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帝国戦記 第四章 第12話 『チベット侵攻:前編』


沈黙は時として最高の解答だということを忘れないように。

ダライ・ラマ14世





1910年 02月24日 木曜日
イギリス帝国の同意の下、
チベット政府に対して小規模ながらも日本軍事顧問団が派遣される。




1910年 03月14日 月曜日
イギリス帝国ロンドン市ホワイトシティ区で日英博覧会が開幕。
帝国重工の演出もあって大盛況のうちに幕を閉じる。




1910年 05月01日 日曜日
帝国財団が第六回帝国賞の受賞者を発表する。

【帝国物理学賞】
アメリカ合衆国:ハーヴェイ・フレッチャー (電子の電荷)
オランダ王国:ヨハネス・ファン・デル・ワールス (気体の状態方程式)
インド帝国:ジャガディッシュ・チャンドラ・ボース (無線通信の進展への貢献)

【帝国技術賞】
日本帝国:高野さゆり (5式燃料2型)
日本帝国:ソフィア・ダインコート (双流式反動タービン)
日本帝国:真田忠道 (タッチパネル)

【帝国化学賞】
イギリス帝国:アーネスト・ラザフォード (元素崩壊、放射性物質の性質に関する研究)
ドイツ帝国:ヴィルヘルム・オストヴァルト (化学平衡、反応速度に関する研究)

【帝国生理学・医学賞】
日本帝国:高野さゆり (生物工学に基づく再生医療の研究)
日本帝国:鈴木梅太郎 (ビタミン発見)
ロシア帝国:イリヤ・メチニコフ (免疫の研究)

【帝国文学賞】
ドイツ帝国:ルドルフ・クリストフ・オイケン (哲学及び文学作品の評価)
スウェーデン:セルマ・ラーゲルレーヴ (各種小説に対する評価)

史実では研究成果を他者に奪われつつも静かにそれを受け入れたハーヴェイ・フレッチャーと鈴木梅太郎であったが、この世界では帝国財団によって正当な評価を得ることとなった。 また、鈴木の研究がやや早い時期に成果が出ていたのは、帝国重工による資金援助が理由である。

1910年受賞者(第6回受賞者)として合計13人が選ばれ、
受賞者にはトロフィーとそれぞれ2万円が授与される事となった。




1910年 05月06日 金曜日
イギリス帝国国王エドワード7世死去、ジョージ5世が王位を継承する。




1910年 05月26日 木曜日
日本帝国及び公爵領はアルゼンチン独立100周年記念式典に参加するべく、東郷中将率いる巡洋艦「春日」「日進」「筑波」の3隻を送り込む。帝国重工による投資による経済活性及び、薩摩級戦艦「リバダビア」「モレノ」の完成度の高さも相まって、現地から熱烈な歓迎を受ける事となった。






1910年 05月31日 火曜日
イギリス帝国領南アフリカ連邦が成立する。









1910年 06月13日 月曜日

清国政府の意向を受けた四川総督の趙爾豊(ちょう じほう)は3万5千の兵力からなる四川軍を率いてチベット領に侵攻を開始していた。侵攻の目的は税収源の確保だけではない。清国がチベットに拘るにはより大きな理由があった。

属国化していたチベットの独立を完全に許してしまえば、清の第5代皇帝である雍正帝(ようせいてい)が行った、チベット高原中央部の西北西から東南東の方向へ縦断しているタンラ山脈(唐古拉山脈)からよりディチュ河にかけての線を境界として南北に分離した地域的枠組みの根拠が覆ってしまう可能性が大いにあったからだ。

現に、甘粛、寧夏、青海地域の支配権は国家財政の破綻、官僚の腐敗、人心が乱れた清国政府から離れつつあり、現在、その3地域を実効支配していたのは馬鴻逵(ば こうき)、馬鴻賓(ば こうひん)、馬歩芳(ば ほほう)の3名が中核となって率いる軍閥の馬家軍だった。

チベットの地域的枠組みの根拠が有耶無耶になれば、その影響は青海地区のみに留まらず、新疆(東トルキスタン)まで支配していた根拠や併合の大義名分も失う。それは清国が国力を取り戻した際に、行うこれらの地域の再併合を行う際の支障にも成りかねなかった。

今回のチベット侵攻は清国回復の布石を残す意味が大きい。

史実に於いても清国は財政難に加えて、1904年にイギリス帝国とチベットとの間で結ばれたラサ条約に続いて1906年には英領インドとの国境条約を結んでいたにも関わらず1909年には四川軍をチベット領に投入して、チベット正規軍である近衛隊と国境警備隊からなるガンデンポタン軍をカム地方チャムド(昌都)で撃破し、11年にはラサに入城している。

イギリス帝国の敵意を買う可能性があるにも関わらず、
武力侵攻を行ったことからチベットに対する関心の強さが伺えるだろう。

このように経済的事情と歴史的事情という二台要素からなる、引くに引けない事情によって、四川省から出撃した四川軍は標高2500メートルにある古くからチベットと中国の交易の中継地として栄えた峡谷の中にある打箭炉(ダルツェンド)に向かっていた。ここを抑えれば、チベット東部、チベット高原から横断山脈に差し掛かるチャムドの足がかりにもなるし、ユーラシア大陸の中央部に広がる世界最大級のチベット高原に進出する事が可能になるのだ。四川軍の侵攻ルートとして避けては通れない場所である。

ただし、四川軍の行軍はそれほどスムーズなものではない。

これは指揮官や兵士の能力ではなく、
その兵力数と行軍を行う地域が問題だったのだ。

カム地方は高い山々や河川、険しい峡谷、森林に囲まれた難所である。このような山地を大規模な縦隊で移動する事が適わないどころか、自殺行為に等しい。故に安全を考えて四川軍を3隊に分けて、行軍速度を落として一列縦隊に変更して進んでいたのだ。輸送部隊ともなれば更に速度は落ちる。何しろ物資を運ぶ荷馬ともなれば急には止まれない。

加えて、四川軍は1個大隊にも満たない小さな規模であるがガンデンポタン軍を支援しているらしい日本軍(軍事顧問団)の情報を早い段階で入手しており、その備えも加わって行軍速度の低下を招いていた。 備えとは、1897年に日本帝国から購入していたスナイドル銃、十三年式村田銃、十八年式村田銃、 二十二年式村田連発銃に加えて、12ドイム臼砲、12cm臼砲、克式1873年式軽野砲、克式1864年式軽野砲、8cm野砲、7cm野砲、7cm山砲、4斤野砲、4斤山砲という色々な生まれの大砲をかき集めて四川軍は火力の底上げを行っていたのだ。

これらの事から、否応にも四川軍の行軍長径は極めて長いものとなった。

苦難の行軍であったが、的確な指示に加えて趙爾豊は廉潔公正でかつ部下からの信服を得ていたので、四川軍の兵士は緊張を保って各地域の難所を乗り越えていく。趙爾豊には国家に反抗する相手に対しては残虐な面もあったが、その反面、当時の清国では珍しく民の生活に気を配るなど、優れた統治者としての手腕があったのだ。

趙爾豊の指揮によって大きなトラブルも無く行軍が進み、
やがてかなりの難所として名高い山道である大風湾に差し掛かる。

タルツェムドまで6kmの地点に存在する大風湾は場所によっては極めて限られた道幅しかない場所もあり、足元を誤れば崖から滑り落ちる危険がある場所。大風湾に入ってからは趙爾豊は行軍速度を落として念入りに進む。

お昼近くなる頃、
タルツェムドまで後3.7kmの地点で四川軍は予想外の存在を目にする。

「あれは一体!?」

敵情偵察として先行していた、
偵察隊が眼前に広がるものに驚きを隠せない。

大風湾を形成する左右の陸地の表面が著しく盛り上がった渓谷というより、峡谷と言ったほうがしっくり来るような険しい崖の間に続く、曲がりくねった道を抜けてから、ほぼ直線1.2km先に広がる幅62メートルの谷底平野に予想外のものがあったのだ。

要約すれば軍事拠点である。

谷底平野を塞ぐように立ちはだかる重厚な雰囲気を放つ小さな城砦のようなもの。その城砦のよう建造物にはガンデンポタン軍の軍旗と日本帝国軍の軍旗が立っていたので敵施設であるのは確実だった。

無論、そのような城砦のような軍事施設の存在は
四川軍にとって寝耳に水である。

その情報は直ぐに趙爾豊の下へと送られ、当然ながら趙爾豊も信じられない知らせに驚愕した。半年前の事前調査及び、3日前に向かわせた先行偵察隊からの報告には、そのような情報は一切無かったので彼が驚くのも当然であろう。

城砦のような建造物を避けて山岳を踏破するのは不可能だった。そもそも、この周辺に於ける迂回ルートはより過酷であり、行軍地点として選べるようなものでは無い。辛うじて兵力移動が可能なのが、このルートである。他に容易な道があるならば、このような場所で部隊運用の難しい一列縦隊で行軍したりしない。

現実的な迂回ルートは200km以上も離れた北部にはあるが、そこだと補給線から侵攻ルートに至るまで遠回りになってしまう。予算に限りがあ清国の状況では、そのような補給物資の用意は不可能だった。何しろ本来の計画では、昨年にはチベット侵攻を行う予定だったが、必要な物資の用意が予算不足から揃わず1年も遅れていたのだ。

今年中にタルツェムドを抑えなければ、希望的観測を基にしても、その先にあるチャムドを掌握するのが来年以降になってしまうのは想像に難くない。加えて、今回の侵攻に失敗すれば、再度侵攻に必要な予算を揃えるまで何年かかるか判らなかった。それに時間をかければ、日本軍の増援も来るかもしれない。

現に日本帝国は明治末からチベットに入りを果たしダライ・ラマ13世の国際情勢の説明役の地位を得ていた多田等観(ただ とうかん)を介して、ダライ・ラマ13世との会談を行ってい、時期を空けずして帝国重工によってチベット産業開発を目的とした650万タンカ(3.5タンカは約1.5円に相当)に及ぶ投資が行われていたのだ。 軍事に於いてもガンデンポタン軍総司令官のダサン・ダデュル参謀総長との協力体制を確保し、対外有償軍事援助として30式小銃の廉価販売が始まっていた。

投資の内容はラサ川の支流に環境に配慮したマイクロ水力発電を設置し、イギリス帝国がチベットに進めていた郵便事業に電報サービスを加えた開発である。チベットには豊かな天然資源があるが、それらの産業の急激な開発は環境破壊などの不幸をもたらすので、開発は極めて緩やかなものに留まっている。

イギリス帝国の影響力が大きいチベット政権だったが、清国を押さえ込み弱体化を進める絶好の機会と判断したチェンバレンの意向もあり、加えて日本側の戦略を認めることで恩を売る目論みなどもあって、これらのような日本側の行動を認めていた。思惑があれば予想外の行動を平然と行うのがイギリス帝国である。

故に清国側が焦るのも当然だった。

日本とイギリス、どちらも厄介を通り越した強国なのに、それが控えめながらも共同歩調を取るのだ。それに開発が進めばチベット自身の力が増す。ただでさえ、侵攻を行い難い土地に日英の兵器で本格的に武装したガンデンポタン軍の存在は悪夢に等しかった。

そうなってしまえば、国力が衰退している清国ではどうする事も出来ない。

そして、四川軍が城砦として認識したのは、日本軍事顧問団の要請を受けて派遣された 日本義勇軍が5式拠点構築資材を用いて作り上げた簡易要塞である。城砦という認識はあながち的外れな評価ではなかったが、この軍事拠点は例の如く4式飛行船「銀河」の輸送船団によって建築資材と重機が運び込まれから、2日間で作り上げたものだ。

前進観測班(FO)と連動した8門の95式40o機関砲、12基の4式ガトリング砲、58丁の95式重機関銃、支援火器として24門の81o迫撃砲を有する大風湾要塞と命名された簡易要塞である。無論、要塞に設置された重火器の全てが銃架や砲架に据え付けられており、狙撃対策と射撃時の反動に対して十分な安定性を有している。そして、日本義勇軍として要塞を守るのは緊急展開能力に秀でた帝国軍習志野第1空挺団と国防軍特殊作戦群の両部隊から抽出した2個中隊と1個中隊からなるガンデンポタン軍の近衛隊1個中隊を率いる矢島保治郎(やじま やすじろう)大尉を含めた3個中隊からなる合同部隊だった。

矢島大尉は史実では陸軍除隊後に探検家としてチベットに密入国し、ダライ・ラマ13世の厚遇を受けてチベットの軍事顧問に就任した冒険家である。しかし、この世界では、除隊前にチベット行きの任務を告げられた事によって、軍籍を持ったままチベットに来ていたのだ。もちろん矢島大尉が想うチベットに対する情熱はかつての世界と遜色がない程に強い。

このように大風湾要塞には清国軍の水準を大きく引き離した、
精鋭中の精鋭が守備に就いている。
四川軍にとっての不幸はそれだけに留まらない。

大風湾要塞の後方には低率初期生産(LRIP)が始まったばかりの8式多連装自走発射機(以後、8式多連装と表記)が1個小隊、合計3台が後方に控えていたのだ。227oロケット弾12連装発射機からなる8式多連装は面制圧可能な支援兵器として有名なM270 MLRSの発展型であったが、履帯(キャタピラ)ではなく、同じように国防軍で低率初期生産(LRIP)が始まった8式装甲戦闘車両の車体を流用していたのでタイヤによって走行する装輪装甲車タイプになっている。

この8式多連装はただの支援兵器ではなく、国防軍が保有する全域指揮統制システム(ECCS)を通じて基幹的指揮回線と連結しており、担当戦域の必要な箇所に適切な火力を無駄が無い様に送り込むことが可能だった。

8式多連装が搭載している8式複合目的通常弾ならば、一発で404個の対装甲・対人攻撃用の子弾を内蔵しており、敵軍の頭上から大規模な阻止攻撃を行うことが可能になっている。12発の攻撃ともなれば子弾の数は4848発に達しするので、その効力は使いどころによっては戦術阻止攻撃に留まらず、戦略阻止攻撃にまで及ぶ。

不発弾対策として3式汎用弾と同じような処置が8式複合目的通常弾とその子弾に施されているので、高度先端兵器に属していたが安心して使える兵器だったのだ。

意外に思うだろうが、
ロケット弾の実戦投入の歴史は古い。

1779年にインドで勃発した第二次マイソール戦争ではマイソール王国軍のハイダル・アリ大将が率いるカシオン旅団(ロケット砲部隊)がイギリス軍に対してロケット弾による攻撃を組織的に使用しているし、1814年の米英戦争ではイギリス艦隊がコングリーヴ・ロケットを対地攻撃に使用していることから、ロケット弾を戦場で使うのは別に目新しいものでなかった。無論、歴史を紐とけば、より古い使用記録が残っている。

城砦の戦力価値を測りかねた趙爾豊は威力偵察を行おうか悩んでいるとき、参謀の一人が得心した表情で構えていた双眼鏡を下す。その顔は敵の弱点を見抜いたかのような表情をしていた。

参謀が自信に満ち溢れた声で言う。

「閣下、どうやらこの戦いは我々の圧勝になりそうです」

「どう言う事だ?」

「ご覧下さい。
 確かに防御壁はやっかいですが、
 肝心の大砲の数は決して多くはありません」

趙爾豊はフランスの武官から購入したルメールFABパリ-12レンズ双眼鏡を構えてみる。 確かに参謀の言うように大砲の様な武器は少数しか見当たらない。不安は消え、心に闘志が満ちていく。

「ふむ。確かに大砲らしき数は多くて20門ぐらいだな。
 なるほど…あれは万里の長城のようなものか」

「はい。
 そして、先日送った偵察隊が見たときに無かった事から、
 簡単なものを組み合わせたもので、その強度も不十分だと予測できます」

「戚継光の屏風木板のようなものか?」

趙爾豊は木製の板を繋ぎ合わせて、戦地で防御陣を作った竜行剣の使い手であり稀代の恐妻家として知られた明の戚継光(せき けいこう)の戦術を例を引き合いに出す。5式拠点構築資材を知らなかったが、それと同じコンセプトの陣地構築資材を知っていたのは流石と言うべきであろう。

「恐らくは。故に大砲の数で勝っている我らなら、
 火力支援を受けながら突撃を行えば簡単に落とせるでしょう」

「そして日本軍に勝利を収めれば国際社会に於ける、
 我等の評価も上がるという訳か」

最悪の相手を絶好の機会として喜ぶ姿を、もしもロシア帝国やフランス共和国のような対日戦を経験した軍人達が見たら滑稽さや馬鹿さ加減を通り越して、いっそ哀れに思うだろう。

彼らの誤解は日本帝国及び列強諸国が推し進めていた戦略が原因である。

日本帝国の方向性を定める最高意思決定機関は歴史的経験及び、総合的な判断から清国及び中国大陸と深く関わる気がないので、清国側からの国交断絶を機会に清国側との関わりを徹底的に避けていた。列強側では、自分たちの不都合に繋がる情報を進んで教えるつもりは無い。

このような状況で清国側に日本の正確な情報が流れるはずが無かった。
故に、流れてくる情報は無責任かつ信憑性が乏しいものばかり。

それに日本側が戦後に発表した公式発表では条約間戦争戦は引き分けに近い、日本の辛勝と言う形になっている。確かに海戦は優位だったが、それも絶対的なものではないし、陸戦に於いては、艦隊の支援があったからこそ沿岸部で戦えたという見解を示していたのだ。

欧米側は日本側が行った控えめな発表を怪訝に思いながらも、
その発表は自分たちにとって都合が良かったので受け入れている。

これらの要素と上海条約を理由に欧州列強が行う情報遮断も加わって、
清国側に伝わる情報は大いに歪んだものだったのだ。

歪な情報を元に分析した結果は、
海戦では勝てないが陸戦ならば数の優位さえ保てば、
十分に勝算がある…と言う希望的観測に満ちた判断だった。

余談だが、帝国重工による介入によって外務省政務局長の小池張造(こいけ ちょうぞう)、中将、秋山真之(あきやま さねゆき)等は、清国及び中国大陸と深く関わっても碌なことが無いと考えを改めた事によって、孫文が行う革命運動を援助支援する「小池部屋」を発足させておらず、孫文(そん ぶん)の革命運動は低調なままに留まっている。

また、工作商会の手によって中国大陸の安定に利用するべき相手はアメリカ合衆国とドイツ帝国が相応しいという偽情報すらも流されていた。

閑話休題

そして、清国との関わりを拒絶する日本側だけに、その対応は厳しい。チベット領に進入した四川軍に対しては、完全殲滅を作戦目標としていた。AC-004A局地制圧用重攻撃機「飛龍」を始めとした、3番機「呑龍」、5番機「驪竜」の合計3機を投入し、敗走した際の四川軍の追撃に備えた念の入れようだ。ただし、これらの機体は機密保持の観点と、敵を休ませない意味から夜間攻撃に専念する。

(慎重を期しては大局を見失うな…。
 よし、決断する時か)

趙爾豊は攻撃を決断した。

「よし、少し早いが直ちに昼食を済ませよう。
 昼食を終えたら直ぐに砲撃の準備を始めるぞ」

「了解しました!
 日清戦争での借りを返してやりましょう」

彼らの思惑とは裏腹に、周到に準備された地獄が手ぐすねを引いて待っているとは知らなかった。そして清国側にとっての極めつけの不幸が、イギリス帝国が四川軍の全滅を心待ちにしていた事だろう。その証拠にイギリス帝国は早い段階で清国側の動きを事前に入手していたが、戦訓を得る機会にもかかわらず、四川軍に観戦武官を一人として参加させていない。

チェンバレンが日本側の動きを許容していたのは、南方軍閥の一つ雲南派に介入する切欠を欲していたからだ。広西省の北部に展開する四川軍が消えれば押さえがなくなり介入し易くなる。すなわちチェンバレンは香港に近い広西省を基点に雲南省一帯を清国から分離独立させ、治安維持を名目に保護国化を行おうと目論んでいたのだ…
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【あとがき】
真神級施設艦の後編はオミットしました。

大風湾要塞に展開するガンデンポタン軍近衛隊は弓や火縄銃や、イギリス帝国から僅かに購入していたリー・エンフィールドMk1ではなく30式小銃を装備し、加えて日本式軍事教練を受けており戦力価値は高いものになっています。

意見、ご感想を心よりお待ちしております。

(2012年11月24日)
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