■ EXIT      


本能は、時として理屈や科学を超えることがある。




雲が多く、日が翳り、今にも雨が降りそうな天気だった。

その日、ルイーデは朝からいやな気分だった。

ずっと昔、居ついた売春宿を焼き払われた時も、 暴動に巻き込まれ死にかけた時も、 このいやな気分がしていた。


黒い雲が急速に広がっていく。

真っ黒いベンダー(要人用の高級車)が館に向っていた。

ゴロゴロゴロゴロ・・・
どこかで、遠雷が鳴っていた。


彼女は麻酔ガスを仕込んだ香水ビンを隠し持つと、急いで出入り口へむかった。 なぜこんなものを持ったのかも分からないままに。


玄関で、エカテリナが一人で飾りの手入れをしていた。


背筋が総毛だった。
彼女のそばに、黒いぼろぼろのマントを羽織った死神が立っているような気がした。

幾度も死線をくぐりぬけた者は、 死に対して極めて敏感になるという。

死の匂いをかぎ、死神の鎌の風切る音を聞いた者は、 その恐怖を忘れることが出来ないのだ。

エカテリナがここにいてはいけない。


ビンに仕込まれた即効性の催眠ガスを後ろから噴きつけ、 急いで小部屋に引きずり込んだ。


ピシャアアアアン!
稲妻が光った。

ザアアアアア・・・・
猛烈な雨音が、全ての気配を消していく、 ただ、入り口からくる真っ暗な気配以外は。



まだ昼の1時。
客が来る時間ではない。

黒塗りのベンダーが、館に乗り付けた。

『誰も、玄関に出るんじゃないよ。私がいいというまで、誰も出すな。』

ルイーデが必死に通信機に命令を入れた。

軽い音とともに、ベンダーの分厚いドアが開いた。

ピシャアアアアッ!
雷が近くに落ちた。

細い口ひげを生やした、恰幅のいい紳士が、真っ黒な影となって降りた。
死をまとい、腐臭を飾り、憎悪と恐怖をひきずって。


ルイーデの額に汗が吹き出る。


「ひさしぶりだね。」

ぴんとはやした細い鼻髭と、鼻が高くほりが深く上品そうな顔だが、 目はうつろで、焦点がない。
だが、冷酷というにもまだ足らぬ声。

冷たい汗が背中を流れる。

「お久しぶりでございます。」

葉巻をくゆらせながら、汗まみれになっていく彼女を面白そうに見ている。

「こちらに面白そうな娘が入ったと聞いたのだがね、 下級軍人たちの間で、ディスクが大分噂になってる、それも白い方だ。」

エカテリナとシアンのディスク?!、 ルイーデの顔が紙のように白くなる。

「あ、ああ、最近私が見つけました娘でございますね、 きれいですが、貧しいエルフの娘でございますよ。」


「そうか・・・まあいい。支払いは後で振り込んでおくからね。」

『支払い・・・代金、エカテリナを差し出せと・・・、』
この悪魔が何のために払う代価なのか、恐ろしい答えに必死でルイーデは耐えた。

歯が鳴る、吐き気がする、苦い胆汁が喉まで上がってくる。

呼び出しをするために、ルイーデが後を向いた。
瞬時、雷がルイーデの顔を鬼のそれに見せた。彼女もまた、一匹の鬼であった。

一人の娼婦を呼んだ。

まだ入ったばかりだが、ルイーデは彼女に整形と精神操作を施していた。

幼少時に、人体実験のモデルにされたルイーデの左腕には、 人間の精神操作を行う狂気の技術『マインドサイバネティクス』の洗脳マシンが組み込まれており、 密かに人の意識を組み替えることが出来た。

「いいか『エカテリナ』、この方の言うことを良く聞くのよ。」

そのエカテリナに似た面差しの娘は、 《いいか『エカテリナ』》のキーワードを聞いて、 施されていた精神操作が発動した。彼女はエカテリナという名前の娼婦になった。

「はい、ルイーデ様。」


男も、まさかここまで周到な用意がしてあるとは思っていない。

「なんだ、ちょっと整形があるな。だが、なかなかきれいな手足だねえ。 いいだろう。あのディスクのことは不問に付してやる。 金儲けもほどほどにしておけ。」

傲慢と冷笑、冷酷と非道、それがミックスされたような呪わしい声。

紳士はあとは何も言わず、車に戻った。
後続の車に娘を乗せて。



車を見送った後、ルイーデの全身はがたがたと震えていた。
『やはり、あのビデオディスクがまずかったか・・・。』

エカテリナとシアンのビデオディスクが、あまりに人気だったため、 ルイーデは万が一の保険、いや生贄というべきか、その少女を用意していた。

『影(シャドウ)』と呼ばれるあの男。


軍、行政の暗部に異様な力を持ち、 暗黒街の住人たちですら、蛇蝎のごとく忌み嫌い、そして恐れられている。 正体不明、年齢不詳、死んだことを見た者すらいるという。


エルフの目立つものや、人権擁護活動のそばにひっそりと現れ、立ち去る。 直後に原因不明の事故や行方不明が、絶対に起こる。 万一、行方不明者が見つかったときは、誰もが言葉を失う姿になっていた。

『あの時、何人死んだ・・・?』


5年前、手塩にかけて育てた舞姫がいた。美しい黒髪と、すばらしい肌をしていた。 見事な踊り手で、評判になった。

『影』の差し出せという言葉を拒否した次の日、 客の銃が暴発し、館には無人の車が突っ込み、他の3つの店で同時に火災が発生した。 ボスの車まで爆発し、ボスは危うく難を逃れたが、・・・・・ルイーデは屈した。

美しかった黒髪は、真っ白いばさばさの白髪と化し、 男を狂わす肌は、枯れ木のようにしわにまみれ、 一箇所たりとも無事な所は無い無残な姿で、 顔中に恐怖を刻み付けた死体が、闇の中に浮かび上がる。

『負けるものか、負けるものかぁっ!』
吐き気を抑え、必死に気持ちを立て直した。


「あ・・・お母さん・・・」
ぼおっとした目が、青い顔でそばに座っているルイーデを見た。
「わたし・・・どうしちゃったんでしょう・・・」
「ああ、気にしないのよ。 たぶん貧血だろうって、あんたがんばりすぎてるからね。」

「ごめん、なさい・・・」
「いいの、いいの、きにしないでね。」
そういいながらそっと抱きしめる慈母の顔が、瞬時凶暴な怒りを帯びた。

『あんたを、あんなやつに渡すものか。愛しいエカテリナ・・・。』

鬼の顔をしたルイーデが優しく抱きしめる。
明るいブラウンの目が、底無しの闇を秘めていた。

どうせ地獄に堕ちる身、

いや、今ですら地獄にいる。

エカテリナは、闇の底に差し込んだひと筋の光だった。



来たばかりの娘は、別の店に回されたことにされ、 再び見た者はいなかった。

すべては、ルイーデの心の闇に封じられて、 何事も無い一日が始まった。
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