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帝国戦記 第25話 『台湾情勢』


時はその使い方によって金にも鉛にもなる。

アントワーヌ・フランソワ・プレヴォ





1901年 11月4日 月曜日

日本帝国は労働力不足で困窮する大韓帝国からの朝鮮人帰国要請に応じる。




1901年 11月6日 水曜日

イギリス帝国が日英同盟案提示。
日本帝国は戦争の引き金になるとして、好意的な中立条約の案を代案として提示する。




1901年 12月1日 日曜日

米比戦争、米軍の死者が10000人を超えるも戦況は好転せず。




1901年 12月29日 金曜日

英軍は幼児期における日照不足(ビタミンD)と粉ミルクなどの人工乳によってもたらされた「くる病」によって兵員数不足に悩まされ、ボーア軍のクルーガー将軍の反撃によってヨハネスブルグを奪われる。




1902年 1月5日 水曜日

神奈川県横浜市中区山下町一帯に帝国重工資本の万国街が開設。

横浜の中国人らが1900年8月25日に中華街市場を申請していたが、この日本では1896年の横浜港に中国人のペスト患者が上陸した事件と衛生問題を理由に、受理はされていなかった。




1902年 1月11日 火曜日

帝国重工の特殊作戦群が日本帝国内における教科書選定に関する贈賄の証拠を確保した事により教科書疑獄が発覚した。事件に関与する国会議員、県知事や文部省の担当者、府県の採択担当者、師範学校校長や小学校長、教科書会社関係者に対して徹底的な調査と先進的な科学調査を含めた結果、冤罪は無かったがその罪状は重く、重罪に処されて行った。




1902年 2月20日 木曜日

日本帝国にて、元老の井上馨、伊藤博文が失脚する。井上の重度の汚職行為と、伊藤の女性に対する性犯罪に加えて、使節団として渡航する際に政府から渡された支度金を私的に散財するなど、元老に有るまじき行為の数々が明治天皇の怒りを買ったのだ。














清国は日清戦争の賠償領土にて台湾島を所望した時、清朝の李鴻章(宰相)は其の所望を「日本はやがて、台湾を割譲したのは、非常に悪い取り引き、と後悔するだろう」と明言していた。

その理由は当時の台湾はシナ及び諸外国の無法者が逃げ隠れる巣窟であり、環境は険悪でスペインもオランダも過去に台湾の殖民を試みたが、失敗し放棄している。フランスも英国も、劣悪な治安と麻薬と疫病が蔓延する台湾領有を行うどころか、長く留まる事すら無かった。

故に欧米諸国は日本人の最初の植民地経営はどの様に失敗するか注目していたのだ。

日本帝国軍が比志島混成支隊を先頭に台湾島に上陸した時の台湾情勢は、海岸沿岸は海賊の蟠踞でコントロールされ、部分的には土匪武力集団という犯罪組織の制圧下にあるという有様であった。

そのような危険地帯を制圧するに当たって、日本政府は確保した橋頭堡から1895年5月29日に、日本帝国陸軍において最大の火力と装備充足率を有する能久親王率いる近衛師団を上陸させて、台湾統治の基礎である治安回復に当たらせていく。史実と違っていたのは高野が無人偵察機によって撮影した台湾武力集団の概略位置を山縣と明治天皇を介して近衛師団に伝えていたことであろう。

タイムラグがあるとはいえ、詳細な敵情情報を得ていた近衛師団は欧米諸国が驚く速度で台湾島を制圧していった。事前に用意していた医療品と、正しい予防対策によって病死者が殆どでなかったのも大きい。

能久親王中将と山根信成少将は史実と違って病死はしなかった。

史実では1902年に掃討作戦が完了していたのだが、この世界では1896年の半ばには掃討作戦を終わらせており、日本帝国による資本投下が始まっていたのだ。

日本帝国は台湾に蔓延していたアヘンを撲滅するべく、帝国重工の支援の下で史実よりも早く的確に治療していく。帝国重工が生み出した中毒中和剤の使用と共に、台湾アヘン患者に対してアヘン使用量を逐次減少していき、最終的には使用を断ち切る意味で、日本政府は史実と同じように台湾内においてアヘン販売を「専売制度下」に置いた。

日本統治の巧妙なところはアヘン使用は法の許可するものであるが、使用禁止の方向原則をも併用していた処であろう。

アヘン患者と認定された者に限りアヘンを購買できるが厳しい監視下に置かれ、登録販売店を通じて極少量が購入出来るライセンスが与えられ、警察の監視は現在の使用者と使用者が増加しないよう、厳しく取り締まっていたのだ。

専売制度下の施行と同時に、帝国本土と同じように台湾でも学校教育が始まると、教育を介してアヘンがもたらす習慣性が健康と人生に対して著しい害を使用者に強制すると写真を交えて広めていく。また、日本帝国が広める小学校教育には日本語教育が大きく組み込まれていたが、台湾人から批判を受けないように無料教育と給食がセットになっている。

更に意識改革を含めた懸命な政策によって1900年にはインフラ、衛生、経済、治安環境の著しい向上と共に、住民の宗教や風俗に干渉して感情を害しないように、多くの改革改善を行い、日本帝国の統治が良いと実証するように努めていた。

日本帝国が派遣した後藤新平と帝国重工の統治の結果、アヘン問題に関しては1905年には完全に撲滅される見通しすら出ており、台湾人の心境は徐々にだが、それでも確実に日本側へと傾いていったのだ。

清国だけでなく、欧米も日本統治の巧みさに驚き、植民地として組み入れようにも日本の統治は隙を見せなかった。



その台湾にある帝国重工支社ビルの支店長室にて二人の女性が話し合っている。

「台湾の経済発展は順調のようですね」

「はい、計画に遅延はありません」

支店長室にいるのは、高野さゆりと台湾支店長を勤めている水城イオリである。彼女も準高度AIであり、黒い髪を後ろに流してヘアバンドで固定したネコ目系の美人だ。自信家でいつも強気に振る舞っているが、実の姉のように尊敬する"さゆり"の前では大人しくて素直であった。

「来る前にAIネットワーク上のデータで確認しましたが、農作物の生産量も予定よりも1.85ポイントも上向きで、良好そのものです」

「お姉さまの仰るとおり、農作物の生産量は1896年から比べますと、去年の段階で史実と比べて米の生産は2.05倍、お茶の生産量は1.3倍、そのほかの農産物も農作地に無理を掛けずに平均して1.45倍に増えています」

「流石はイオリ。
 時間を有効に使って計画を状況に応じて的確に進めているね」

"さゆり"が嬉しそうに褒めると、イオリの表情も柔らかくなる。

「日本帝国軍による民意を考慮した治安維持と帝国重工による市内開発と周辺農地の治水と開墾の結果が出てきた証拠ですわ」

「イオリの言う通り、台湾情勢が落ち着けば、今後も発展が進むでしょうね」

台湾は清朝統治下と比べて見違えるような成長を始めており、産業機関の整備によって台湾で作られるバナナ、マンゴーなどは帝国重工の先進的な冷凍保存技術や缶詰により、鮮度を保ちながら帝国本土と公爵領に輸出が出来るようになっていたのだ。日本帝国軍が駐留していたが、すでに近衛師団は本土へと帰還しており、台湾駐留部隊は各師団から抽出した、合計7個中隊によって補われていた。

「住民達も安心できる政治環境で、労働に対する正しい対価が払われることによって向上心と労働意欲が備わってきました」

「前向きな人々となると、将来が楽しみですね」

「はい! また、主要都市である台北、高雄街に関しては上下水道の基本工事は終えており、発展の基礎は完成しています。また、去年から建設が始まった台北公会堂も来年までには完成する予定で…予算の都合さえつけば島内鉄道の整備も進めて行きたいですね」

史実では1936年12月26日に建設された台北公会堂であったが、この時代では帝国重工の資本力によってこの時期に作られることになったのだ。内部は集会室、娯楽室、理髪室、貴賓室、食堂、天文台により構成される予定だ。集会室は2階構造であり、座席数は史実よりも多い2,506席で、映画上映設備を有している。

「帝国本土と公爵領との商業取引も増えて何よりです。本社の方も出来る限り予算を投入していくので台湾の安定発展に力を尽くしてください」

「お姉さまのご期待に応えて見せます!」

「イオリ、くれぐれも無理はしない範囲で留めてね?」

「わかっています♪」

急がずに帝国重工基準で、ゆっくりと台湾を発展させていく経済計画が帝国重工によって立てられており、更に優秀な準高度AIによる支援体制を受けた台湾の未来は明るかった。また、都市開発の化身とも言われるようになった真田は良い意味での完ぺき主義者であり、一片の手抜きすら行わないであろう。

「では、お姉さま。
 そろそろ後藤長官との会談のお時間です」

「判りました。
 では、真田さんも会議室で合流する予定なので、私達も行きましょう」

「はい」

後藤長官とは、後藤新平(ごとう しんぺい)の事である。

史実に於いて、台湾民政を整えた有能な植民地経営者にて有能な都市計画家でもあった。そして、この世界では真田の都市開発計画の熱烈な信奉者でもあり、台湾支店長のイオリを通じて今回の会談が実現していたのだ。そして、その会談に於いて二人は意気投合し、日本領域の開発について熱く語ることになる。

真田と後藤による台湾都市開発計画の成功はこの時決まったようなものであった。
そして、それは始まりに過ぎなかった……


また不思議な事に、帝国本土、公爵領がどれほど発展しても密入国は僅かな例外を除いて成功しなかった。 例外というのは優遇待遇国の船舶に忍び込んで行う密入国である。しかし、そのような手段を用いて上陸を果たしても、大抵は港周辺で待ち構えていた警察によって確保されてしまうのだ。

それは、日本国防軍の上層部と関係者しか知らなかったが、日本防衛システムとして構築した最高度機密に属する警戒網の一つである。

日本国防軍は南シナ海、日本海、太平洋の全域において構築したSUAVによる成層圏監視システムによって、リアルタイムでの全船舶の出航から寄航までの監視追跡を1897年から行っていたのだ。船舶内の人数すら熱紋迷彩対策型の高度赤外線探査装置によって把握している徹底振りである。

そして、日本国防軍はバイノーラル技術を応用した、特定の音の周波数を組み合わせて人の意識状態のコントロールするホス(Hemisync-Operating-System:ヘミシンクオペレーティングシステム)と各種音波兵器などの非認性ストレス兵器を搭載した無人無音偵察機を定期哨戒させており、正規の航海ルートを通らない不審船に対して航路変更の介入を行っていた。

中国大陸や半島から非合法に上陸を狙うものは、イギリス帝国が支配する香港や最寄国に漂着するように介入を行っている。

このように帝国重工は日本勢力圏内の安定した成長を続けるために、また、経済発展を阻害する難民をあらゆる方法で防ぐ手筈を整えていたのだ。日本領域に不法入国を果たすのは不可能ではなかったが、エベレストを登頂するのと同じぐらいに難関なものになっていた。
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【あとがき】
私は後藤新平を高く評価しています。

「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。
 仕事を残して死ぬ者は中だ。

 人を残して死ぬ者は上だ。
 よく覚えておけ」

すごい言葉だな……
後藤さんには真田さんと一緒に、凶悪な都市開発計画に突き進んでもらいましょうww


【Q & A :伊藤博文が性犯罪?】
1887年4月20日、永田町の首相官邸で催された大夜会にて、伊藤は美貌で名高い戸田伯爵夫人を殆ど強姦した様な記事が掲載されていました。

また馬車に女性を連れ込んで1日中走らせたりしたり…真に元老か!? 日本人初のカーセックスの実行者とも言えますが…ともあれ、挙句の果てに碌な監視機構を設けず腐敗政治を生みやすい政党政治を起した人物の一人だったので、早期に退場してもらいました。


意見、ご感想お待ちしております。

(2009年07月06日)
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