帝国戦記 第五章 第03話 『地中海戦略』
1912年 04月15日 月曜日
イギリス帝国の蒸気客船タイタニック号が北大西洋航路を処女航海中、氷山への衝突によって沈没する。史実と異なりフランス国籍の大型商船が近くを航行しており人的被害は最小限に留まっていた。
1912年 05月15日 水曜日
日本帝国に於いて皇室典範が改変となる。
改変部分を要約すると、今上天皇が55歳を超え健康上に於いて重大な理由があれば皇族会議の了承の下、皇位継承に基づいた範囲に限り譲位が可能になるものだった。
1912年 06月07日 金曜日
日本国銀行は帝国銀行の協力の下で、1908年7月に始まった新紙幣変更に続いて、偽造対策を施した新貨幣への交換を開始する。 こちらも潜像を始めとした特殊技術が多用されており、他国の技術では偽造不可能なものとなったのだ。
1912年 07月30日 火曜日
健康上の都合により明治天皇が退位。
皇太子嘉仁親王に譲位が行われ、日本圏に於ける年号を大正と改元となる。
1912年 08月11日 日曜日
都市開発事業部によって1906年8月から行われていた青森県から北海道を繋ぐ交通機関用としての青函トンネルが完成。 同日、北海道の宗谷岬から約42km離れている樺太(サハリン)のクリリオン岬(西能登呂岬)を繋ぐ交通機関用トンネルの建設計画が始まる。
1912年 09月24日 火曜日
日本帝国軍に於いて周辺諸国及び外縁部分(リムランド)理論が提唱される。
1912年 10月16日 水曜日
日仏の仲介によって伊土戦争の和平交渉がスイスのローザンヌで進む中、ブルガリア王国、セルビア王国、ギリシャ王国、モンテネグロ王国の4ヶ国の間で締結されていたバルカン同盟が対オスマン戦争に向けて動き出していた。このような政治情勢の要因となったのは条約間戦争とイギリス帝国の暗躍が大きい。この世界ではロシア帝国は条約間戦争で余力を失い、バルカン半島に対する積極的な介入を止めていたが、その隙に乗じたのが老獪なイギリス帝国だったのだ。世界帝国から繰り出される手腕は並ではなく、巧みにバルカン諸国の感情と領土欲を刺激している。このやり口はオスマン帝国の弱体化を影から進めてきたイギリス帝国らしい戦略と言えるだろう。
そして、バルカン同盟に於けるイギリス帝国の戦略目的は4つに分類できる。
バルカン半島で増すオーストリア帝国の勢力を抑制し、周辺地域に親英国を増やして再び起こるだろうロシア帝国の南下を未然に防ぐ。艦隊戦力拡張に必要不可欠な新鋭艦の建造の為に兵器売却を促進する事だ。
過去よりバルカン方面の進出に意欲を見せていたロシア帝国はイギリス帝国の行いに不信感を募らせるも、フランス共和国からの投資減少に伴う国家財政の悪化に伴って傍観するしかなかった。 すでに10月13日にはバルカン同盟からオスマン帝国に対して到底承諾できないような最後通牒が送られており、軍事衝突は時間の問題になっている。 バルカン同盟がここまでの行動を行うのは大枠に於いて史実の状況と変わりない。すなわちイギリス帝国の暗黙の了解に加えて、伊土戦争に於いてオスマン帝国の弱体が明らかになった事が2大要素として挙げられるだろう。
このような情勢下に於いて、明日に予定されているバルカン同盟によるオスマン帝国に対する宣戦布告に備えてバルカン同盟軍の中でもっとも有力な海軍力を有するギリシャ海軍が商船を避けるように動いていた。ダーダネルス海峡封鎖を主目的とした、パヴロス・クンドゥリオティス少将率いる艦隊である。
装甲巡洋艦
「イェロギオフ・アヴェロフ」
戦艦
「コントゥリオティス」
海防戦艦 「イドラ」「スペツェス」「プサラ」
駆逐艦
「エートス」「エラックス」「パンテル」「レオン」
貨物船
「ケンタウリ」「イオニア」「レダ・グリファダ」
小国にしてはかなりの艦隊戦力と誇ってよいだろう。これらはギリシャ国王のゲオルギオス1世によって1868年から推し進められてきた海軍拡張の成果であったのだ。3隻の貨物船には島の制圧に欠かせない陸軍の兵士が乗船していた。
ただし、貨物船を除けばギリシャ国内で作られた艦艇は一隻も含まれていない。
コントゥリオティスはイギリスから昨年購入していたロイヤル・サブリン級戦艦フッドを改装した戦艦であり、1911年の竣工したばかりの新鋭駆逐艦であるエートス級駆逐艦もイギリス製である。装甲巡洋艦のイェロギオフ・アヴェロフはイタリア製、海防戦艦「イドラ」「スペツェス」「プサラ」はフランス製だった。
ギリシャの名誉の為に記述するが、戦闘艦、特に主力艦艇のような船の国産は技術及びコスト面から非常に難しいものになる。故に輸入によって補うのは特別珍しいものではなかった。
日本帝国のように明治維新から半世紀にも満たない期間で国産戦艦を建造するのは凄まじいと言えるだろう。この世界の日本帝国がどれだけ高い評価を受けているかが、それだけでも判る。
ギリシャ艦隊の旗艦を務めている装甲巡洋艦「イェロギオフ・アヴェロフ」の艦橋で、参謀がパヴロス少将の質問に対する返答を行っていた。
「4日前の最新の情報によりますと、
各島に展開しているオスマン軍は200人にも満たない小規模なものです」
「問題はオスマン帝国海軍の動向か…
拠点を得る前にダーダネルス海峡から出てこられると少し厄介だな」
「はい」
衰えたとはいえオスマン帝国海軍の規模はそれなりのものだ。何しろドイツ帝国が2年前から軍事支援を行っており、ブランデンブルク級戦艦「バルバロス・ハイレッディン」「トゥルグート・レイス」の2隻に続いてムアヴェネティ・ミッリイェ級駆逐艦、S90級水雷艇などの艦艇を売却している。
ギリシャ海軍にとってもっとも厄介な戦力だったのが、マルマラ海と黒海を繋ぐボスポラス海峡の西南の出口に位置する天然の良港になっているハリチュを拠点に活動するオスマン帝国海軍の主力艦隊だ。
すなわちベィラミズ・ベイ少将率いる、
戦艦
「バルバロス・ハイレッディン」「トゥルグート・レイス」
装甲艦
「アーサール・テヴフィク」「フェトヒ・ビュレント」
駆逐艦
「モービィッツ」「ニミリィヤ」「ヤビジャ」「ミレー」
「タソス」「バスラ」
砲艦
「ノル・イマルス」「ヨズガット」「マァルマリス」「タシィカァプ」
「ニーシィヒル」「マラァティア」「ドン」「イジィヅゥ」
からなるオスマン帝国海軍第一艦隊である。2隻の戦艦は旧式かつ鈍足だったが、それでも決して侮れる存在ではなかった。 またオスマン帝国海軍第一艦隊だけならば現在のギリシャ海軍ならば優位に立てていたが、オスマン帝国海軍の戦力はそれだけに留まらない。
エーゲ海とマルマラ海を結ぶ細長い海峡であるダーダネルス海峡にあるダーダネルス要塞にはラムシ・ベイ大佐率いる装甲艦「ムカッデメイ・ハユル」「オルハニイェ」「マフムディイェ」「アジィズェ」、防護巡洋艦「メジディイェ」、駆逐艦「ムアーヴェネティ・ミッリイェ」「ガイレティ・ワターニイェ」、砲艦「ファド」「ガルタ」「シュレイヤー」「アーツゥール」「シェウルゥ」水雷艇計8隻からなるオスマン帝国海軍第二艦隊が展開している。
そして、マルマラ海東部、カラミュルセルのイズミット湾にはフセイン・ウフオル・ベイ大佐率いるオスマン帝国海軍第三艦隊、防護巡洋艦「トゥルグート・シルフィ」、水雷艇8隻が存在し、更には伊土戦争で防護巡洋艦「ハミディェ」を用いた通商破壊戦で活躍し、ハミディエ・カフラマ(ハミディェの英雄)と称えられたラウフ・オルバイ大佐が率いる防護巡洋艦「ハミディェ」、駆逐艦「ヌムーネイ・ハミイェト」「ヤーディギャール・ミッレト」からなる遊撃部隊(バァースクゥン・フィロ)が控えていたのだ。
たとえダーダネルス海峡を突破してオスマン艦隊を各個撃破しようにも、ダーダネルス海峡にはエルトゥルル要塞、オルハニイェ要塞の両要塞の存在とダーダネルス海峡交通の要所であるチャナッカレの海峡幅が1.2kmまで細くなる地点にはキリトバヒール要塞とチメンリック要塞の2要塞がそれぞれ対岸に存在しており、容易に進入する事が適わない程の布陣になっている。
オスマン帝国海軍の総力で向かわれては、イギリス帝国の援助の下で比較的新しい艦艇で運用し十分な訓練を受けていたギリシャ海軍といっても苦戦は免れない規模だ。
「本国より電報です」
通信兵からパヴロス少将を受け取ると満足した表情を浮かべる。
「オスマン艦隊はダーダネルス海峡から出ていないようだ」
「では!」
「予定通りにまずは重要拠点であるリムノス島の制圧を行うぞ」
ギリシャ艦隊の最初の目標となったエーゲ海北部にあるオスマン・トルコ帝国領リムノス島。面積は約477km2とかなり広い地中海性気候に属しているこの島の気候は、冬は通常穏やかで、秋には強風が吹くのが特徴である。リムノス島はダーダネルス海峡と50kmと近距離で向き合っており、ギリシャ海軍にとってエーゲ海の戦略上重要な位置として見られていた。確かにエーゲ海の要衝であったがオスマン帝国軍にとっては事情が違っており、リムノス島には要塞どころか主要な軍事施設すら設けられてない。この事から、ギリシャ軍とオスマン帝国軍の認識の違いが伺える島でもあった。
ただし、ギリシャ海軍にとって猶予すべき情報がある。
昨年末に伊土戦争で苦戦するオスマン帝国の境遇に対して日本国はオスマン帝国への同情が集まり、その結果集められた寄付金によってフランスから防護巡洋艦ジュリアン・ド・ラ・グラヴィエールの買い付けが進められていたのは有名な話だった。そして、その話題の防護巡洋艦が2.3ヶ月中にはオスマンに向かうという情報があったので、ギリシャ海軍としては注目せざるをえない。この防護巡洋艦は1903年に竣工していたにも関わらず、副砲を廃して主砲は45口径164mm砲に統一しており、後は水雷艇迎撃用の47mm機関砲10基とオチキス37mm回転式機関砲6基、45cm水中魚雷発射管単装2基に限定されている一世代進んだ設計思想になっていたので油断の出来ない戦力だった事も大きい。
ジュリアン・ド・ラ・グラヴィエールは防護巡洋艦の中でも新しい部類に入る艦艇であり、地中海を限定すれば戦力価値は十分といえる水準を保っている存在だ。しかし、ラペレール大将を始めとしたフランス海軍では条約間戦争での戦訓から装甲巡洋艦と防護巡洋艦の戦力価値と将来性に大きな疑問を感じていた事もあって、今回の申し出を新造艦取得に向けた予算確保の絶好の機会として判断していた事が、このような売却が実現している。
また、寄付金とあったがその実態は帝国重工のイリナを始めとした開放派と1892年からオスマン帝国の首都イスタンブルに滞在していた実業家の山田宗有(やまだ そうゆう)が主に出し合って捻出していた。山田はオスマン帝国のフリゲート「エルトゥールル」が紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難した際に募金運動を起こし、日本とトルコの友好親善の礎を築いた人物だ。エルトゥールル号遭難事件と相まって、この軍艦寄贈は親日感情の向上に繋がっていくことになる。
そして、今回の戦争、後に第一次バルカン戦争と呼ばれる戦争に於けるギリシャ王国の役目はサロニカからガリポリ半島の海上輸送を妨害してトラキア方面へのオスマン軍の増援部隊の展開を阻害する事にあった。真っ先にリムノス島を狙うのもダーダネルス海峡の監視と前進基地を設けるに適しているのが理由だ。
だがリムノス島の戦略的な価値をよく理解していたのはギリシャ海軍だけではない。
日本国防軍も地中海方面に於ける拠点として有力な拠点として理解していたので帝国重工は2億円でリムノス島を購入するべくオスマン帝国との秘密協議を前々から水面下で行っていたのだ。合意と共にニーオルスン基地からリムノス島の接収部隊が4式飛行船「銀河」によって運ばれ、地中海に展開している戦艦薩摩を中心とした任務艦隊が展開する計画になっている。 この申し出はオスマン帝国側にとっても渡りに船だった。元々から関心の薄い島であった事に加えて、オスマン帝国は伊土戦争の戦費によって財政的にも苦しい台所事情もあった。伊土戦争で諸島防御の難しさを学んでいた事も売却の後押しになっていた。更にはダメ押しとして寄付金による防護巡洋艦ジュリアン・ド・ラ・グラヴィエールの提供に加えて、追加義捐金で購入されていた戦艦オッシュの引渡しが大きいだろう。旧式とはいえ戦艦を寄付金で購入してくれる国家に対して配慮するのは難しい事ではなかった。
そして、日本側の目的は地中海戦略の要として活用するだけに留まらず、対トルコ支援戦略の意味合いが強い。購入の名目はインド洋マダガスカルから地中海へと繋ぐ飛行船航路の中継基地が理由になっている。
リムノス島が帝国重工にとって都合が良かったのは、この時代のリムノス島は広さに反してミリナ港町を中心に小さな村が20個ほどしかなく、島の産業も小規模な漁業とミュスカ種の甘口ワインおよび辛口ワインを造るに留まる小さなものに留まっており、統治が容易だった事も忘れてはならないだろう。
このような背景もあって、ギリシャ艦隊が明日になってリムノス島に到着した時には全ての手続きを終えてリムノス島の接収を始めていた国防軍の姿を目にする事になるのだ。
1912年 10月19日 土曜日
リムノス島西海岸には島の海の玄関口とされるミリナ港町には国防軍の戦艦である薩摩が錨を下ろしている。港の浚渫工事は行われていなかったが、天然の良港でもあったミリナ港町は場所によっては薩摩のように2万8000トンを越える大型艦でも停泊可能だった。薩摩の他には2隻の護衛艦と2隻の輸送艦が停泊している。 この薩摩にはニーオルスン基地の視察の帰りに4式飛行船「銀河」で寄っていた高野、さゆりの2名に加えて、オスマン及び地中海で広報活動に専念していたイリナが乗船していた。
三人は久しぶりの再会もあって食堂で一緒に昼食を楽しんでいたのだ。
薩摩の食堂は配膳室とその奥にある調理室を挟んだ左舷側と右舷側に分かれている。双方とも同じ区画内に存在していたが、右舷側は下士官兵の食堂であり、左舷が士官用になっていた。高野、さゆり、イリナの三人が居るのは士官用の食堂である。
今日の昼食はカレーライス。副食として、海草のサラダ、ミルクティー、ゆで卵、柑橘のゼリーから成り立って降り、乗組員の栄養に配慮しているもの。もちろん味も高い水準を保っている。
三人の会話の内容は自ずと地中海戦略になっていた。
「リムノス島の接収は本当にぎりぎりだったわ」
「うんうん。間に合ってよかった〜
そういえば、バルカン同盟の方はどう言ってきているの?」
「米比戦争のように日本側からの介入を嫌って知らぬ存ぜぬを通してるようだ。
今回のバルカン方面の戦争はフランスも良い顔をしていないし、
後は不要な拡大を望まないイギリスにも釘を刺されているだろうね」
高野が言うように薩摩から少し離れた場所にフランス海軍の装甲巡洋艦「ワルデック・ルソー」が停泊している。フランス海軍リムノス島への展開は戦艦オッシュの購入と薩摩級戦艦の建造に関する返礼を兼ねて、積極的に日本側の戦略に協力していたのだ。もちろんリリスが言うようにフランス共和国側も今回のバルカン同盟の動きに良い感情を持っていなかった事情も協力の後押しになっていたのだ
「未然に防げなかったのが残念だなぁ…」
「バルカン同盟側もそれぞれに押さえられない事情があるから、
並大抵の方法では抑えられなかっただろうね。
後は深入りすれば列強との戦争の可能性も捨てきれない」
「それに列強との戦争の負担は決して軽くはありません」
さゆりの言葉に高野が頷く。史実に於いてもフランス共和国を始めとした幾つかの国がバルカン同盟とオスマン帝国の衝突を避けようと努力していたが、その努力は失敗に終わっていた。もちろんフランス共和国のような強国が全力で取り組めば第一次バルカン戦争の発生を引き伸ばしする事が出来たに違いない。
しかし、国家の役割は突き詰めていくと国民の生活と生命を守る事だ。
総合的に見て10の利益しか得られない部分に50の投資が必要だったら引き下がるのが健全な国家である。採算を考えて行動しなければ国家経済は遠くない将来に於いて破綻してしまうだろう。 故に相手が小国であっても、それが後押しする他の列強が存在し、加えて列強間での戦争の可能性ともなれば、止めるのは難しいと言わざるを得ない。史実に於けるフランスも過度な介入によって列強間との戦争の可能性を考慮して引き下がっていたのだ。
そのような事情から第一次バルカン戦争は起こるべくして起こった戦争あった。
また、日本側が日本圏の防衛に直接関係しないオスマン帝国への水面下に於いて援助を行うのは、将来に備えて親日国を増やす目的があったのだ。レムノス島のマウドロス湾東岸で早速始められている基地建設もその戦略の一環である。
「他にも深入りを避けたほうが良い理由があります」
「それは何でしょうか?」
「諸外国の情勢ですよ。
自国の経済が行き詰ればその負債を他国に押し付けようとするでしょう。
特に危険なのがロシア、イギリス、ドイツの三ヶ国かな。
加えて欧州各国に於ける外交文書の捏造問題を考慮すれば、
深入りは行わないほうが良いだろうね。
深入りすれば煽られて大戦争に発展する可能性が大きいだろう」
高野が言うようにロシア帝国とドイツ帝国に於いては外交官、官僚、貴族等の名声欲が絡み、意図的に改ざんされた外交文書が少なからず存在していた。史実を例に挙げればフランスでは自国を纏めるためにドイツ帝国からの侮辱を作り上げ、オーストリア帝国ではセルビア王国との対立を憂慮したドイツ帝国からの仲裁の申し出を有耶無耶にする等。 イギリス帝国、ドイツ帝国が突き進めている軍拡競争も火種の要素としては大きいし、軍事産業に投資する資本家たちも更なる利益を求めて戦争を欲していた危険な要素も見え隠れしている。
現に、イギリス帝国はアメリカ合衆国に対して旧式戦艦である「ロード・ネルソン」「アガメムノン」の2隻、ギリシャ王国にロイヤル・サブリン級戦艦フッドを売却したのを最後に、自国用の主力艦の建造に力を注いでいたのだ。特に力が注がれていたのは条約間戦争で日本艦隊の優速かつ高火力が成しえた大きな戦果から、巡洋艦並みの高速性能を有する巡洋戦艦である。
イギリス帝国の急激な海軍拡張はドイツ帝国が1898年から進めていた艦隊法によって拡張が進むドイツ海軍に対抗する為だったのだ。
このような事情に至った経緯には国家間の事情があった。
ドイツ帝国の海軍大臣アルフレート・フォン・ティルピッツによって薦められている艦隊法は条約間戦争前ではイギリス海軍の6割の戦力を目指すものだったが、戦後になって取り決められた2次改訂案では世界第二位の日本海軍を超えるものに変わっている。しかし、その行為は結果としてイギリス海軍に迫る艦隊戦力を保有する事を意味し、世界第2位と第3位の艦隊戦力を保有する二国標準を掲げるイギリス帝国にとっては容認できない行いだった。当然の流れである。ドイツ帝国はイギリス帝国の植民地に対して前々から強い関心を示して事あるごとに介入を試みてきた歴史があったので、イギリス側が警戒心を持つのは当然の当然の帰結であり、イギリス海軍が本国艦隊の拡張に着手したのが事の始まりである。
イギリス帝国の反応に対して、
ドイツ帝国が行った事は火に油を注ぐような行為だった。
ドイツ帝国の海軍戦略を担うティルピッツ海軍大臣は自国の艦隊戦力を増強していけば、やがてイギリス海軍はドイツ艦隊を手ごわい相手と認識し対決を回避すると結論付けたリスク理論を提唱し、対立回避の為の更なる海軍軍拡を推し進めていったのだ。
この状況が英独双方の海軍拡張論者に利用されてしまい、今では双方がしのぎを削る熾烈な建艦競争に突入している。何かしらのきっかけがあれば軍事衝突が起きかねない状態とも言えた。日本側はそのような騒動に巻き込まれないように外務省、広報事業部、工作商会の影響下にある各メディアを通じて多方面から多くのリソースを投入する事で平和を重んじる意思を伝えていたのだ。
説明を聞いたさゆりとイリナが納得するが、
同時に新しい疑問が芽生える。
「となると大戦争の引き金になりそうなサラエボ事件はどうするの?」
「工作商会を通じてある程度動く予定だけど、おそらく防げないだろうね。
民族主義者をどうにかするには途方も無い労力が必要になる。
第一時間が足りない」
「そうなると、
辛うじてフランスを中立に保てそうなのが幸いです」
「うんうん。
万が一に備えて有力な和平仲介のチャンネルが保てるからね!」
日本側の戦略はやがて起こるだろう第一次世界大戦では戦争不参加を目指していた。第一次世界大戦のような大兵力が必要な戦争に参加すれば、戦争に参加している他国から多大な要求を出されるのは火を見るより明らかなので、参戦は何としても避けなければならなかった。そのような局面に於いて共に中立を保てる大国の存在は大きい。 確かに帝国重工が保有している先端科学で作られた兵器を制限なく投入すれば最小の犠牲で勝てるだろう。
しかし、それでは攻撃を受けた国家から戦後に多大な恨みを買うのは確実だった。
故に最高意思決定機関では現在の国家情勢と将来の戦略を考慮すれば第一次世界大戦の参戦は、全く採算が取れないものと判断が下されている。戦略も戦争不参加に進むのも当然の流れと云えるだろう。
そして、帝国重工側の戦略も徹底している。第一次世界大戦に於いて日本側が中立となった際には帝国重工とその関連会社は戦争参加国に対してあらゆる物資の売却を自粛する事が高野によって決められていたのだ。これも戦争で利益を上げる事で不要な恨みを買わないようにする措置である。それに帝国重工の生産力は日本圏の開発に注がねばならなかった事も大きいだろう。
ともあれ、明日には実戦配備が始まったばかりの1試大型飛行艇の量産型である2式大型飛行艇(2式大艇)が飛来し、イリナ率いる後方事業部のモデル達による撮影が行われて島との融和と観光促進を主目的とした広報戦略の一部が始められる予定になっていた。また1試大型飛行艇の量産型が12式大型飛行艇という名称にならなかったのは、傑作機として名高いH8K二式飛行艇の名に対する敬意と真田の趣味が大きいだろう。 このようにイギリス帝国、ドイツ帝国の両大国が積極的に動いていた中、日本側も今後の戦略に備えて着実に動いていたのだ。
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【あとがき】
意見、ご感想を心よりお待ちしております。
(2013年10月27日)
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