命名
「クッ、クッ、クッ、クッ、」
豪奢だが、暗い部屋の中で、押し殺したような笑いが響いた。
「なんとまあ『女殺しのダイン』が、そのツラかい。」
笑われて腐った顔をしている黒メガネは、げっそりと頬をこけさせ、血の気の無い顔色だ。
「何とでも言って下さい。
姐さんじゃなきゃ、こんな顔見せやしませんよ。」
今も口元を押さえ、苦しげに笑っているのは、赤銅色の明るい髪の女性だった。
胸元の大きく開いた、黒いドレス姿で、
まつげが長く、ブラウンの目が大きい。
30がらみの相当な美人だが、
目元の妖しさ、酷薄そうな視線が、普通人とはとても思えない。
ようやく笑いを止めると、ダインと向き合う。
「まあ、最初の連絡を聞いたときは、また大口がはじまったと思ったけど、
どうやら、少しは信用できそうだわね。」
「そういうセリフは、見てから言って下さい。」
これまで聞いたことも無い真剣な言葉遣いに、女はぎょっとした。
姐さんと呼ばれるこの女性、名はルイーデという。
『マツグラン』と呼ばれる組織の幹部で、担当は風俗全般。
この組織は、フォルティエ自治区からリヴァール南部にかけて、
かなり大きななわばりを持ち、たいていの裏家業は引き受けている。
風俗はそれなりにやっていたが、このルイーデが娼館を仕切るようになって、
認可を受けた売春組織としては、ほぼリヴァールのトップになっていた。
ボスのマツグラン・バイヨネットの愛人であり、
忠実な半身と言ってもいい。
ボスの方が何度か結婚を迫ったが、
逆に尻をたたいて仕事をがんばらせているというもっぱらの噂だ。
こういう稼業なだけに、他人の気持ちには敏感で、
うそは絶対に通用しない。
そして、無情で知られたこの男が、どうやら惚れてしまっているらしいことも。
ダインが仕入れた女をさばくルートはいくつもある。
競り市に出す場合もあれば、調教専用の店におろすこともあった。
管理調整(奴隷売買)エージェントの資格を持っていれば、
どのルートを選ぶのも自由だ。
ただ、これはと思った女は、一流の娼館へ持ち込む。
そういうところは、バックに大きな組織がついていることが多く、
娼館に認められれば、組織にもより顔が利くようになるからだ。
それは後々の商売や取引にも、馬鹿にならない利益を生む。
そして、もう一つ。
女が幸せになりやすいのも、一流の娼館なのだ。
ダインが願っているのは後者のようである。
ルイーデもようやく本気で、目を光らせた。
おずおずと入ってきた少女は、ぺこりと一礼をした。
『・・・・・・』
ルイーデの細いシガーがポロリとおちる。
部屋が急に明るくなったような気がした。
銅色の目が見開かれ、豊かな胸が、激しく上下する。
少女は、強烈な視線を受け止め、穏やかなまなざしを返す。
全身が輝きを放つような少女。
『なんて・・・まなざしなんだい・・・』
その目は、違う何かを持っていた。
何千何万という女を見続けてきたルイーデが、
夢にまで描いた女性、それが形を得て現れていた。
ダインの真剣な目に向き直った。
提示した額の3倍の小切手を切り、ダインを驚愕させる。
「ただし、この娘のデータすべて、私に渡すのよ。写真一枚残すんじゃないよ。」
ダインはその金額と意味に震え上がった。
この娘の足跡は全部消さねばならない。
もし、情報一片でもどこかに漏らせば、間違いなく殺される。
「わ、わかりやした。」
普通なら、この金額を受け取ったダインは、
そそくさとこの部屋を出て、酒場へ繰り出して祝杯をあげる。
ルイーデの目が再び見開かれた。
イリナの横で足が止まった。
「・・・・がんばるんだぞ・・・」
ダインの震える声、かすれた声、この金を受け取った以上、二度と会うことは許されない。
それが、この家業の掟。
トッ
白い靴が、軽く床を蹴った。
あでやかな顔が、悲しみをたたえた目が、ダインの目にまぶしく輝く。
ふっと唇を合わせた。
この世のものとも思えぬ、甘美で、切ないキス。
ゆっくりと下りていく。
少女の悲しい顔が。
まるで、この世の別れであるかのような、ゆっくりと、どこまでも落ちていくような錯覚。
自分が、とてつもないものの手を離してしまったような、
とんでもない間違いをしでかしてしまったような、
・・・激しい喪失感。
軽やかなキスは、1秒とかかっていない。
だが、永劫にも等しい1秒。
ダインはのろのろと足を踏み出した。
空ろな生気を失った背中が、
ゆっくりと部屋から出て行った。
『まったく・・・なんという・・・』
ああいう男に、一片の情もかける気はないルイーデだったが、
今日ばかりは同情せざる得ない。
こんな分かれ方をされては、生涯この娘のことは忘れられまい。
ほんの少し、ダインの行く末を心配したが、
首を振ると目の前の少女に全てを切り替えた。
「ちょっと、」
少女がその声にびくりとした。
また、孤独になる。
その恐怖が、何よりも怖かった。
ルイーデは、その目が切なかった。
あふれ出す感情が、はるかな記憶を思い出させる。
『ヒック、ヒック、ヒック・・・』
誰かが泣いている、さみしくて、寒くて、おなかがすいて。
左手が痛い、金属が冷たい。
誰でもいい、温かさがほしかった。
下卑た兵隊に声をかけられ、ふらふらとついていった夜、
強烈な安酒と、くさい吐息、裸に剥かれた身体、
まだ細い身体に、群がる男たち、
口に流し込まれる酒、
目がぐらぐらする。
何度も何度も穢された身体に、
再び無理やりに押し込まれる男根、
『ひぐっ、ひっ、いたっ、いたいよおっ、ひんっ、』
あざを作り、体中を汚され、それでも放り出されることが怖くて耐えていた夜。
忘れ去っていた記憶を押し込め、
さびしげに微笑んだ。
「怖がらなくていいわ。こちらへおいでなさい。」
そのさびしげな笑顔に、少女は警戒を解いた。
ソファに座ると、少女をそっと胸に抱きしめてやった。
「さみしかったんだろ」
そっと髪をなでながら、本心から言葉をかける。
「あなたのお母さんやお父さんのことは分からないけどね、
今だけは、お母さんになってあげるわ。」
少女の小柄な姿が震え、
静かに、やがて激しく泣き出した。
冷たい雨が、ざあざあと降っていた。
泣きながら、はだしでたどり着いた薄汚い少女でも、
娼館は入れてくれた。
はるかな、自分の記憶が、少女の姿に重なっていく。
愛らしい顔に、涙の痕をつけ、少女は静かに眠っていた。
ルイーデは抱きしめたまま、毛布をかけた。
慈母の顔から、
やがて、妖しいぎらぎらしたものがこぼれだしてくる。
柔らかないい香りのする身体、
天性の気品と美貌、
あのダインすら骨抜きにしてしまう女体、
そして、何より人の心を抱きしめてしまう感性。
女を見極めるプロの顔が、
邪悪な毒蛇のように頭を持ち上げる。
左手がうずく。
『まだよ、まだよ、準備は周到にしなければね。』
ルイーデはあらためて、震える手で少女の髪をなでた。
自分の夢、野望、絶対不可能と思っていたそれが、
その素材が、
『自分の腕の中に、全てをゆだねきって眠っている。』
先ほどの慈母の顔からは、想像もつかない悪魔の笑い。
どちらがルイーデの本性なのだろうか?。
ただ、今の彼女もまた、一目見たときからイリナを深く愛していた。
愛するあまり、わが子を食い殺してしまう猫のようなそれかも知れないが。
神々しいような寝顔に、そっとキスをしながら、
はるか古代に大帝国の女帝として君臨したある名前を思い出す。
『そう、あんたは今日から“エカテリナ”と名づけようね。』
自分が作り上げた最高の作品となれるように。
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