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■ EXIT
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月の下、告げる言葉 後編


日が翳り始めた時、二人はコテージにたどり着いた。食材を詰め た紙袋はハンスが、鍵はイリナがそれぞれ持ち、木の香りが心地よ いその室内へ足を踏み入れる。

「台所、どこだ?」

「あ、こっちみたい。一つ貸して、冷蔵庫があるからそこへ入れる」

「ん。卵入ってるから気をつけてな」

すっかり息の合った連携で、イリナとハンスは室内をあちこち動 きまわり、楽しい夜を過ごす準備を整えていった。

「料理はボクがするね。ハンスは待ってて」

「え、いいの?俺も手伝うよ」

ううん、とイリナは柔らかく固辞した。

「ボクが作ってみたいの…任せて」

「OK。うんと美味しいやつを頼むよ」

無邪気に微笑んで、ハンスは厨房を出て行った。

「さあて…」

イリナはエプロンを身にまとい、準備にとりかかった。

「お待たせ!」

「おー、美味そう!
 そういえばイリナの手料理食べるのって初めてだな」

「そうだね、妖精館じゃルームサービスがあるからね…さあ、召し上がれ」

二人の夕食は楽しく始まった。

ハムをざっくりと厚切りにした、温野菜添えのソテーと、新鮮な 野菜を色よくあしらったサラダ。パンは軽く焼いて味を立たせ、野 趣的な色を見せる手作りバターを添えてある。ワインも程よい具合 に冷えていて、お互いに注ぎあいながら、二人は杯を重ねた。

 それから数時間は、平穏な、本当に平穏な、時間が流れた。
 たわいないお喋り。
 空になるグラス。
 すっかり平らげられた料理。
 気まぐれにつけて、すぐ消したテレビ。
 見つめあう沈黙すらも心地よい、極上の時間が流れた。

「さて、と。お皿、片付けちゃうね」

話し疲れの心地良い倦怠をひとまず遮って、
イリナが皿を手に、椅子から立った。

「ん。俺も手伝うよ」

「じゃあ洗うから、テーブルだけ拭いて、お皿をお願い」

「OK」

厨房に入ったイリナは、丁寧に皿を洗ってゆく。あらかじめ手配 してくれたのだろう、そつのない揃え方に、 「帰ったらファリアさんに、もう一度お礼を言わなきゃ」 呟いたイリナは、次いで小さく鼻歌を歌い始めた。

皿をまとめて持ち、後ろからその姿を眺めたハンスは、
奇妙な胸のときめきに襲われた。

二人での食事…皿を洗うイリナ、白いエプロンの紐がかすかに揺 れ、機嫌よい鼻歌も聞こえる。

「お客さん達、新婚旅行かえ?」

昼間に聞いたセリフが頭をよぎり、ハンスは興奮に顔を赤らめた。

「…」

別の興奮が、どこか、そう…鼻の奥から感じられる。空気に何か、 不思議な匂いが薄く混じり、それがハンスの官能を刺激していた。

 …欲しい。イリナが欲しくてたまらない…

ハンスは皿を、音をたてないようにカウンターに置き、気配に気 づかないイリナの背後に忍び寄った。既にズボンの前は、熱く硬く 突っ張って、その中で滾るものが、イリナを求めていた。

震える手が、イリナの白い、無防備なうなじに伸び、
「きゃあ!」
そのまま一気に後ろから抱き締められたイリナは、
悲鳴を上げて皿を落とした。

ステンレスのシンクに叩き付けられた皿が、辛うじ て割れるのを免れる。そこから聞こえるベコンという間抜けた音も 消えないうちに、ハンスはイリナの乳房を求めて、エプロンの隙間 から手を滑り込ませていた。

「ちょっ…い、やあ…待って…」
「俺、もう待てないよ…」

珍しく獣のような性欲を剥き出して、ハンスが力を込めてくる。
愛撫を通り越して痛みすら感じるほど、乳房を握るその手には遠慮 が無かった。

(ドックンッ!)

抑え切れない力で、イリナの心臓が跳ねた。ハンスの凶暴な性欲 が、外側からイリナの押さえ込んでいた衝動をこじ開けてしまった のだった。

「イリナ…イリナ…」

そうとも知らず、ハンスはイリナに、執拗な愛撫を加えてくる。 シャツの裾から手が忍び込み、下着も押しのけて乳首を、ハンスの 指が摘んだ時、「ああっ、ふ…っ!」 それだけでイリナは、軽い絶頂を迎えてしまった。

もう、止まらなかった。

愛液は滝の様にイリナの中から溢れ、ジーンズに染みを広げてい った。全身が性感帯へと変貌し、今イリナは、乳首を責められるだ けでも、気が狂いそうな快感を覚えていた。

「ひやあ…あう…ん、ヒャン…スすう…」

すぐに呂律が回らなくなり、目の焦点がぼやける。熱い陶酔が、 背筋から走って脳を打ちのめす。イリナは抵抗もせず、ただ舌が何 度も唇を舐めていた。

「イリナ、今日のお前…すごく感じてるな…」

ハンスが、いやらしい声で囁く。耳にその言葉が触れるだけで、イリ ナの中に、黒く濁った快感が燃え上がる。

「やめ、れえ…もう、ひゃめ…」

ハンスはその言葉を無視した。無視して、手を下に伸ばしてゆく。 ジーンズのジッパーを下ろし、ボタンも器用に外して、前を開かせ たそこから、ハンスは既に愛液を含みきったショーツの中へ、探索 の指を進めていった。

「ここも…もう、すごく濡れてる」

言いながら、充血して硬くなった、イリナの芽を、ハンスの指が 弄んだ瞬間。 熱い迸りが、そのわずか下から、堰を切って放たれてしまった。

「ああ…!あ、あ…」

絶頂によって、正気に戻ったイリナが、羞恥の悲鳴を上げる。懸命に押しとどめ ようとするが、一度緩んだ緊張は収まらず、思わず硬直したハンス の手を、ジーンズを、ショーツも濡らして、それは溢れ、床の上に 広がっていった…

「…ごめん、イリナ…俺、どうか…」

しばらくして、ようやく緊張を取り戻し、悪寒の止まらない身体 を抱いて震えるイリナに、ハンスが心底の反省を込めて、声をかけ た。イリナはそれを聞かず、嗚咽を漏らすだけだった。

 ハンスの前で、この上無い痴態を晒してしまった。
 自分の中の衝動に、負けてしまった。
 悔しくて、哀しくて、死にたいほど恥ずかしかった。

イリナはハンスに向き直ると、口を開いた。

「ハンスの馬鹿!ばかばかばか!ばか…ばかあっ!」

違う、とイリナの心が叫んだが、唇はなおも歯向かった。息が切 れるまで罵ると、イリナはハンスの横を抜け、食事のあとに二人が 寝付くはずだった、ベッドルームに飛び込み、激しい音をたててド アを閉めきった。

ハンスは、追ってこなかった。
イリナはベッドに倒れこみ、シーツをかきむしりながら、声をた て泣いた。ベルリナの魔法のようなメイクもすっかり崩れ、イリナは千々に乱れた 髪と顔と心を持て余し、ただ、逃げるように泣いた。

虚しく夜が更けてゆく。ハンスは気力を振り絞って片付けを終え ると、瓶に残ったワインをそのまま飲み、むせてほとんどをまた床 にぶちまけた…そしてまた、歯軋りをしながら、床を拭く。

「くそ…最低だな、俺…」

床に這いつくばったまま、自責の言葉をハンスが呟く。もう拭き 取れていた床を、削るような勢いで磨き続けながら、ハンスは、ど うしてイリナに謝ろうとかと、そればかりを考えていた。

もう、部屋からは、イリナの泣き声は聞こえてこない。
泣き疲れて眠ったのかもしれない。

こんな気分で眠れるはずもなく、ハンスはソファに腰を落として、 溜息をつきながら頭を抱えた。いやな酔いが回ってきて、じくじく とハンスを苛んだ。

イリナ。ごめん、イリナ。俺が悪かった。
謝る言葉は、その一つ。それで許してもらえなければ、俺はイリ ナを愛する資格なんて、ない。ハンスはそう思った。 喧嘩をした時の、体の痛みなどとは違う、胸の痛みが、辛かった。 イリナの胸に顔を埋めて、思い切り泣きたかった。

「…謝ろう」

口に出して、ハンスは決意を固めた。 許してもらえなくても、精一杯、謝ろうと決めた。 それしか、今の俺には、できることがない。そうも、思った。 ハンスは、ドアの前に立った。深呼吸を一回して、ノックをしよ うと、拳をドアに近づけた時。

それをいなすように、ドアがそうっと開いた。
ハンスの視界が開け、そこはイリナが立っていた。

「あ」

不意をつかれたハンスは、拳を下ろしもできず、
ただ小さく叫んで、イリナをみつめた。

泣きはらした顔をしたイリナの瞳が、痛々しかった。

「…ハンス。話したいことがあるの。ついてきて」

ハンスよりも早く、イリナが告げた。言い捨てるような口調では なかったが、それでもその言葉は、ハンスに有無を言わせない重さ を持っていた。

イリナは、パジャマ代わりだろうか、生成り木綿のオーバーオー ルに着替えていた。その裾をかすかに揺らして、無言で部屋を横切 り、靴も履かずに、コテージを歩み出てゆく。ハンスも慌ててその 後を追った。

雲ひとつない空には高く、満月が出ていた。薄蒼白い光が道を照 らし、すべてのものに、ヴェールをかける。 イリナは森の向こうに広がる湖へ向けて、夜露で湿った土を踏み しめ、まっすぐに歩いていった。

ハンスの足なら、その背中に追いつくことなど容易なはずだった が、なぜか追いつけない。それでもハンスはイリナを追った。 一瞬でも見失えば、イリナが、愛しいハーフエルフが、森の中に 溶けてしまいそうな気がしたから、懸命に追いかけた。 急に視界が開けて、眩しい光がハンスの目を打った。 月の光をいっぱいに取り込んだ湖は、さざ波の一つもたてず、鏡 じみた趣で、どこまでも広がっていた。

 パシャ…

森から出て、小さな渚を渡り、湖を割り裂くようにして、イリナ が服も脱がずに歩み入ってゆく。さすがにその光景を見ると、ハン スは叫ばずにいられなかった。

「イリナ!危ない、イリナーっ!」

その叫びはしかし、水面に弾かれて消えた。イリナは小さな波を たてて、腰まで水に浸したところで、ようやく動きを止めた。

「イリナっ!」

渚のぎりぎりで踏みとどまって、ハンスがまた叫んだ。
イリナが、ゆっくり、ゆっくり、振り向いた。
美しいその瞳に、いっぱいの涙をたたえて、振り向いた。
かつてハンスが見たことのない、哀しい美しさを秘めた瞳だった。

「…ハンス」

イリナのその言葉は、随分の距離を経たのに、衰えも揺らぎもせ ず、ハンスの耳に届いた。

「さっきは、ごめんね…」

いや、謝るのは俺の方だ、とハンスは喉まで言葉を出しかけたが、
イリナの持つ雰囲気が、それを許さなかった。

「ボクね…今日、ここで、ハンスに話そうと決めてたんだ。
 ボクがなぜ、妖精館にいるのか、どうして来たのか、理由を…
 話すのは恐い。
 恐いけど、ハンスだから、知っていてほしいんだ…」

ハンスは硬直したまま、ぎこちなく頷いた。

「ボクには、時々…どうしようもなく、
 性欲…を我慢できなくなる時があるの。
 なぜそうなったのか、  自分では思い出せないんだけど、それは放っておくと、
 ボクが壊れちゃうことになるって、母さんが言ってた。

 そして、母さんの友達のファリアさんに紹介されて、
 ボクは妖精館で働くことにしたんだ…

 ボクの身体や心を壊さないようにしながら、
 少しずつ性欲をコントロールできるようになるかもしれないって、思ったから」

「…」

胸打たれるような衝撃が、ハンスの胸にこだましていた。

「ファリアさんも、みんなも、お客さんも、すごく親切にしてくれるし、
 ボクを心配してくれてる…ハンスにも会えたし、
 妖精館に来てよかったと、思う。…でも…」

イリナの言葉が途切れた。瞳がまっすぐ、ハンスを見ていた。

「ボク、二週間、我慢してみた。
 誰にも抱かれずに、過ごせた。それで安心してたけど…
 やっぱり、だめ。まだ…だめ」

イリナの瞳から、涙が溢れた。唇が嗚咽をこらえてひきつった。

「ねえ、ハンス…ボク、ハンスを好きになる資格が、あるの?
 発作が起きたら、めちゃくちゃになって…
 それを我慢できない、だらしないボクが…ハンスを好きになって、いいの?」

息を吸いなおして、イリナはピリオドの言葉を告げた。

「だめなら、だめと言って。
 嫌いになったなら、嫌いと言って…」

言葉が途切れたあと、沈黙が満ちた。

風一つ吹かない夜の空に、満月がただ一つ。湖はイリナを抱え込 み、そのまま深淵に引きずり込む機会を待っているようだった。 ハンスの腕に巻かれた時計の秒針が、何回も、何回も、円を描い ていた。

先に沈黙を破り、イリナが動いた。足を後ろへ動かし、さらに深 みへ、冷たい世界へ、歩んでゆこうとした。


「…さよなら」

その言葉が、すっかり蒼ざめたイリナの唇に乗ろうとした瞬間。
イリナは、雄叫びを上げて水に駆け込んでくるハンスを見た。

「イリナーっ!」

瞬く間に間合いを詰め、ハンスが水を蹴散らして、イリナに駆け寄り、イリナに身じろぎする暇も与えず、冷え切ったその身体を抱き締めた。抱き締めながら、叫んだ。

「俺、俺イリナが好きだ!大好きだ!
 妖精館のイリナも、笑ってるイリナも、今のイリナも…
 俺を好きになってくれたイリナも!全部好きだ!好きなんだ!」

 トク…ン。

イリナの心臓が、その時はじめて、甘い鼓動を打った。安らかな温かみに満ちた血が、 全身を流れ、駆け巡り、イリナの身体にエネルギーを注ぎこんだ。

「…」

イリナが、ハンスの顔を見上げる。ハンスが微笑んでいた。

「さっきは、ごめんな…
 俺、イリナがそんなに苦しんでるなんて、知らなかった…
 俺が聞きたいよ、俺はイリナを好きになっていいのか…
 鈍感な俺が、イリナを好きになる資格があるのか…」

「あるよ…ボクもハンスが大好きだから」

きっぱりと、イリナは言った。

「…ありがとう」

ハンスが一段と力を込めて、イリナを抱き締めた。

「発作、治るよ…絶対、治るよ。いつかきっと、その方法が見つかると思う。
 だから、イリナ…妖精館にいてくれ…俺が帰る場所に、いてくれ…」

「うん…」

二人は優しい光をたたえた瞳で見つめあい、お互いを強く抱き締めた。
ゴウ、と強い風が吹いた。湖に満ちた光が細かく砕け、まばゆく煌めきながら、銀の滴となって、二人の周りを舞った。 きれい、と同じ言葉が、同時に二人の口から漏れた。それは刹那の時間だったが、生涯忘れられないほど、 美しい景色だった…。

夢幻の世界をかいま見た二人は、ゆっくりと抱擁を解き、手を繋いだまま湖から上がった。

「寒くないか?」

「ううん、大丈夫。ホラ、ボクの身体、こんなに熱くなってる…」

言いながらイリナは、ハンスの手を取り、自分の乳房に導いた。
濡れた服の上からなお感じた、その意外な熱さに、ハンスは驚いた顔を見せた。

「ほんとだ…熱くて、ドキドキしてる」

イリナは笑った。無邪気に言った。

「でしょ?もう、ね…ハンスが欲しいから、なの」

ハンスの顔が赤くなった。
イリナの乳房に、ハンスの加速した鼓動が伝わり、
響きあい、リズムを重ねた。

少し歩いて、二人は渚と森の境目に来た。
振り返ればそこには、また鏡のように穏やかな水面の湖が、
月の光を見事に映して、遥か遠くまで広がっていた。

「…ハンス」
「なに?」

「ここで…ボクを抱いて」

ハンスは無言で頷くと、イリナから一歩だけ身体を離して、濡れて重くなった服を脱ぎ始めた。 イリナも素早く、服を脱ぎ捨てた。

なにもかもが清らかな光に染められた世界のただ中で、生まれたままの姿になった二人は、 もう一度抱き合い、お互いの体温を重ね、とろけるような抱擁を楽しんだ。 そうしながら、ハンスがイリナの片足を抱える。イリナは美しい柔軟さを見せて、その足をハンスの腰に押し付ける。そうして開いた隙間に、すでに愛撫の必要もないほど潤んだイリナの中心に、ハンスは己を突きたてた。

「は…ああっ!」

両手をハンスの背中に回し、イリナが充足感に声を上げる。イリナの中は滾るように熱く、押し入って来たハンスを受け止め、歓びをもって迎え入れていた。 深く結び合ったところで、二人は動きを止めた。そのまま、二人はキスをした。 身体を、心を、魂までもひとつにして、キスをした。それから二人は渚で、東の空が白くなるまで求めあった。

ハンスは何度も射精し、イリナはそれを全て受け止めた。射精したハンスは、イリナの中でたちまち回復し、射精を重ねても衰えもせず、熱い迸りを浴びせかけた…

月は地平に還り、今度は太陽が逆の地平から生まれ出てきた。
暖かい、生命を満たす光が、湖を、そして全裸で渚に並んで横たわるイリナとハンスを、染めてゆく。

二人は手をつなぎ、指を絡め、目を閉じたまま、
その恵みが身体に染み込んでくるのを感じていた。

生命のずっと奥にある、魂にかけて二人は誓う。
イリナの魂はハンスのもの。
ハンスの魂はイリナのもの。
月と太陽と湖と、そこに宿った精霊が、二人の誓いを知っていた。
誓いの言葉を、聞いていた。

「イリナ…愛してる…」

「ボクも…ハンス、愛してる…」
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