■ EXIT      
命名

「クッ、クッ、クッ、クッ、」
豪奢だが、暗い部屋の中で、押し殺したような笑いが響いた。

「なんとまあ『女殺しのダイン』が、そのツラかい。」


笑われて腐った顔をしている黒メガネは、げっそりと頬をこけさせ、血の気の無い顔色だ。
「何とでも言って下さい。 姐さんじゃなきゃ、こんな顔見せやしませんよ。」


今も口元を押さえ、苦しげに笑っているのは、赤銅色の明るい髪の女性だった。

胸元の大きく開いた、黒いドレス姿で、 まつげが長く、ブラウンの目が大きい。
30がらみの相当な美人だが、 目元の妖しさ、酷薄そうな視線が、普通人とはとても思えない。

ようやく笑いを止めると、ダインと向き合う。

「まあ、最初の連絡を聞いたときは、また大口がはじまったと思ったけど、 どうやら、少しは信用できそうだわね。」

「そういうセリフは、見てから言って下さい。」

これまで聞いたことも無い真剣な言葉遣いに、女はぎょっとした。

姐さんと呼ばれるこの女性、名はルイーデという。

『マツグラン』と呼ばれる組織の幹部で、担当は風俗全般。
この組織は、フォルティエ自治区からリヴァール南部にかけて、 かなり大きななわばりを持ち、たいていの裏家業は引き受けている。

風俗はそれなりにやっていたが、このルイーデが娼館を仕切るようになって、 認可を受けた売春組織としては、ほぼリヴァールのトップになっていた。


ボスのマツグラン・バイヨネットの愛人であり、 忠実な半身と言ってもいい。
ボスの方が何度か結婚を迫ったが、 逆に尻をたたいて仕事をがんばらせているというもっぱらの噂だ。

こういう稼業なだけに、他人の気持ちには敏感で、 うそは絶対に通用しない。
そして、無情で知られたこの男が、どうやら惚れてしまっているらしいことも。

ダインが仕入れた女をさばくルートはいくつもある。
競り市に出す場合もあれば、調教専用の店におろすこともあった。

管理調整(奴隷売買)エージェントの資格を持っていれば、 どのルートを選ぶのも自由だ。

ただ、これはと思った女は、一流の娼館へ持ち込む。
そういうところは、バックに大きな組織がついていることが多く、 娼館に認められれば、組織にもより顔が利くようになるからだ。
それは後々の商売や取引にも、馬鹿にならない利益を生む。

そして、もう一つ。
女が幸せになりやすいのも、一流の娼館なのだ。
ダインが願っているのは後者のようである。

ルイーデもようやく本気で、目を光らせた。


おずおずと入ってきた少女は、ぺこりと一礼をした。


『・・・・・・』
ルイーデの細いシガーがポロリとおちる。

部屋が急に明るくなったような気がした。
銅色の目が見開かれ、豊かな胸が、激しく上下する。

少女は、強烈な視線を受け止め、穏やかなまなざしを返す。

全身が輝きを放つような少女。

『なんて・・・まなざしなんだい・・・』

その目は、違う何かを持っていた。

何千何万という女を見続けてきたルイーデが、 夢にまで描いた女性、それが形を得て現れていた。


ダインの真剣な目に向き直った。

提示した額の3倍の小切手を切り、ダインを驚愕させる。
「ただし、この娘のデータすべて、私に渡すのよ。写真一枚残すんじゃないよ。」
ダインはその金額と意味に震え上がった。
この娘の足跡は全部消さねばならない。
もし、情報一片でもどこかに漏らせば、間違いなく殺される。

「わ、わかりやした。」

普通なら、この金額を受け取ったダインは、 そそくさとこの部屋を出て、酒場へ繰り出して祝杯をあげる。

ルイーデの目が再び見開かれた。

イリナの横で足が止まった。

「・・・・がんばるんだぞ・・・」
ダインの震える声、かすれた声、この金を受け取った以上、二度と会うことは許されない。
それが、この家業の掟。

   トッ

白い靴が、軽く床を蹴った。
あでやかな顔が、悲しみをたたえた目が、ダインの目にまぶしく輝く。

ふっと唇を合わせた。
この世のものとも思えぬ、甘美で、切ないキス。

ゆっくりと下りていく。
少女の悲しい顔が。

まるで、この世の別れであるかのような、ゆっくりと、どこまでも落ちていくような錯覚。

自分が、とてつもないものの手を離してしまったような、 とんでもない間違いをしでかしてしまったような、 ・・・激しい喪失感。

軽やかなキスは、1秒とかかっていない。
だが、永劫にも等しい1秒。

ダインはのろのろと足を踏み出した。
空ろな生気を失った背中が、 ゆっくりと部屋から出て行った。


『まったく・・・なんという・・・』

ああいう男に、一片の情もかける気はないルイーデだったが、 今日ばかりは同情せざる得ない。
こんな分かれ方をされては、生涯この娘のことは忘れられまい。

ほんの少し、ダインの行く末を心配したが、 首を振ると目の前の少女に全てを切り替えた。


「ちょっと、」

少女がその声にびくりとした。
また、孤独になる。
その恐怖が、何よりも怖かった。

ルイーデは、その目が切なかった。
あふれ出す感情が、はるかな記憶を思い出させる。



『ヒック、ヒック、ヒック・・・』
誰かが泣いている、さみしくて、寒くて、おなかがすいて。

左手が痛い、金属が冷たい。
誰でもいい、温かさがほしかった。

下卑た兵隊に声をかけられ、ふらふらとついていった夜、 強烈な安酒と、くさい吐息、裸に剥かれた身体、 まだ細い身体に、群がる男たち、 口に流し込まれる酒、 目がぐらぐらする。
何度も何度も穢された身体に、 再び無理やりに押し込まれる男根、
『ひぐっ、ひっ、いたっ、いたいよおっ、ひんっ、』

あざを作り、体中を汚され、それでも放り出されることが怖くて耐えていた夜。



忘れ去っていた記憶を押し込め、 さびしげに微笑んだ。

「怖がらなくていいわ。こちらへおいでなさい。」

そのさびしげな笑顔に、少女は警戒を解いた。

ソファに座ると、少女をそっと胸に抱きしめてやった。

「さみしかったんだろ」
そっと髪をなでながら、本心から言葉をかける。

「あなたのお母さんやお父さんのことは分からないけどね、 今だけは、お母さんになってあげるわ。」

少女の小柄な姿が震え、 静かに、やがて激しく泣き出した。


冷たい雨が、ざあざあと降っていた。
泣きながら、はだしでたどり着いた薄汚い少女でも、 娼館は入れてくれた。

はるかな、自分の記憶が、少女の姿に重なっていく。


愛らしい顔に、涙の痕をつけ、少女は静かに眠っていた。

ルイーデは抱きしめたまま、毛布をかけた。
慈母の顔から、 やがて、妖しいぎらぎらしたものがこぼれだしてくる。

柔らかないい香りのする身体、 天性の気品と美貌、 あのダインすら骨抜きにしてしまう女体、 そして、何より人の心を抱きしめてしまう感性。

女を見極めるプロの顔が、 邪悪な毒蛇のように頭を持ち上げる。

左手がうずく。
『まだよ、まだよ、準備は周到にしなければね。』

ルイーデはあらためて、震える手で少女の髪をなでた。
自分の夢、野望、絶対不可能と思っていたそれが、 その素材が、 『自分の腕の中に、全てをゆだねきって眠っている。』

先ほどの慈母の顔からは、想像もつかない悪魔の笑い。
どちらがルイーデの本性なのだろうか?。

ただ、今の彼女もまた、一目見たときからイリナを深く愛していた。
愛するあまり、わが子を食い殺してしまう猫のようなそれかも知れないが。

神々しいような寝顔に、そっとキスをしながら、 はるか古代に大帝国の女帝として君臨したある名前を思い出す。

『そう、あんたは今日から“エカテリナ”と名づけようね。』

自分が作り上げた最高の作品となれるように。
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