して牽く農夫、これも違う。
家畜に食せる飼料とするのか、堆肥にするつもりなのか?
あるいは、(バイオエタノール燃料の原料として)帝国重工へ持ち込んで小銭を得る積もりなのかな?

そこまで思い至った時、視線の主から敵意を感じた。
殺意とまではいかないものの、明瞭な憎悪の感情。乗騎すらその気配を感じ取ったのか、走りを止め興奮気味にブルルンと嘶いた。

「落ち着け、ハヤテ号」
黒江は落ち着かせようと、馬の首を軽く撫でやる。
「ドゥドゥ」

街中では持ち歩くのが不便なので、いつもは使っていない背中の木製ホルスター中のブルームハンドル(箒の柄)に意識を巡らす。マウザー社のC-96拳銃は先年完成したばかりであるが、黒江の拳銃はもちろん転移後にドイツから購入した物ではない。二一世紀において、ネットオークションで落札したM712だ。
日本の銃刀法では国内へ持ち込めないシロモノだったが、アメリカ海兵隊の友人が預かってくれていた。
だが、艦隊が出撃する際に「俺は貴様の遺品なんか持っていたくないからな」と返されて、今も黒江の腰にある。二一世紀では貴重となっていた20発入りの予備弾倉も含めて弾数は70発あるが、はたしてこの敵意の主との戦いにどれほど役立つやら………

「大丈夫だ、何も心配要らないぞ」
黒江は自分自身をも落ち着けようと、なかなか興奮のおさまらないハヤテ号を宥め続けた。



ギィーコギィーコとギアの壊れたような音を出しながら自転車がやってきて雰囲気が変わった。
それまでの敵意がするりと消え、何か穏やかなものに見守れれているような感覚にとって変わったのである。

一瞬にして「気が抜けた」感じだ。

「どうかしたのか?」
自転車に乗ってきた真田准将が問いかける。

「あぁ、山がきれいだなぁと」
そう誤魔化して、問い返す。
「嫌な音がしてますが、壊れましたね」

「あぁ、社外品のボルトが1本、ネジ山が摩耗してチェーンが外れかけた」

「規格を緩めすぎたって事でしょうね」

「あぁ、コイツの性能を考えたら、規格を落として部品の参入業者を増やすよりも、一定以上の技術力を有する企業のみで競争させた方が良いだろうな」

真田は、競技仕様にしつらえている自転車を降り、サドルバッグから弁当箱を取りだすと、 「あぁ、腹減った」
と、握り飯を食べ始めた。


真田が乗ってきた自転車は、日本国を縦横に走る道路網が完成した暁に開催を予定している「日本縦断大自転車競争」で使われる競技用車両の試験車台である。
日本のモータリゼーションを加速させる準備として、国内道路網の整備を急ぐ必要があった。何しろ明治以前の日本の道路網は、一五世紀の南米インカ帝国のそれと大して違わないレベルだったのだ。いや、都市中心部が石畳で完全舗装されているインカに比べ負けていたとも言える。インカが騎乗と車輪を持たない文明だったことを考えれば、その情けなさが判るだろう。一方、ローマ帝国の遺産を受け継ぎ、近世に至る過程において、馬車の通る道を設営してきた欧州の道路事情は、自動車をいつでも受け入れられる条件が整っており、対抗するためには道路環境を整備しておかねばならない。そこで、新国道の整備を提唱し、その動機の一助とすべく、完成した道路を利用しての自転車競争を発案したのである。

集団で走る自転車を、別の自転車集団が競争で追い越していくには、それなりの広さの道路が必要であり、完成は数年は先になりそうであったが、帝国重工スタッフは「ツール・ド・フランス(史実では1903年第一回開催)よりも先に開こう!」を合い言葉に、道路建設に邁進していたのだ。 ただし、全路線の完全舗装と複車線化の完成は当分先のことであり、レースは片側一車線で舗装未完全の状態で行わなければならないだろうとは予想されていた。

「俺も喉が渇いたな」
黒江はそう言って、ハヤテ号を降り、鞍に付けた鞄から水筒を取り出そうとした……気配を感じた。
それまでの、漠然とした視線のようなものでは無く、明らかな存在の気配。

黒江が何をどれほど意識していたかは不明だが、真田が気付いた時には黒江はブルームハンドルを抜いて草むらに銃口を突きつけていた。

「盗み聞きされるのは嫌いでね。出てきてもらえないかな?」

だが、黒江が拳銃を向けている草むらは、人が隠れるには小さすぎた。真田がみたところ、どう見ても猫が一匹隠れられる位しかない。


「ミャア」

案の定というか、茂みの中から出てきたのは白い猫だった。
しかし、黒江は相手が猫であるにも関わらず、銃口を対象に狙い続ける。


「さすがですね。良くおわかりになりましたこと」

背後から女性の声がし、白猫は声の主に向かって駆け寄り、その肩に止まった。


猫に銃口を向け続けていた黒江は、その女性に銃を向けていることに気付き、銃口を下げた。しかし、警戒を解いては居ない。

「明日香さん。どうして、こんな所に?」

「黒江様と会って、お話ししたいことがございまして、機会を待っておりました」

「本社を訪ねて来られれば良かったのに」

「帝国重工本社ですか?あのような恐ろしい城砦に入って、
 無事に出てこられる自信はございませんわ」

「そりゃ、セキュリティは万全で、不審人物が入り込むのは無理ですが、
 明日香さんは知らない間柄じゃない。受付で、名乗って貰えば……」


「九条公爵家のご用ではございませんから」

そういう明日香の姿は、今まで黒江が見てきた、黒を基調として白いレースと朱色のリボンで飾りのついた九条公爵家のお仕着せでは無く、普段着らしき着物に割烹着という出で立ちである。

「では、『砂神一族』の者としての用事という事かな?」

「どうして、それを?」

「我らが高野総帥は、帝とも懇意にさせていただいている。そして、皇室はこの日本の怪異・心霊現象の総元締めでもある。あんな事件が頻発すれば、皇室を通してでも怪異の正体を探りたくなるのは当然だろう。それに、君が九条公爵家で働いているのも、節子嬢が皇室へ嫁ぐのを予見して、あらかじめ入り込んでおこうとの魂胆だろ?」

「判っていたのですか?」

「確証が無かったのと、動機が不明だったので対応が遅れていた。
 しかし、どうやら話が聞けそうだな」


「おいおい、黒江!何の話だ?こちらの女性は?」
話が見えない真田が、会話に割り込んできた。

「あぁ、こちらの女性は九条節子姫お付き侍女の明日香さん。そして、新国道建設現場で怪異現象を起こして工事の進捗を阻んでいる『砂神一族』でもあるようです」


「あ、あの『龍神様の祟り』だとか『山神様の祟り』だとか
 言って作業員が逃げ出すというアレか!」

そのような事件・怪異現象が各地の工事現場で発生しており、建設作業が滞る事態が、計画の発案者であり、最高責任者でもある真田の元にも報告されていた。そして、怪異現象についてならばと日本神道の監督官庁でもある皇室に高野総帥の伝で調査を依頼し、飛騨の山奥に住む『砂神一族』の存在を知らされていたのである。

空になっていた弁当箱を放り出して立ち上がった真田が、明日香嬢にゆっくりと近付いていく。

「どういう積もりで、あんな事件を起こしたのかは知らんが……」


「見てはいられなかったのです。
 私たちには、森の木々の悲鳴が聞こえるのです。
  山と湖が苦しみに泣き叫ぶ声も……」


「良くやってくれた。お礼を言うよ」

「はぁ??」



「新国道建設は日本の将来を担う重要な施策だが、日本に残されている貴重な自然を無駄に破壊して良いものではない!だから儂は、森林や湖沼に悪影響を及ぼさないように細心の注意を払って路線計画を練って練って、練り上げた。

ところが、怪異現象が起こったという現場からの報告には、儂が選び抜いた建設予定地とは違う場所が上げられていた。おかしいなと思って調べさせたら、地方官僚と工事の請負業者が結託して、勝手に路線を変更しておった。難工事が予想されるが、自然破壊が少なくて済むルートを選んで、それでも技術的には人手さえあればなんとか出来る工事を想定して予算を付けたのに、安易で労力の要らない、しかし山林を大きく損ねるルートに変えておったのだ。しかも、そのルートたるや急カーブがあって高速走行には適さないの、将来の交通量増加に備えての車線拡幅にも適さないの、およそ理想とはかけ離れた改竄がされとった。

差額を懐に入れる積もりだったのじゃろうが、明日香さんらが怪異現象を起こして工事を中断させてくれたので、こいつらの悪行が暴露され、なおかつ間違った工事をストップさせてくれた。被害が拡大せんうちに発覚したのは、砂神一族のおかげと言っても過言じゃない。有り難う」

寝る間も惜しんで作成した路線計画を無視されて、私腹を肥やす事業に改悪されたと知って真田は激怒していた。怪異事件の後に関連企業のトップと出先機関の責任者が東京へ呼びつけられ、腐敗官僚は内務省で、土建屋トップは帝国重工東京支社で、それぞれ新国道建設の意義とそれに携わる者の自覚を促すよう譴責・説諭されたのである。(官僚の方は、さらに公僕としての心得も諭されたことは言うまでもない。)

当然ながら、説諭が利いて改悛の情が見られるかは深層心理探査によって確認され、反省の色が見えない対象については、本当に『心を入れ替えてもらう』事になった。


叱責されると思い込んでいた相手に意外な感謝をされ、ちょっと呆然としている明日香嬢の両手を包み込むように握り、謝辞を述べながら上下に揺する真田の姿は、まるで孫でも褒めている祖父のようである。


一気に打ち解けたような邂逅となったが、黒江は先に感じた敵意を忘れてはいなかった。
とりあえず、マウザーには安全装置を掛けてホルスターにしまうが、警戒の念は消せない。

「みぎゃぁ」
白猫がその意識を感じ取り、警告の声を上げる。
明日香嬢も真田の手をふりほどき、黒江に対した。

「黒江様、帝国重工が日本全国において推し進めている道路の建設計画について、
 ご相談したくまかり越しました。しかし、その前にひとつ確認したい点がございます。」

「道路建設計画についてなら、ちょうど良かったな。
 紹介が遅れたが、こちらの真田准将。
 先ほど彼が自分で言っていたように、道路建設計画の重要責任者だ」

「真田忠通だ。相談とは何かな?」


「ご相談の前に確認したいことがあります。一体あなた方は、何者なのですか?『古来より天皇家を陰ながら支えてきた一族の末裔』などという絵空事は無しでご返答ください。どんな山深い里に隠れ住んでいようとも、山の木々そのものから隠れることは不可能です。そのような一族が居ないことは、砂神一族でも確認済みです」

「それは……」
答えようとして、黒江は口ごもった。この娘に中途半端な嘘は通用すまい。


代わりに応えたのは真田だった。
「明日香さん、あなたに嘘はつくまい。
儂らの一族は、およそ百七十年ほど前に、『この日本』を離れ、世界のどこでも無い、異なる世界に行っていた。そこは今の欧米列強よりもはるかに科学や技術が発達した世界で、儂らはその技術を学び、そこで概ね平和に暮らしていた。しかし、巨大な災厄が訪れて、その世界全体を滅ぼしてしまった。生き残った儂らが、どうやってこの国に戻って来られたのかは、良く判らぬ。
だが、儂らは、あの世界に居た時も、ふるさと日本の山野を麗しいと思っておったし、この日本に帰り着いて、田んぼに朱鷺が舞い降りる姿を見たときほど感動したことは無かった」
喋っているうちにその時の状況を思い出したのか、真田の目に涙が光っている。


「まるで、おとぎ話を聞くようですね。浦島太郎みたい。
 それに朱鷺って、生臭いからあまり好きになれませんね。滋養はつくそうなのですが」

しかし、明治人の明日香嬢には、あまり朱鷺を有り難がる風もない。

「真田様のお話が真実か否かを判断する力を、この明日香は持っておりません。しかし、真田様や黒江様が、日本の国土を、少なくともこの房総の山野と東京湾の海浜を美しく思い、愛し、大切にしたいと願われていることは判ります」


「どうして、判る?」


「風が教えてくれました」
さも、当たり前のように明日香が応える。
「あなた方の出自に関しては、そのお話を信じることにします。黒江様はともかく、真田様が嘘をおっしゃっているようには見えません」

「確かに俺は、カウンターインテリジェンスなんて他人をいかに騙すかを商売にしてるみたいなもんだからな。政治家やってる高野総帥に比べりゃ、まだ軽いもんだろうが」


転がっていた弁当箱を拾い上げ、それを包んでいたハンカチで目頭を拭うと、真田が明日香嬢の前に戻る。

「さて、新国道建設についての相談とはなにごとかな?
 儂の計画を台無しにしかけた不埒者の存在を教えてくれた礼に、
 出来るかぎり応えるぞ」


「では、全ての道路の建設を今すぐ中止してください」


「それは、無理だな」
真田は一蹴した。

「何故です?あの新しい道路は、日本中の山野に自働車というまがまがしい機械をはびこらせる恐ろしい道となります。たとえ一条たりとも、山中に通したくはありません」


明日香の返答を聞いて、黒江は敵意の正体に気付いた。明日香嬢は自働車を根源から嫌悪している。それは前世日本における自動車公害と自然破壊の歴史を知る者としては理解できた。農夫が運んでいた刈り草は帝国重工へ運ばれ、彼女が厭う自働車の燃料となるのだろう。



「この美しい日本を守りたいという気持ちは、儂らも同じだ。だが、日本の国力を増し、欧米列強の侵略に対抗できる国力を持たなければ、日本は外国の植民地にされ、自由を失う。明日香さんたち砂神一族が守りたいと願っているこの麗しき大自然も、インドやシナのように、勝手に切り取られ奪われてしまう」

「国力?強力な兵器や軍隊を作るのですか?」

「いや、そんな事はしない。儂らが前にいた世界では百年ほど前に、地上に太陽を出現させて山を吹き飛ばし、街を焼き尽くし、田畑や湖沼に猛毒を撒き散らす、悪魔の兵器が開発された。そして、それを使おうと思えば、儂らもそれを使える。だが、世界を焼き滅ぼし、瓦礫の世界の王として君臨して何になろうか。儂らが望むのは、豊かになった日本の力で、子供に壮健な肉体をはぐくむために必要な栄養を与え、正しい道徳を教え、充分な教育を受けさせること。そして、彼らに、世界中の情報を知らしめ、より正しい判断を促し、その上で『わが誇るべき国』と認識できるような、そういう国作りをしたいだけだ」

「国力を上げるためには、道が絶対に必要なのですか?」

「必要だとも。鉄道と、港湾施設、そして道路網は国家にとって、大動脈と毛細血管のようなもので、無くてはならない存在だ。
明日香さん、ヒトとケモノの違い。ヒトは田畑を耕し、家を建て、火をおこして煮炊きをし、家畜を飼って使役する。しかし、野性の鳥獣は、そこにある物をただ食べるだけの生活をしている。何故、違いがあるのか判るかね?」

「真田様は『神様が、そうお作りになった』とは、お考えになっては居ないようですね」 いきなりな質問に戸惑いながら答える。

「四十年前にイギリスの博物学者ダーウィンは、進化論という本を著したが、それによると、人間もケモノと同じ祖先から産まれ、ヒトへと進化してきたと考えられるらしい。その中間にはやはり四十年ほど前にドイツで発見されたネアンデルタール人のような原人も居た。だが、彼らはヒトへと進化せず、人間との競争に敗れたのか姿を消してしまった」

「ヒトよりも劣っていたのですか?」

「賢さの指標になりそうな頭蓋容量、要するに脳みその大きさは彼らの方が勝っていた。手先の器用さも似たようなものだった。おそらく家族/部族内では会話もし、食事に火も利用していた。だが、彼らは交易の概念を持たなかった」

「交易?農耕や牧畜はしていなかったのですか?」

「人類は、農耕・牧畜を始めて生活物資に余裕が出来たので商売を始めたのじゃない。物々交換だが交易を始めることによって生活に余力を得て、農業を始められるようになったのだ」

「にわかには信じがたい話ですわ」

「だが、狩猟採取をしていた時代の遺構から何百キロメートルも離れた土地でしか採取されない黒曜石のナイフが発見され、内陸の奥地で海でしか採れない貝殻を使った装飾品の遺物が見つかったりしている。貝の腕輪は、部族の長一族が移動しながら代々伝えて来たと解釈もできるが、黒曜石のナイフは使えば減る消耗品だ。何百キロも代々伝えて移動する間にすり減って無くなってしまうだろう。おそらくはまだ、専門の商人は居なかっただろうが、交易品として別の部族から別の部族へと渡されて、最終的な持ち主の手に渡ったものだろう」

「人が歩いて、ですよね。その程度の道を開くことを、私たちは拒んでいるわけではありません」

「ヒトの力が、交易によって増大したことを理解してもらえれば良い。交易、すなわち分業と専門化が人類の持つ力を増大させ、その規模をより大きくすることで、さらに力を増した。英国は、国内に鉄道網を引き、国力を結集して産業革命を成し遂げ、世界の一等国に躍り出て、さらには軍事力をもって遠くアジアの地にまで植民地を建設し、航路を開いて交易を広め、ますます国威を高めて世界を支配しようとしている。それに対抗する力を、我らも得なければならん。徳川幕府が鎖国を命じた時とは時代が違うのだよ」

「自給自足で慎ましやかに生きるという選択肢は無いのですか?」

「昨日と同じ明日が来ると考えて、何の向上心も持たず、安穏と暮らすにしても、今の時代は危険すぎる。ましてや、より良い社会を目指すなら……「楽して暮らしたい」とか「享楽にふけりたい」なんていう不徳なものでなく「祖父母に長生きしてもらいたい」「子供たちに腹一杯くわせてやりたい」という願いを叶えるための社会を作ろうとするなら、平和な時代であっても、自給自足経済は、遠からず破綻する」

「何故?皆が勤勉に働けば良いのでは」

「効率の問題だ。百人の胃袋を満たす食材があるとしよう。一人ずつにそれぞれ鍋と薪を渡し食材を分け与えて料理させる。それに対して、百人用の大きな鍋を使い、百人分の食材を一度に煮炊きして皆に配膳する。大きな1個の鍋と百個の鍋、煮炊きをするのに必要な薪の数、全体で比べるとどちらが少なくて済むだろう?」

「大鍋で炊く方が、少しはお得かもしれませんけど……。多少ですよ」

「もう一点考えて。百人用の鍋で煮炊きするのに、何人がかりで働く必要がある?」

「それは、十人以上が要るでしょう!」

「そう、残りの八十余名はその間、他の仕事に就くことができる」

「そっ、それが道路とどんな関係が?」

「百人の中には、炊事が得意な者もいれば、まるっきりな者もいる。百人がそれぞれ煮炊きしていたら、調理に失敗して食材と薪を無駄にすることもあろう。だが、明日香さんのように選りすぐりの料理人が担当すれば、失敗することはあり得ん。炊事は彼らに任せて他の者は、鍋釜を作ったり、薪を拾ってきたり、食材を集めてきたりと、他のことが出来る。皆はそれぞれ、苦手なことは得意な者に任せ、己に適した仕事をすれば良い。これが『分業と専門化』だ。他の仕事をしている者も食事の時には、皆のところに戻る。そのための道路とクルマだ」

「あなたたちのやろうとしていることが少し理解できた気がします。しかし、それ故にその考えを恐ろしくも思えるのです」


そこで黒江が口を挟んだ。
「道路網や鉄道などの交通施設を整備せずに、国力増進に邁進した場合、どうなるか考えてみるかね。大工場を作るのではなく、小さな小さな製鉄所を日本中の村々にそれぞれ作って、村で使う農具や厨房道具を自給自足させ、なおかつ「飢饉に備えて農作物の収穫を増やそう」とか「急病人が出るのに備えて薬を買い置きしておいて、村の誰かを都会にやって医術を学ばせよう」とかの向上心を持って働いた場合」

「どうなるとお考えですの?」

「前に俺たちが居た世界で似た実例がある。ある馬鹿な王が、街の大工場だけでなく、地方の村々でも鉄を作るように命令を下した。さんざんな結果になったよ。村人達は鉄を増産するために木炭を必要とし、その炭を焼くために村近隣の樹木は全て伐採され、全国土は禿げ山と化した」

「なんといたわしいことか」

「この『大躍進政策』の結果、国土は荒れ、農業の不振と経済の乱れにより、その国では2億人が飢えて死んだという」

「愚かな……」


「まぁ、そんな訳で明日香さん。鉄道網、港湾、道路網の整備により、労働力、原料、製品を必要なときに必要な場所へきちんと送り届ける。それこそが、健全な経済発展の唯一の方法なのだと理解してくれたまえ。
儂らだって、この朱鷺の舞う美しい日本の自然を傷つけたくない。だが、世界はそれほど甘くはないのだ」


「程度の問題なんだよ」
泣き出しそうになった真田の話を黒江が継ぐ。

「幕府の鎖国政策と大名による地方の分割統治により、日本の国力は顕在化されずにあった。諸外国に比べて麻痺に近い状態だったとすら言える。これを解きほぐし経済を活性化させるには、体力の衰えた病人に滋養のあるものを食べさせて、健康を取り戻させるようにするしかない。猟師が身重の女房に精を付けさせてやりたくて朱鷺を撃つのを、君だって止めようとは思わないだろ。俺たちの仕事は、百万羽の朱鷺を撃ち殺して日本中から絶滅させることじゃない。むしろ、誰かにそんなことをさせないように準備をしているだけなんだ」


しばし考えて明日香嬢は答えた。
「私の一存では決めかねる事です。長老には今のお話を伝えましょう。
しかし、その前にもう一点だけ教えて頂きたい事があります」


「何だね?」


「帝国重工に居る、あの人の形を模した娘たち。あの人ならざるものたちは何者でしょうか?」
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