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帝国戦記 第三章 第05話 『領有宣言』 後編
すべての商売は、売りて喜び、買いて喜ぶようにすべし。
売りて喜び買いて喜ばざるは道にあらず。
貸借の道も、また貸して喜び、借りて喜ばざるは道にあらず。
二宮尊徳
1905年9月13日の水曜日、観戦武官として来日しているアルゼンチン海軍のドメク・ガルシア大佐は、各国公使に於いて好評を博する幕張地区にある洋菓子店の榛名に招かれていた。
この榛名は本館である小さな洋館(榛名館)に加えて、館に隣接する公園に設けられた四角錐(ピラミッド型)で作られたドーム状建築物を有する全天候型オープンカフェから成り立っている。責任者である高野はるなの夢が凝縮されており、各所が可愛らしくも品が良い造りになっていた。また、お菓子だけでなく、軽食も上質なことから観戦武官や外交官の利用者も多い。
ガルシア大佐を誘ったのは、秋山真之(あきやま さねゆき)中佐である。そして、秋山の同行者に帝国重工から広報事業部の長であるリリシア・レイナードが参加していた。広報事業部の長であるリリシアは公爵領の外交官としても活躍している。もっとも日本帝国以外とは協定を結ぶ気の無い公爵領では外交官というより、むしろ営業職と言った方が近いだろう。
このような面々が、6人は軽く座れそうなお洒落な室内に3人が座っていた。
机の上にはフランスの焼き菓子である、バターと卵を多く使ったパンであるブリオッシュをブランデーとラム酒によって味付けし、果物で飾りつけたサヴァランが盛られた皿がある。また各人の席にはコーヒーが入っているお洒落なカップがあった。
甘いもの大好きのリリシアが上品にかつ順調に消費していく。
その美貌に相応しく食べる姿も様になっている。
その中で秋山がガルシア大佐に対して話していた。
「……ところで、大佐はブラジルの海軍拡張計画をご存知でしょうか?」
「ああ、大まかになら知っている」
当然、アルゼンチン軍の将校であるガルシア大佐はアルゼンチン・ブラジル戦争やアルゼンチン、ブラジル、ウルグアイによって行われた三国同盟戦争からの対立国であるブラジル軍の動向を注意深く見ており、海軍将校の務めとして拡張計画の概要は頭に叩き込んでいた。
戦艦建造に余裕のあるイギリスですら、まず建造した新型戦艦は脅威的な成長を始めた日本帝国に対抗するために自国用に配備せねばならない。とても海外に売る余裕は無かった筈だとガルシア大佐は考えた。南米に於いて最も新しい戦艦がチリ海軍が有するコンスティチュシオン、リベルタードの2隻の小型戦艦に過ぎず、現在のアルゼンチン海軍でも何とか対抗できる規模であり、またアルゼンチンとチリの関係正常化もあって無理に軍拡を行う必要が無いとアルゼンチンの軍上層部は判断していたのだ。
丁度、3つ目のサヴァランを食べ終えたリリシアが品のある色っぽい声で続く。
「では、ブラジル海軍が旧式化した装甲艦と海防戦艦の代艦として、
イギリスから3隻の旧式戦艦を改装した戦艦を購入しようとしている事も?」
「なんですって!?
そ、それは確かな情報なのですか!?」
リリシアは頷くと、中央の皿から4つ目のサヴァランを自らの取り分け皿に盛る。
この様に旺盛に食べるリリシアだが、擬体である彼女は肥満の心配が無い。
ともあれ、イギリスの旧式戦艦といえどもアルゼンチン海軍が有する戦力からすれば強大である。なにしろアルゼンチン海軍の陣容は、装甲巡洋艦2隻、装甲艦1隻、海防戦艦2隻、砲艦2隻、防護巡洋艦4隻、偵察巡洋艦1隻、水雷巡洋艦3隻の15隻にしか過ぎない。
しかも保有する装甲艦、海防戦艦、偵察巡洋艦、砲艦は旧式化が著しく、
沿岸警備にしか使い道が無いようなものであった。
また詳細なアルゼンチン海軍の陣容は次のようになる。
装甲巡洋艦
「ヘネラル・ガリバルディ」「ヘネラル・サン・マルティン」
装甲艦
「アルミランテ・ブラウン」
海防戦艦
「インデペンデンシア」「リベルタ」
砲艦
「ラ・プラタ」「ロス・アンデス」
防護巡洋艦
「ブエノス・アイレス」「ヌエベ・デ・フリオ」「ベインティシンコ・デ・マジョ」
「パタゴニア」
偵察巡洋艦
「パンペロ」
水雷巡洋艦
「エスポーラ」「ロザレス」「パトリア」
秋山中佐の言葉に対してガルシア大佐が焦るのは当然であった。現在、ブラジル海軍が有する艦艇は海防戦艦6隻、防護巡洋艦4隻、巡洋艦2隻、水雷巡洋艦5隻、の17隻である。これに3隻もの改装戦艦が加われば、戦力が劣るアルゼンチン海軍が圧倒的な劣勢を強いられる事になるのは素人が見ても判る。
そのような状況に加えて、世界の兵器輸出国の中で戦艦を改装して売却する余裕があるのはイギリスのみであり、そのイギリスとアルゼンチンの仲はお世辞に言っても良くはなかったのが問題であった。何しろアルゼンチンは1833年1月3日にはフォークランド諸島をイギリス帝国によって不当に占領されている。更には1864年に勃発したパラグアイとアルゼンチン、ブラジル、ウルグアイの三国同盟軍との戦争の際に、イギリス帝国は戦争当事国となった全ての国に借款を行い、戦後においてアルゼンチンを含む南米各国を経済的な支配下に置いていた事もあり、アルゼンチンはイギリス帝国に対しては良い感情は持っていない。
それらの事からアルゼンチンは前回の軍拡では、イギリス帝国ではなくわざわざイタリアから2隻の装甲巡洋艦を購入していた。もう1.2年すれば史実と同じようにイギリスの軍需産業を介して関係は改善したであろうが、現状からして、そのような時間は残されていない。ブラジル海軍に対抗するならば直ぐにでも戦艦購入に向けて動き出さねばならなかった。
秋山中佐は残念そうな表情でガルシア大佐に答える。
「確かな情報です。
恐らく、近日中には販売に関する詳細内容が発表されるでしょう」
「なんてことだ……」
「大佐はイギリスから戦艦を購入し辛い状況を懸念しているのですか?」
「ええ、まぁ…」
ガルシア大佐はリリシアの言葉に表情を曇らせた。
この当時のアルゼンチンの経済力は高く、1926年の世界恐慌まで民間の生活レベルではドイツなどと並ぶ高さで、首都ブエノスアイレスは「南米のパリ」と呼ばれた程である。しかし、それでも自国のみで戦艦を建造するまでには至っていない。
それほどまでに戦艦の建造には多大な労力と技術力を必要としている。
また、列強の中ではあまり国力の高くないイタリア王国が列強の地位を保てているのは、自国でそれなりの性能を有する戦艦を作り上げることが出来るからであった。この時代の戦艦は戦略兵器であり、自国の平和を保障する一翼である。かつて眠れる獅子として見られていた清国ですら、自国で近代戦艦を建造する事は出来ていない。
ともあれ、アルゼンチン海軍に於いては、イタリアから輸入した装甲巡洋艦の評判がよく、海軍がこれに満足していた事もあって、チリの戦艦保有に乗じるような軍備増強計画を立てていなかった。それに軍艦は購入するだけでなく、訓練にて熟練度を上げなければ戦力として使えない。
故に、例え今から動いてもブラジル軍に対して大きく遅れを取るのは避けられなかった。
リリシアは手元にある取り分け皿が目にある4つ目のサヴァランを2割ほど食べた時点で一旦手を止めて、デザートフォークを置く。リリシアはガルシア大佐に安心させるように微笑んでからバックから一通の封筒を取り出す。封筒の中には先日、帝国軍開発部によってまとめ上げられた薩摩級の概要が書かれた資料と幾つかの写真が入っていた。しかもガルシア大佐が読みやすいようにスペイン語になっている。
「これをご覧ください」
「こ、これは!?」
リリシアから手渡された資料と写真を見たガルシア大佐は驚きの声を上げた。
ガルシア大佐が見た写真には大型ドックの中にて5から6割程が出来上がっている戦艦が鮮明に写っていたのだ。ガルシア大佐が驚くのも無理は無かった。外部に漏れていない戦艦の建造状況は軍機に属する情報と言っても過言ではないからだ。
それに観戦武官とは戦訓だけでなく派遣先の軍事情報を集める事も任務としている。思わぬ情報にガルシア大佐は驚きを隠せない。
「極秘裏に建造を進めている薩摩級戦艦になりますわ」
「…長門級ではない新型戦艦ですか……何時の間に…」
「我が国にとって戦艦の極秘建造はさほど難しいことではありません。
長門級が良い例でしょう」
「たっ、確かに仰る通りです。
8隻にも及ぶ長門級の存在は我々にとっても衝撃的でした…
なるほど、長門級の前例からすれば道理ですな」
「詳細は資料にて」
リリシアはガルシア大佐が資料を読んでいる間にデザートフォークを手にとって、2割ほど進めていたサヴァランの攻略を再開する。薩摩級の概要とはいえ、それなりの文章量になっている資料を読み終える頃には、リリシアは4つ目のサヴァランの攻略を完了していた。
リリシアはコーヒーを一口飲んでから言う。
「ともあれ、この薩摩級は長門級を簡略化した戦艦で、
長期に亘って第一線で運用が行えるよう拡張性を残しつつ、
量産性と経済性を優先した戦艦になります」
リリシアの言葉にガルシア大佐が頷くも、
同時に疑問が口から出る。
「しかし、これらは軍機の筈。
この様な情報を私にお教え頂ける理由は一体?」
「薩摩級は主力艦の損失艦を補うために建造が進められていましたが、
幸いにも大きな消耗も無く、現状では竣工しても働きどころが無いのが現状でして……
そこで遊兵と化す位ならば、
友好国に生かして頂こうと軍上層部にて案が出てきたのです」
秋山中佐の言葉にリリシアが続く。
「ガルシア大佐、我が国とアルゼンチンは友好国です。
真っ先に南極の領有宣言を認めてくださった事に対する恩義もありますし、
宜しければ、帝国軍にて建造中の薩摩級をお安く売る事もできます」
もちろん二人の言葉は事実ではない。帝国軍が薩摩級を建造するのは軍事技術の修練のためである。決して戦況を見越しての軍艦ではなかった。写真にある薩摩級はコンピューターグラフィックスで作られたものである。写真の存在と長門級という嘘のような本当の実績が、リリシアの言葉に真実味を与えていた。
この時代に於ける戦艦の建造に掛かる時間は一般的に、資材を事前に手配していも起工から進水まで2年は掛かるだろう。だが帝国重工による手解きを受けた帝国軍横須賀海軍工廠の能力は向上しており、ブロック工法と電気溶接によって1年程度で進水に漕ぎ着けられる予定だった。竣工も進水から1年を予定している。世界の常識を逆手に取った嘘であった。
最悪の場合、帝国重工が建造してしまえば十分に間に合うのも安心材料の一つである。
その場合は横須賀海軍工廠の薩摩級は2番艦になるだろう。
そして、リリシアが言うように、
アルゼンチンはいち早く日本の南極圏と北極圏の領有宣言を承認していた。
何しろアルゼンチンが南極に対して明確な領有意識を持つのはまだ先の事である。また、現在のアルゼンチンには極寒の地よりも、身近な領土紛争に対応せねばならなかった。その為に、アルゼンチンにとって重要ではない案件に工作商会が介入するのも難しい事では無い。
それに帝国重工は1897年からアルゼンチンに対して控えめながらも進出し、少なくない利益を現地に還元してきた事から進出地域に於ける対日感情は良好である。
なにしろ帝国重工は大西洋交易網の一つとして、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスから南西約600kmにある大西洋沿岸の港町プエルト・ベルグラーノに小さいながらも支社を設けており、現地経済を大きく牽引していた。史実の1910年5月15日には、装甲巡洋艦「生駒」が親善訪問として入港した港町である。小さな軍港と工廠しかなかった街であったが、今では軍港から3km北にあるプンタ・アルタ海岸を中心に観光地として整備が進められていた。
このようにアルゼンチンでは外国資本は珍しくは無い。
それだけではなく、鉄道や農牧業といった基幹産業は元から外国資本の手中に置かれていた。しかし、帝国重工は他の外国資本と違い、奪うだけでなく積極的に都市インフラに対する投資を行う事から、アルゼンチンに於ける最良企業の地位を勝ち取っていたのだ。
リリシアの言葉が言う。
「もちろん長門級を簡略化したとはいえ、
この薩摩級はイギリスが建造を進める新型戦艦よりも有力なのは、
我が社が保障します。
帝国重工ではなく帝国軍が建造していますが、
我が社が全面的に監修を行っており、品質に関しても問題はありません」
リリシアは良い船ですよ、と付け加えるのも忘れない。
ガルシア大佐は思いもよらない吉報に表情を明るくするも、
自分自身の立場を思い出したように言う。
「そ、それは有難い申し出ですが……私に決定権はありません」
落胆するガルシア大佐に対してリリシアが優しげに言葉を返す。
「それは存じております。
なので、これらの資料をお渡しします。
本国にいる上層部の方に見せて頂ければ、しかるべき決断を下すでしょう」
ガルシア大佐は知らなかったが、日本帝国は帝国重工による事前の介入に加えて、アルゼンチンに対して日本が行った領有宣言の早期承認を認めさせた日置公使が動いていたのだ。また、日置公使とは、生粋の外交官である日置益(ひおき えき)の事である。彼の交渉の粘り強さには定評がある。史実に於いて彼はロシア帝国、ドイツ帝国、清国、チリ、アルゼンチン、スウェーデンに及ぶ公使経験に加えて、日本政府から指示に従い、清国側からの妨害などを全て回避しつつ、日本の国益を押し通していた。
既に日置公使が帝国重工からの随伴員と共に、アルゼンチン共和国のマヌエル・キンタナ大統領との会談を前日に終えていたのだ。会談を行った場所は1862年から現在まで歴代大統領の行政の場として役割を果たしてきたカサ・ロサーダである。列強としての地位を固めつつある日本帝国と、世界的な大企業である帝国重工からの使者が一緒に面会となれば、大統領と言えども無下には出来ない。
日本側による交渉は、この様に多岐にわたって行われている。
そしてガルシア大佐に対する戦艦購入を進めるような情報提供は、売却に向けての交渉では無く、交渉を装ったアルゼンチン海軍との関係強化が主な目的だった。またチリに対してもアルゼンチンの心証を悪くしない程度に働きが行われていた。
このような日本帝国と帝国重工によるアルゼンチンに対する働きかけは、予想を上回る2隻の戦艦の発注を引き出すことになる。しかも日本帝国に対する発注はそれだけに留まらず、後に駆逐艦などの発注にも広まっていく事になるのだった。
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【あとがき】
このようにアルゼンチンは海軍の近代化として日本製の兵器を購入していきます。
駆逐艦の建造は海防艦や輸送艦の建造に並んで、
佐世保工廠、呉工廠、舞鶴工廠の熟練度向上に大きく貢献するでしょう。
意見、ご感想を心よりお待ちしております。
(2011年01月21日)
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