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帝国戦記 第15話 『統合軍令部発足』
明治の地租には地価の3%の税を課すことが定められていた。
しかし、地価の3%は見かけよりも遥かに小作人にとって大きな負担だったのだ。
税金は金納制であり農作物を現金に換える際に米相場のリスクを背負わされ、しかも地価は税金の予定総額を確保するように恣意的に操作されてもいたので、実際の金額にすれば年貢の50%を超える場合が殆どであったのだ。
1897年6月1日火曜日、天皇は日本国における低所得者の代表格である小作人の現状を考えて、税を地価の3%から2%に引き下げるよう明治政府に勅令を下した。また、有力な資源が安易にゴミとして捨てられないようにゴミの分別などを詳細に取り決めた資源再利用法も制定する。
この減税によって小作人の多くは、多少であったが生活が楽になって行く。
しかし、減税分を補うべく所得税は1.3%から5%へと上げられ、現金収入が限られていた小作人には殆ど関係は無いが、財閥や商人の負担は増す事になる。当然、財界からの支援を受けている議員からの反対はあったが、所得税増税の最大の賛成勢力は日本国内最大の帝国重工であり、帝国重工からの支援を受けた茶話会の勢いに押される形で可決された。
日本国家予算を上回る収益を上げている帝国重工の力は大きい。
反対に回っていた者は賛成派の背後勢力を知ると大人しくなった。
緩やかであったが国内の景気は右上がりであり、彼らも帝国重工のお陰で国外から割高な工作機械や機材を買わなくて良くなった分、増税分を上回る利益を得ていたのだ。
これらの事が史実では不可能だった減税を可能にしていた。
1897年6月4日金曜日、帝国重工は逓信省電務局電気試験所に対して応用フォトニック結晶光ファイバーを提供する。浅野慶輔所長はその優れた性質に驚愕し、史実よりも早く海底電信線の設置に向けて動き出す。 それもそのはず、史実において浅野慶輔は、1903年に日本人だけの力で長崎から台湾間の海底600海里におよぶ電信線を設置していたのだ。
もちろん、これから発展を始める無線電信に関しても、帝国重工は手を打っていた。
史実ではイタリアのグリエルモ・マルコーニによって1896年に発明された無線電信の技術は、1895年の12月に帝国重工はその特許を各国で獲得するだけでなく、もう直ぐ実用化される無線機、送信装置、受信装置、電磁波検出器、鉱石検波器も獲得済みだった。
ただし、ヨーロッパ販売に関しては、インド発の世界的な物理学者にして、無線研究の先駆者のジャガディッシュ・チャンドラ・ボースに代理販売を持ちかけて、チャンドラ・ボース無線電信会社の設立を支援している。
この世界においてはマルコーニは無名のままで終わるであろう。
欧米においても帝国重工の存在は黄色人種の日本人にも関わらず、新興だが世界一流企業として見られ始めていた。
そして、帝国重工の価値が高まるたびに、欧米の資本家達は帝国重工が株式公開する日を心待ちにするようになって行く。思うままに操り、利益を貪るために…
しかし、設立当初から帝国重工は膨大な資本力を有する欧米資本の乗っ取りを警戒しており、株式公開を行うつもりは、万に一つにも無かった。
1897年7月7日水曜日に帝国軍統合軍令部が発足。
これによって、陸軍・海軍大臣を統合した軍務大臣が制定され、天皇の最高軍事顧問として日本帝国の軍事力を統括して行くことになる。
史実においても西郷従道は1896年8月31日から海軍大臣と陸軍大臣を兼任しており、同年の9月18日にて陸軍大臣職が大山巌に引き継がれたが、この世界では帝国軍統合軍令部を設立する目的で西郷が陸軍大臣職を兼任していた。
ただし、統合軍令本部は完成しておらず、新宿町にある陸軍士官学校の跡地を中心に国土開発事業部によって建築が進められていた。1900年に完成する予定であり、それまでは陸海軍ともに現在の建物を使う事になっている。
すでに、陸軍士官学校と海軍大学校は一つの学校として神奈川県横須賀市に移転していた。
国土開発事業部によって建設済みだった施設を改修して使用しているのだ。
帝国軍統合軍令部の設立によって、命令系統の整備、女性の軍参加、軍服更新、階級制度の見直し、給与の見直しと幅広い改革が執り行われた。
軍事計画全般を司るのが統合軍令部議長が率いる統合軍令部であったが、軍事戦略に専念させるために作戦指揮権は有していない。
あくまで天皇、軍務大臣及び国家安全保障会議の3者に対する顧問の役割に限定されていた。
実戦部隊の運用は、陸軍参謀総長と海軍作戦部長が行うのだ。
統合軍令部はこのように8つの部門に分かれている。
総務部
予算、人事、教育等を担当。
戦略部
軍事戦略の立案や分析を担当。
情報部
偵察作戦支援や諜報活動を担当。
作戦部
軍事作戦の立案を担当。
兵站部
兵站計画や補給線の立案を担当。
通信部
各方面の無線や有線通信などの統合システムの整備を担当。
開発部
陸海軍で使用する兵器の開発を担当。
運用部
運用や編成計画、必要資源の調達や戦力評価を担当。
一部門が暴走しないように役割を明確に定めたのだ。
軍服に関してだが、森林、山岳、砂漠、夜間、雪上、都市において対応可能な全地域型迷彩(ACU迷彩)が施されている95式個人防護装備は帝国重工でしか作れなかったが、礼服などこの時代の技術で作れる衣類に関してはその大多数が開発部所管の衣糧廠で作られる。
塗料以外の材料は民間からの購入であり、材料が揃い次第に生産が始められ、師団単位で順に交換を行う予定であった。
今回の軍服更新が実現したのは統合軍令部発足だけが原因ではない。
軍服更新と軍隊における女性の採用を謳った山縣と西郷が率いる「開明会」の存在と、人気雑誌である「先進科学」は創刊からずっと、帝国重工の軍服で着飾った美女達の特設ページを設けている等の、無言の支援も大きい。
多少、イリナによるキワドイ写真もあったが、「先進科学」は1895年4月1日に開かれた第4回内国勧業博覧会にて展示された黒田清輝が描いた裸体画の「朝妝」を擁護する内容を掲載し続けてきた結果もあって、大きな問題には発展しなかった。
また、その行動を経済発展に結びつけた帝国重工の存在も忘れてはならないだろう。
今回の軍服更新によって内需が拡大したのだ。欧米から安く買い叩かれるよりも、国内で確りとした価格で買い取ってくれるならば、わざわざ海外に売る必要が無い。外貨獲得の為に明治政府が輸出を進めていた絹織物、綿糸、綿織物の多くが国内消費へと切り替えられて行く。
安く買い叩かれると判っていても何故、明治政府に外貨が必要だったのか?
外貨を手に入れて、国内に無い資源や工作機械を海外から手に入れる為である。
しかし、工作機械に関しては帝国重工が超良質なものを作り出せるので、明治政府にとっての外貨の価値は下落した。
更に資源に関しても事情が好転していく。
帝国重工が交易によって得た外貨で膨大な資源を購入して、それを日本国内に海外よりも安価で投下していくと海外貿易の必要性が更に下がって行ったのだ。
海外から買うよりも帝国重工から買うほうが安ければ、無理をして海外から買う必要が無い…
最高意思決定機関は国内産業を大量消費型ではなく、資源統制経済を行いつつ安定消費型の内需に育て上げて、1929年10月24日に起こる世界恐慌に備えていくのだ。
資源調達先を帝国重工に限定する事で、柔軟に資源供給元の変更を行えるようにしていた。
また、宇宙開発が進めば、徐々に資源入手先を切り替えて、最終的には地球経済からの完全独立を目指している。
その為の宇宙開発であり宇宙移民なのだ。
天皇、高野を中心に構成される最高意思決定機関しか知らなかったが、日本帝国が目指している最終目標は宇宙から地球を支配するのでは無い。植民地支配のような他国に流血を強いるのではなく、列強の支配が及んでいない月、小惑星の資源を得ることで日本の未来を確保する事であった。火星圏の開発終了後には地球衛星軌道を封鎖して平和裏に地球との永遠の離別をも視野に入れている。
宇宙進出を実現するための資源調達の為に一時的な経済覇権を目指してはいたが、進出を終えてしまえば地球には用はない。もちろん計画が遅れる場合等に備えて、地球での生存圏を得る計画も進められている。
また、階級に関しても幾つかの変化が加えられた。
准将という階級が追加されたのと、昇進階級を大佐に留めて、それ以上の階級に関しては役職に応じて変わる仕組みへと変更したのだ。能力に応じて人事異動を円滑に行うためである。
また、大佐以上の軍人の反抗を防ぐために帝室御料から恩給の名目で、現在の階級に応じて支払われていた給与の15年分を前倒しで、全員に対して一括で支払ったのだ。
これによって軍人給与法が制定され、月俸も1897年8月からは、大佐の月俸は陸海軍の大佐給与を足して半分で割った150円と制定される。少将からは役職給が付け加えられるが、それであっても統合前の給与よりは低く抑えられていた。
統合軍令部上層部はこのようになっている。
大将:統合軍令部議長:西郷従道(軍務大臣)
大将:統合軍令部副議長:川上操六
大将:陸軍参謀総長:大山巌
大将:海軍作戦部長:山本権兵衛
大将:帝国陸軍司令長官:立見尚文
大将:連合艦隊司令長官:坪井航三
陸軍兵力に関しては、日清戦争の際に動員した後備軍12万の動員解除を終えて15万5千まで減少していたが、その甲斐あって、陸軍兵器の更新が始まっていた。使用するのは帝国重工製の95式小銃、95式重機関銃、81o迫撃砲、120o迫撃砲だけでは無い。
資金的な問題から95式小銃の使用は新設の特殊部隊と近衛師団の一部に限られている。
その状況を打開するために東京砲兵工廠、大阪砲兵工廠、小倉陸軍造兵廠の3つの工廠を管理下に収めた開発部に所属する有坂成章が作り上げた30式小銃がハイ・ロー・ミックスの一環として試験運用として1896年から先行量産が行われていた。そして、1897年(明治30年)1月からは正式な量産が始まっており、各部隊に対しての配備が始まっている。
陸軍は使用していた全てのスナイドル銃、十三年式村田銃、十八年式村田銃、 二十二年式村田連発銃と約240門の野砲や山砲をただ処分するのではなく、軍縮を理由に清国に安値で売却を申し入れたのだ。その時期の清国軍には旧式兵器しか無く、更には治安維持に不安を抱いていた。このような事情により、帝国重工の仲介もあって余剰弾薬と共に日本側から50万ポンド分の鉱石資源を支払って購入していたのだ。
帝国重工は清国の大冶鉱山の鉄鉱石を適正価格で大量に輸入しており、明確な経済パイプが出来上がっていた事が大きな助けとなっている。それに、列強にただ同然でもっていかれる位ならば、帝国重工に売ったほうが遥かに得だった。支払いは当然、帝国重工が得ている外貨である。
更に、帝国重工が砲塔生産を開始した葛城級巡洋艦の主砲を流用した長射程155o野戦重砲の開発も終え、先行量産型の配備が近衛師団から始まっていた。
また、陸軍の花形だった約2100騎の騎兵も年々縮小していく方向で、火力至上主義と言っても良いぐらいに近代化に真剣に取り組み始めている。
その甲斐があって、約63,000名の歩兵の2割が30式小銃で装備するまでに達していた。小銃を持たない者は公共事業に従事させて有効活用していく。公共事業に従事する兵士には特別手当を出す事によって士気低下を防いでいる。
これらの背景もあって、陸軍の装備充実主義は信仰に等しいものになっていた。
陸軍兵力は7個師団とそれを支える後方兵站などを含めて15万5千に留まっており、海軍兵力に関しても常備艦隊が解体され、帝国重工製で固められた第一艦隊と旧式艦の第二艦隊の編成に伴い、連合艦隊が編成されていたのだ。
そして、出鱈目な性能を有する雪風級護衛艦の「雪風」「海風」「山風」「江風」と、先月に第一大型ドックにて完成した「浦風」「谷風」は全ての海上公試を終え、帝国海軍の第一艦隊へと編入されており、既に慣熟訓練に入っている。
連合艦隊司令長官の坪井大将は海軍省の執務室の室内で狐に化かされたような表情をしていた。彼は健康診断の名目で、帝国重工の生命環境事業部によって延命措置を受けており、 1898年2月1日に病気で死ぬことは無いであろう。
「うーむ…」
「とんでもない事になりましたね」
第一艦隊司令の上村中将は上官である坪井大将に応えつつ、書類に視線を落しながら言葉を続けた。上村中将は坪井大将と共に、先程まで幕張造船所の視察に出かけていたのだ。
「予想以上の建造速度です…」
「確かに現物を見るまで信じられなかったが…確かに半分は完成していた。
彼らの科学技術力は予想以上のものがあるな」
帝国重工で完成した第三ドックにて雪風級護衛艦の8隻同時の建造と、第一大型ドックにて開いたスペースにて2隻の雪風級護衛艦の建造が始まっていた。そこまでは計画となんら変わりなく驚く要素ではない。
しかし、その先が驚きだった。
建造速度が6ヶ月から50日〜55日に短縮する見通しを帝国重工から伝えられ、高野に連れられて幕張造船所の建造状況の現状を見ると、確かに10隻の雪風級護衛艦が建造が始まって1ヶ月も経っていないのに、10隻に上る雪風級の船体が6割以上も組み上がっていたのだ。
常識外の建造速度に坪井大将と上村中将は驚く事しか出来なかった。
帝国重工の作る艦艇はモジュール交換を意識したブロック工法である。
今までと違って、造船所周辺の建造設備の充実によって、船体各部品を別工場で別々に製造出来るようになった事が建造速度を実現していた。これらの生産施設の大半は、日露戦争に向けての軍整備が終わり次第に、宇宙港建造施設へと流用されるのだ。
品質が変わらず建造が早くなるなら問題ないと、考えを切り替えた上村中将は話題を変えた。
「順調に行けば来月には10隻…
これで現在運用している6隻とあわせれば2個戦隊になりますね」
「そうだな…次の10隻が海軍に引き渡されたら、第二艦隊を縮小して、旧世代艦の引退を順次行っていこう」
「ええ、これで問題も少しは解決します」
問題とは、旧世代艦の運用費の高さであった。
性能に問題のある旧世代艦艇は不便な石炭燃料で動くだけでなく、部品寿命が短く維持費が恐ろしく高かった。改装して雑務艦や練習艦として使うよりも、帝国重工に新造艦を依頼した方が将来的にも安い。そして、雪風級護衛艦の高性能ぶりを知れば知るほど、既存艦艇の頼りなさを知る事とになり、性能の格差が気になって仕方が無いのもあった。
これは、まだ規模が小さい連合艦隊だからこそ出来る芸当である。
史実と違って海軍大拡張計画が破棄されており戦艦4隻、巡洋艦12隻、駆逐艦12隻、その他78隻が建造されておらず、作られた船は旧式艦の代艦の護衛艦6隻に留まっていた。
「退役するとなると…済遠、広丙、海門、天龍、金剛、葛城、大和、武蔵の8隻ですね」
巡洋艦広丙は史実では1895年12月21日に台湾方面で任務中に澎湖島南岸で座礁、沈没したがこの世界では高野の事前忠告によって沈没を免れている。また、初代の葛城級は木造水平甲板型のスクリュー・コルヴェットであり、すでに第二線級の戦力であった。
「海門、天龍、金剛、葛城、大和、武蔵、満珠は使用鉄材も少なく、資材用として解体する意味もない。
…軍艦としてではなく、測量船に改装して使うとして…残る船はどうする?」
「済遠、広丙ならば、帝国重工に渡せば鉄材として使うなり、転売するなり上手く使ってくれるのではないでしょうか? 6隻の護衛艦の無償の礼もありますし…帝国重工がいらないと申せば、此方で解体するだけです」
坪井大将は上村中将の案がとても魅力的なものに聞こえた。
「7隻は測量船になるなら、竣工する10隻分の人員数は、済遠、広丙の2隻では足りませんね」
「あと5隻は必要か…どの船も性能面では絶望的に雪風に劣るから選ぶのに困らないな」
「ははっ、確かにそうですね。
となれば、鎮遠、扶桑ならばトン数も多く、鉄材として申し分ないはずです」
坪井大将と上村中将の二人にとって、アジア初の近代的装甲艦「扶桑」も、帝国重工の船を知ってしまった今では、軍艦ではなく再利用を前提とした鉄材にしか見えない。配備当時はアジア最大の軍艦であった、インフレキシブル級装甲艦の縮小版である定遠も、二人にとっては同じように変哲の無い唯の鉄材なのだ。
「確かに鎮遠と扶桑は立派な鉄材だな。
よし…資源は有効活用しなければならないので、この2隻も候補に入れるぞ」
「あとは旧式巡洋艦と旧式砲艦で足りそうですね」
二人は日清戦争前の海軍が知ったら激怒しそうな内容を平然と話していた。
日清戦争勃発前では、建造当時東洋一の堅艦と呼ばれた鎮遠、定遠であり、軽艦艇しか有していなかった帝国海軍からみれば、恐怖の象徴であり羨望の的だったのだ。
それが、今では唯の鉄材である。
時代の流れは残酷であると言えよう。
「順調にことが進めば、今年中には問題は解決しそうだな…
さっそく次の統合幕僚会議での議題にすべく書類としてまとめるとするか」
「ええ、陛下に上申するのは早い方が良いです」
「うむ」
最終的に帝国重工に引き渡す艦艇としてリストアップされた艦艇は9隻に上る。
鎮遠級二等戦艦「鎮遠」、扶桑級二等戦艦「扶桑」、済遠級巡洋艦「済遠」、広丙級巡洋艦「広丙」、アルツーリ・プラット級巡洋艦「筑紫」、平遠級砲艦「平遠」、大島級砲艦「大島」、鎮東級砲艦「鎮東」、操江級砲艦「操江」であるが、6隻は日清戦争で得た賠償艦艇であった。
統合幕僚会議にて雪風級10隻の受け取り同時に、帝国重工に対して無償提供が満場一致にて決まったが、話を持ちかけられた帝国重工は旧式陸軍兵器を清国に資源と引き換えで売却したように、旧式艦艇も同じように資源と交換するように提案したのだ。
雪風級護衛艦の10隻が竣工すると、帝国重工が仲介となって清国との交渉が始められた。
交渉は順調に進み、清国は500万ポンド分の鉱石資源で日本側から9隻の艦艇を購入する事になる。清国側が簡単に応じたのは、帝国重工は清国に対して、日本から艦艇を買えば3年間のうちに1000万ポンド分の鉱石資源をポンド通貨にて購入する契約を結ぶと確約していたからだ。
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【あとがき】
海軍大将(毎月500円)、陸軍大将(毎月250円)…
将来問題化する軍上層部給与の問題を荒業で早期に解決しました。
大佐の給与は陸軍と海軍を足して約2で割った160円ですね。
陸上兵力に関してはローレンツ・フォン・シュタインが立てた防衛プランを参考にしています。
【Q & A :帝国重工って乗っ取れるの?】
株式公開をすれば近い将来には必ず…
あの時代でも、5億ポンドとか平気で出してくるしw
【Q & A :そんな無茶な恩給は帝室御料で足りるの?】
足りないww
安く見積もっても1850万円ほど必要になりますが、帝国重工が補填しており、滞る事無く支払済みです。
【Q & A :モスボール処置は?】
隙間だらけのこの時代の艦艇では、大変なので辞めました。
また、長い年月保管しても意味が無いし…
【Q & A :2ヶ月未満で3200トン級の建造が早くない?】
第二次世界大戦中のアレン・M・サムナー級の建造期間が6ヶ月でした。
【Q & A :鉄鉱石500万トンでどれだけの鉄が作れるの?】
第五世代型電気炉ならばコークス等の触媒は入らないので312万5000トンになります。
↓先進科学に載ったイリナの写真の一つですw↓
時々ですが無性に絵が描きたくなるのけど、許してね(汗)
意見、ご感想お待ちしております。
(2009年05月24日)
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