■ EXIT
人間たち

「この愚か者がああああっ!」
フェリペ公爵夫人は、エルトリアムからの通信に激怒した。

比較的穏健派の反政府組織『クラダルマ』の代表者だが、 フェリペとのホットラインも持っていて、 エカテリナの産んだ赤子のことで、彼女と話したことを伝えた。

彼ほどの聡明な人間でも、血族の事となると理性が曇る。
無駄と分かっていても、再度フェリペと連絡を取った。

その話を聞いたフェリペは本気で激怒した。

「“影”が貴様の周辺を嗅ぎまわっておったのだぞ!。  気づかなんだのか!」
エルトリアムの日焼けした顔が青白くなった。

“影(シャドウ)”は軍に絶大な影響力を持ち、政権の影に蠢き、 テロ、暗殺、謀略など、暗い手段を容赦なく使うことで知られている。 リヴァール王国でも、ごく一部のものしか、その正体は知らない。 特に異種族排斥運動には、非常に協力的で、 エルフをなぶり殺しにするのを生きがいにしているとすら、噂される。

最近、エルトリアムの保護をしている王族や議員をあぶりだそうと、 わざと泳がせ、その周辺を探りまわっている事を、 フェリペは情報局長のリンゼから聞いていた。

そんな相手が、エルトリアムと会ったエカテリナを見つけたら、 ただで済むわけがない。

『3枚のジョーカー』のリンゼとサーニャに緊急招集をかけた。
そして鉱山王ガッハにも。

幸か不幸か、このときは“影”は王都につめていて、 まったく関わっていない。 フォルティエ自治区の各基地に忍ばせていたスパイが、 一斉に行動不能になり、エルトリアムの問題どころではなかったからだ。

ただ、エルトリアムと接触した者は、容赦なく締め上げて、 命だけはあるぐらいに痛めつけろと、残酷な指令を出していた。

ルイーデの館では、シアンがぼーっと何か考え込んでいた。

「どうしたんだい?」
ルイーデがシアンの様子を心配した。

「ん・・・いや、何か今日は客を取る気がしないんだよ。」
ルイーデも、横に座るとシガーをふかした。
「私も、何か今日は落ち着かないのわ。」

今朝、エカテリナの写真を入れた小さな写真たてが、 倒れて壊れていたのが、のどの小骨のように引っかかっていた。

傷だらけのウェモンが、緊急連絡を入れたのは、 シガーを吸い終える前だった。

いやな予感にかぎって的中する。
フェリペはルイーデからの連絡に、白い歯を噛みしめた。

情報局長のリンゼが、装備から陸軍の特殊部隊だと判断をつけた。
「“影”の私兵になっているやつよ。かなり始末に悪いわ。」

だが、どこへさらわれたのか?。

ゴスロリドレスのサーニャが、一本の電話をかけた。 二言三言話すと、特殊回線から国立中央銀行の、 国家保証カード(保証額無限大)を読み込ませた。 金の魔力は恐ろしい、即座に返事が来た。
「町外れの倉庫街、5番棟の14だそうよ。」

「おおっ、さすがサーニャよの。」
リヴァール最大クラスのコングロマリット(企業連合体)の総帥は、 こともなげに言った。 「お金はこんなときのためにあるのです。」

悪天候を突いて、2台の超高速ヘリは、 エメラルドの寄港地カーミナックに到着した。

だが、先日訪れた時の静かな様子が一変していた。
町中が混乱し、誰も彼もが浮き足立っている。

台風並みの低気圧が、猛烈な暴風を起こした上に、 運転中の失神者が続出、自動車事故が多発、 心臓発作やてんかん患者も通常の10倍を超えた。 野犬や動物が凶暴化し、あちこちで人が襲われている。 ネズミが狂乱してコードやガス管を破り、火災までも多発。

それは全て、ある時間に一斉に起こった。
町は、まるで戦争か大地震のようなありさまだ。

フェリペのメイド部隊には、特殊能力者がけっこういるのだが、 やはりその時間に、大半が一斉に体調を崩し、激しい頭痛や吐き気に襲われていた。 全員に共通したのが、 『恐竜の叫びのようなものが、頭蓋骨の中を駆け巡った』

それが、ヴァンパイヤ化したエカテリナの、魔力による咆哮だったとは、 神ならぬ身の彼らには、分かるはずも無い。

町の人も、獣も、多少なりと魔力に敏感なものたちは、 みなその恐怖におびえ、狂ったのだった。

そして、倉庫街5番棟の14は血の海だった。


「フェリペ様、6人分と思われる死体は、どうやら男性、特殊部隊隊員かと。」 メイド部隊隊長のクルーアの報告に、フェリペは首をひねった。
「どうやら、とは?」

「ほとんどミイラ化していて、判別が難しいのです。」
血と生命エネルギー全てをすすりつくされた者たちは、 確認すら難しいほど、干からびていた。

一体何があったというのか?。
全員が言葉も無く青ざめる。

「この手の部隊は10人一組で行動するはず。 タイヤ痕から、残りの4人は基地へ向ったと思われます。」

フェリペは瞬時も迷わなかった。
ヘリは即座に特殊部隊の基地へ向った。

超低空でばく進する特殊ヘリ。

『狂気の沙汰よな・・・』
フェリペは自分のしていることがおかしかった。
身の破滅すら起こしかねない行動に、全戦力を投入しようとしている。 いや、ここにいる全員が、戦争でも起こしかねない準備をしている。 この4人が動いたら、冗談にならない。
だが、狂気は幸運で止まった。

ガッハが大声を上げた。
『フェリペ!、右手に何かあるぞ?!』

森が円形になぎ倒されていた。
そこに十字架の形に土地が焼けただれ、中心に白いものが横たわっている。
美しい金髪が風に震え、 白い肌は、透き通るような青みすら帯びて、 一人の少女の裸身が、無力に投げ出されていた。
その回りには異臭のする黒いものが、無数に転がっていた。

『あれは・・・、あれは、エカテリナだ!!』
エカテリナへの心配で、極限まで高ぶっていたガッハは、 異常な眼力で彼女を見つけた。
見えたのではない、感じたという他なかった。


変身術が解け、仮の肉体を作り出していたものは、 全て抜け落ちて、汚らしい汚液のようになっていた。

『かの者、人の贖罪を背負いて、その身を十字架にかけられん』
古代のある宗教書の一説が、フェリペに不吉な気持ちを抱かせた。
エカテリナを収容したヘリは、即座に名医として名高く、 フェリペの信用も厚い医師グラナド・トラシトの元に急いだ。
調査のために残ったメイド部隊員の連絡で、 カーミナックにある陸軍特殊部隊基地は、原型すらとどめずに壊滅し、 生存者は一人もいなかった。

フェリペは、“影”に牽制を加えるため、 開発兵器の暴走ではないかという情報を流し、 “影”自身にもみ消しをさせる事にした。

あの男の性格はよく知っている、 たぶん全てを跡形もなく消してしまうだろう。

『悩むな。』
先日の夜宴での、ガッハの光る目を思い出す。
エカテリナに秘められた様々な謎、だが、そんなものを追求して何になろう。

エカテリナにどれほどの秘密があろうと、生きていてさえくれれば、 何ほどのことがあろうか。

いつの間にか為政者の目をしていた自分がおぞましく、 そしてそれを警告してくれたガッハに、心のうちで謝罪した。
『ああ、悩まぬ。もう何も悩まぬ。』

エカテリナの生気のない青ざめた顔だけが、 いかなる恐怖よりも恐ろしかった。

医療の心得のあるクルーアが、ひどく困惑している。


すでに病院には、ルイーデとシアンが来ていた。
グラナドは、エカテリナを一目見るなり、すぐに集中治療室へ運んだ。

少しして、集中治療室から出てきたグラナドは、打ちひしがれた顔をしていた。
「大変難しい状態です。すでに医学に何かできる範囲は越えております。」

「なんだと!!」
「ど、どういうことじゃ?!」

グラナドは深いため息をついた。

「フェリペ様、私はこれまで3人、同じ患者をみています。 呼吸も脈も、生命反応そのものが急速に消えています。 己の生命を否定し、生きる意志を棄てた者に、医者は無力です。」

生きようとする者は、必死にそのことを表す。
逆に、生を否定するものは、医者は手をつけるすべすらない。
名医であるがゆえに、グラナドはエカテリナに拒絶された。

体温、脳波、脈拍、呼吸、 全てが死に向って静かに下がっていく。

「そんな・・そんな・・・」
シアンがへたり込んだ。
全員が、足元が崩れたような衝撃を受けた。

「エカテリナ、目を開けて、エカテリナ!、戦うって、あんた、言ったじゃない!」
あの日、激しく燃える目で女の戦いを誓った言葉が脳裏に甦る。
だが、輝く瞳は閉じられ、青ざめて死相の出た顔は静かに生気を失っていく。

「先生、“意志”の問題なのですね?」
ルイーデが、ひどく重い声で言った。

「そうです、生命と意志は絶対に分けられません。」
物も言わず、ルイーデは左手をまくった。
急速に落ちていく全てのデータが、時間が無いことを告げていた。
これまで、誰にも見せた事の無い物を晒すのに、 不思議と、一片のためらいも感じなかった。
パシャン

ぺろりと皮を剥いた左手は、金属製の精巧な義手。
その義手が、金属の笠の骨ように広がり、 無数のセンサーが先端に輝いた。

「ま、まさかそれは・・・マインドサイバネティクス?!」
さすがに情報局長のリンゼは、その技術を知っていた。

人間の精神を犯し、洗脳する兵士作成という、悪魔の技術。 だが、数千の失敗と、吐き気を催すような結果の後に、 たった一つの成功例も含めて葬り去られたはずの技術だった。

「お静かに願います。」
センサーがエカテリナの頭部を覆うと、 ただ一人の成功例であるルイーデは、一気に彼女の精神世界に入った。


これまで、何度ももぐりこんだ、エカテリナの意識世界。
彼女を、理想の娼婦にするために、女として最高のものにするために、 そして、エカテリナを理解するために、何度も訪れた世界。

かつての青い世界は、暗い闇に落ちていた。
光の粒はほとんどなくなり、 表層意識と意識下を分ける精神の境界は、暗黒に沈みかけていた。
境界の植物、その人間を象徴する存在。
巨大で豊かだった月桂樹は、無残に枯れ、 瑞々しく艶やかだった葉は、ほとんどが落ちていた。

かすかに、残されたわずかな葉がぼんやりと光っていた。

「エカテリナ!!」
ルイーデは絶叫した。

わずかな光が、ほんの少し強くなる。
ルイーデは根元の穴に、光の粒となって入り込んだ。

「起きて、エカテリナ!、起きなさい!」
必死に叫ぶルイーデに、木がささやいた。

『私は・・・罪を犯しました』

目を閉じていたルイーデ本体の唇が、言葉をつむぎ出す。
エカテリナの声で。

『私は・・・罪を犯しました』

誰もが、それがエカテリナ自身の声だと理解した。
この国にもわずかだが、死者の声、魂の声を伝える能力者がいる。

『死にたくない、と、大勢の人を、手にかけました。
命をすすり、血脈を喰らい、精の全てをすすり上げて殺しました・・・』

静かな、血を吐く言葉。
それがどれほど信じがたい言葉であっても、 吐き気のするようなどす黒い映像が、凄まじい血の匂いが、 狂気の笑い声が、頭の中に湧き上がってくる。 それはエカテリナが感じたもの。 彼女がヴァンパイヤ化して得た力ののこりが、それを見せていた。

『血まみれの爪で、あさましい牙で、己の命だけを守る為に、 ・・・・・もう、あの子たちを、抱く資格はありません。』

言葉が消えた、明かりがほとんど消えうせた。

『どんな理由があろうと、人の命を奪っていいはずが無い。』
エカテリナという無垢の娘は、罪と絶望に、自分の命を差し出していた。
生命の心地よさを棄て、冷たく底の無い死の世界へ、歩み出していた。

ルイーデは今度こそ恐怖した。

「エカテリナ、エカテリナ!、エカテリナ!!」
シアンが、絶叫した。
「ふざけるな!!、そんな事であんたが死んでいいわけがあるか!! 自分のために生きて、何が悪いんだあああああ!!」

シアンは、元暗殺者だった。
血を吐くような叫びが、病室に響いた。

「ワシを、お前にもらった子供を、置いていくつもりか!!」

エカテリナを最初に見出したガッハ。
異種族排斥のリヴァールで、エカテリナの子供を本気で欲しがった男。
「他者の命、それをすすらずして誰が生きれるというのか!」
陰謀と策略の渦巻く貴族社会で、大きな権力を築いたフェリペが、 青ざめて叫んでいた。

「あさましくも生きていくのが、人でしょう!!」
リヴァール最大のコングロマリット総帥のサーニャは、 ひしとエカテリナの手を握っていた。

「人の痛みと苦しみに溺れるしかない私を、おいていくなあああっ!」
サディストの性癖で、いかなる愛人も作れなかったリンゼが、 大粒の涙を流していた。

皆、人の屍を踏み越え、呪いと恨みを恐れず生きてきた者たち。

精神世界のルイーデが、目を見張った。
かすかに、光が増している。
外に飛び出し、葉が光を増しているのを見た。

闇の中に、零れ落ちてくる光、 ガッハたちの言葉が、光となって降りてくる。
それが葉に宿り、わずかずつ光を増している。

光のある場所とない場所、 『この数・・・・?!』 エカテリナの軌跡を知るルイーデだけが、 その数の持つ意味を理解した。
「し、シアン・・シアン・・・」

現実のルイーデが、半覚醒のまま無理矢理に意思を浮かび上がらせた。
マインドサイバネティクスを作動させている時、 ルイーデは脳の周波数が極めて低い状態にある。
それを無理矢理に覚醒させるのは、 冷え切ったエンジンをレッドゾーンへ叩き込むに等しい。 神経を損ね、激しい消耗を起こす。

それでも、ルイーデは必死にかすれた声を上げた。

「か、彼らに、連絡を、エカテリナが死にかけていると・・・」
それはルイーデの最後の賭け。

エカテリナは、リヴァールに現れる以前の記憶が無い。
彼女の人生の全ては、リヴァールのフォルティエ自治区に現れたときから始まった。
その軌跡の全てを知っているのは、 エカテリナの精神をマインドサイバネティクスで探索したルイーデのみ。

死の淵へ降りていくエカテリナの、生命を揺さぶり起こせるのは、 彼女のこれのまで全ての記憶しかない。

自分の全てを否定してしまったエカテリナに、 彼女のこれまでの軌跡全てから、呼びかける声を受け取れば、 振り返るかもしれない。

だが、誰か一人でも彼女を否定すれば・・・・・。

それでも、ルイーデは命がけで秘密のナンバーを伝えた。




エカテリナが無意識で放った不可視の盾で、手榴弾から守られたウェモンは、 ほとんど軽症だった。

シアンから電話を受けると、 甲板に飛び出すやひざまづき、天に向けて絶叫した。
「天の神さん、誰でもいい、俺みたいなのの命ならいくらでもくれてやる。」

身体ごと投げ出した、岩石のような両の拳が、甲板をへこませる。
「だから、だから、エカテリナだけは連れて行かないでくれええええぇぇぇ!!」
巨大な姿が、赤子のように泣き叫ぶ。

いかなる力も、およばないものが有る。
あの微笑に、優しい抱擁に、自分の何が及ぶと言うのか。

エカテリナのいない世界など、絶望でしかないと、 巨大な身を投げ出して、ただひたすらに祈った。



ルイーデとて、精神世界のことはほんのわずかしか分からない。
だが、どこかで、その世界はもっともっと大きな何かとつながっている。
それは生命体全てが共有する、意識の大海なのかもしれない。

あらゆる人間はどこかでそのつながりを持っていると信じていた。




プルルルル
携帯が鳴った。

無精ひげを生やした黒メガネの男は、 管理調整(奴隷売買)エージェントのダインといった。

さまよえるオランダ人のように、 あの日から、男は何かを探していた。

電話が、それを思い出させた。 輝く湖のそばで、メガネをはずし、空を見上げた。

この湖のそばで、車の上で犯した少女。
無残に嬲られながら、ひたむきにすがりついて来た少女。 いつしか、激しく抱き合い、その中に溺れていた自分。 なぜ、あの時自分は手を離してしまったのだろうか。

憂いを帯びた蒼い瞳、 優しい、悲しい、永劫の1秒。
ルイーデに渡され、別れる時に、唇に刻印された、あの日の幻。

「帰って来い・・・まだ・・・幸せになっていないだろうが・・・」

いつしか、ダインは泣いていた。 泣きながら、はかない少女の幸せを、必死に祈っていた。



日に焼けたごつい手が、受話器を置いた。
フォルティエ自治区の富農として知られたヴァンドロは、子供たちを呼んだ。

エルフやダークエルフの血を引く4人は、 ヴァンドロが引き取った親の無い子供たち。
皆元気で明るい目をしていた。


妻のジェンカが、1歳になる子供を抱いてきた。

食卓の横の居間で、小さな絵にむかって言った。
「これは、私の大事な物を教えてくれた人だ。
お前たちと言う宝物も、ジェンカ母さんと言う幸せも、みんなさずけてくれた人だ。」

ヴァンドロは胸に沸き起こる思いに耐えて、わずかに言葉を切った。

「その方は遠い空の下で、大きな病気と戦っている。 みんな祈りなさい、この人が幸せになれるように。」

小さな、素朴な絵の中で、エカテリナは優しく微笑んでいた。
ここは、エカテリナがリヴァールで最初に現れた場所。


土の匂いのする中、汗と微笑で少女が輝いていた夕暮れ、 いかなる財宝も及ばぬ幸せな光景。
己のちっぽけなこだわりと恐怖で、捨て去ってしまった時。


無法な怒りのままに、初めてを散らせた少女。
素直にニンジンを結び、大事に積み上げていく姿、 孤独の重荷を、にこやかに微笑み、農場に尽くそうとしたけなげさ。 失った最初の妻と、重なり合うあたたかな微笑。

一枚の書類にサインをしたかすかな音が、 今なおヴァンドロの胸から後悔の血を滴らせる。

『神よ、愚かなるは私の罪。なにとぞあの娘に、お慈悲を・・・!』
ヴァンドロはただひたすら祈った。




フェリペも電話をかけた。
絶海の孤島で、静かに暮らす乳母と双子たちに。

金と銀の目を持つ子供たちは、まだ半年しかならぬのに、 すでに立って歩く事ができた。
乳母の祈るしぐさに、同じようにひざまづき、手を合わせた。
「ま・・・ま・・・・」
幼子たちの呟きが、星空にしみこんだ。



闇の中に、行く筋もの、金粉のような光が舞い降りる。
多くの呼び声が、エカテリナの樹に優しく降りかかっていく。

彼女の歩んできた道、全ての場所から。

「帰って来い」
「戻ってきなさい」
「あなたは必要なの」
「まだよ、まだいってはだめ!」
「お前は幸せになっていいんだ」
「エカテリナ、戻ってきなさい」
「ま・・ま・・」


無数の声が、暗闇を少しずつ少しずつ照らしていく。
世界のさまざまな場所から、彼女の幸せを願う声が。

闇の中へ、降り続けていたエカテリナが、脚を止めた。
温かい光が、暗闇に染まっていたエカテリナを照らしていく。


ルイーデは樹を抱きしめた。
「かえっておいで、エカテリナ。」


樹の奥、闇の中に、 無数の光の粒が下りていく。


それは、彼女と関わりあった人たちの願い。
エカテリナを優しく包み、彼女の幸せを願う思い。


闇の中で胎児のように丸まり、泣いているエカテリナを、 光は無数の手となり、闇の中から抱き上げていく。

『生きて・・・いいのよ・・・』

全ての優しい声が、闇だった世界に、青い光となって広がっていく。

ひび割れた世界に、うるおいが戻ってくる。
枯れかけた月桂樹が、涙のような雫をこぼし、小さな芽を芽吹かせていく。

・・・とくん・・・・・・とくん・・・・・とくん・・とくん・とくん・

消えかけていたエカテリナの心音が、 少しずつ、ゆっくりと、生命のリズムを刻み始めた。
次の話
前の話