帝国戦記 第四章 第06話 『フィリピン条約』
カナダは自由であり、自由がその国民性である。
ウィルフリッド・ローリエ
1908年9月14日 月曜日
「日本からの通告期限まで、後1ヶ月を切りましたが、
残念な事に有効な対応策が見つからないのが現状なのです」
イギリス帝国のチェンバレン議員はアメリカ合衆国のワシントンD.C.の北西通り2201Cにある国務省でエリフ・ルート国務長官と会談を行っていた。この会談を提案したのはアメリカ側で、表向きは戦艦2隻の追加購入の予備交渉だったが、本当の議題は日本側が提示してきた外交文書の通告期限に関する内容が本題である。
その通告期限とは、林董外務大臣がアメリカ側に提示した外交文書「林・ノート」の期限の事を指す。内容を要約すればフィリピン全島からのアメリカ撤退を要求した内容であった。ただし、一方的に要求するのではなく、アメリカがフィリピンから撤兵し、アギナルド政権を認めれば、アメリカ合衆国がパリ条約によってスペイン王国からフィリピンの統治権を買い取った同額の2000万ドルを日本側がアメリカ側に支払う内容だったのだ。 そして、撤兵に応じられない場合はエミリオ・アギナルド率いるフィリピン第一共和国臨時政府(以後、フィリピン臨時政府と表記)が擁するフィリピン軍側に立って日本義勇軍を派遣すると書かれていた。
前回の戦争で何も通告なしに、
一方的に義勇艦隊を送り込んできたアメリカと一線を画するだろう。
ルート国務長官は考える。
自分と話す男は、凡庸な政治家ではない。条約間戦争で多大な利益を上げ、オレンジ自由国とトランスヴァール共和国を併合し、今もなお戦艦売却でイギリス帝国に多大な利益をもたらしているイギリス最強の帝国主義者で、言葉巧みに日米双方から利益を吸い上げていく謀略家。
目の前に悠然と座る男の実績は並ではない。
ルート国務長官は恐ろしいと思った。
ルート国務長官の内心の緊張を察していたチェンバレンだったが、
それをおくびにもださないで言う。
「受け入れるべきでしょう。
条約軍艦隊ですら勝利した日本艦隊に対して、
今のアメリカ艦隊の戦力で勝てるとお思いですか?
海上補給が途絶えれば、地上軍の末路は決まったものです」
「……勝ち負けは別として大統領や後援者が納得しません」
彼自身は米比戦争の継続は乗り気ではなかったが、大統領と後援者、そして軍部が望み、議会が決定した以上続けるしかない。議会制民主主義というのはそういうものだ。
チェンバレンは淡々と述べる。
「現在ですら米比戦争の勝利が見えていない。
そのような状況で日本が参戦すれば、状況は一層悪化するだけですな」
チェンバレンの言葉には、例え納得が出来なくても、状況が変われば受け入れるしかないと込められている。ルート国務長官にはチェンバレンが言わんとするところを理解していたが、国内情勢がそのような選択肢を許さなかった。戦わずして引けば、軍拡に掛けた予算が無駄になり、それは軍拡派や強硬派の政治的立場を悪くするだろう。議会の混乱も避けられない。
「状況といえば、アーヴァイン重工が保護していたカイウラニ王女が
プレーヴェと共に帝国重工の重役と会談を行ったとか…
貴国の艦隊戦力に万が一の事でもあれば、ハワイ王国の復活もありえるのでは?
それでも新たな戦いを望むと?
国境紛争も激しさを増す中で、それは余りにも無謀ではないだろうか」
チェンバレンがアメリカの問題点を恭しくも知悉した。
カイウラニ王女とは、アメリカによって強引に併合されたハワイ王国に於いて国民的人気も高かった王女である。1893年にクーデターが起こってハワイ王国が滅亡すると、渡米してクーデターの不当性を訴えるなどの高い行動力を持っていた人物だった。本来ならば1899年(23歳)で死去するはずだったが、帝国重工の延命工作によって生き延びていたのだ。
このようにアメリカを取り巻く情勢は厳しさを増している。
終わりが見えない米比戦争に加えて国際世論からの非難、さらにハワイ王国に対する同情が高まりつつあったのだ。特にイギリスと日本では強い。また、カナダのアラスカを巡る国境紛争のアラスカ国境問題もアメリカにとっての不安材料であった。
米加の間で1903年に結ばれる筈だった、アラスカ国境問題に関するヘイ・ハーバート条約は工作商会の暗躍によって未締結のままである。史実と変わりなかったのは、イギリス帝国から国境問題の解決のために派遣されたリチャード・ウェブスターのアメリカよりの発言によってカナダで広がり始めた反英感情だけであろう。
そして、カナダ初のフランス系首相であり、カナダ独立を掲げるウィルフリッド・ローリエの政策と帝国重工によるカナダの大麦、小麦、トウモロコシの農作物の大量輸入が相まって、カナダは日本帝国に対して積極的に接近していたのだ。現在のカナダ西海岸地域のバンクーバーには帝国重工支社が作られおり、日本帝国とカナダの関係は悪く表現しても中立という友好的なものになっていた。
領土係争中でかつ、高い関税を一方的にかけてくるアメリカ側と比べて、適正価格で購入してくれる日本側とでは、後者を選ぶのは当然の流れてあろう。これは、広報事業部による宣伝戦略とカナダに住むフランス系住民の後押しもある。
更にカナダにはヨーロッパ及びロシアで急成長してきたアーヴァイン重工支社も進出を始めており、これらの裏に見え隠れする関係がアメリカにとって不吉なものにしか見えない。
交渉の前段階として相手に絶望な状況を再認識させたところで、
チェンバレンは色々と含みのある救いの縄を用意する。
「これまでに5隻もの戦艦を購入してくれた貴国の頼みです。
非公式で良いならば、
ハワイ王国に関しては1912年までは抑える努力をしましょう」
「助かります」
イギリス帝国は、その諜報能力によって日露とも、まだハワイに介入する気が無いのを知っていたが、アメリカには知らせていない。つまり、アメリカは戦艦購入によってイギリスから得られるはずの支援を見当違いに無駄に消費したことになる。この一件からも、最小の投資で感謝を得ながら利益も得る、チェンバレンの驚異的な強かさが判るだろう。
「さて、本題の日本義勇軍が参戦対策ですが、
4隻ですな…」
「はっ?」
「ここからは我々も少なからずのリスクを負うことになる。
微妙な各国との調整、そしてカナダとの関係もありますからな。
戦艦4隻を購入していただかなければ最低限の協力も難しい」
ルート国務長官はここで何故カナダが出てくるかを考えた。
カナダ?
まさか…チェンバレンっ!
ここまで計算していたのか!!
ルート国務長官は英露間の極秘会談が行われている報告を思い出し、
チェンバレンの言葉に秘められた政治的な恫喝に気づく。
アラスカを巡る国境紛争の論争を遡れば、1821年よりこのかたロシア帝国とイギリス帝国の間で行われていたものである。つまり、ロシアとイギリスが認めてしまえば、アメリカ側の主張など覆ってしまう。米比戦争の失態に加えて、領土紛争でも負けてしまえば、現政権の支持率の大幅下落は止めようがない。
「貴国は…カナダに蔓延する反英感情を考慮した政治的配慮をちらつかせる事で、
その領土問題すらダシにして、我々に更に戦艦を売りつけるつもりですか?」
怒りを抑えながらルート国務長官は言う。
対するチェンバレンは心外という表情で、困ったような反応をした。
「そうとは申しておりません。
あまり貴国に肩入れすると、カナダとの関係が悪化する…
純粋にその一点のみを懸念しているだけです」
チェンバレンによる完璧な回避にルート国務長官は思わず心の中で唸る。自国のためならいかなる悪逆ですら平然と行い、それを糊塗する手段を常に用意する百戦錬磨の政治家に、可能性を示すだけで恫喝を示唆する手腕に畏怖すら感じた。
イギリスは中立、ドイツとは良好とは言えず、ロシアとフランスが日本追従で国益を得ようと動いていることを考えれば、背に腹はかえられない。伊奥の両国もフランス寄りの発言を行っており、間接的に日本寄りと言っても良かった。
「……もし…新たに4隻を購入するとして、
どのような支援を頂けるのか最初に伺いたい」
「まず、貴殿に伺いますが、日本艦隊が自由に動き回る中で、
フィリピンへの補給を続けられるとお思いですか?」
「残念ながら、よほどの幸運が無い限りは無理でしょう」
陸軍長官を経験しているルート国務長官は陸軍寄りなだけに、海軍に対して愛着が少ない分、冷静な判断を下せていた。 現在の太平洋側に展開しているアメリカ・アジア艦隊、GWFの双方を合わせた正面戦力は戦艦15隻、装甲巡洋艦8隻、砲艦12隻、防護巡洋艦2隻。有力な戦力だったが、戦うであろう相手を考えれば憂鬱でしかない。そして、GWFは大西洋艦隊の主力艦の殆どを注ぎ込んで編成しており、これを失えば有力艦のその殆どを喪失する事になるのだ。
国家威信、通商路及び補給線の警護を考えれば、
安易に戦力を投入することも憚れる。
アメリカ海軍が感じる重圧は計り知れないだろう。
「状況を正しく認識している様で安心しました。
まぁともあれ、貴国にも枷を強いることになりますが、
その代わりに日本艦隊の動きを制限し、兵站が維持できるとしたら?」
「…伺いましょう」
チェンバレンは次のように説明する。
戦争拡大を望まない欧州諸国の世論を理由に、日本義勇軍が参戦しても戦闘領域をフィリピン諸島及び、フィリピン近海に限定する条約を結ぶことを。ただし、このままでは日本側の優位性を損なうだけの条約になるので、日本側にも配慮して南シナ海と西太平洋に於けるアメリカ船籍の行動を制限する妥協点を設ける事も。
つまり、アメリカ側の軍需物資や兵員をマニラ港に運ぶためには、オーストラリア側を航行して、そこからフィリピン南部のセレベス海を経てフィリピン南西のスールー海の先にあるミンドロ海峡を通らなければならない。外交をつかさどる国務省の長だけにルート国務長官はアメリカのデメリットもいち早く理解する。
「確かにそれならば、途中までなら安全に航行できますが、
フィリピン近海で日本艦隊からの襲撃を受けては意味が無い。
むしろ警戒範囲を最小限に抑えることが出来る日本側が圧倒的に有利なのでは?」
「貴国にとってのメリットは十分にありますとも。
貴国の輸送船団はダーウィンまで荷を運び、
そこからは中立国の船舶でマニラまで運ぶのですから」
「なんですと!?」
「我が国が認めた中立国の船舶は2年は責任を持って守ります。
条約名は…そうですな、フィリピン条約が妥当かと」
チェンバレンはオーストラリア大陸北側のティモール海沿いに位置するダーウィン港から、中立船を使うことで、安全な補給線を構築する事を示唆している。中立国の船舶を使うことで欧州諸国にも利益を分け与え、条約締結への圧力とするのが表向きの理由だったが、これも高野とチェンバレンが仕掛けた罠の一つに過ぎない。
ハワイからフィリピンまで約9000kmだったのが、倍近い距離になるので、これだけで恐ろしい負担が兵站に掛かるだろう。
それに中立国の船舶を使えば、輸送費は更に嵩む。
後の、イギリスを仲介とした日米交渉で、日本側は米比戦争に於ける中立船舶によるアメリカ軍の軍需物資を運ぶことは認めるものの、追加案を盛り込む事が絶対条件になる。その追加案とは、中立国の船舶がフィリピン諸島に荷を運ぶには日英双方への事前通告の義務化、そして中立国の船舶による兵員輸送を禁止する内容であった。また、違法行為が行われないように、イギリス艦隊、フランス艦隊、ロシア艦隊が監視に当たる事も盛り込まれていたのだ。イギリス艦隊の活動費はアメリカ側で、フランス艦隊とロシア艦隊の活動費は帝国重工の負担となる。アメリカ側は難色を示すが、イギリス側からの説得と、補給線の維持に不安を感じていた陸軍からの要望によって、締結される事になる。
忘れがちだが、ロシア帝国には極東だけに限定しても、
まだまだ有力な艦隊戦力が残っていた。
日本海海戦で政治的な配慮で生き残っていた「レトウィザン」「ツェサレーヴィチ」「サンクトペテルブルク」と、イギリスから購入していた「ジュピター」「マーズ」「シーザー」「リヴェンジ」「ロイヤル・オーク」からなる戦艦を中核とした艦隊戦力である。
むろん、フランス艦隊も有力な戦力を保有しており、
監視として動くには十分過ぎる戦力と言えよう。
ともあれ、自国で建造する筈だったサウスカロライナ級を始めとした新鋭戦艦用の資金も、議会と陸軍からの要望によってイギリスから購入する戦艦4隻に充てられるのだ。
アメリカ海軍としては納得しかねる内容だったが、苦労して整備した艦隊戦力を失った際の外債及び政治的なリスクを考慮した大統領の憂慮に加えて、補給線の維持の責任を問われると不本意であっても受け入れるしかなかった。戦艦4隻の購入で2年の時間が稼げる点も無視できない。 そして、この限定的であるが条約による補給線の安全が、議会、陸軍、海軍の各々の認識の変化をもたらし、関係悪化の原因の一つとして、育っていくのだった。
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【あとがき】
アメリカは合計9隻も改装戦艦を買う羽目に。
条約戦中にも5隻も購入しているから、これで累計14隻か…
2年後には何隻買わされるんだろうか(笑)
ヘイ・ハーバート条約が締結されなかった最大の要因は、工作商会が計測費用をカナダに提供し、先にカナダ側が計測してしまった事にあります。資金提供の一つが、例のアドルフ商会だった事も明らかになるでしょう。
また、ワシントン条約によるベネズエラ境界問題も未解決のままなので、米英の対立要素が多く残っています。
意見、ご感想を心よりお待ちしております。
(2012年02月20日)
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