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帝国戦記 第05話 『始動2』
1895年6月3日月曜日
高野と山縣が陸軍省内部にある執務室にて話し合っていた。
山縣と高野は机を挟むようにして座っており、"さゆり"は高野の隣の椅子に座る。
"さゆり"はデンマーク王国が誇るロイヤル・コペンハーゲン陶磁器工房のカップとソーサーを優雅に手にとって、21世紀中盤では環境破壊によって味わう事の出来ない、天然の紅茶の味を楽しんでいる。潜入諜報用の機能から、擬体の構成部位の多くに生体素子が使われており、このような芸当が可能なのだ。
「美味しい…
山縣さん、これはアッサムティー? それとも、ダージリンでしょうか?」
"さゆり"は大まかな味と、この時期に日本にある紅茶の種類から辺りをつけて山縣に尋ねた。
彼女は飲食物に関してはデータ分析をしない。
最初は、人間に近づく努力から感じたままの感覚を重視していたのだが、今では飲食物の美味しさを素直に楽しむことが純粋に好きになっている。心が育った証拠であろう。
「ええ、多田から手に入れたアッサムティーです」
「なるほど!」
多田とは十等出仕として内務省管轄の勧業寮第七課に配属されていた、近代日本の紅茶と緑茶の生産基盤を築いた、多田元吉(ただ もときち)の事である。
外貨獲得の為に、紅茶輸出を目論んだ明治政府の命によって、彼は1876年〜1877年にかけてインドのアッサム地方とダージリン地方、イギリスのセイロン島へと渡って、そこから紅茶の原木を日本に持ち帰り、甲信越地方の丸子町にて栽培していたのだ。
高野も紅茶を味わいつつ、山縣との会話を再開する。
「確かに見事な紅茶です。で…山縣さん、話を戻しますね。
ロシアと交渉して北緯36度17分から北に位置する朝鮮半島の権利を認める代わりに、
譲歩を引き出せると思いますか?」
「清国と違って強大な力を有するロシア相手では無理だろうな」
高野の現在の肩書きは宮内庁御用達の商人であった。これは、山縣の暗躍と明治天皇の指名によって実現している。聞いたことも無い商人の抜擢に周囲からの反対の意見はあったが、見たことも無い素材(高分子繊維)で作られた洋服を見ると下火になった。珍しいものを用意できるのは力がある証拠だからだ。
「私もそう考えます。
私達がどの様に動いてもロシアは必ず南下してきますが…
1904年…出来る事ならば、1906年まで引き伸ばせれば理想的です」
「出方が判っている日露戦争を避けるのか?」
歴史の主要事件が網羅されたファイルを山縣は受け取っており、日露間で戦争が起こることを知っている。高野は日本を支配する気は毛頭なく、良い方向へと介入していくだけで十分だった。ただし、理想主義者ではない高野は万が一に備えての準備は怠らない。
「理由は二つあります。 まず一つに、ロシア帝国が半島を完全に制すれば、我が国に対しても無理難題を突きつけてくるでしょう。 ロシア帝国に襲われるアジアの小国日本……諸外国に対する格好の宣伝材料になりますし、また我が国に対する国際世論の支持も集めやすくなります」
「国際的な同情を誘うのが目的か…で、二つ目は?」
「半島にて確固たる橋頭堡をロシア帝国に構築させるのが目的です」
普通の軍事戦略と正反対の内容を言い出す高野に山縣は興味を覚えた。
「なぜかね?」
「此方がまったく反対行動を取らなければ、ロシア帝国は悲願の不凍港を得る為に、
1902年には朝鮮半島に対して本格的に雪崩れ込んで来ているでしょう。
国家を守るのは他国民ではなく自国民の勤めです。
朝鮮国が結果的にロシア帝国の植民地として支配下に置かれるのは気の毒ですが…
全ての責任は朝鮮国に帰します。
また、時間が立てばたつほどロシア軍の拠点構築もそれなりに進みますし、
拠点に駐屯するロシア帝国軍の数が増えます。
それらを半島に閉じ込めて包囲殲滅するのも可能です。
それに、日本には半島に関わっている経済的・時間的な余裕などありません。
必要ならば、ドイツ帝国やフランス共和国も誘い込みます。
これは、三国干渉のお礼ですよ」
山縣は高野の言葉を聞いてニヤリと笑う。
「その為の臥薪嘗胆か…悪くない」
山縣は歴史を知って半島の直轄植民地化の考えを捨てきっていた。
1895年10月8日早朝に、ロシア寄りの高宗の王妃明成皇后が暗殺される、乙未(ウルミ)事変を未然に防ぐ為に、明治天皇の援護の元で準備すら整えていた。1895年9月1日に暗殺首謀者の三浦梧楼が朝鮮駐在公使になるのだが、山縣は違う人物を駐在公使に選んで避けるつもりだ。もちろん、代わりに駐在公使となる人物には、徹底して念を押すつもりである。
山縣は入手した歴史情報から、あらゆる意味で火薬庫に等しい朝鮮半島とは限定的な通商活動以外では絶対に関わってはならないと認識を変えていたのだ。友好的な関係が不可能ならば、下手に関わらない方が良い。無理をして面倒事を抱えるぐらいならば、朝鮮半島はロシア帝国に任せるべきだと心の底から思っていたのだ。
「可能ならば…半島の最南端を除く、
我が国が有する全ての利権を資金と引き換えに譲渡すると、
ニコライ2世に持ちかけてはどうでしょうか?」
「ロマノフ王朝の皇帝ニコライ2世と!?」
「はい、交渉が成功して得られた資金は日本発展に生かせますし、
例え成功しなくても、ロシア側が日本を御しやすいと勘違いしてくれる事も期待できます」
ロマノフ王朝皇帝ニコライ2世とは、日本の10倍以上の国家財政を有するロシア帝国の支配者である。世界一の大富豪と知られている彼の資産は膨大なのだ。彼の財産の一角は4人の公女たちの持参金が2000万ルーブルという小国の国家予算を凌駕する額からも伺える。
公女の個人資産は、この時期の日本国家予算よりも多く、その父親であるニコライ2世の個人資産は更に巨大だった。
高野は交渉によって、ニコライ2世のお小遣い程度でも引き出せれば、日本にとって大きな福音になると考えていた。失敗しても失うものは何も無い。むしろロシアが増長してくれた分だけ、15年以内に起こる日露戦争での旨みが増すのだ。
「ふむ……確かに時期が来れば、やってみる価値はありそうだな」
「ええ、今は1円でも多くの資金が必要な時です」
山縣は高野の言葉に同意しつつも、損得を冷静に分析した確かな案に驚いていた。
また同時に歴史を知っているとはいえ、有効な策を生み出す高野の才能を恐ろしいとも思う。更に、その気になれば日本を焼き払うに十分たる未来の科学技術で作られた艦隊戦力を有していながら、絶対権力を手にせず、過去の日本に尽くそうとする愛国心に感心すらしていた。
そして、過去の過ち…山城屋和助を長州人という縁故だけで兵部省御用商人として取立てただけでなく、陸軍省の公金15万ドルを無担保で貸し与えた自らの事を恥じた。これは、山城屋事件として既に決着は付いていたが、山縣は未来の歴史を知ってから、前よりも強く私情に流された大きな失敗だと思うようになっていた。
自分の腐敗が祖国を滅ぼす遠因になるやもしれないからだ。
気持ちも当然、引き締まる。
ロシア対策に関して納得した山縣は別の用件について高野に尋ねる。
「そういえば…例の計画は早速始めるのかね?」
「幕張製鉄所は艦隊を収容する簡易ドックが完成次第、取り掛かります」
高野の言う製鉄所とは、天皇の直轄機関のひとつとして運営される、国家開発委員会の元で作り上げる製鉄所の事で、帝国重工最初の仕事でもあった。幕張製鉄所が作り出す特殊鋼があって初めて拠点が出来上がると言っても過言ではなく、それまでは簡易ドックで我慢するしかない。
土地は既に購入済だった。
開発が進めば土地の価格は高騰する。
そして、現在の幕張は人口過疎地であり安価であった。
少数の村落はあったものも、立ち退き料金に色を乗せて問題なく土地を確保していった。
大事な点は海に面し、人口過疎地であれば問題は無かったので、土地購入料の軽減と保安上の観点から、あえて幕張駅から離れた辺鄙な場所を選んでいた。
立ち退き料を含めて、合計157万円で33,94000平方メートルの土地を私有地として確保しており、工事着工区画を除けば1年以内に順次立ち退くようになっていた。
あとは工事の着工を待つのみである。必要機材は工廠艦の明石で製造するため、原材料さえ入手すれば良いのだ。
製鉄業に必要な条件は主に3つ。
第一に、巨大な設備を支えられる安定して強固な地盤であること。
第二に、豊富な水利が確保できること。
第三に、原料や製品の入出荷に対応できる深水深の良港がある、あるいは建築できること。
第一の条件に関しては、幕張は砂堆・砂州などの微高地の背後に分布している湿地で、地下水位が高く、排水性の悪い地盤であるが、明石で作る地盤強化用の資材で補強して補える。第二の条件に関しては、浄水施設を建設すれば幕張海の水を利用できるので、こちらも全く問題が無かった。
第三の条件に関してはドック建造時に湾岸工事を行うので問題は無い。
製鉄業とは広大な敷地に加え、多様な設備・大量の用役(水やエネルギーなど)が不可欠な、典型的な装置産業である。幕張製鉄所は、第3任務艦隊の収容ドックに近い場所に建設していくので、明石から提供される電力があるのでエネルギー問題は全く無かった。
潤沢な電力で動く炉頂圧発電を兼ねた電気炉型の大型高炉になるのだ。部分的に21世紀初期の技術であったが、工廠艦は21世紀中期の工廠能力を有しており問題はない。そして、ドック、製鉄所が完成した後に幕張発電所が建設される計画が立てられている念の入れようである。
また、製鉄所計画建設は幕張でだけではない。
後に、幕張製鉄所を参考にして、史実では1901年2月5日に東田第一高炉で火入れが行われ、同年11月18日に始動する、八幡村で建造が進められていた八幡製鉄所が、明石で作られる基軸部位によって、幕張製鉄所を除けば、世界最先端の製鉄所へと生まれ変わるのだ。
そして、国家開発委員会とは明治天皇が高野の示すプランに賛同し、
立ち上げた組織である。
天皇大権を背景にしており、無用な国家権力からの掣肘を受けないようになっていた。しかし、あくまでも国家を発展させて、より良い善政を引く事が目的だ。しかも、委員会の解散時期も明記してある。近代日本の基礎が完成すれば最終的には悪害にしかならない組織を、高野や明治天皇は後世に残すつもりは無い。
本日の"さゆり"はニコニコ顔で紅茶を楽しんでばかりであったが、高野も山縣も"さゆり"の愛らしい仕草に癒されており、文句は無かった。
"さゆり"を見て山縣は思う。
海軍大臣の西郷従道と相談して、今後引き起こる国家総力戦に備えるべく、人的資源の半数を占める女性の軍隊参加の実現化に向けて働きかけようと考えた。山縣は、女性を前線に出すつもりはない。
後方の事務仕事や、自分の秘書や副官として配属したかったのだ。
後日、山縣から話を聞かされた海軍大臣の西郷従道は突拍子も無い内容に驚き、当然ながら反対するが、山縣が見せた"さゆり"の写真を見て決断し、共同歩調を取ることを確約する。
その時、取り交わされた約束が"乙女と共に古臭い制服を一新"であり、同志山縣と同志西郷の静かなる戦いが始まるのだった……
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【あとがき】
英雄、色を好むが好まれた時代。山縣と西郷は色を満たすために、戦い始めますw
山縣は軍国主義者であり、ダイナミックな汚職も経験もしています(笑)
しかし、強圧的な列強への警戒感をもち続け、人種戦争を憂慮し、アメリカとも対立すべきでないと説く、外交感覚に溢れる政治家です。真っ白で潔癖で無能な政治家よりも、汚れていても優秀な政治家の方が10000倍ましだと思います。
あの時代は弱肉強食なので、軍事優先は選択としては間違っていません。
また、坪井航三、上村彦之丞の両方は出世していきますよ〜
後に、坪井航三が高野との連絡役になります。
(2009年04月23日)
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