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■ EXIT
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月の下、告げる言葉 前編


下弦の月が空に飾られた夜、イリナは決意した。
月が再び満ちる夜に、全てを、真実を、ハンス・イェーガーに告げ ようと決意した。

明けた朝からイリナの行動は始まった。

ファリア・シェリエストが所有する、湖のそばの小さなコテージ。 その鍵と、そこへ行くための車を、イリナはファリアに願い出て、 借り受けた。

「はい、これ。車は二人乗りだから、水入らずね。
 コテージからすぐ、渚へ行けるわ。景色もいいわよ」

二つの鍵を手渡しながら、ファリアは微笑んだ。

その鍵を護符のように握り締め、イリナはハンスに、休暇を取っ て一泊旅行へ出かけよう、と提案のメールを打った。ほどなく返事が 届き、ハンスはそれを大乗り気で了解した。

そして、明日は月が満ちきるという日の、夜。

イリナは簡単に着替えや下着をバッグに納めると、窓に歩み寄り、 カーテンを払った。 さあ、と音を立てるように、月光が室内を満たし、たゆたう。 それはイリナ自身の身体をも、青白く彩った。

この夜が明ければ、ハンスが妖精館にやってくる。そして車を走 らせれば、コテージまでは二時間というところだ…イリナは薄く目 を閉じ、明日のことを夢想しはじめた。

たぶん晴れるだろう空の下、屋根を開いた車が走る。
イリナとハンスは頬に、髪に、風を浴びながら、森の中の道を走 る…そうだ、その前にどこか、マーケットに寄ろう。二人で相談し ながら、美味しそうなものをたくさん買おう。そしてコテージに着 いたら、それを降ろして、早速料理を始めよう。バッグの中には、 初めて買ったエプロンも入れてあるから、それを身につけて、料理 を作ろう。

その料理を二人で食べて、お酒もちょっぴり飲もう。お喋りは、 たくさんたくさんしよう。外へも出よう。湖のほとりを二人で歩き ながら、お喋りを続けよう。

そして、その言葉が途切れたとき。
ハンスに真実を告げよう。

あの衝動のことも、妖精館へきた理由も、全部話そう。
全部話して、もし、受け入れてもらえなかったら。
嫌いだ、と言われたら。

その時は、…その、時は…

(ドクッ)

不安が鍵を外したのか、イリナの心臓がひきつった。
そこから、淫欲にまみれた熱い血がごぼごぼと流れ出し、電撃の 速さで全身を侵していった。

「くうっ!ふ…」

唐突に甘い息が漏れる。脳で感じるはずの快感が子宮から立ち上 がり、神経を逆さまに犯す、嬲る、陵辱してゆく…爛れた熱が股間 にこもり、あっと言う間に着ていたパジャマに愛液の染みを作る。 告白を決意してから、約二週間。その間誰にも、イリナは肌を許 していなかった。それでも身体の疼きを覚えなかったことが、イリ ナの自信になっていたのだが、今、それは砕け散ってしまった。

「ダ、ダメ…今は、ダメ…あ、ああっ、か、はっ…」

快感へ堕ちてゆく自分を、懸命にイリナは押しとどめる。息がつ まり、目が霞み、打たれるような激しい頭痛が襲ってくる。 ベッドへ倒れこんだイリナは腕を自分に回し、束縛するようにき つく抱き締めた。腿をよじりあわせ、胎児に似た姿勢で身体を丸め、 力を振り絞った。

だが。

血の全てが淫液へと変わってしまったのか、それは腿を幾筋も伝 い、パジャマの裾から足首を濡らし、カーペットに滴っていった。 イリナが妖精館へ来るきっかけになった、あの狂おしい性衝動。 悩みながら、苦しみながら、それでもハンスやみんなのおかげで、 コントロールできるようになったと、そう信じていた、荒れ狂う血。 それが今、まるで月の光に響きあうように、イリナの中で目覚め たのだった。

全ての神経が、快感を求めて叫ぶ。吐く息が通る喉すら、エクス タシィをイリナに投げ込んでくる。 食いしばったイリナの歯が軋む。あの美しく長い耳が、脅えたよ うな挙動でせわしなく動く。

今快感に屈したら、もう何も考えられなくなる。

この私室を飛び出し、まだ皆がにぎやかに過ごす妖精館へ駆け込 み、形振りかまわず愛戯に、貪りそのもののセックスに溺れてしま う…そうなれば、すべてが振り出しに戻ってしまう。明日来るハン スに、真実を言えなくなってしまう。
そんな気がした。

だからイリナは耐えた。熱病の中にいるような意識で、祈った。 お願い、母さん。
お願い、父さん。
お願い、ハンス。
お願い、みんな。

みんな、力を貸して…あと一日でいいから、ボクを、ボクでいさ せて…

翌朝は素晴らしく晴れた。朝食の席に現れなかったイリナを想い、 気分でも悪いのかと部屋を訪ねたベルリナは、「ひ…!」息を呑み、 悲鳴をぎりぎりのところで喉へ押しとどめた。

ざっくりと裂け、中身を曝け出している枕。
稲妻のようなかぎ裂きが走るシーツ。
散らかった部屋の中央に、不細工に手首と足首を縛られ、ぼろき れのように倒れているイリナ。

凄まじい陵辱が通り過ぎたようなその景色に、ベルリナは数秒呆 然としたが、持ち前の気丈さでそこから立ち直った。

「イリナさん、しっかり!大丈夫ですか!」

慌てて駆け寄り、イリナの束縛を解こうとするが、シーツを裂い て作られたらしいその紐は、固く結ばれてい、ベルリナの力ではび くともしなかった。見ればそれはひどく皮膚をこすったらしく、薄 い血の染みすら浮かんでいる。蒼ざめたイリナの顔も、ベルリナの 胸を激しくかきむしった。

「イリナさん…イリナさん!」 「うう…ん…」

ベルリナの呼びかけに応え、呻きを上げながら、ゆっくりとイリ ナの瞼が開く。苛立つほど時間をかけて焦点を合わせ、イリナの瞳 がベルリナを見た。

「あ…ベルリナ」

「よかった…気がつきましたわね」

大きな安堵の息を漏らしながら、ベルリナが心配を押し殺して、 イリナを癒すように微笑んだ。
イリナは視線を一度逸らし、考えている仕草で、せわしなく瞳を 動かした。そしてまたベルリナの瞳を見つめ、躊躇った末に、口を 開いた。

「え…と…ボク、ボクだよね?変じゃ、ないよね?ねえ?」

「もちろん。あなたはイリナ・クィンス、その人ですわよ」

ベルリナは即答して頷いた。唐突な質問を投げかけた、イリナの 真意は測りかねたが、こう答えた方が、いいような気がした。

「よかった…」

「ところで、一体どうなされたのですか?
 まさか…妖精館に泥棒が入ったとか?」

「違うよ、ボクが自分で縛ったの」

「な、なぜですか!?」

イリナは力なく笑い、
「例の発作ってところ…今回はちょっと強かったみたい」
言い終えてふうっと息を吐き、「解けろ」その囁き一つで、強固な 結び目がほぐれ、紐はただの切れ端になってイリナから離れた。

「魔法で縛っていたのですか。ああ…こんなに傷ついて…」

ベルリナは悲壮な顔で、イリナの手首に浮かんだ痣を撫ぜる。そ の優しい行為すら、イリナには痛みをもたらすものだったが、イリ ナはベルリナを気遣い、笑顔を浮かべて見せた。

「大丈夫。そうしてくれるだけで…ホラ」

クレアに頬打たれた時のように、手首の痣が、腫れが、みるみる 退いて消えてゆく。初めて見るベルリナは、それが魔法とは理解し ながらも、イリナの能力に素直な驚きを感じた。

「まあ、治癒魔法までそんな簡単に…さすがはイリナさんですわ」

「ありがと」

イリナは少し元気を取り戻し、耳を軽く指で掻いた。

「ところで、今何時?」

「もうすぐ9時ですわ」

「えっ!」

イリナの目が真ん丸くなり、一息に生気が蘇った。

「いけない!もうすぐハンスが来ちゃう!」

「まあ、それは…わかりました、部屋はわたくしが片付けておきま すから、お出かけになってください」狼狽を隠さず、イリナは激しく首を横に振った。

「それはいいの!ベルリナ、急いでボクにお化粧して!」

「?」

再び真意を測りかねて、ベルリナは思わず首をかしげた。
慌ててイリナが説明をする。

「今、ボクの顔、結構ひどいと思う。こんな顔、ハンスに見せられ ないよ。だから、ボクをきれいにして。ね、お願い!」

もうベルリナには何がなんだか解らなかった。

部屋を滅茶苦茶にしたイリナ。
意味のよく解らない質問をするイリナ。
自分に化粧をせがむイリナ。

どれもがイリナであり、どれもがイリナでないようにも思える。 しかし今、じいっと自分を見つめるイリナの目に、何かしらの切 実さを感じたベルリナは、自分が必要とされていることを感じた。 ベルリナは大きく頷くと、イリナを抱き締めて言った。

「おまかせください、イリナさん。
 わたくしの腕にかけて、イリナさんをお姫様にしてさしあげますわ」









それから自分の私室へ駆け戻り、大きなバスケットを引っさげて 帰ってきたベルリナは、てきぱきとイリナの服を脱がせ、浴室へ押 し込んだ。

「まずは身体をお洗いあそばせ。清潔は全ての基本ですわよ」

そして出てきたイリナを、スツールに座らせ、ベルリナは多種多 様な道具を駆使して、思う存分イリナを磨き上げていった。

目の下に薄く浮いた隈は、ファンデーションのとばりの下に。 頼りなく青白いその肌に、生命の白を淡く重ねて。 唇には艶やかに、さりとて華美に走り過ぎないルージュを纏わせ。 まなじりを上げ、息を詰めて、ベルリナはイリナを美しく、さら に美しくしていく。

「ふー…はい、いかがですかイリナお嬢様?」

手鏡を渡してもらい、イリナが自分の顔を見る。けしてけばけば しくはなく、エルフの持つ天然の美が、精緻な化粧のテクニックに より、最高に引き立てられていた。…とても昨晩の暴れぶりは伺え なかった。

「うん、OKだよ!ありがとう!」

「どういたしまして。お役に立てて嬉しいですわ」

満足げにベルリナが笑った。
その声が、今の彼女には一番嬉しかった。

「さ、服を着てロビーへお行きなさいな。お部屋のことはお任せを」

「ごめんね…帰ったら、わけを話すから」

恐縮するイリナを優しく見つめ、ベルリナは頷いた。

「ええ、帰られたら…ゆっくりお聞きしますわ。
 美味しいお茶を煎れておきますから。
 でも、今は、楽しんでいらっしゃいませ」

心からイリナの幸せを祈り、ベルリナは優しく言った。

それからシャツとジーンズという気軽な服に着替え、何度もベルリ ナに礼を言い、イリナは鞄を携えて、ロビーへと続く階段を降りてい った。

夜には華やいだ声がさざめき、笑顔が行き交う妖精館のロビーも、 今はひっそりと眠っていた。どこからか掃除機のモーター音が聞こえ てくるくらいで、他に音はない。ごく薄く、空気にコロンの香りが溶 けていて、イリナを少しだけ安らがせてくれた。 壁に飾られた大きな飾り時計が、勤勉に時を刻んでいる。

時刻はもうすぐ、九時半。

ハンスとは九時にこのロビーで待ち合わせる予定だったが、少し 遅れているようだ。…たぶん、少し遅れるのだ。たぶん。

「来なかったら」

(ドクンッ)

呟いた瞬間、心臓が不気味に蠢いた。イリナは咄嗟に左の乳房を 右の拳で殴り、その痛みで蠢きを散らして誤魔化した。

 まだ。
 まだだよ。
 まだ、ボクはボクでいなくちゃいけない。
 がんばれ、ボクの心。がんばれ、ボクの心臓…
 腹痛をこらえるような、押し殺した呼吸で、イリナは気を逸らそうと、
 目を閉じて、記憶を巻き戻し始めた。

 ここへ来た日のこと。
 あの衝動に捕らわれないで行う、初めての性行為。
 そして、ハンス。ハンス・イェーガー。
 初めてのお客で、イリナの大切な人。
 気丈で陽気なベルリナ。
 寡黙で哀しく優しい、イエッタ。
 謙虚で勤勉な、クレア。
 ゆるやかに包んでくれる、館長・ファリア。
 みんな、みんな、イリナの大好きな人。
 こんな自分を受け入れてくれる人達。

今このロビーには、イリナ以外誰もいないが、それでも恋人や、 仲間達の力が、自分を支えてくれているように、イリナは感じた。

…心臓が、ようやく正しい脈を刻み始めた。イリナがほうっと息 を吐き、目を開いた時。ハンスがそこに、立っていた。

「遅れてごめん。外出許可の手続きが遅れちゃって…」

頭を掻いて謝るハンスに、イリナは微笑んだ。

「ううん、いいよ…?」

言葉を告ごうとして、イリナは唇を止めた。
ハンスが、イリナの顔を、まじまじと見つめていた。

「どうしたの?ボクの顔に、なにかついてる?」

「あ、いや…その…今日のイリナって」
唾を飲み込み、頬を染めて、「すごく…きれいだ」

それから慌てて手を振り、
「いやもちろん、普段もきれいだけど、その、今日はまた、一段と」
きれいだなあ、きれいだ、と、ハンスは繰り返した。

「ふふ、ありがと。なんだか元気が出たな」

「え?イリナ、どこか身体、悪いのか?大丈夫か?」

「違う違う、ちょっと、ね…さ、出かけよう」

表情をころころ変えるハンスを連れ立って、イリナは妖精館のロ ビーを出た。そのまま大きく庭園を回りこみ、ハンスが初めて足を 踏み入れる裏庭へ出て、更に妖精達の暮らす建物の横手を過ぎる。

「へえ〜、こうなってたのか…裏に回ると、寄宿舎みたいなんだな」

「そうだよ。
 食堂も図書室もあるし、テニスコートやプールだってあるの」

「ほとんど大学だな…
 いいなあ、俺、親父と漁ばかり出てたから、大学とか行けなかったんだよな〜」

会話を続けながら、物珍しげに見回すハンスは、かなり特異な存 在に見えるらしく、すれ違う妖精が皆、くすくす笑いながら会釈し ていった。

「はい、到着」

二人が足を止めたそこには、芝生に刻まれた、白い小道のついた 木造りの小屋があった。小さな馬小屋、といった風情だが、壁は隙 なく板で固められ、獣臭もしない。

「あ、これガレージ?」

「うん。景観を壊さないようにって、ファリアさんが」

イリナがファリアから受け取った、キーについているボタンを押 すと、滑らかに戸がたたまれながら上がっていった。

「!」

陽に照らされたシルエットを見て、ハンスが嬌声を上げる。三台 並んだ車は、精悍な銀のクーペ、漆黒のセダン、そしてイリナが借 りた緑のコンバーチブルだった。

「すっげえ〜…俺、イリナが車用意してくれるって聞いた時、
 レンタカーかなと思ったけど、これだったのか…で、どれ?」

「緑の車。はい、これ鍵。興奮してぶつけちゃだめだよ」

「解ってる!」

車へ駆け寄りドアのロックを解いて、車内へ滑り込んだハンスは、 すぐさまエンジンを始動させて、暖気を始める。計器盤に目を走ら せ、すぐに屋根を開くスイッチを探しだしたハンスは、 「ハンス、鞄積むから、きゃ!」イリナを驚かすのも構わず、それを押してしまった。

「んもう、びっくりさせないで。トランク開けて」

「あ、悪い…これかな、っと」

会話の間に、すっかり屋根は開いていた。シルエットを変えた車 は、鞄を積み込んだイリナと、上機嫌のハンスを乗せて、ガレージ を滑り出し、閉まるドアに見送られて、小道を駆け出した。

妖精館の敷地を出て、車は幹線道路に乗った。既にコテージへの 道順はナビゲータに入力してあったから、ハンスはただ指示に従っ て、車を走らせるだけでよかった。

照っているが暑くはない日の下、小柄な車体を弾ませて、二人の 乗る車は走る。爽やかな風がイリナの髪と、長く美しい耳を揺らす。 幹線道路から少し山に入れば、もうそこは森の中だったから、まさ にイリナが昨晩夢想したとおりの光景だった。

そして一つ山を越えたところで、小さな市場を見つけた二人は、 愛想のいい地元の人たちと話しながら、新鮮な野菜や牛乳、卵、手 作りのハムやバターなどを買い込み、トランクに詰め込んだ。

「お客さん達、新婚旅行かえ?」

という、店番らしい老婆の台詞に、耳まで赤く染めながら…。
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