帝国戦記 第二章 第27話 『日本海海戦 2』
1904年 12月17日 土曜日
兵站部長官を務める田村怡与造(たむら いよぞう)中将と参謀次長の児玉源太郎中将が、東京府新宿町にある統合軍令部本部庁舎の兵站部長官執務室にて話し合っていた。
田村中将とは、ベルリン陸軍大学校に入学し、クラウゼヴィッツの戦争論を始めとした各種軍事学を学んだ後方兵站に精通した軍人である。大本営兵站総監部参謀として日清戦争で活躍し、優れた戦略家とも評され「今信玄」の異名を持つ陸士の秀才であった。
史実では激務が祟り1903年10月1日に死去していたが、この世界では帝国軍の効率化の向上によって命を削るような激務が減少したのと帝国重工の医療によって、このように健康体にて存命していたのだ。
田村中将が言う。
「今朝の新聞に載っていた七博士意見書は見たか?」
「ああ、大学教授とは思えん馬鹿げた内容だったな。
東京日日新聞と朝日新聞の両方を読んだが、碌でもない内容だった」
児玉中将が心底から呆れた口調で応えた。
「バイカル湖まで侵攻しろとは正気の沙汰とは思えん。
第一、どうやって兵站線を維持するのだ?」
「具体案は無いが、軍事費の増大によって対応させるんだろう」
七博士意見書とは東京帝国大学教授「戸水寛人」「富井政章」「小野塚喜平次」「高橋作衛」「金井延」「寺尾亨」学習院教授「中村進午」らが表明した対露武力強硬路線を書き綴った意見書であった。内容はバイカル湖以東の東シベリア占領を謳ったものである。
七博の中で特に危険なのが戸水であった。史実に於いても彼は日本大学・早稲田大学で教鞭を執り、衆議院議員として動いていたが、第一次世界大戦が勃発すると好景気に乗って数多くの企業発起に関わり、証券詐欺や投機で悪名を残した人物であった。
田村中将が忌々しそうに言う。
「なまじ学のあるバカ程恐ろしいものはないなぁ。
今ですら高野閣下からの支援がなければ大変な事になっているというのに…」
「全く……詳細な状況を知らぬ学者が願望だけで
外交方針を論じるなど国を荒らしたいのか!?」
「で、閣下は何と仰っているのだ?」
「10年前と比べて発展したとはいえ、日本の国力はまだまだ小さく、
ユーラシア大陸の内陸に向けて西進など妄想に等しいと言っていた。
全く持って同感だな、そのような夢想を行う国力は日本列島の何処を探しても無い」
日本国力の総力を振り絞ってもユーラシア大陸内陸に侵攻可能な能力が無い事を児玉中将と田村中将には判っていた。三国間条約の陸軍兵力に関しては日本の35倍に達し、国力は28倍の開きがある。更にはロシア帝国が心血注いで作り上げたシベリア鉄道は年間3285万トンの輸送力を持っているのだ。
このような陣営を相手に全面的な長期消耗戦などは考えるだけ無駄と言えよう。
「軍事物資を増産しても民生を圧迫する。
それに七博が帝国重工のように、経済負担を補ってくれるわけでもない」
「同感だ。
扇動するだけで責任を取らぬ彼らは碌な者じゃないな」
児玉中将が同意した。
「どちらにしても、日本帝国の国力では樺太とカムチャツカ半島の開発機材の生産と
両拠点に駐留する部隊に対する物資生産で手が一杯だよ」
「それに、これ以上の戦線拡大に伴う負担の増大は綻びに発展するだろうな。
正常な判断が出来ない七博にも我々が受けている定期研修を受けさせてやりたいものだ」
児玉中将の言葉に田村中将は大笑いする。
彼が言う研修とは帝国軍では将官クラスに課せられる定期的な講義の事を指していた。
その内容は戦略学や軍事史など教養的な事に加えて、経済学、軍事思想史、海洋戦略、政治思想における戦争や戦争哲学、治安維持部隊としての軍事力などの多岐に及ぶ分野を学ぶことになる。
これも、史実に於ける太平洋戦争時の日本軍のように「輜重輸卒が兵隊ならば蝶々蜻蛉も鳥のうち」と揶揄され兵站が軽んじられるような事を繰り返さないようにするためであった。また、参謀たちに於ける思考の硬直化を避ける意味合いも大きい。
これは21世紀に於けるアメリカ合衆国軍の将官カリキュラムを参考にしている。
「ところで話は変わるが、観戦武官たちはどうしている?」
「多くの武官が大自然の驚異を骨身に感じているらしい」
「そりゃ、そうなるな……
寒冷装備を貸したとはいえ、耐寒訓練を受けていなければ辛いだろうに」
観戦武官とは第三国の戦争を観戦するために派遣される武官の事である。実際に戦火を交えずとも戦訓や兵器の有効性を確かめるために有効だった。史実の日露戦争に於いても日本に対して13にも及ぶ国々から合計70人以上の武官が派遣されていたのだ。
この日本でも外交上の相互主義の観点から最低限の観戦武官は引き受けていたが、彼らの派遣先は戦略偵察にて敵主兵力が居ないと判明したカムチャツカ半島方面の上陸戦に占められていた。かの地で行われる上陸戦では強襲揚陸艦は使用していないために、見られても困るような装備は少なかったのが大きいのと、建前上、投入兵力はサハリンよりも多く、各国に対する説明には困らなかったのもあった。
かの地ではインフラが整っておらず、立て篭もった帝国軍に対してロシア軍による反撃作戦は不可能に等しい。故に目下の敵は大自然であり、観戦武官の報告書は北極探検隊のような内容になるに違いないだろう。観戦武官が帰還しようにも既に、カムチャツカ半島方面は冬に突入しており、一帯の天候からして安易に帰ることは出来ないのだ。
二人の会話がしばらく続くが、
会話が途切れた頃合を見計らって田村中将が口を開く。
「で、参謀次長の貴様が朝早くから来るとは大掛かりな兵站準備要請でもあるのか?」
「流石に田村中将は鋭いな。
用件だがサハリン向けの輸送船団を編成してもらいたいのだ。
必要物資に関しては帝国重工が用意してくださる」
「高野閣下の寝ている方向に足を向けられんな」
「全くだ」
「で…どのくらいの規模の船団が必要なのだ?
言っとくが戦時体制に移行していないので民間船の徴用は無いぞ」
「一度に運ぶ量はそれほど多量ではない」
そう言いつつ、児玉中将は鞄から書類を取り出して田村中将に手渡すと、書類に記されている情報を元に田村中将は大雑把に計算を始めた。
「大雑把に計算して約50万トンの物資か…
しかし、基地建築に必要とはいえ、これだけの量を5回で運び込むとなると、
一等輸送艦が一度に6隻必要になるな」
「不可能か?」
「いや可能だ。だが輸送スケジュールが詰っているので、
今日から取り組んでも2ヶ月ほどの準備期間が必要だぞ?
他の輸送計画に影響が出ない様にするとなると…恐らく輸送完了は来年の初夏頃だろう」
史実の日露戦争に於いて待機期間に消費した軍需物資は食糧を含めて約221万トンである。しかも戦闘となれば物資消費量は待機期間と比べて大きく増えるのだ。それらに比べれば、この世界に於ける帝国軍はずいぶんと抑えていると言えるだろう。
また、帝国軍に於ける輸送船には戦前から建造を進めてきた、載貨重量16500トンに上る11隻の一等輸送艦が主力を務めている。性能的には第二次世界大戦時にて連合国で活躍したT2タンカーに近いものがあった。
「その期間で準備ができるなら十分だ」
「なるほどな……
この輸送船団、いや積荷の目的を以ってして猛獣を誘い込むのか」
「頭の回転の速い貴様らしい。
概ね正解だが、その内容を外部に漏らすと貴様を逮捕しなければならん」
その言葉に田村中将が即座に了承した。後方兵站専門とはいえ、田村中将も戦争戦略を理解する一人の軍人であり、児玉中将の考えの正しさを知っていたからである。歩兵第21連隊が先月に占領したハバロフスク州ラザレフ地方の西10km先にあるクラソフカとニギリをラインを基点として恒久的な軍事基地の建設が始まろうとしていた。
サハリン島アレクサンドロフスクのボリシャヤ・アレクサンドロフカ川に隣接する春石地区にイギリス帝国の観戦武官イアン・ハミルトン中将が居た。経験豊かな彼はカムチャツカ半島での環境から大規模な戦闘に発展することは無いと判断を下しており、この地に一足先に引き下がっていたのだ。
また、周りには休養に入っている帝国兵が数多く見受けられる通り、アレクサンドロフスクは軍の後方基地として稼動しているのが良くわかる光景であろう。
それに、略奪などを一切禁じているだけでなく厳格な規律で動く帝国軍だけに、住民からの評判はすこぶる良い。
そのような情景を興味深そうに観察しつつ、
ハミルトン中将は正面に座るアルゼンチン海軍のドメク・ガルシア大佐に向かって言う。
「……ここは、あのカムチャツカ半島と比べて落ち着くな。
治安もよく十分な休養地になる。
まっ、そのおかげで我々も大助かりでもあるがな」
「そうですね……あの土地は戦争するような場所でありません」
春石地区で偶然出会った二人は、情報交換を兼ねて夕食を共にしていたのだ。海外で活動する軍人にはこのような社交性の能力が必要不可欠と言える。
ガルシア大佐はハミルトン中将と同じ観戦武官であった。彼はカムチャツカ半島上陸船団の護衛任務に就いていた護衛艦「旗風」「浦風」からなる第四任務艦隊に随伴していたが、2日前に艦隊がコルサコフ港に入港した際に艦隊司令の三須宗太郎少将と共に上陸していたのだ。
それだけにハミルトン中将と同じく、北の厳しい環境に精通していた。
「3ヶ月前にアレクサンドロフスクを占領したばかりなのに、
住民の心を掴んでいると見える……」
「それに開発状況も普通じゃありません」
「ああ、そうだな。
これ程の建造物を建築してしまうとは帝国重工の開発能力は桁違いに高いと見えるが…
街には電気式街灯の整備が進められている。
はっきり言って驚くべき出来事だよ」
「全くです。
ロシア帝国から日本帝国に支配圏が移っただけで、
ここまで変わるとは思いませんでした」
640平方メートルの四角錐型建築物が4つ連結して作られたドームの中は年内を通して温暖な気温に保たれていた。複雑な仕組みではなかったが、それゆえに最小限の資材でここまでの建造物を作り上げた帝国重工の技術力の高さが嫌でも伝わってくるだろう。各支柱の強度からして、欧米諸国から逸脱していることが素人見でもわかる。
「複数の列強との戦争を行っているにも関わらず、
戦時体制にすら移行していない日本は余りにも異様だ……物資欠如も見られん。
見ろ、占領地にも関わらず新鮮な果物が供給されている」
戦争経験の豪富なハミルトン中将にとって日本の現状は信じがたい出来事の連続であった。日本帝国が独力で3国の列強に対して抵抗が出来ているだけではない。
彼のテーブルには公爵領から輸送されてきたマンゴーを使ったデザートがあったのだ。決して安くはなかったが、戦時下に於いてこのような嗜好品に不自由しない事実が日本の通商路が保全されている良い証拠と言えるであろう。
サハリンに対する物資補給はコルサコフ港から行われていたのだが、かの港は対馬海流の影響によって冬季でも問題なく港湾設備が使用可能な不凍港であり、青森県大湊町にある大湊軍港から出航する輸送船団によって物資供給が遅滞無く行われていたのだ。
ガルシア大佐が声を潜めて言う。
「コルサコフから、このアレクサンドロフスクにかけて
鉄道敷設が始められているのはご存知ですか?」
「それは本当かね?
確かに鉄道は補給に欠かせないが……しかし、あまりにも非効率すぎる」
この情報は彼が随伴していた第四任務艦隊が工兵部隊を運び込む輸送船団の護衛していた事によって得られた情報である。
「確かに、アレクサンドロフスク北部にあるボギビにまで鉄道を延ばしても、
対岸のラザレフまで運べなければ大きな効果は無いでしょう」
「そうだ、ボギビからラザレフまで10kmも無いとは言え、冬になれば流氷に覆われる。
冬季を避けて輸送するにしても解せん。
積み下ろしの手間を考慮すれば一気に運び込んだほうが早いだろう。
大陸に対する侵攻橋頭保にするなら判らんでもないが、そのような兵力は日本には無い」
「ええ、例え民需活性を狙った設備投資にしてもサハリンの人口は少なく、
採算が取れないでしょう」
話し合いも続けるもハミルトン中将とガルシア大佐には答えがでなかった。
これは二人の能力不足では無い。
戦時に軍隊を用いて行う工事にも関わらず日本側が進めているのが、民需を主眼に置いた鉄道敷設などとは思うはずが無かった。そして、採算性を持たせるために、戦後には海底トンネルを用いて日本列島と繋げることなどは想定するのは無理に違いない。第一、この世界の一般技術水準からして長距離海底トンネルは妄想に等しい考えである。
そもそも世界の技術水準を大きく超える出来事を想像する事などは容易ではない。
このように二人の話題は盛り上がっていくように見えたが、
しばらくして中断する事になった。
イリナを初めとした人気モデルたちによる新体操の公演開始を告げる挨拶が始まったのだ。
この新体操の公演は広報事業部が帝国軍の慰安に向けて行われているもので、内地に於いても放映されるほどの人気の高さである。
ハミルトン中将とガルシア大佐の二人は帝国軍との交流によって、彼らの風習に感化されていたと言っても過言ではない。要約するとファンになったと言えるであろう。待ちに待った戦争を観戦するように二人は公演を見ることに集中したのであった。
観戦武官として情報収集に熱心な二人は公演を両眼にて目視しただけでは満足せずに、更なる情報を求めて新体操などの競技をメインにした写真集「妙技」を複数冊購入する事になる。
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【あとがき】
約37万8900発の砲弾、約260万発の小銃弾を消費した史実に比べれば、ずいぶんと帝国軍は物資の消費を抑えています。ともあれ、従軍武官が集めた地形や軍の情報は編集され本国に送られることになるが、本国は戦訓の無さに頭を抱えるでしょう(笑)
今のままでは、従軍武官の意味が無いですね(悪)
意見、ご感想を心よりお待ちしております。
(2010年05月04日)
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